7月30日 犬神と鬼
「よかろう。結衣、お前に任せたぞ。場所はそこの庭を使うといい。広い方が何かといいじゃろう。ほれ、お前たち、そこの障子と奥の窓を開けなさい」
「御婆様、ありがとうございます」
薙刀を持った女たちは、婆さんの命令にしたがい、障子と窓を開けた。見えたのは、池のある立派な庭だった。
「さあ、鬼一君こっちへ」
榊さんの声のトーンはいつもと同じであったが、目だけは違っていた。そんな、榊さんに連れられて、いつの間にか用意されていた靴を履き庭へとたどり着いた。
後ろを振り返ってみると、婆さんと薙刀を持った女たちが廊下に座り、こちらを見ていた。まるで、格闘技の試合の観客のようだ。
完全にアウェイだが、味方がいないわけでもない。俺には、アキラとテトが後ろで見守っているのだから。
俺は、気持ちを強く持つために、アキラたちを見た。
そこには、池の鯉を見てキャッキャウフフとしている二人の姿があった。ああ、うん。完全にアウェイだわ。
そんな、状況で婆さんが煽る。
「さあ、いつでも始めなさい」
「わかりました。しかし、少しだけ、彼と話しをしてもよろしいでしょうか」
「好きにしなさい」
榊さんは、婆さんに頭を下げると俺の方を向き、婆さん達には聞こえないほどの声で話し始めた。
「君とはいろいろ話したいことがあるけれども、今ここで話す場合でもないだろう。だから、君がここから無事出ることができたら話したい」
「無事ここから出られるなんて俺は少しも思っちゃいないんだが」
「大丈夫。私がここから君を逃がす。そこの池の奥に木があるだろう。その木を登れば簡単に塀を超えることができるんだ」
榊さんの指差すところを見ると、確かに簡単に塀を越すことができそうだった。
しかし、今の俺にここから逃げると言う気持ちは一切ない。今すぐにでもあのババァを折檻して、犬神を封印するんだ。そしてそれが終わったら、俺は鬼一家に行くんだ。ウチのジジイを折檻してやる。
「ありがたいが、その話には乗れない。もう、俺の腹は決まっている。自分が為すべきことをするんだ。だから、犬神が祀られている所に案内してくれ」
「本当に君は私を困らせるね」
「お互い様だ」
「本当にいいんだね。君には貸しがある。でも、私も榊家の人間だ。御婆様の命令は絶対だ。その役目を果たさせてもらう」
「家とかそんなの、もうどうでもいいよ。俺が俺であるためにやるんだ。運命だろうがなんだろうが、かかってこいって気分なんでね」
榊さんは一歩ずつ俺から距離をとり始めた。
「これが、最後の忠告だ。君がそこから一歩後ろに下がれば、君を見逃してやる。しかし、君がもし、一歩でも前に来たならば、私も覚悟はしない。君を呪殺するよ」
「何遍も言わなくたっていいさ。わかっている。呪殺だろうが、絞殺だろうが、刺殺だろうが、結構だ。喧嘩をするのに、前置きはいらないんだよ」
大きく右足を前に出した。どうやって戦うなんて考えは無い。ただ、こうやって榊さんの決意を滾らせることに意味があった。
俺は、彼女に怪我を負わせたくない。そして、俺に対して手加減をさせたくない。なぜなら、圧倒的な力の差で無傷で負けさせることと、彼女がこの家から酷い仕打ちを受けないことだ。それだけが俺の頭にある。
榊さんは、俺が出した右足が地面に着いた瞬間、懐から小物入れにでも使うようなお札付きの葛籠を取り出した。そして、その御札を剥がして蓋を受ける。
「もう、君も終わりだ。これは君が望んだことだ。もう私にはどうすることもできない」
その葛篭から黙々と黒い煙が吹き出した。そして、その煙が徐々に形を変え、最後には大きな犬の顔に成った。
「犬神か。やっぱりそうだよな。そりゃそうだ」
どうしますかね。鬼にも呪殺が聞くのか。それより、呪殺ってなんだよ。
「鬼一君。犬神は、念じた相手の魂を喰らう。その苦しみたるや本当に生き地獄だよ。君にこんなことをしたくはなかった。君が言うことさえ聞いてくれれば」
「今更後悔したって遅いだろ。もう出しちまったもんはしょうがないだろうが」
犬神はニヤリと笑っていた。それを見て少しばかり、身震いした。
普通の人には見えないんだろうな。それが、見えてしまう怖さっていうのかな。まるで、妖怪大戦争のようだ。本当に、生きて帰れるかわかったものじゃない。でもまあ、やるっきゃないな。
犬神がスーッと宙を滑るように移動して近づいてきた。そして、大きな口を開けると俺を丸呑みするかのように襲いかかってくる。
間一髪横に避けたが、犬神はすぐに俺に襲いかかる。
「こんなんじゃ、埒が明かない。アキラ、天清鬼神を貸してくれ」
「はいよ」
アキラが抜き身をオレに向かってぶん投げた。
「お前、抜き身で投げるな。タイミング見て、手渡ししろよ」
「テへッ」
目の前には、犬の化物。横からは、真剣が回転しながらこっちに向かってきている。そして、その奥にははにかむ白いワンピースを着た少女がいた。
大ピンチだ。それも、身内のミスで逃げ道が塞がった。もう、やることは一つしかなくなった。それは、運に任せて柄の部分をキャッチすることだ。
ブンブンと音を立てながら、それはやってくる。目の前には、食いしん坊の幽霊が俺を食らいつこうとする。
