満月の軌跡 1
「…ったよ。もし…かったら、間に…ろだった」
…誰かの声が聞こえる。
目を閉じたまましばらくしていると、聴覚も、身体の感覚も元通りになって来た。
今感じている状態から察するに、今俺は誰かに抱きかかえられていて、俺の頭上で話しているのは來と万生らしい。どうやら、生き延びたらしかった。
「じゃあ、おれは先に行ってるな。早く来いよ」
おそらく万生だろう、足音が遠ざかって行く。俺は予想以上に重い瞼を持ち上げ、頭上の顔を見た。
その視線を感じたのか、頭上の顔が下を向く。
青空の様に美しい蒼い眼と、俺の目が合った。
「あ…ブイオ。起きたんだ」
「…ああ。今、どこに?」
「神山に向かってるところ。僕が気を失ってる間に、サタンも、市長も負けたみたいだよ。沙流が、市長を討ち取ったって嬉しそうに叫んでた。サタンはどうしたのかな?君が死ななかったなんて、本当に驚きだ」
「來…本当に、覚えてないのか?心当たりもないのか?」
俺は來の腕の中から抜け出し、横に立った。來は歌恋の手を握ったまま俺を抱きかかえていたらしい。全く器用な奴だ。
並んで歩きながら、來は不思議そうに首を傾げている。その頭の上に乗っかっているいかにも柔らかそうな白い塊が気に掛かった。
「さあ…父さんに話しかけられて、何か叫ばれたのは覚えてるけど…恐怖のあまり意識が飛んだんじゃ無ければ、じゃあ、まさか、僕はまた…」
「そう。あんたがやった。サタンの心臓を剣で貫いて、サタンを爆破した」
「うわぁ…僕、結構凄い事やったんだ」
「ああ。しかも、その時にさりげなく俺を庇うという優しさまで見せてくれた」
もっともそれは、ただサタンに真っ向から立ち向かった結果なのだろうけれど。
そっか、と來は恥ずかしそうに微笑んで、俺の左腕を撫でる。
「傷、綺麗に消えてるね」
「ん。まあな。万生が居てくれて助かった。まぁ、まだ若干貧血気味だけどな。でも、薄い線が残ってるだろう?」
「え?…あぁ、本当だ。でもこれって、三年前に僕が縫った痕じゃないのか?」
「…そうかもな」
あ、そうだ。思い出した様にそう言って、來はたたまれた黒い布を俺に渡す。
「?…ああこれ…俺の服か」
「うん。万生の白猫と、グアンが持って来てくれたんだ」
あ、なるほど。あんたの頭の上に乗ってるその白いのは、グアンか。そうか、寝てるんだな。
「…なんかこの服、妙に暖かいけど」
「それは…ほら、鞄とか持って無かったから、僕、服の下にしまってたんだ。体温ですっかり温まっちゃったかな。ごめん」
「いや…それは別に、構わないけど」
服に袖を通す。暖かい服が肌に触れるというのは初めての感覚だった。いずれは、俺の体温のせいでこの熱も奪われていくのだろうけれど。
「こっちの仲間は、何人負傷した?」
「そうだな…」指折り数える來。「まず君と、あとヴェンフォンの兵士が半数位。サシルは右腕を切り落とされた。で、メヒムは五人位かな。母さん達の方は、皆で守ってたから掠り傷や切り傷、悪くても骨折位で済んだよ。キルの人達は全くの無傷だ」
「治療は?万生がもうやったのか?」
「うん。腕が残ってたからサシルの腕も元通りにくっ付いたし、怪我は全部治ったし。けど、ヴェンフォンの兵士が八人とメヒムが二人、死んだ」
「…そうか」
行く手に大きな影が見えてきた。それは直ぐに大きな山の形となって、そびえ立つ。
それは、三年前と何も変わっていない神山の姿だった。
「本当、昔を思い出すな」
「ああ。僕もだ。龝さんの所に来た時…そういえば、龝さんはどうなったのかな」
「さあな。どうせ行くんだし、そしたら分かるだろう」
「そうだね」
あはは、と來は寂しそうに笑い、うっすらと見えてきた人影に向かって大きく手を振る。中でも一際大きい二つの影が手を振りかえすのが見えた。その内の一人にしがみ付いて跳び上がる様に手を振っている小さな人影もいる。
來が俺の腕をつつく。俺を見上げるその眼にはもはや寂しそうな光は無く、代わりに嬉しそうな輝きがそこには満ちていた。
來が一気に歌恋を抱え上げ、走り出す。俺は後ろからゆっくりと歩いて行こうと思ったのだが、何かに腕を強く引かれてつんのめった。見ると、來の尻尾ががっちりと巻き付いている。外そうと思ったが、これが太くてびくともしない。
「ブイオ、どうしたの?早く行こうよ」
來が振り返って、また俺の腕を引いた。戸惑ったような表情を浮かべている。
「あー、はいはい…分かったよ」
俺の腕に尻尾を巻き付けたまま走り出した來に引っ張られる様にして俺も走った。不思議と笑みがこぼれてくる。
「ふふ…あはは」
気が付くと、俺の前で來も笑っていた。それにつられたのか否か、俺の笑い声もだんだんと押さえきれなくなってくる。
俺は笑いながら來の横に並んだ。今度は俺が、來の腕を掴んで引っ張る。
「ふ…ははは」
「あはははっ…はははっ…ふふっ」
手を振りながら待っている皆の所に辿り着くまで、俺達は狂った様に笑い続けながら走って行った。
