我と猛り 3
目を覚ますと隣にブイオはいなかった。どこかに出かけているのか家にも姿は無い。相変わらず來の横で寝ている蝙蝠を起こさないようにしながら來はそっとベッドを抜け出した。大きく伸びをすると、体中に力がみなぎっているのが感じられる。今なら魔界中を駆け回れそうだ。…もっとも、魔界がどれぐらい広いのか來には見当がつかないが。
机の上には朝食が用意してあった。昨日の残りを温めただけの物だが、まだ十分美味しい。ほとんど食べ終わった頃、ブイオが帰ってきた。そのまま奥の部屋に行くと、一冊の本を持ってすぐに出てきた。來の前に座ると、その本を差し出す。[神獣]。昨日読んだ本と同じ本だった。
「あんたが昨日読んでたページを見せてくれ」
ページをめくって[青竜]の所を出す。ブイオはしばらくそのページを見ていた。その間に朝食を全て食べ終え、食器を洗う。席に戻るとブイオは本を閉じ、溜息を吐くと來を見据えた。
「分からない。あんたが読んでた所に秘密があるのかと思ったんだけど、何も無かった」
そして、そのまま出ていこうとする。
「どこに行くんだ」
「仕事…みたいな物かな。俺が帰って来るまで本を読むか坑道を探検すると良い。結構楽しめるぜ。だけど、此処を出る時はちゃんと鍵かけとけよ」
來が返事をする前にドアが音を立てて閉まった。机の上にはいつ置かれたのか、鍵が置いてある。しばらく考えた末、來は鍵を掴んで部屋を出た。後ろから来た白い蝙蝠が肩に止まる。その柔らかい毛皮を軽く撫で、來は坑道に出た。
坑道は薄暗かった。灯りの消えかかったランプが数個しかなく、元々日の光のささない魔界の地下なので、もっともと言えばもっともだが、やはり少し心細くなる。蝙蝠がランプを足で掴んで前を飛んでくれた。坑道は曲がりくねっている。所々に何かを採掘したような跡が残っていて、崩れた壁からは黒い宝石が顔を覗かせていた。ためしに一つ穿り出してみる。ダイヤモンドの原石の様だが黒い。別の宝石なのだろうか。宝石をポケットに入れ、更に奥へと進む。採掘跡は進むごとに増え、そのどこにも同じ黒い宝石が沢山あった。今はもう使われてないとブイオが言っていたが、これだけ宝石が残っているなら何故使われなくなっているのだろう。何か大惨事が起こったのかもしれない。不思議に思いながら、足を進める。ランプの灯りを追っていたが、不意にその灯りが途切れた。消えたのではない。その証拠に、來もランプを持つ蝙蝠も、しっかりと照らされていた。ただその一か所だけが光を反射していないのだ。何か光を吸収する物質でもあるのか。近寄り、手を伸ばすが、伸ばした手はいつまでも壁に触れず、ただ闇に飲み込まれていく。そこは採掘跡の突き当りにできた直径一メートルほどの穴で、中には無限の闇が広がっていた。
穴に向かって一歩踏み出した足が滑り、後ろに転ぶ。尻餅をつく直前、咄嗟に手を着いた地面にはぬるりとした感触があった。跳ね上がる心臓を押さえつけながらゆっくりと立ち上がり、足元からそのどろりとした液体を掬い上げる。ランプの灯りに照らされた掌を見て、來は小さな悲鳴を上げた。
それは血だった。
茶色くなり、かなり古い血なのに、まだ固まっていない。何故なのだろう。いずれにしてもこの穴に何か秘密があるに違いない。來は壁に着いた手を突っ張り、滑る地を踏みしめて穴から首を出した。
四方どこを向いても闇しかなかった。坑道の灯りでさえ眩く感じるほど暗い。光を全て飲み込んでいる。おまけに火山の中の様に熱い。よく目を凝らすと遥か下の方から火の粉が舞い上がっていた。此処はどこなのだろう。とても魔界とは思えない。魔界だってもう少し明るい筈だ。
下から爆発する様な殺気を感じた。穴から飛び退く。直後、穴の中から一匹の巨大な犬が飛び出てきた。
その犬は真っ赤だった。しかも頭が三つある。六つの血の様に紅い目は殺気と怒りに燃え、口から垂れた涎は地に落ちると湯気を立てて蒸発した。普通の犬じゃない。こいつは…何だ?あの闇の一体どこから来たんだ?