「侭よ」
回転する天清鬼神に左手を伸ばした。
―――バシッ
俺の左手は天清鬼神の柄をしっかりと握っていた。
「危機一髪だぜ」
そして、目の前の化物に向かって、天清鬼神を振り下ろす。
ちょうど犬の右目から左側のあご先までバッサリと切れた。
「グァァァ」
よし、どうやら天清鬼神は効くようだな。こいつが効くってことは、俺の右手も使えるってことだ。これで、本当の危機は去ったな。
「刀なんてどこにあったんだ。いや、それよりも、なんで物体の無い犬神が、ただの刀で切れるんだ」
「ただの刀を鬼が持ってるかよ」
すぐに犬神へと二太刀目を入れる。次は、逆側だ。
左目から右のあご先へと刀を振り下ろす。
「グォォォッ」
犬神は、低い声で叫んでいた。そして、暴れながら空を噛んでいる。
「まだ、死なないのかよ。やはり、人に作られたとは言え、神は神か。これで最後だ」
自分の気を天清鬼神に纏わせる。そして、天清鬼神を天に振り上げ一気に振り下ろした。
―――バシュッ
深く切れた感触がした。
「ギャァア」
えも言えぬ叫び声が聞こえた。その姿は凄まく、口先が八つに割れ、黒い血なのかよくわからない物を撒き散らしていた。しかし、それでもまだ、俺に噛み付こうとしている。
「ギャアギャア喚くなよ。そら、俺はこっちにいるぞ」
犬神がぬーっと近づいてきた。
まだ、遠い。もっと近くに来い。そして、俺は襲ってみろ。
だんだんと音も無く犬神が近づいてくる。そして、臭いで捉えたのかわからないが、正確に俺の頭上から八つに割れた口を大きく広げ襲いかかってきた。
「いい子だ、ワンちゃん」
俺は、右手を天に掲げた。そして、犬神の口先が俺の右手に触れる。その瞬間、犬神の瘴気を吸収した。
吸収してみてわかったことだが、この犬神は体は大きいが、瘴気の量はだいぶ少ない。それは、俺が全ての瘴気を吸収しても平然と立っていられる程だった。
もしかすると、天清鬼神で多くの瘴気を切ったため、瘴気の量が少なくなったのかもしれないが、それでも少ないと感じた。
「そんな……、人間が犬神とまともに戦えるはずがない。鬼一君、君は何者なんだ」
「だから、言っただろ。十代目鬼一鬼助だって。あの婆さんが言ったように鬼の血を濃く持った者」
「そんな人間がいるはずないだろ」
「現にいるからな」
俺は、一歩ずつ榊さんに近づいた。それは、最後の締めをするためだ。これで、榊さんとの戦いは終わる。
榊さんは現実を直視できないのか、目の前が見えていないようだ。そのため、俺が近づいていることに気がついていない。
榊さんが俺に気づいた時には、すでにそれは終わっていた。俺は彼女の首元に天清鬼神を構えていた。
「榊さん、これで終わりだ。俺も好きでこんなことやっているんじゃないが、これは殺し合いだ。どちらかが死ぬまで終わらない。だが、君がこの家のどこかに祀られている、本元の犬神の場所へと俺を連れて行けば、殺さずに済む」
そう、これはただの脅しだ。殺す気なんてさらさらない。これで、今回の小目標である、榊さんを無傷で負けさせること。それが達成される。
「さあ、俺を連れて行くか、ここで死ぬかだ」
「鬼一君、私を殺してくれ。私が死ねば、この家を守れるのだ。だったら、そうしてくれ」
榊さんの答えは、想像していたものだった。彼女ならそう言うだろうとわかっていた。だから、俺はこんなことをすることができた。しかし、それとは反対に、彼女がこの家に拘束されているのだということが、はっきりと解った。
「そうか、残念だ。友達の首をは撥ねるなんてことをしたくはないが、すまないな」
さあ、最後の締めだ。あのババアが腐っていなければ、榊さんを無傷で負かし、さらには、家からもお咎めなしというハッピーエンドを迎えることができるのだ。
俺は、天清鬼神を振り上げ、榊さんの首へと滑らした。
「待ちな。お前さんが本気やというのはわかった。そやから、結衣を殺さんとってくれ」
よし。どうやら、腐ってはいないようだ。
「だったら婆さん。あんたが俺を犬神の元へと運ぶんだな」
「それはできん。犬神様からの命令で、お前さんを近づけるなときつく言われておるのじゃ」
「そうかい。じゃあ、孫の命と犬神の命令どっちが大事かな」
俺は、天清鬼神を榊さんの首元に近づけた。
これじゃ、俺が悪人みたいだなと、心の中で笑った。
「さあ、早く答えろ」
この質問に先に口を開いたのは、榊さんだった。
「鬼一君そんなこと言ったって無理だよ。この家は、犬神様によって富を得て来たんだ。私の命よりも、犬神様の方が大事なんだ」
榊さんはそう言うと、天清鬼神の刃を素手で掴み、刃先を自分の首へと近づけた。
「おい、榊さんなにしてんだ」
榊さんがしっかり、刃先を掴んでいるため、危なくて動かすことができない。
「結衣何をしとるんじゃ。やめなさい。誰か、結衣を止めなさい」
しかし、この状況で誰が助けることが出来るというのか、薙刀を持った女達も動けずにいた。
いや、一人だけ助けることができる奴がいる。
「アキラ、天清鬼神を締まってくれ」
「ああ。了解した」
後ろで見ていたアキラは、俺の元へと駆け寄ると天清鬼神の柄を掴んだ。すると、すぐにそれは形をなくした。