終焉の時 2
「おい、おめーら!くっちゃべってるけどよ、準備は出来てんだろうな?」
サシルの怒号が飛ぶ。部屋の中に居た人達は、それぞれ適当な返事を返していた。
「うぃーす。いつでも行ける」
「準備はパーフェクトでス!」
「珍しくアタシもでけたっ!奇跡っ!」
サシルは不安そうに首を傾げた。…まあ、こんな返事じゃ仕方ないか。
「本当だな?信じるぞ?」
「おぃーっす。任しとき」
「ドントウォーリー!」
「珍しくオッケーだよっ!」
ああ…。余計に心配だ。サシルもそう思ったらしい、深い溜息を吐いて、そっぽを向く。
「來、後は任せた」
えー、ちょっと。
どうして回って来るかなぁ…。
声には出さず、僕は心の中で[この馬鹿っ!]と叫ぶ。
すると、突然頭を叩かれた。
「いつも逃げた経験しかない様なあんたに言われたら、サシルが泣くぞ」
「ブイオ!?何、君読心術でも!?」
「そんな訳あるか。今までの会話、あんたのその苦々しい表情。それと―」
言いながら、ブイオは僕の顎を指で摘まんで固定した。今となってはもうすっかり慣れた仕草ではあったが、それでもやはり背筋を何かが走り抜ける様な不思議な感覚を覚える。
「あんたの唇の動き、だな」
「!?」
思わず口に持って行きかけた手を、ブイオは開いている手で掴んだ。
「今更口を塞いでも、もう遅いって。…何だ、まさか動いていないとでも思ってたのか?」
「…その通りだよ」
ブイオは手を離し、呆れた様に溜息を吐いた。鋭い光を湛えた紅く燃える眼で僕を見詰め、僕の唇にその冷えた指先を強く押し付ける。
「此処にちゃんと気を配ってないと、情報が全部敵にだだ漏れになるぞ。それは俺達全員の命取りになる。十分気を付けておくんだな」
身体が硬直していた。ブイオの、威圧感のある声のせいじゃない。また、唇に指を押し付けるという動作のせいでもない。
ただ目の前に立っている、そのブイオという存在に対して、僕の身体が臨界点を遥かに超えた辺りにまで緊張していた。
何故だろう。今まで、こんな事は無かったのに。ブイオに精神的な恐怖を感じこそすれ、精神が何ともないのに身体だけが勝手に硬直してしまうという事態は初めてだった。
いつまでも頷かない僕を、ブイオが心配そうな目で見る。ブイオは眉を顰め、焦点が合わなくなる程の距離にまで僕に顔を近付けてきた。壁際に居た僕はこれ以上下がれない。
「どうしたんだ?全身が同時に攣ったみたいな顔してるぞ」
「いやあのちょっと、金縛りみたいな物で…」
ブイオが息をする度に、その吐息が僕の顔にも掛かる。それが気になって下手に動けない。もしも勢いに任せて壁から身を起こそうものなら、ある突発的なあってはならない状況が生まれるのは避けられない事だ。…もっとも、過去に一度、ブイオの一方的な責任でその状況に陥った事はあるけれど。
「ふうん。金縛り…ね」
次の瞬間、僕は一瞬何が何だか分からなくなった。その原因はただ一つ、ブイオの唇が僕の唇の上に、半ば強引に重ねられた事にある。
…これで、二回目だった。
周りには、三人の運悪き発見者が居た。出来れば…ていうか絶対に、見られたくはなかったのだが…
と、突然、僕の膝ががくんと折れた。バランスを崩す僕の身体を、ブイオが軽く抱き留める。
「よしこれで、金縛りは解けたな」
何でも無いようにさらりとブイオはそう言い放ち、僕を解放した。床にぺたんと座り込んだ僕の身体は、力が抜けすぎてしまって逆に立つ事が出来ない。
「ブイオ…何故、こうなる?」
「こうなるもどうなるも、他に方法は知らない」
「嘘だ」
「…まあな。キルであんたが俺にした事についての、お返しのつもりだった。本当は」
「場面が違うだろ」
「良いんだよ。あんな状況、そうちょくちょくあったりしたら困るだろ、それに」
「…まあ、そうだけどね」
というよりも、正直僕は横からの視線の方が気になっていた。発見者三人からの鋭い視線が僕にグサグサと突き刺さる。
「うぇーい、何かスゲェ事になってる!」
「…忘れて下さい」
「コングラチュレーション!トラディショナル!」
「違いますっ!全っ然伝統じゃないですっ!」
「キャー男子っ!奇跡っ!」