その犬はしばらく來を見つめていたが、やがて後退りすると身を翻して闇の中に掻き消えた。
もう進む勇気は出ない。來は半ば転びそうになりながら元来た道を駆け戻った。
家に駆け込むと、既にブイオは戻っていた。手に握りしめていた鍵を渡す。鍵は血に濡れて所々赤くなっていた。手を洗おうと樽の方へ向かった來を、ブイオが呼び止める。
「待て。ちょっと手を見せてみろ」
渋々戻り、掌を見せる。それを見たブイオが小さく息を呑んだ。
「どうした、これ…」
「穴の前で転んだ時に付いたんだ」
まさかあんな所に、とブイオは呟いた。見開いた眼は震え、瞬き一つしない。
「知らなかったのか?ずっと住んでいたのに」
「気付かなかったんだよ」
もしかしたらあの穴や犬の事を何か知っているかもしれない。訪ねようとした來を、ブイオは手で制した。
「まずは手を洗って来い。話はそれからだ」
血は、思ったより簡単に洗い落とせた。ブイオの所に戻る。來が口を開くよりも早く、ブイオの口が開いた。
「穴について、他に手掛かりは?」
何だ、ブイオも知らなかったのか。でも、さっきみたいにブイオが気付かなかった事に來が気付いている可能性もある。言ってみる価値はある、そう判断した。
「穴から赤い犬が出てきたんだ。虎位の大きさがあって、頭が三つあった」
その言葉を聞くや否や、ブイオはいきなり席を立つと、奥の部屋から一冊の本を持って来た。黒表紙に[獣~悪魔の使い~]と書いてある。ブイオは物凄いスピードでページをめくり、しばらくしてやっぱり、と呟くと、あるページを來に向かって開いた。そこには來が見たのと同じ犬の絵があった。
「こいつで間違い無いな?」
「ブイオ、この犬は…」
「ケルベロスだ」
ケルベロス。聞いた事の無い名前だ。ブイオの説明によると、ケルベロスというのは地獄の番犬で、仲間以外の生き物には容赦なく噛み付くという凶暴な性格の持ち主。酸の唾液を持ち、ケルベロスに噛まれた物は全て溶けてしまうという。また、嫌いな物は蛇、もしくはその類で、それを見るとケルベロスは襲い掛かって来ず、地獄へと帰っていくらしい。
ということは、あの穴の先は…
「地獄だったんだろうな」
ブイオは本を片付けると、來に笑みを見せた。
「あんたは運が良かったんだぜ。あの坑道には蛇が一匹だけ住みついてて、たまに姿を見せるんだ。あんたの後ろには多分その蛇が居たんだろうな。それでケルベロスは逃げたんだよ」
それから急にブイオは神妙な表情になった。
「俺もずっとあの穴の事を調べてたんだ。十年位前、あそこで働いていた工夫達が消えるっていう事件があってな、俺は絶対あの穴が関係してるって思って何度も行ったんだ。でも、血にも気付かず、ケルベロスにも会わなかったから、俺の中であの事はずっと謎のままだったんだよ。でも、これで分かった。きっと…工夫の一人が地獄と魔界の境目を誤って突き破ったんだろうな。それでそこから…ケルベロスが出て来て工夫達は…一人残らず食い殺されたか地獄に落ちたか…あの血はその時の物だろうな…ケルベロスに噛まれて出した血は、固まらないって言うから…」
話していくにつれて、その声に嗚咽が混じる。机に滴が垂れる。ブイオは、泣いていた。
「どうして泣くんだよ。君と事件とは何か深い関わりがあるのか」
「消えた工夫達の中には…俺の…父さんがいた」
目の前が闇に包まれたような気持ちになった。十年前と言えば、ブイオはまだ一桁の歳だった筈だ。來の父親も來が幼い頃に死んだらしいが、その当時一歳にも満たなかった來はその事を覚えていない。しかし、ブイオの父親が死んだ時の記憶は、大きな傷となって物心付いたばかりのブイオの心に刻まれたのだろう。その苦しみを抱えてブイオは強く生きてきたのだ。自分の無力さを、甘さを思い知る。今の來にはブイオの背中をさすりながら、その場しのぎの言葉をかけてやる事しか出来なかった。
