満月の軌跡 3
暗い、掴み所の無い空間を、しばらく進んだ。暗闇は、俺達五人が並んで、なおかつ両手を広げていても、壁という様な物に全く当たらない、そんな広さだった。來も、何も見えないという。
万生は半泣きで、沙流に抱き上げられてぶるぶる震えていた。
どれ程時間が経っただろう。
突然、俺達の足元の地面が消えた。
いや、正確には消えたとはいわない。俺達は落ちて、石の床に着地していた。
そこは、どこからともなく光が差し込んでいる、部屋だった。相当の広さがあるが、松明はおろか、調度品と言われる物は何一つ置かれていない。
あるのはただ一つ、その部屋の最も奥に鎮座した、巨大な石板だった。
俺達は一歩一歩、その石板に向かって歩を進めていく。近づくにつれ、それがただの石板ではない事が分かって来た。
「蝶だ…」
「蝶だな」
その石板には、巨大な蝶の姿が浮き彫りにされていた。俺達は、その石板から二十メートルほど離れ、半円を描く様に並ぶ。
俺達の前には、一つの石碑があった。
[此処に眠るは 均衡の支配者なり その者 かつてのしもべの称えにより 永遠の眠りより目覚め 三つの魂によって 全地を再び支配するであろう]
掠れた字で、そう書いてある。
「均衡の支配者…つまり、命の蝶の事だよな」
「おそらく」
「かつてのしもべ…は、おれ達か?」
「だろうな」
「じゃあ、称えは?」
沙流が矢継早に質問してくる。俺は溜息を吐き、隣に唖然として立っている來の頭を、軽く叩いた。
「あんたなら、分かるだろう?」
「ふぇ!?…えっと、何が?」
「[称え]の意味だよ」
「あぁ…うん。歌だろ?」
「…だそうだ。分かったか、沙流?」
「うーん…」
沙流は、まだ信用しきれていない様子だった。そりゃ、こんなにあっさりと言われたのなら、無理も無いとは思うが。
「じゃあ、あたしが実験してみるね」
俺達の所に寄って来たフィアンマは、そう言うなり歌い始めた。
急いているのだろうが、歌の質は変わりない。
と、石板に描かれた蝶の右前羽が、赤々と輝き始めた。フィアンマが驚いて口を閉ざすと、その光も消える。
「今の、見た…?」
「ああ。…何なんだ、一体」
「…じゃあ、今度はおれがやる」
名乗りを上げたのは万生だった。だが、俺は歌いだそうとした万生を止める。
「それは駄目だ。あんたが歌ったら皆寝ちまう」
「あ、そっか」
「えっと、じゃあ、僕…は?」
おずおずと來が手を上げた。俺は頷く。來が歌うと、案の定、蝶の右後ろ羽が青々と輝いた。
「歌がキーワードだっていうのは分かったけど…それであたし達は一体どうすればいいの?」
フィアンマが首を捻った。それを訊いた万生が楽しそうな笑い声を上げる。
「そんなの、考えるまでもないだろ」
万生は石碑の真ん前に立つと、俺達の方を向いて両腕を広げた。
「全員で、同時に歌えば良いんだ」
「全員で…同時に!?」
そりゃ、単純に考えればそうだろう。だが、全員が同時に歌うという事は、五つの異なる歌が混ざる訳で、そうすると、もう何の歌だか全く分からなくなる。それじゃ、元も子も無いだろう。
「んなもん、やってみなきゃ分かんないだろ」万生が、俺の言葉に憤慨した様に言った。「あらゆる可能性を考えとかなきゃ、おれ達は此処で終わりなんだから」
「…分かった。そうだな、失言だった」
万生を元の位置に引き戻し、俺は皆の顔を見た。皆、同意の表情を浮かべている。
俺は足先で地面を打って拍を取った。目で合図を送る。
五つの歌が、同時に流れ始めた。
歌いだして直ぐに、俺は心底驚いた。五人の歌が、あれ程止めた方が良いと思っていた歌が、見事なハーモニーを奏でている。何気なく皆の顔を見ると、皆もそれぞれの顔を見合わせていた。
歌につられる様に、石板に描かれた蝶の羽や胴体が光り始める。
だが、左前羽だけが光らない。他の光の色から考えて、どうやら光らないのは紫色の部分、つまり沙流のようだった。
「來、何故、光らないんだ?」
困惑顔で、沙流が來に訊いた。來は少し考え、そして何か思い出した様に手を打つ。
「沙流、もしかして、その歌の歌詞はリュットが教えてくれた…」
「そうだけど」
「やっぱり。だからだよ」
「だからって…どういう事だ?」
「ほら、リュットが言ってたじゃないか。歌詞が変わったって。だから、それは本来の歌詞じゃないんだ」
