7月26日 鬼と巨女
もう日は落ちかけていた夕暮れ。俺は病院から歩いて家を目指していた。
その道中のことである。
一人の巨女を見かけた。夕陽に染まる巨女は塀の上で、腕に抱いている猫を作業のように撫でながら、憂いを帯びた顔でどこか遠くを見つめていた。
俺は、その巨女に話し掛ける。理由もあるのかないのか。ただ、今日は自分から声をかけてみようと、そんなことを思っただけだ。
「榊さん。そんなところで猫持って、また降りられなくなったんですか」
榊さんは、俺のことに気がついていなかったのか、驚いていた。その拍子に、塀の上でバランスを崩してしまった。猫を抱いたまま片手をバタバタとしてバランスを取ろうとしているが、最後には塀の上から宙に舞った。
俺は慌てて、榊さんと地面の間に両手を前にして滑り込んだ。
―――ドスン
俺の両腕に榊さんの体重がのしかかる。なんとか間に合ったと思ったが、この重みはやばい。女の子と言っても、身長が180センチを超えている人間だ。それに、俺の体は昨日の出来事でボロボロ。受け止めた瞬間に傷口ちょろっと開いちゃったぜ。
しかし、相手は女の子である。ここで、俺が踏ん張らなくてどうする。もし落としたりしたら、ケガをさせてしまうかもしれない。そして、ケガをさせたら夏休み明けに女子どもに陰口を叩かれるかもしれない。ああそれは嫌だな。女の恨みは怖いぜ。ここが踏ん張りどころだ。漢、鬼一義貫、ここが性根の入れどころだ。
「義貫、お前実は余裕だろ。前だって、普通に受け止めてたじゃないか」
アキラさん、俺は余裕じゃないぜ。それに、あれは体全体で受け止めたやつだったけど、こっちは腕だけで空中に浮いた人をキャッチしてるんですよ。これはマジで腕の筋肉やっちゃいますぜ。
「というか、普通に下ろせばいいんじゃないの」
あっその手があったか。
その時、榊さんと目があった。何故か彼女は、頬を赤らめていた。
よく気づけばお姫様抱っこをしているではないか。そりゃ、恥ずかしいことだろう。
「榊さん、ごめん。すぐに下ろすよ」
「いやこちらこそ、ありがとう」
俺は、榊さんが立てるように下ろしてあげた。俺って紳士だわ。
榊さんは抱いていた猫をそっと下ろしてあげた。猫は俺の方を一度見てからどこかへと逃げていった。
榊さんは猫を見送ると服をパンパンと叩き猫の毛を落とすと、俺を見た。
「いやあ、危ないところ助けてもらった。本当にありがとう」
その時には、顔はいつもどおりの白い肌に戻っていた。
「いや、いきなり声をかけた俺が悪かった」
「私は声をかけてもらえなかったら、誰かが私に気がついてくれるまであの状態のままだったんだ。どちらにせよ、ありがとうだよ」
「感謝の気持ちをありがたく受け止めさせていただきますよ」
「本当に君は頼りになる人だな。そういえば、この前会った時話したことは何かわかったのかい」
この前会ったのはいつだっただろうか。最近、一日一日が濃すぎて、自分でもいつだったかわからなくなる。確か、最初の穢れ神に会う前だったか。その日は、猫がどうとか肝試しがどうとかの話をしたのではなかっただろうか。
部分部分は思い出せた。
「ああ、角山公園のことだったっけ」
「なにか、わかったのかい」
榊さんに説明するにしても、神様がどうとか穢れがどうとかの話をするわけにはいけないしな。
「角山公園で肝試ししていた奴らが、ゴミを放置してたらしい。それで、そのゴミの中に猫が嫌う臭いのするものが混じっていたってだけのことだ。まあ、夏休みってんで学生がはっちゃけてるだけでしょ。治安が悪いのはやなことだよ」
「今日は、やけにしゃべるな。学校での君と別人のようだよ。まるで、なにかを必死に隠そうとしているような」
「そっそんなことないよ。俺はいつもどおりさ」
感の鋭い人だ。やはり、苦手だ。
「君が隠そうとしていることを私がとやかく言うこともないだろう。知らぬが仏とも言うしな。私もあまり、干渉しないでおくよ」
彼女は曖昧な相槌を打ちながら。納得したような、納得していないような、複雑な表情を浮かべていた。
「ところで、君は病院でも行ってたのかい」
彼女は俺が歩いてきた方を指差していた。俺が歩いてきた方向には病院ぐらいしか行くところもないし、そう思うのは当然なのかもしれない。
「ちょっと怪我をしたんで見てもらっていただけだよ」
彼女は何故か、悲しい顔をしていた。
知り合いを想う気持ちが強い人なのだろうか。それにしては、あまりに悲しそうな顔をしている。ちょっと怪我をしただけと言ったのにそんなに悲しい顔をするだろうか。普通は心配をするのでは? 本当によくわからない人だ。
「そうか、そんな状態で私を受け止めたんだ。傷口が開いたりしなかったかい」
「大丈夫。動物に引っ掻かれた程度のキズだよ。そんな大した怪我じゃない」
その時彼女の顔がハッとしたような気がした。しかし、すぐに悲しい顔に戻っていた。
「それなら、大丈夫そうだ。でも申し訳ないことをしてしまった。なにか奢るくらいはさせてくれないか」
「いやいや、女の子に奢ってもらうなんて、男の恥だ。だから、気持ちだけで大丈夫」
「そうか。じゃあ、君が困ったことがあったらなんでも私に言ってくれ。出来る範囲のことはする」
なんで、この人はこんなに必死なのだろうか。やましいことでもあるのではないかと疑ってしまう。でもまあ、それくらいならと頷き、了承してみせた。
「日も沈んで暗くなったし、榊さん送っていこうか? 」
「大丈夫。私の家はすぐ近くだ。じゃあ、助けてもらってありがとう。必ず、礼はさせてくれ」
そう言うと彼女は手を振って帰っていった。
俺は見えなくなったのを確認すると、帰る家を目指して歩みを進める。
少しばかり、傷口が開いた胸をさするとじわりと血の臭いがした。