「あの穴を埋めよう。そして、死んだ工夫達の墓をあそこに作ろうよ。血を集めて、壺に入れてさ」
ブイオが顔を上げて微笑む。頬には涙の痕がつたっていた。
「有難う、來」
心が温まる。僕は少しでもブイオの力になれただろうか。だとしたら嬉しい。來も、心からの笑顔を見せた。
その日の昼間、來は廃屋を回って鉄骨とセメントを掻き集めた。それぞれの家には少しずつしか見つからなかったが、それでも三十軒程回った辺りでようやく穴を塞ぐ為に十分な量を集める事が出来た。その間、ブイオは坑道を歩き回って念の為にただ一匹住み着いているという蛇を捕獲してきた。お互いの目的を達成し、笑い合った二人の顔には泥と汗がこびり付いていた。
その後、二人で力を合わせ坑道から大量の土を掘りだす。これで、準備は万全だ。壁の時計はいつの間にか夜を示していた。とりあえず食事を済ませ、來とブイオは昼間の内に集めてきた鉄骨、セメント、土を大量に抱えて坑道の穴へと向かう。両手が塞がっていたので、白い蝙蝠がランプを、茶色の蝙蝠が蛇を持って前を飛んでくれるのが有難かった。
穴の前に着くと、持って来たものを足元に置き、滑らない様に気を付けながら穴に鉄骨を格子状に組む。もしケルベロスが上がって来た時の為に、二人が作業する横では茶色い蝙蝠が蛇を持って常時飛んでいた。
鉄格子は組み上がった。これでもうケルベロスは上がって来られない。茶色い蝙蝠に蛇を逃がさせ、一息吐くと、鉄格子の穴にセメントを詰めていく。詰めた所は片っ端から地獄の熱さで固まってコンクリートと化していき、その上から更にセメントを塗り固めて穴を完全に塞ぐ。その内坑道の奥から茶色い蝙蝠が、当時工夫の使用していたであろう壺を持って来た。
これで壺を探す手間が省けた。地面に尚も広がっていた血を丁寧に掬い上げ、壺に入れる。余ったセメントで壺に蓋をし、埋めた穴の前に置く。そして土で壺ごと採掘跡を跡形もなく埋めた。
壺が完全に土に埋もれる時だけ、ブイオは手を止めて壺をじっと見つめていた。無理もない。あの壺の中には、ブイオの父親の血が入っているかもしれないのだから。でも、ずっと手を止めて見ている訳にもいかない。歯を食いしばりながら來は手を動かし続けた。
壺が完全に隠れてしまって、ブイオは呪縛から解き放たれた様に働き出した。さっきまでの三倍位の速さで手を動かしている。
父親への思いを断ち切る様に…
父親への未練を断ち切る様に…
その表情は強く、その頬につたうのは汗か、それとも…
來はその表情に見惚れていた。その事に気付いたのかブイオが手を止め、視線を來の方へ向ける。
「何見てるんだ」
「いや…」
見惚れていた、なんて恥ずかしくて口が裂けても言えない。
「ほら、終わったぞ」
もはや穴の存在は元々無かったかの様に消し尽くされていた。埋めた土は綺麗に均され、周りの壁と見分けが付かなくなっている。
「後片付け終了」
ブイオがそう呟いた。來だったのかもしれない。二人の心は満足感に満たされていた。
茶色い蝙蝠がブイオの肩に止まっている。白い蝙蝠は來の頭に乗せたランプの上に乗り、ランプが落ちない程度にバランスを取っている。さすがに疲れたのだろうか。來もまた、ランプが落ちないようにバランスを取りながら踊りまわる様に跳ねる。ブイオが笑いながら同じ動きを真似した。ほんの束の間の幸せ。そうしている内にいつの間にかドアの前に立っていた。來は息が荒いが、ブイオは平気な顔をして、來に笑いかけた。
「どうせ、僕には体力が無いですよ!」
「怒るなって。俺は風呂に入って来るけど、あんたはどうする」
「君の後に入るよ」
ブイオは頷くと、壁の向こうに消えた。すぐにシャワーの音が聞こえてくる。
こんな所にも隠し扉があったのか。もしかしたら他にあるかもしれないな。そう思ったが、探す暇も無くブイオが出て来た。