「そんなぁ…でもおれは、本当の歌詞を知らないぜ」
「多分、ガシュルが言ってたのが本物だよ」
「ガシュルって…あの、呪文みたいな奴の事か?」
「そうそう」
「聞きとれなかったよ。…いや、ちょっと待て。もしかしてさ、來、おまえ…」
「うん。完全に記憶してる」
「うわぁ。Sunの英才教育最高」
沙流が両手をあげ、降伏した様な仕草を取った。
來が歌詞を丁寧に教えている間、残された俺達は何をするでもなく、ただただ、來の記憶能力に感動を覚えていた。この記憶能力に、竜族は関係ないだろう。本当にこいつは、よく分からない程の素晴らしい能力を持っている。それは、数々の経験を切り抜けてきたこの俺や万生でさえも、遠く足元にも及ばない、それ程の高い能力。それでいて、その能力を誇ろうともせず、心根の非常に優しい少年として生きて来た。
來が生き残ったのも、俺が生き残ったのも、他の皆も、何かの巡り合わせなのかもしれない。
俺はふと、そう思った。
「よっし、これで完璧だ!」
突然、沙流の大声がした。來が慌てた様子で沙流をなだめている。
「そんなに喜ばなくったって良いじゃないか。もしかしたらだけど、僕が間違ってるっていう可能性もある訳だし」
「いや。絶対に、それはない」
根拠も何も無く、沙流はそれを否定する。えええ~、と來が天を振り仰いだ。
「そんな顔すんなって。大丈夫、おれはおまえを信じてるから。それに、おまえにとっては喜ぶような事じゃないかもしれないけど、おれにとっては十分、いや三十五,七分に、喜びに値する」
「…その〇,七は何」
「さあな」
沙流はそう言って、肩を竦めた。万生が俺達を見回す。
「えっと、じゃあ…もう一度、か?」
「ああ、そういう事になるな」
俺はそう答え、万生を半円の軌道上に並ばせる。全員の準備が整った事を確かめてから、もう一度拍を取り、合図を送った。
今度はしっかりと、蝶に五色の光が灯る。此処へ続く洞窟の入り口のように、それは蝶の心臓付近で黄色い大きな光の球になった。球はゆっくりと高度を下げ、地面すれすれで止まる。しかし背後の石板には、もはや蝶の姿は無かった。
「眠りから覚めたのか」
歌い終わった俺が呟くと、横で來がかすかに頷いた。
と、心底驚いたような声が聞こえた。フィアンマの声だ。
「ねえ二人共、静かにして。…歌が聞こえる」
俺は即座に口を閉ざした。すると、歌が聞こえて来る。
周りを見回した。誰も歌っていない。
なのに、歌っている。歌が聞こえる。
性別も年齢も分からない、しかしどこか妖艶な声で、[それ]は歌っているのだった。
澄み、良く伸びる歌声が部屋の中を満たしていく。
この世の命は
光と闇に誘われるがままに
善を行い
罪を犯し
善に背き
悪を憎む
命は儚き物
この世に生まれ
朽ちていく物
命を捧げよ
全てを司る者の前に
魂を委ねよ
生ける者
死す者
生ける屍と化す者
「魂…だって」
フィアンマが呟いた。万生が、それに応じる。
「ああ。この[魂]は、この石碑に書いてある[三つの魂]と同じ物なんだろうな」
なあ、ブイオはどう思う?
万生が振り返り、俺にそう聞いた。
「その三つの魂って言うのは、おそらく、その後に歌われてた物だな」
「その後…ね。うん、覚えてないや。…來、ヘルプ」
ん?と、來が首を傾げた。歌詞だよ、と沙流が助け舟を出す。
「ああ。最後なら…[生ける者、死す者、生ける屍と化す者]だったよ」
「…と、いう訳だ。分かったか、万生?」
「ああ、それは分かった。…けど、どうやって?」
「…さあな」
俺はそう言い放って、万生から顔を背ける。このまま会話を続けていれば、何か、嫌な事を口走ってしまいそうだ。
「あ、それなら」
と、來が笑顔を見せた。石板の前に浮かんでいる黄色い光の球を指差す。
「あの中に入るんだよ、きっと。あれが命の蝶の本体だろうし、さっきもほら、あの光が僕達を此処に導いてくれただろう?だから」
「馬鹿な事を言うな!」
咄嗟に叫んでいた。來が怯えた様に押し黙る。
「何だよブイオ、いきなり怒鳴ったりして…それに、一体どこが馬鹿な事だったんだ?」
「全部さ。そんな事、有り得ない」
ああ、もう。間違ってなんかいないのに。
どうして俺は。何故…
「分かった。君、怖いんだろう」
唐突に、來が笑った。
笑った?こんな理不尽な事を言っている、俺の前で?怒りもせずに?
