10
僕は自分を呪い続けている。いまや本当に自分を憎悪してやまず、罵倒し、わが身をかきむしっている。
彼女が空中に消えたあの時、僕は途方もなく恐ろしくなり、その場から脱兎のごとく逃げ出した。彼女の死体などとても見る気にはなれず、縁べりから顔を出して確認することさえ御免こうむりたかった。ビルの正面玄関からぬけ出てきて、落下現場と思しき方向は出来るだけ無視をして走り出したのだった。
家に帰り着くと、僕は気もそぞろに中にはいり、蹌踉として、ふらふらしながらどうにか自室まで行くことができた。でも、ベッドに倒れこんでからは、熱病でも病んだみたいに頭がぼおっとして、ガンガンと割れるみたいに痛かった。状況をただしく判断できず、まるで夢を見ているみたいに曖昧な認識が錯綜してますます混乱してしまった。やがて、神さまの施しか、精神の防衛機能か、僕は忽然と意識を失っていた。
だが、次に目を覚ましたときには、もう否定しようがない明らかな現実を受け入れざるをえなかった。あれが、あの夜が、夢であったとは到底思えなかった。出来ればすべてが嘘であったと思い込みたかったが、残酷にも理性は僕をそのようなずるい幻想の道に迷い込ませてはくれなかった。おぞましい真実が電飾にいろどられて示されていた。彼女までいなくなってしまった。僕の生きがいともいえた存在が一切消失してしまった。僕は卑怯にも生き残ってしまった。彼女を裏切ることで、こうして息をつき、生をつないでいるのだ。
殺した! 僕が殺した!
そうやって自分を責めてみても、罪の意識とか、償いとか、そんなことはどうでもよかった。
彼女がいない。僕を苦しめたのはただその事実のみであった。悔いも、嘆きも、痛みも、すべては大切な存在の不在のみに向けられていた。あの時、自殺を思いとどまった時、彼女の手を強く引いていたら。もっと早く自分たちの過ちをわかっていたら。あんな過ちは、ほんの小さな曲がり角で、わずかな選択のちがいで容易に回避できたのだ。いや、そもそも、僕が自殺をしたいなどと思い起こさなければよかったのだ! 僕のエゴのために彼女は消失したのだ。僕の無知のために大切なものを破壊してしまったのだ。自分のためにしようとしたすべての行動は、結局、自分を追い込むことにしかならなかった。彼女を失う結果したもたらさなかった。
僕は呻吟しつづけた。ベッドの上でもだえくるしみ、声にならないうなり声をもらして自らを責めて、責めて、責め抜いた。歯をギリギリと噛みしめ、額に爪を立てた。それでも、僕は泣かなかった。どうしてか、ここにいたってもまだ涙があふれることが起きなかった。僕はそのことにもいら立った。いっそ身も世もあらず号泣できたなら、どれだけよいだろう。頭の奥から際限なく湧き出ずるどす黒い泥水を涙に乗せて外に排出できたならまだ楽になれただろう。
いや、なんということだ、僕はもう自分が楽になることを望んでいる!
忌むべき自分の性を、僕はもう一度強く呪った。これだけの失敗を犯してもなお僕は直らないのか。いつまでも薄汚い逃避の癖が出ていってはくれないのか。僕が逃げようとさえしなければ、こんな取り返しのつかないことをしでかさずにすんだのだ。世の中で立派に立ち回り、困難から逃げずに立ち向かう、そんな人間であれば、こんなやくざな罪を犯さずにすんだのだ。もっとも、もし自分がちがう人間であったなら、なんて、過去幾度も考えた空想を今さら本気に考えることはしない。そんなことは愚にもつかいない無駄事なのだ。自分のことは自分で責任をとらなくてはならない。僕は、僕以外のだれでもないのだから、僕から生まれ出たことはすべて、僕と無関係ではありえないのである。
幾日幾晩、僕は苦しみのなかであえいでいた。会社に通勤する元気はまるでもてなかった。今度ばかりは意識の錯誤などではなく、本当に具合が悪かったので、僕は堂々と休むことにした。連絡は父がやってくれた。思えば可哀想なのは僕ばかりではない。父だって妻を永久に失ったのだ。でも、残念ながら、僕は自分のことしか考えられない残酷な利己主義者だった。父の呼びかけにもまったく応じず、自室にとじこもりっぱなしだ。家族と死別したことは会社にも伝わっているはずなので、何日休んでも、そろそろ会社に来いとの電話はかかってこなかった。いや、かかってきていたとしても父が僕に伝えなかったのかもしれない。母の僕への影響力を知っている父は僕の失意がよほど大きいのだと理解しているつもりだったのだ。だが、父には知りえないことだ。僕がここ何日、母のことになど全然思いを巡らしてはいないことに。僕の悲嘆が別の女性に向けらたものだということに。母の死は残念なことだが、彼女のことはそれ以上であり、完全に塗り返されているのであった。
さらに日が過ぎ、僕はある決心のもと久しぶりに行動を起こした。部屋を出、家を出、向かった先は言うまでもなくあのビルであった。二十階分の階段を、一段一段、かみしめるように踏みつけた。最初、僕を怯えされたビル内の静寂や墓場のような雰囲気も、すでに慣れてしまった。今の僕には、この場の冷え切った沈静さがひどく似合っている。死地におもむく人間にはふさわしい墓標であろう。
さあ、ついに着いたぞ。僕は屋上に出られる鉄の扉を前にした。何度となくここを開けたのだ。そのたび、向こうには彼女がいたのだ。僕が来ると一回もすれちがうこともなく、彼女はそこに存在していたのだ。今でも、そうであればよいのにと、僕は痛切に願っていた。これを開けたら、今までと変わりなく、そこにはいつものように死にたがりの生きた彼女がいて、いつ実現するともしれぬ未来の自死の話を聞かせてくれるのであったなら、何をさし出したって惜しくはないだろう。
僕は重苦しい思いといくぶんか混じった自嘲を胸に、扉を押し開けた。
すると、明るい声音が耳を打った。
「こんには」
そこに、彼女はいた。




