11
嘘ではない。幻像ではない。錯覚でもない。なぜなら、こうして、僕の腕のなかに彼女の体があるのだから。たしかに感じられる体温があり、筋肉の弾性と骨格の反発が生き身としての形をとっているのだから。
彼女の姿を認めたとたん、僕は反射的に駆け出して全身で抱きしめてしまった。彼女は特に抵抗することもなく僕に身をあずけてくれた。なので、思う存分に彼女の実在を確認することができた。ぎゅうっと抱きしめ、骨がきしむくらいだったが、それもすべて、僕にはひとつ残さず愛おしく、肝臓からあふれる切ない分泌物が苦しいほどに腹腔を溶かし尽くした。なぜ、彼女が生きているのかなど、この時はどうでもよかった。ただひとえに、彼女は生きていてくれたというそれだけが僕にとっては何にも替えがたいほど嬉しく、かつてしたこともないほどの感謝を天にささげた。
僕の目からは涙が流れていた。今までかたくなにも決して流れることのなかった涙が、それまでの頑固さをひるがえしてだ滝にようにだあだあとほとばしり出ているのである。僕の涙は、悲しみのためにではなく、うれしさのために流れる涙であったのだ。
「ああ・・・・・・よかった・・・・・君が、生きていてくれて」
むせび、ひっくひっくと喉をいわせ、僕は心を告げた。
「僕は、馬鹿だった。何にもわかっちゃいなかった。死ぬだなんて、そんな恐ろしいこと、空想の中で軽く考えて、知ったふりをしていたんだ。君を、一時でも失って、やっとわかったんだ。生きることは良いことだ。いや、すばらしい事だ! 人が死ぬって、どれだけつらいことか。だから、生きなくちゃいけないんだ」
返事はなかった。でも、ちゃんと耳を傾けている。
「僕は、死ぬことを考えて、ここに来ていた。いつか自分がそうすると、根拠のない予感をもっていたんだ。でも、それは、僕の本質的な欲求とはちがったんだ。僕は死にたくなんかなく、逆に、切々に、生きたいと、望んでいたんだ。ここで、君と過ごして、君の死の講釈を聞いていると、僕は生の実感を得ることができていた。死に近づくことで、生のほとばしりがいっそう強くなるようだったんだ。生きるために、生きたいがために、僕は死にたがっていたんだ!」
自分の発言が矛盾をしていることを悟りながら、それでもはっきりと述べられたのは、それがまちがいなく、自分の本心であると誰に対しても明言できるからだった。僕は今、本心しか語っていない。
「君と過ごした時間、君といっしょにいることが、僕には掛けがえのない宝物なんだ。君なしでは生きていけない。君とじゃなきゃ生きていたくない。僕は、君の奴隷だ。好きなことはなんなりと言ってくれ。僕は一生、君に尽くすよ。君が理想とする男に、きっとなってみせるよ。だから・・・・・・だから・・・・・・!」
僕は息を吸い込み、思い切って言った。
「僕と生きてくれ! 僕のそばで、僕といっしょに、いつも同じ空間にいられるように、君と、僕と、二人だけの場所で、僕は君と生きていきたいんだ!」
呼吸が苦しくなり、何度もふかく吸っては、吐いた。嗚咽と、緊張と、激しい興奮のためにいつも吹く風の冷たさも気にならなかった。全身が汗ばむほどの熱気が僕からあがっていた。
やがて、か細く、小さな、震える声で、彼女は、答える。
「だめです・・・・・・だめなんですよ」
「なぜ? どうしてだめなの?」
僕は彼女を抱く両腕に力を加えた。何を言われても、僕はおのれの欲求を抑えることはできなかった。
「あなたは、疑問に思わないのですか? たしかに、空中に投げ出された私が、こんな無傷でいられる理由が」
そう、疑問に思わないといえば嘘になる。でも、そんなこと・・・・・
「どうだっていいよ。君がいてくれるなら、そんなの気にならない」
「いいえ、気にすべきです。いいですか? まず、ことわっておきたいのは、私があなたの申し出をはねつけたいがために意地悪を言うのではないということです。あなたの申し出はすなおに嬉しいですし、出来ることならイエスと返事をしてしまいたいくらいです。待って、話を聞いてください。・・・・・私は、この屋上から離れられないです。知ってのとおり、このビルはこの町では有名な自殺スポットです。過去、いくにんもの人間がここから投身自殺をしました。しかし、ここにひとつ、疑問を持ちませんか? 自殺者達はどうして、このビルを自殺場所に選んだのか、ということです。彼らは、死ぬほどに追い詰められた状況下で、わざわざ二十階もの長い階段を登りつめ、飛び降りた。そこにどんな理由が考えられますか。死ぬ方法なんてほかにもたくさんあるのに、どうしてそんな労をとってまでこのビルを選んだのか。・・・・・・彼らにはいたんですよ。ここから飛び降りることをすすめた者が」
