7月29日 わんとにゃん
犬神とは、古くからある呪いの一種だ。この地域ではどこよりも根付き知られている。何しろ、実家の神社でも、犬神を払ってくれという依頼が年に数回あるほどだ。
所謂、狐憑きというやつだが、この地方じゃ狐なんていないからね。その昔、有名な坊さんが狐を追い払ったとかなんとか。
まあ、そんな話、俺にはどうでもいいことだが。狐憑きっていうのは、小動物の霊が人に憑き、良くないことをする。こっくりさんなんかも、そう言うのらしい。
テトもその類と言えばそうなのだが、こっちは神様だからな。狐憑きとは全く別ものだ。わかりやすく言えば、神様は人間が作り上げたもの。狐憑きは死んだ小動物が成るものだ。
だから、神様っていうのは大抵、人間の良いように作られている。単純に考えれば人間の理想でできたもの、それが神様なのかもしれない。人間の理想だからこそ、善い神もいれば、悪い神、穢れ神もいるのだろう。尊敬と畏怖という違った敬意で崇められる。そんな相反するようで似ているものだ。
話を戻すと、犬神はどうなるのか。小動物の霊の類であるにも関わらず、神が付いてる。ただの狐憑きなのか、それとも神なのか。
俺としてはもう神と言えるのだろう。なぜなら、人間の理想で作られたからだ。犬神は作ることが可能な神なのだ。そう人間の手で作れるのだ。だが、それには動物を殺すという手順が必要であり、飢え、怒り、恨み、そういう負の状態を持った魂が必要となる。
作り方は、別に話そうとは思わないが、俺はやりたくないと感じたね。まさに、人間の悪の面だ。
それにしても、あの男といい、あの犬といい、ヒントなのかそれとも、ただの厄介ごとなのか、俺にはわからん。ただ、優先順位ではあの犬を調べることが一番だ。あの謎の男は謎過ぎて、考えるだけ面倒くさい。それに、そのうち会うんだろう。だったら、そん時ぶちのめせる力さえあればいいんだ。
まあ、なんにしても、次のヒントとなるのはあの犬だ。あの犬を探し出さなければならない。
今は、テトに頼んで、本当の意味でのネコの手を借りているわけだが。果たして、見つかるのかどうか。
それに、犬神は人の手で作れるものだ。だとしたら、作ったやつがいるってことだ。
また、作れるってことは、俺が探している犬神とは、別の犬神ってことも考えられる。この地域には、犬神の伝承がありすぎて、どれが俺にとって必要な情報なのか、わかりづらいのが難点だ。
一つずつ、虱潰すしか、ないのかもしれないな。
本当に頭が痛くなる。
そんなことを、ベットに寝転びながら考えていた時、壁に掛けられたカレンダーが、目に付いた。
今日は、7月29日。7月のカレンダーに記載されている意味のある数字は、三つしかないのだな。
あと三日すれば、8月になってしまう。そんな普遍的なことが、なぜか辛く感じた。
「どうしたんだ? 自分の運命が辛いか」
俺の心を読んでいたアキラが、俺の顔を覗き込みながら、そんなことを聞いてきた。
「ちょっとだけ、感傷に浸っていただけだ。短い夏休みが、もう4分の1も経っていたんだなって」
「そうか」
ホント、ちょっとだけだ。そんな、日付を気にしたって先には進めない。
「さて、俺も街に繰り出しますかね。家に居ても、探し物は見つかりませんからね」
「じゃあ、私も行くぞ」
「わしもじゃ」
「じゃあ一緒に行くか」
俺は、身支度を整えると、二人を連れて外へ繰り出した。
今日の天気は、まさに真夏日と言った感じで、アスファルトが溶けてしまいそうなほどの暑さだった。その暑さだ。一歩出ただけで、クーラーのある部屋へ戻りたくなってしまった。
「暑いなぁ」
「私は死んでるから平気だけど」
「わしも神様じゃから平気だけど」
「俺は生きてるから、平気じゃないんだけど」
生身は辛いぜ。今だけは幽体が羨ましいと感じた。
「でも義貫、昨日だって暑かったんじゃないのか」
「いや昨日は、山ん中だったし、いい感じに風も吹いてそこまでじゃあなかった」
「そっか」
そんなどうでもいい話をしながら。俺たちはどこに向かうでもなく、ただ散歩をしていた。