「間違って無いですけどっ!確かに男子ですけど!」
「んんっ?けど、何かなっ?」
「……、…そういうんじゃないんです」
「そういうんじゃない、とはどーいう事かなあっ?」
「…………、……。…ごめんなさい悪かったですスイマセン許して下さい」
ようやく足に力が入る様になってきた。そのまま部屋の端に逃げる。と、いきなり肩を叩かれた。
「!…なんだ、母さんか。驚かせないでよ」
「うふふふふ」
なんだその不気味な笑い声は。極限的に嫌な予感がする。僕は緊張を表情に出さない事だけに全身全霊をかけて、何?と訊き返した。
「見てたわよ」
「はうっ!!」
「もう、母さんに位教えてくれたっていいのに」
「違うんだ違うんだ違うんだ違うんだ違うんだ……」
「何?その変な呪文」
「呪文じゃない!ていうか、そんなんじゃない!」
「あら、そうなの?わたしは別に、駄目だとか思ってないけど」
「だからぁ…、違うってぇ…」
「ふうん。じゃあ、いいわ。そうね、あなたには歌恋がいるものね」
…まあ、そういう事にしておこう。
無闇に否定するのも何かと話が悪い方向に進んで行きそうで厄介だし。
ふと気づくと、隣から母さんの姿が消えていた。慌てて辺りを見回す。すると、案の定と言うべきか、母さんはブイオの所に居た。
「あっ、ちょっと」
手を伸ばしかけたがすんでの所で踏み止まる。
今止めた所でどうにもならないな、これは―。
それに、よく見ればさっきの三人も次々と言いふらしてるし。
「…おい、ちょっと」
気のせいか、自分に呼ばれている気さえする。良心の声か…
こんなにも話が広がるなんて。
「人の噂は七十五日。じゃあ僕は一体…」
「…は?おめー、何言ってんだ?」
「七十五か月か、七十五年か、あるいは七十五光年か」
「…おーい、大丈夫か、來?間違ってる上に意味分かんなくなってんぞ」
と、そこで僕は声の正体に気付く。いや、正体に殴られて無理矢理気付かされたのか。
「あ。サシル」
「あ。じゃねぇっての。ちゃんと生きてっか?脳細胞動いてますか心臓活動してますか?」
「あぁ…うん大丈夫。生き返った生き返った」
「死んでたのかよ」
「僕は死ぬのが趣味なんだ。…で、何の用?」
「おめーはゾンビか。…そうそう、その用なんだけどな」
「うん。どうしたんだ?また味方でも見付けたのか」
「違ぇよ。んじゃなくて、そうだな…全過程が終了したってとこだな。要約すりゃあ」
しばらく考える様にした後、サシルはそう言い切った。わざわざ言いに来て報告が要約とは。よく分からない奴だ。まぁ、一緒に居る間しょっちゅう嘘を吐かれまくった僕の意見としては、これが嘘である事を願うばかりだが。
「よし。じゃあな」
「うん。頑張れ」
取り敢えずノってみた。
「ああ、見守っててくれよな…って引き留めろよ!嘘だって分かってんだろーが!たち悪ぃぞこら!」
「うんうん。じゃあちょっと待ってくれても良いよ」
「…何だそのどうでもいいオーラ全開のとんでもねぇコメントは」
「どうでもいいオーラ全開のとんでもないコメントだよ。で、何の用?」
「その質問さっきも聞いたな…」
溜息を吐いてサシルは、今度は本当に全てを報告するつもりらしい、僕に真顔で向き直った。
「さっきフィアンマの奴とも話したんだけどよ、これ以上味方も増えそうにねぇし、なんなら事を早く終わらしちまおうぜ、って」
「それはつまり、攻撃を仕掛けに行こうって事か?」
「何か違ぇ気もすっけど…うんまぁ大体そんな感じだな」
「少数精鋭で行こうって?あの高い建物の最上階まで?」
「いや、そこまでする必要はねぇよ。お迎えさんも来てるみてぇだしな」
「迎えって…市長達が先制攻撃って事か?」
「いや。俺達が出て来んのを待ってるみてぇだな」
一体何の為に。
罠…なのか?それとも、ただの気まぐれなのか?
分からない。だが…
無闇に突っ込んでいって痛い目を見るのは僕だけじゃない。サシルだって母さんだってブイオだって…
それに、歌恋も。
だったら留まって様子を見ているか?…いや、それも無理だ。
彼らは…市長達は、僕達が長く来なかったらきっと襲って来る。それはそれで危険じゃないか…!