「空いたぞ。入れよ。着替えは籠の中」
素直に探したいと言えば、探す前にブイオは教えてくれるだろう。それじゃ面白くない。來は風呂に入る事にした。
壁の中にはかなり豪華な風呂があった。脱衣所まである。置いてあった籠に服を入れる時、ポケットの中に入れっぱなしだった宝石に気付いた。電気の下で見ると泥でかなり汚れている。体と一緒に洗い、たわしで磨くと、そこからは黒く輝く本来の姿が現れた。この宝石の事をブイオが何か知っているかもしれない。居ても立っても居られず來はそそくさと風呂から上がると、体を拭くのもそこそこに、服を着ると頭から水滴を撒き散らしながら、椅子に座って本を読んでいるブイオに駆け寄った。
「ブイオ見て!この宝石何だかわかる?」
ブイオは顔に水滴を付けたまま黙って來を睨むと一旦本を置き、タオルを持ってきて來の頭に被せると、容赦無く擦った。
「わぎゃあ!」
「また濡れちまったじゃないかよ、ったく。水滴を振り散らすな。ちゃんと拭け」
ブイオに何も言われない程度に頭を拭き、タオルを首から下げると、來は宝石をブイオの前に置いた。
「採掘跡から穿り出したんだ。何か分かるか?」
「黒曜石じゃないの」
ブイオは宝石の方にちらっと目を向けただけでまた本に目を落としながら答えた。
「違う。黒曜石はこんなに輝いてない。透明ならダイヤモンドなんだけど、黒いのは…」
「黒いダイヤモンド…ねえ」
ダイヤモンドという言葉を聞いてようやくブイオは真面目に考える気になったらしい。読んでいた本を持って奥の部屋に行くと、別の本を持って来て來の前に再び座った。
分厚い本だ。青い表紙に[全鉱物~宝から砂まで~]と書いてある。ブイオは一つのページを開くと、來に見せた。[ダイヤモンド]のページだ。その中の一部分を指さす。
「ほら、此処。[ダイヤモンドは地上の日光が当たる所から光を取り入れ、眩い輝きを手に入れる]って書いてあるだろ。魔界は地上じゃないし、日光も当たらない。だから、此処にダイヤモンドがある筈がないんだ」
それでも諦めきれない。ブイオからひったくる様にして本を取ると、來はページの隅々まで目を走らせた。しかし、黒いダイヤモンドに関する記述は見つからない。やっぱり黒曜石だったのか。半ば諦めかけた時、ある一文が目に留まった。
[例外として、地獄の炎に焼かれたときにだけ炭素は黒い輝きを得る]
―これだ―
思わず立ち上がり、机に頬杖をついているブイオの目の前にその文章を突き出す様にして見せる。ブイオは仰け反り、椅子から転げ落ちそうになった。近い、と言って本を押し、改めて來の指が指す文章を読むブイオの表情が見る間に変わっていく。
「どうして気付かなかったんだ…」
そう言って頭を抱えるブイオからは、後悔と自責の念がひしひしと伝わって来る。
「あの坑道では、黒いダイヤモンド…[ブラックダイヤ]が採れたんだ。もっと早く気付いておけばよかった。そうすれば父さん達に地獄が近い事を知らせる事が出来た…そうすれば皆助かっていた…」
確かにそうだ。でも、悔やんでもどうにもならない。同情したい気持ちを抑え、來は告げた。
「ブイオ、今更そんな事言ったって君の父さんは生き返らないよ。それよりも、前に進もう。もしかしたら何か良い事が起こるかもしれない。だろ?」
ブイオは顔を上げ、しばらく來の顔を見詰めていた。そして、鋭い歯を見せて笑った。
「そうだな。悪かったな、悪魔のこんな姿見せちまって。それなら、明日は外に行こう。会わせたい奴がいるんだ」
「良いよ。僕としては悪魔の意外な一面が見られた訳だし。それに、そろそろ外に行きたいなって丁度思っていた所だ。案内、宜しく頼むよ」
「任せろ」
さしあたり、これで明日の予定は立った。心を弾ませ、來はベッドに潜ると、眠りに落ちた。




