闇と死の狂想曲 2
「いい加減遅すぎんだろあいつら!」
ぶちぎれた俺の叫びが部屋に響く。部屋の隅で寝ていた揚魅が凄い眼で俺を睨んできた。
「うるさい!部屋の大きさを考えろよ。此処は選挙の演説会場じゃないんだぞ」
「んなこた分かってんよ!けどよ、それにしても遅すぎだろうが。ったくあいつら、どこで道草喰ってやがんだ」
「…麒麟に殺されたって訳じゃないよな」
ぼそっと。本当に小さな声で万生が呟いた。ただでさえ不安の境地に達している俺はたったそれだけでも激昂する。
「あぁ?おいこら今おめーなんつった!縁起の悪りぃ事言ってんじゃねぇよっ!」
「…ご、ごめん」
「ごめんじゃねぇよ!責任とれこら!」
と、その時だった。この状況では決して有り得ない程冷静で、また酷く重厚で美しい響きがこもった声が背後から聞こえて、俺は動きを止める。
「わたしが探しているサシルという者はおまえで間違いないな?」
「誰だ!」
怒鳴り、素早く振り向く。しかし、その姿を確認した瞬間に俺は怒鳴った事を激しく後悔した。
「うわ…麒麟」
「その通りだ。驚かせたか?」
「そんな事は…いや、少し」
「正直だな。それで、さっきの質問に対する答えがまだなのだが」
「え…ああ、俺がサシルだ」
「そうか。それで、万生という者も探しているのだが」
その言葉に、俺達の事を興味深げに眺めていた万生が文字通り跳び上がった。その勢いのまま俺の隣に走って来ると、銀色の眼を丸くして麒麟を見詰める。
「えっとその…おれが万生だけど。あの、おれ、何か失礼な事でも」
万生がそんな事を言うのは無理も無い。俺が麒麟を元にした種族なのに対して、万生は白虎の直属の氏族。わざわざ声を掛けられる事など通常ならある筈も無いのだ。しきりに目を泳がせる万生を、麒麟は落ち着いた声でなだめる。
「おまえは何もしていない。ただ呼んで来るように、と頼まれたものでな」
「た、頼まれた…だと!?」
今度は俺が素っ頓狂な声を上げる番だった。
頼まれたって、一体誰にだ。麒麟を動かす程の権力を持った奴なんて命の蝶位しか思い付かないが。
いや、しかし命の蝶はまだ復活していない。その証拠に、その鍵となる氏族五人の内の三人は今此処に揃っているのだから。
…それならば、一体何が?何がこの格調高い神獣を動かした?
固まって声が出せなくなっている俺を麒麟はじっと見詰め、含み笑いを漏らす。そして、ヒントをやろう、と俺の顔に顔を近付けた。
「簡単に言おう。おまえが、いや、此処に居る皆がよく知っている者達だ。そう大して考える事ではない。此処に来た事自体はわたしの気まぐれな親切心とでも思えば良い」
「と、すると…」
思い当たる人物は二人。そして、麒麟は[者達]と言った。つまり、複数人という事だ。正体が分かって、俺はますます頭を抱える。
「あいつら、何者なんだよ…どんだけ支配力強ぇんだ」
「何度も言うが、此処に来た事は単なるわたしの気まぐれだ」
「…それで、俺達は何故呼ばれたんだ?」
「これはわたしの推測でしかないが…虎族である万生には傷の修復、サシル、おまえは服だ」
「えっ?服って…」
「ああ、ちょっとした乱闘があったせいで來が傷を負ってな。服に血が付いたから着替えたいそうだ」
「來がって、ブイオはどうだったんだ?それに、傷ってどんな」
「来れば分かる。早く来い。外で待っている」
そう言うと麒麟は俺達に背を向けて出て行った。その直ぐ後ろを万生が追う。残された俺は手持ちの数少ない服の中から比較的綺麗でまともな物を慌てて引っ張り出し、地上に出た。