そして、あの場所に着いた。1キロもないのに、暑さのせいでめちゃくちゃ長く感じた。
そこは、アキラと初めて出会った場所だ。俺は、電柱の影に涼を求めてトボトボ歩く。
しかし、狭すぎるわ、アスファルト暑いわ、時間が経つ度に影が移動するわ、の三拍子が揃った場所じゃ、涼もなにもない。ただ暑い。
それはさておき、ここにいて本当にあの犬に会えるのかが大事だ。もしあの犬が現れなかったら、俺は太陽にただいじめられる為だけに、外に出てきたことになる。マジで徒爾で終わるぞ。それだけはご勘弁だ。
誰かが言っていたじゃないか、努力がどうとか、成功がどうとか。あれ、これ誰かが言ってたんだっけ、それともなんか漫画だったっけ。まあいいや。もう、脳みそが溶けて、鼻から出てきそうな気分だ。
わんわお、早く来てくれ。
ああ、考えるのも面倒くせえ。
「大丈夫か。なんか、多量に汗をかいてるけど」
「人間にはちと辛いです」
「お神酒飲む?」
「テトさん、高校生だから、アウトっすよ」
「えっ、元服って15歳からじゃろ」
「今の時代は20ですよ」
「へぇ」
とりあえず、何かを飲まなきゃやってられない。近くに自動販売機がなかったっけな。
キョロキョロと首だけを動かして、探してみた。すると、50メートルくらい先に、青い自動販売機があるのが見えた。
その自動販売機を目指し、足を動かす。ゆっくりと一歩ずつ、あの自動販売機へ。ポタリとあご先から落ちた汗が、アスファルトを濡らしたが、直ぐに蒸発した。そんな光景を何度も見ながら歩を進める。
自動販売機にたどり着くと、すぐに財布から小銭を取り出し、スポーツドリンクを買った。
手に伝わるこの冷たさ。首に当てるとその冷たさが血流を冷し、全身を冷やす。最高だ。さらに、冷たさを求めて、ペットボトルのキャップを開ける。そして、ゴクゴクと喉を鳴らす。スポーツドリンクが体に染み込んでいくのがわかる。まさに、生き返るとはこういう事だと実感した。
そして、一気に飲み干した。残ったのは、ぐちゃぐちゃに変形した空のペットボトルだけだった。それを、ゴミ箱に入れようとした時、それに気づいた。
それは、ゴミ箱に影に隠れていた犬だった。そう、あの時の犬だ。
犬と目と目が合い、数秒間の膠着状態が続いた。先に動いたのは俺の方、右手をゆっくりと犬の頭へ伸ばした。
犬はそれに気づくと一目散に尻尾を巻いて逃げいていった。
逃がすものか、こっちはさっき水分補給をしたんだ。準備万端よ。
犬を全力で追いかける。しかし、人と犬では早さもスタミナも違う。だんだんと距離は離れていく一方だ。それに、この暑さでは、体力がすぐに奪われていく。
これじゃ、見えなくなる距離まで離されてしまう。
諦めかけたその時だった。
その犬目掛けて、一匹の黒猫が襲いかかった。
きっと、テトの猫に違いない。
テトのおかげで、数メートルの距離を縮めることはできた。
しかし、犬と猫では体格に差があり、すぐに猫は犬に蹴散らされてしまった。
その瞬間、俺の体力も尽き果て、自分自身のスピードに体がついていけなくなってしまった。その結果、いつの間にか体中を擦りむいたまま、空を見上げていた。
「いってぇ。やっぱり、犬に勝てるわけがねぇよ」
「大丈夫か?」
アキラとテトが、俺を覗き込むように見ていた。
「大丈夫だ。それより、あの犬がどこまで行ったか見たか?」
「わしの猫が追いかけておるから大丈夫だ」
「そうか」
テトの言葉に安心した俺は、影のある場所に移動して、そこで傷が治るまで休ませることにした。
それにしても、本当にあの犬がキーとなるのか、そればかりが不安だった。まあ、犬がたどり着いた場所に行けば、自ずとわかるだろう。
俺は、自分の傷が癒えたのを確認して、覚悟を決めて立ち上がる。しかし、立ち上がった瞬間、夏の暑さが体に染みる。
「暑いな」
「夏だからな」
アキラは涼しげな顔で、空を見上げていた。
「そうだな。よし、じゃあ、あの犬を追いかけるとしますかね」
テトが先頭を歩き、俺たちはついていくことにした。
あまり遠い場所じゃ、なければいいが。
そんなことを思いながら、トボトボと歩を進めるのだった。