どうすれば良い、一体どうすれば。
頭を抱え、僕は苦悩する。そんな僕の肩を叩く手があった。サシルだ。
「あのさ…自分の世界にまたしてもこもっちまったトコ悪いけど、何考えてんのか大体分かるから言うけどよ…」
「何だよ。皆の命運を左右する大事な考え事なんだぞ」
僕が軽く睨むと、サシルはこっちに向かって広げた掌を左右に振る事によってそれを軽くいなした。
「まぁまぁ、そう怒んなって。あのな…、行こうが行くまいが、あいつらが待ってる事に変わりは無いんじゃねぇか?」
「…あ」
そうか…そりゃ、そうだよな。
何だかこの頃頭が冴えない。まるで、脳のどこか大切な一部分に濃い霞が掛かっているみたいだ。
「で、俺の意見としてはだな。どうせ同じ結果なら早く済ましちまおうぜぇー、っつう事なんだが」
「…ま、そりゃそうだよな」
ただこれは、今回ばかりは僕やサシルの一存でどうにかなる訳じゃ無い。此処に居る皆―もちろん動物はある程度だが―の、承認を受けておかなければ。
「おい皆、聞いてくれ!」
―と、その時。
振り返ると、ブイオが机の上に仁王立ちになっているのが見えた。なるほど、注意を引くには美味い手を考えたな…
「―って!!ブイオ君土足―――!!」
…き、気付かなかった。
「ん?」
ブイオが振り向いた。ショックで大きく口を開けたまま固まっている僕を見て、首を傾げる。
「…來。土足、って何だ?」
「知らないのかよっ!」
助けを求め、母さんを探す。人ごみの奥、手前、椅子の上、壁の近く、部屋の隅…
…居た。ブイオの真正面で椅子に座り、にこにこしながらブイオを見上げている。
「…あら」
母さんが僕に気付いた。僕を見、ブイオを見、そして再び僕を見ると、何かを理解した様に頷く。母さんがブイオの名を呼んだのを見て僕は安心し、開けていた口をようやく閉じた。
「あのね、ブイオ君」
「…は?」
「土足って言うのは、靴を履いたままの状態の事よ」
「ああ…なるほど」
「じゃあ、演説頑張ってね」
…いや。
…いやいや。
…いやいやいやいやいやっ!
止めろよそこは止めるべきだろオイ母さんまさかその若さにしてボケてきたとかじゃないだろうな普通机の上に乗ったら怒るだろいやそれ以前に家に平然と上がって来た時点で止めろよ僕は気付かなかったけどこの家の持ち主は母さんだよ!?
…どうやら僕が受けたショックは尋常じゃないらしい。
句読点の入る隙も隙間もねぇ。
もう一度母さんを見る。
母さんが気付いた。
にこにこ。
「止めてっ!」と心の中で叫びながら母さんを見る。
母さんが僕に気付いた。
にこにこ。
…分かったよ。もう分かった。要するに、もうブイオに何かを言う気は無いんだな。
最初からそうしろよ、という話だが、僕はもたれていた壁から身を離し、ブイオに向かって一歩、踏み出した。説明や説得はこの上なく苦手だが、やってやろうじゃないか。別にブイオは靴が脱げないという訳じゃ無いんだから。魔界でもヴェンフォンでも、風呂入ってたし。
…そういや僕は、歌恋にヴェンフォンで出会ってから身体を拭いてしかいない。うん、戦いが終わって命の蝶が復活し、歌恋が元に戻ったらゆっくりと風呂に入ろう。
僕がブイオに向かって歩を進めている間、ブイオは一言も話さなかった。どうやら、全員が注意を向けるまで待っているらしい。僕にとっては好都合だった。これでタイミングを考えるまでも無くブイオに注意が出来る。
勢いに乗って声を上げようとする僕の顔の前に、すらりと長い指の付いた、褐色の手が差し出された。不意を突かれた僕は仰け反って距離を取り、机の上に立つ手の持ち主を見上げる。
僕を見下ろす紅い瞳が悪戯っぽく笑い、彼は[黙ってろ]と、口の形だけで言った。
そのまま五秒ほどが経過して。
ようやくブイオは、口を開いた。
「突然だが…今直ぐに戦いに出て行くと言って、それがどうしても無理だって奴はいるか?」
数人の手が挙がる。ブイオはその中の一人ずつを、次々と指していった。
「あんた、理由は?」
「めんどくさいから」
「却下。次!」
「眠いから」
「勝てば好きなだけ眠らせてやるし、負けたら永遠に眠れる!次!」
「勝てる訳が無いから」
「やって見なきゃ分からない、戦わなければどっちにしろ不戦敗だ。次!」
「市長が怖いから」
「あんなのどうってことない、怖がるならむしろサタンを恐がれ。…後は?」