外には、悠然と佇む麒麟とその背中に肘をついて立っている万生が居た。見張りをしている筈のヴァネル達三人は見当たらない。俺を見付けた万生は満面の笑みで手を振り、麒麟は歩いて近寄って来た。
「わたしとしては少しでも早く着きたいのだ。わたしは万生を背中に乗せて飛ぶから、おまえは飛んで私の後ろを付いて来い。良いな」
言うが早いか、麒麟は唖然としている万生の服をそれこそ子猫を運ぶ様に銜え、背中に投げ上げる。そして空中に飛び出した。俺は慌ててその後を追って飛ぶ。
さすが神獣ともいうだけあって、麒麟の飛ぶ速さは尋常じゃなかった。とにかく速い。他に思い付く言葉は見付からなかった。万生と何か話したいとも思うのだが、麒麟に付いて行くのが精一杯でそれもままならない。結局麒麟は、俺の予想通りあの穴へと俺達を連れて行った。
穴の中は闇一色で、一筋の光の侵入をも許さない佇まいを見せている。俺は一瞬躊躇って足を止めたが、麒麟は躊躇う事無くその中に踏み込む。その姿が闇に紛れる直前、万生が振り向いて恐ろしく不安げな表情を見せた。救いを求める様な眼で俺を見詰め、口を動かす。
[早く…来て]
声は聞き取れなかったが、口の形からそれ位は予測出来る。
―万生、あんな表情出来たのか―
俺は命を蝕む様な恐怖に固まった足を無理やり前に進め、闇の中に踏み込んだ。
やはり、穴の中は闇に支配されている。パニックに陥りそうになった俺の耳に、暗闇の中から麒麟の声が聞こえた。
「そのまま真っ直ぐ前に進め。ゆっくりとだぞ。手を前に伸ばして…そう、もう少しだ」
麒麟の声に導かれるまま歩くと、指先が何か硬い物に触れた。驚いて手を引っ込める。
そして、その次の瞬間の事だった。
何かに捕まれた俺の身体が宙を舞う。どすん、という音と共に俺が着地したのは何かの上だった。
状況からして麒麟に乗せられたのだと思う。緊張と驚きとで固まってしまった俺に、正面から何か柔らかい物が抱き着いて来た。
「うわっ、何だ?」
「…うぅ…サ、サシルゥ…此処やだぁ、怖いぃ…」
はぁ…?はて、一体どこの幼稚園児だ?
不思議に思ってペタペタと触っている内、俺はある重要な事を思い出した。
そうだ、此処に幼稚園児などいる筈がないんだよな…。
此処に居るのは麒麟と万生、それに俺の三人だ。最後に見た時、万生は麒麟に乗っていた。そして、俺の判断に間違いが無ければ、今俺は麒麟に乗っている。
…と、いう事はだ。
まだ俺に強く抱き着いて震えている奴の髪をあちこちとまさぐってみる。案の定、何か獣の耳らしき物を発見した。突っつく度にそれはピクリと反応し、それが本物である事を教えてくれる。折角なので、良く見えないままそこだけを重点的にいじくり回してみた。
「ふにゃあっ!ちょっ…止めっ…ほんとにサシルっ、駄目だって、言ったのにぃっ!」
だったら手を離して逃げれば良いじゃねぇかよ。
そう言いたくなったのだが、余りにも可哀想だったので俺が手を離す。
まぁ良いか。光と闇は正反対の立場にあるんだもんな。怖がってもしょうがないか。
諦めているその心とは裏腹に、俺の口には自然と言葉が溢れて来た。それを誰にともなく呟き、心の中で繋ぎ合わせていく。
「おいおい、ほんとなのかよ…」
本当におめーなのかよ、万生。これじゃまるで子猫じゃねぇか。
もしそうなら、何故俺に縋る?どうせ縋るのなら俺じゃなくて、もっと強い麒麟に縋った方がよっぽど良いぜ。何をどう勘違いしてんのか知らねぇが、俺は地獄の破壊魔だ。愛情なんかとは程遠い、殺人鬼なんだよ。舐めてあやして乳をくれる優しい母猫じゃない。おめーはそれを分かってんのかよ。
…俺には、愛情や同情なんて気持ちは抱けない。