意味ありげなの話の切り目に、彼女は、僕に考えて欲しいと伝えているように思えた。僕は恐る恐る、考えを述べた。
「それは・・・・・・君のこと?」
こくり。胸に押し付けられた彼女の顔が上下に動いた。
「君が、彼らを・・・・・・前の自殺者達を誘ったんだね・・・・・僕のときと同じように」
「そうです。私が彼らをここから自殺させたんです。」
「どうして、そんなことをするんだい? 目的は何?」
「目的はありません。ただ、それをなすことが目的なのです。」
「君は・・・・・・・・・・何者?」
「むしろ、あなたは私が何者だと思いますか? あなたの言葉でいいので、聞かせてください」
わからない。なんといったらいいのか言葉がさっぱりみつからなかった。ただ、これまで得た情報を総動員すると、次のことが分かる。彼女は、このビルの屋上を離れらず、自殺志願者に近づいて自殺を実行させ、地上数百メートルから落下しても傷一つ負うことがない。
やはり、わからない。きっと普通の人間ではないのだろう。では、何、と聞かれると答えに窮する。ただ、幽霊、死神、お化け・・・・・・などなどの単語が無雑作に浮かんでくるだけであった。
僕が答えられないでいるのを見て、僕が彼女の言い分を理解したと受けとったようだった。
「わかってくれたようですね。あなたの気持ちは大変嬉しいものでした。しかし、お別れです。あなたは他の自殺者達とちがって、死ななかった。それは誇っていいことですよ。道半ばで脱落するよりも、生き抜き、生涯を闘うことを選んだのです。それが、どのように迷いに満ち、消極的な選択であったとしても、気高く、純潔な意思なのです。わかってください。あなたは自分が思っているよりも強い。これからは絶望しないで下さい。そして、出来るだけ、自分は不幸だと嘆かず、幸福が見つかるように精一杯の努力をしてみてください。そうすれば、きっと、あなたはここのことを思い出すことはなくなるはずですから。」
そうして、彼女はつつましく口をつぐんだ。そして、そっと、僕から身を離そうとした。
だが、僕はそれをさせず、彼女を抱きしめた。
「どうしたんですか? 手を離してください」
「離しません。絶対に、離しません」
僕は舌足らずに、強い口調で言った。
「君が何者なのか、僕にはやっぱりわからない。でも、わかっていることがひとつあります。僕は君が好きだ! 錯誤でなく、錯覚でもなく、僕は君を好きなんです。この気持ちはいかようにも変えることは難しく、あざむくことも出来ません。もしも、このまま君に会えなくなったら、僕は寂しさのために死にたくなるでしょう。君と会えないというただそれだけの理由で僕は狂ってしまうかもしれない。事実、君を死なせたと思い込んでいたこの数日間、僕を焦がした炎の苦痛はとても耐えがたいものだった。あれをもう一度、僕に味わえというのなら、僕はすぐにもそこから身を投げる。今度こそ本気だ。命を懸けて誓う。僕は君の奴隷だが、君と会わないというその命令だけは従えない。これは僕の全存在と全生涯をかけた、たった一回の反発なんだ・・・・・だから、行こう。ここから、僕と出て行くんだ!」
こんなことを、この僕が言っているという滑稽さが、この時はわかならなかった。真剣な気持ちあったからだ。僕の涙は止まっていたが、かわりとして別の泣き声が生まれていた。
彼女が、嗚咽をもらしていたのだ。
「だったら・・・・・・だったら、また、来てください。私はこの場所を去ることはどうしてもできないけれど、ここに来れば、いつでも私はいます。だから、また、私に会いに来てください。そして、死にたがってください。私が自殺を目標にして生き続けているように、あなたも、いつか本当に、私といっしょに死ぬことを願って、私に会いに来てください。」
切れ切れに、ぽつぽつとこぼれる、およそいつも彼女らしくない自信なさげな、控えめな言葉に、僕の答えは決まっていた。
「もちろんです。また、会いましょう。」
僕の暮らしは変らない。決められたルーチンワークに従って過ごしていく。家を出る。仕事をする。家に帰る。食事を摂る。部屋で睡眠をとる。そして・・・・・・暇ができたらあそこにいく。
あの二十階で待っている彼女に会いに行く。
(終)