「お前ら、何笑ってんだ?」
笑いの治まり切らないまま足を止めた俺達を、万生が不思議そうに見上げる。
「何でも無い。あんたが気にする事じゃないさ」
俺は軽く手を振って万生をかわし、そのまま婆さんの所に行った。來は紗蘭の所へと分かれる。
俺を見付けた婆さんは、片手を上げて俺を迎えた。俺は軽く頭を下げる事でそれに応える。
「おや、老けたか、少し…いや、これで少しは年相応の…」
「うるさいよ」
俺の軽口をぴしゃりと制し、婆さんは洞窟の入り口を指差した。元々は大きな石でもあったのだろう、入口の周りに破片が散らばっている。
「命の蝶はこの中だ」婆さんは表情を変えずに言った。「早く行った方が良い。サタンがいつ復活してくるか分からないからな」
「一か月、と言っていた。なにも急ぐ必要は無いだろう」
「地獄での一か月は此処での何日に当たるのだ?」
「く…分かった」
サシルが実際八十歳だという事から考えれば、おおよそ六日って所か。しかしそれでも時間はたっぷりとある。
そう思いながらも、俺は婆さんの指示に従う事にした。
命の蝶か…復活させるんだったよな。
だとすれば、必要なのは、俺達五人と…いや、五人で良いか。ああ、それと歌恋もだったな。
ふと左を見ると、來が立っていた。俺を見上げ、複雑な表情を浮かべている。
「ねぇ、ブイオ。此処って、龝さんが居た場所なんだよ」
「…でも、命の蝶は此処に居るって婆さんが言ってたぜ」
「うん。本当に、不思議だよね。僕が最後に行った時…つまり、君達が襲って来た時だけど、僕、龝さんの所に行った、って言っただろ?」
「ああ。確かそれで、予言を貰ったんだったか?」
「そうだよ。確かにその時から洞窟の中は真っ暗だったけど、でも、竜族の血のせいか、どこに何があるか位は僕、分かったんだ」
「確か、三年前もそうだったな。あんたは、俺の動きをぴたりと当てた」
「そうだったかな。あんまり覚えてないけど。…でね、その時なんだけど、あの場に命の蝶らしい物なんて一つも無かったんだ。これだけは断言できる。だから、本当に、此処にはある筈がないんだ」
「婆さんが、嘘を吐いてるって事か」
「違うよ!」慌てた様に否定する來。「そんな事は言ってない。そうじゃなくてさ、僕が言いたいのは…あの場所に、僕さえも気付かなかった何かがあるって事なんだ」
「何かがあるって…もしかしてあんた、怖いのか」
「うっ…んー、まぁ…正直言うと、ね」
そう言って來は、恥ずかしそうに頭を掻いて見せた。俺はつい、声を上げて笑ってしまう。
「…でも、だからって此処に突っ立てる訳にはいかないだろう。取り敢えず、皆を呼んで来い」
「えっと、皆…って?」
「沙流と、フィアンマと、万生。目的を考えれば、聞かなくても分かるだろう?」
來は分かった、と頷くと直ぐに走って行こうとした。しかし数歩行った所で心配そうに俺を振り返る。
「何心配してるんだ。俺は別に逃げたりしないさ。怖くないからな、あんたと違って」
來はまだ心配そうにしていたが、前を向いて進みだした。ただ気のせいか、その歩調がやけに遅く感じられる。堪らなくなった俺は叫んだ。
「ほら、早く行けって!…大丈夫だ、俺達が付いてる。俺達五人は最強のタッグだろう?もしあんたが恐怖で動けなくなっても、俺達が力づくで無理矢理にでも動かしてやるから、安心しろって」
その言葉を聞いたのか否か、突然來は何かを吹っ切ったかのように走り出した。人ごみに躊躇いなく飛び込んで行ったかと思うと、その数分後には三人を連れて走って帰って来る。
その素早さには、俺も舌を巻いた。単純な足の速さだけなら、俺の方が早い自信がある。飛ぶ速さもそうだ。だが、來の様に、人一人連れてあの人ごみの中から、たった三人の、しかも絶えず動き続けているであろう人を見付けるのは一苦労だったに違いない。
しかし、それでもこの速さなのだ。さすが、と言うにも相応しい。
「ブイオ、連れて来たよ。どうすれば良いかっていうのはもう話してあるから」
しかも、話までしていたのか。
「…ああ。じゃあ皆、今からどうするかは分かるんだな」
「ああ、分かるぜ」答えたのは沙流だった。「要するに、今からこの洞窟に入って命の蝶を復活させるんだろ。…あれぇ、でもなぁ…、此処には確か、龝さんっていう占い師がいた筈なんだけどなぁ…」
「ま、まあ、それについては入ってからのお楽しみって事で」
慌てて來が取り繕う。どうやら、その話には一切関わりたくないらしかった。
「ま、そうだよな」
楽しい物でもないけど、と沙流は肩を揺らして笑う。
「そうと決まれば、早く行こうぜ。命の蝶って言うのを早く見てみたいんだ」
「まあそう急ぐなって」
早速飛び込んで行こうとする沙流を手で制し、俺は首だけを洞窟の中に入れて注意深く辺りの様子を探った。生き物の気配が全くない事を確かめてから、首を出して合図する。そして先頭から順に來、沙流、フィアンマ、万生、そして最後尾が俺という順番で、洞窟の中に足を踏み入れた。