「大丈夫だよ。僕にはもう、行くべき人が分かってる。それは君じゃないからさ」
「分かってるさ、それ位。歌恋だろう?生ける屍。でも、俺が言ってるのはその事じゃない。俺が言ってるのは…」
「[生ける者]、だろ?」
「ああ…そうだ。あんたは、それも分かっていると?」
訊きたくない。どんな答えが返って来るか位は、予測出来るのに。俺の事を、來は分かっているから、嘘を吐いてもばれるから、訊く必要も無いのに。
「君も、分かってるんだろ。…本当は」
「嫌だ!」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ、嫌…
狂った様に叫ぶ。叫び続ける。視界の隅で、沙流が蒼白な顔をしていた。状況をよく呑み込めていないのだろう、万生はきょとんとしている。フィアンマは、思い詰めた様な表情をしていた。
「…良いさ。俺が行けば良いんだ」
踏み出そうとした俺の腕を來が掴む。強い力だった。來が、強固な意志を秘めた瞳で俺を見据え、首をゆっくりと横に振る。
「駄目だ。ブイオ、分かってるんだろう?父さんが居るのは、僕の中なんだよ」
「でも…」
「[死す者]は、僕の中に宿っているんだ」
俺は口を閉ざした。來が笑みを見せる。
「君が、前に僕に訊いただろう?[あんたの愛している物は何だ]って。その質問に答えるよ。…本当の事を言うと…僕は、歌恋も、それに母さんも、沙流も、君だって、愛している。皆を愛している。でも、守りたい物は違う。例え人を殺す事になろうとも己の全てを投げ打ってまで守りたい、と思うのはたったの三人しか居ない。母さんと、歌恋、それと…」
來は照れたように微笑み、伸び上がるようにして俺の耳に口を寄せた。そして、落ち着いた、静かな声で囁く。
「…君だ」
一瞬の沈黙があり、來は俺から身を離した。
刹那、俺と來の視線が絡み合う。
あんたは守られる側だろう、と俺は苦笑した。場違いだとは思ったが、それより他に、自分の気持ちを誤魔化せそうな言葉は見付からない。
「…そうかもしれないね」來が縋る様な表情を見せた。「でも、そういう事にしておいてくれないかな?僕が行くのは、君の為なんだって。そうしたら、君も少しは楽になるだろう?」
俺は答えない。
と、今まで動きもしなかった歌恋が、突然來の手を振りほどいた。驚いた俺と來が止める間もなく、駆けて行ったその姿は光の中に溶ける。
「あ…僕も、行かなきゃ。歌恋が心配だ」
しばし時が流れた後、來が思い出した様に言って俺から後ずさった。しばらく俺を見ながら後退した後、來は踵を返し、少し早足気味で光へと歩み寄って行く。
その姿が歌恋の様に溶ける直前、俺はおい待て、と來を引き留めた。
「…何?」
「一つだけ、聞いておきたい事がある」
「良いよ。何?」
來が首だけで振り向く。俺は近寄ろうともせず、その場から動かずに來を見詰めた。
「魂を委ねる、という事は、もしかしたら、あんたの魂が命の蝶に殺されてしまうかもしれない、って事なんだぜ。歌恋だってそうだ。もしそんな事があったら、責任はあんたにある。あんたが、二人の命を奪った事になるんだ。…それでも良いのか」
「良いに決まってるじゃないか」
驚くほどあっさりと、來は頷いた。
「あの後、君は言っただろ。[殺人は、生き延びる為だけにやれ。命を投げ出すのは、世界を救う為だけにしろ]ってさ。もしこの道を選ばなければ、均衡の崩れに世界は飲まれ、僕も、君も、死んでしまう。このまま足を踏み入れ、僕が命を投げ出せば、例え僕自身が死のうと世界は救われる。それにもしかしたら、僕だって生き延びるかもしれない。そうしたら、選ぶ道は一つしかないじゃないか。後悔はしないよ」
「…………」
「この世に生み出されたその時点から、僕の運命は決まっていたんだよ。…もちろん君だって、ね」
そして來は光の中に消えていった。
途端、光の球が目の眩むような閃光を発し、猛スピードで俺達が入って来た穴から出て行った。残された俺達は、しばらくその消えた先を眺める。
フィアンマが、その後を追う様に、出て行った。万生が沙流を見上げ、それを受けた沙流は万生を抱え上げて跳躍すると、穴の淵に手を掛けて片手で身体を持ち上げ、穴の中に消えていく。出る前に一瞬俺の方を振り向いたが、立ち止まる事は無かった。
俺は後を追わず、石碑の前に移動すると、座り込んで石碑に背を預ける。目の前の石板に、浮き彫りになっていた蝶の姿はもう無い。
そして、光の球があったその場所から、來の姿もまた、消えていたのだった。
ふざけるんじゃない、何が俺の為だ。
あんたが死んだら、俺が楽になる?何だよそれ。
死なないって言っただろう。死なせないって言っただろう。
あんたが死ぬなんて…この俺が、許さない。
俺は少しの間、誰も居なくなった石板の下を眺める。そして目を閉じ、石碑に全体重を預けた。
來はきっと、此処に、この場所に帰って来るのだろう。命の蝶の中から、元気になった歌恋を連れて出て来るのだろう。
だからその時を、此処でこうして、ずっと待っていよう。
俺はそう思い、静かな空気の中で大きく息を吸った。