最後に少し残っていた筈の手は、いつの間にか下がっていた。ブイオが満足そうに頷き、僕を見下ろす。ブイオに注意を向けていた人々は、緊張感をどことなく漂わせながらまた思い思いの行動を取り始めた。それをしばらく見詰めていたブイオが、僕を見下ろす。
「…と、いう訳だ。皆快く賛成してくれたぞ」
「快く、ねぇ…」
「何だ、不満なのか?」
「いや…君の中では渋々と快くが同義語に当たるんだな、って思って」
へぇ?と、ブイオは不思議そうな表情を見せた。自覚症状はどうやら無いらしい。
「…まあ、それは良いとして…、來、あんたに代わって承諾を取ってやった俺への感謝の言葉は?」
しかもお礼の言葉まで要求してきやがった。
「…その前に、ちょっと待って、君」
「ん?」
もう駄目だ。僕の感情はとっくに臨界点を超えてしまっている。もうこれ以上待てなかった。
「…机を降りなさい」
…うぉ。
自らが出した剣幕に、驚いてしまった。案外僕って潔癖症なのかも。
「!?」
ブイオはひどく驚いた様子で机から大人しく降りた。目が真ん丸に見開かれている。
「玄関に行きなさい」
「ちょ、ちょっと待てよ、來、あんた一体どうー」
「早く行けぇぇえ!!」
「は、あぁ!?」
びっくりした様に背後に跳ぶブイオ。さすが、ものの一歩で10メートルは在ろうかと言う距離を移動している。
「靴を脱いで、もう一度此処に」
ブイオは、今度は何も言わず、僕の所まで大人しく戻って来た。しかも、正座つき。明らかに戸惑った瞳で、僕を上目遣いに見上げている。
「…」
「……」
「………」
「…………よし、もう良いよ」
沈黙が数瞬、あるいは数時間続き、ようやく僕は口を開いた。さっきまで腹の中に溜まっていた怒りは、もうどこかへと消えている。こんなに清々しい気分になったのは、随分と久しぶりなんじゃないか。
ブイオの目には、まだ警戒の色が浮かんでいた。まだ無言で僕を見上げ続けている。
「…ブイオ?」
「……………………………………」
「…おーい」
「…まだ怒ってるのか」
「いや、怒ってないよ?」
「本当か」
「うん、誓ってもいい」
それなら良い、とブイオは立ち上がった。しかし、僕から距離を取った所から見て、まだ警戒はしているようだった。
「あーあ、これはどう責任取んのかな?」
顔を動かさず、目だけで声のした方向を見る。そこには、案の定見慣れた意地悪い笑みがあった。
「何だよ何だよ…サシル」
「いやいや、お気になさらずに。これから自分達の生死を掛ける戦いに赴こうってぇのにこんな何気に険悪な空気作っちまってどうすんだよ馬鹿、とか思ってないからな俺は」
いや、絶対に思ってるだろ。
…まぁ良いか。僕にも非がある事は否めない事実なんだし。
「で…今皆と協力して訊きまわったけど、便所だの準備だの何だのは、もう全員が終わってるらしいぜ。後はおめーの指示次第だ。[突撃!]でも[行こう!]でも最悪[あーあ、面倒臭ぇけど行くかぁ!?]でも何でも、とにかくあんたの一言で、俺達はスタートを切る。そっから先は…まぁ、臨機応変だな。とにかく今は、おめー待ちだ」
…責任者が僕だって!?
何故だ。ブイオだってサシルだって母さんだって揚魅だって、絶対僕より優れた指導者なのに。
今だって僕はブイオとの間に不穏な空気を作ってしまっただけだ。でもその間に皆はどうしていた?全員が万全の状態で戦いに行ける様に、しっかりと確認作業を終えていたじゃないか。それに比べたら、僕なんて…何故?
そんな僕の気持ちを読み取りでもしたのだろうか、目の前の僕の顔が片目を瞑った。
「おめーが一番だ。今に分かるだろうよ」
そんな事を言われたらもう一歩も後に引けないじゃないか。僕は観念し、入口越しに外を見て、サシルを見て、また入口越しに外を見て、そしてまたサシルを見てから、一瞬考えて、言葉を紡いだ。
「サシル、皆に伝えてくれ。時は成った、今この時をもって、今の崩れた体制は終焉の時を迎えるって」
「合点承知!…闘志が燃えるな、最高に良い言葉だ」
そしてサシルは人ごみの中に紛れていった。その先々で次々と歓声が沸く。僅かに心臓の鼓動が早くなったのを感じた。嬉しい。こんなにも喜んでくれるなんて。
そして、再びサシルが現れた。嬉しそうな笑顔を顔面に映し、やや大股で僕の所に歩いて来る。そして僕の肩に、おもむろに手を置いた。
「さぁ…終焉を、始めようぜ」