前方に、僅かだが光が見えてきた。それに気付いた万生が俺から頭を離し、前方に向き直る。まあしかし、光といっても黒い光だからこの何かと禍々しい雰囲気は変わらないのだが、万生はその事自体は余り気に留めていない様だった。
そしてその中に、ブイオと來が見える。逆光になってよくは見えないものの、取り敢えず二人共元気そうだ。
「サシル、万生、こっちだ」
來が手を大きく振る。俺は、見えてるよ、と言い放って万生を伴い、礼を言って麒麟から降りた。比較的早い足取りで二人の所に向かう。
と、その足が瞬間で固まった。俺の様子に気付かず、來は首を傾げながら近付いて来る。
「サシル?どうしたんだよ」
「來…その傷」
「ああ、これの事?うん、深かったけど切り口が鋭かったから直ぐくっ付くよ。実際万生を呼んだのもブイオだしね。でも目立つから―」
「俺が訊いてんのはんな事じゃねぇ!」
「あ、えっと…じゃあ、何かな?」
「おめーがその傷を負った経緯を訊いてんだ」
「その質問にはわたしが答えよう」
來が答えるより早く、麒麟が口を挟んだ。
「立場的に見れば、わたしは傍観者だ。全てを公平に明かす事が出来る」
「えっ?あ、ちょっと、あ、あの、そんな全部は言わないで下さ―」
止めようとした來の口を背後からブイオが塞ぎ、麒麟に先を促す。麒麟が話していく内に、俺は來が止めようとした理由がなんとなく分かった気がした。咄嗟の事とはいえ、隠蔽したくなるのだろう。ふと視線を動かすと、案の定來は赤面していて、その表情には激しい後悔が見え隠れしていた。
「時すでに遅し、だな。いや…後の祭り、って言った方が分かり易いか?」
ブイオが含み笑いを漏らす。恥ずかしさのあまりか來が涙目になった。俺も追い打ちを掛ける。
「後悔先に立たず、ともいうな。あれ、覆水盆に返らずの方が合ってたっけ?」
まさに言いたい放題だ。來はじたばたしているが、ブイオに抑え込まれているので結局何も出来ない。万生は横を向き、必死に笑いを堪えていた。
「あう…もう嫌だ…」
ようやくブイオに解放された來の第一声がこれだった。
あちゃあ、さすがに言いすぎたかも。へこみようが半端じゃねぇ。
俺は何をすれば良いのか分からず頭を掻く。ブイオはあさっての方向を向いて無関係を完全に決め込んでいた。
ちくしょう。言い出したのはブイオ、おめーじゃねぇかよ。全部俺の責任みてぇな、超不穏な空気になっちまってんですけど?
「…と、取り敢えず。ほら來、傷直すよ。な?」
慌てた様子で万生が來に、大袈裟に抱き着く。來の傷は跡形も無く癒えたが、來は全くと言って良い程反応を示さなかった。
「あの~、無反応は困るんだけど。…なあなあなあ、なあってば。來、お前が顔上げないとこの空気どうにもならないんだよ」
來の正面に居座った万生が來を尻尾でツンツンと突くが、相変わらず來は俯いたままだ。
何故こうも反応が無いのか。此処まで来ると明らかにおかしすぎる。
不思議に思って俺は來に接近し、押してみた。…すると。
こてん。
來が膝を抱えたままの姿勢で床に転がった。一瞬何があったかと思ったが、改めて冷静に調べると心臓もしっかりと動いているし呼吸もある。
…ていうか、何か異様に穏やかじゃねぇか、この呼吸?
…という事はつまりだ。
俺はゆっくりと深く息を吸う。そして、怒り呆れ云々を全部込めた罵声を吐き出した。
「ちくしょうこいつふて寝してやがるっ!!」
「わあっ!?」
俺の大声に來が跳ね起きた。來は周りを見回し、俺を見て首を傾げる。
「えっと、僕一体何を」
「覚えてねぇのかよ!俺らがあんだけ心配してやってたってのに、おめーは心配させるだけさせといて自分は寝てやがって」
「あ、寝てたのか?ごめん、自分でも気付かなかった」
「はぁ?…ったくおめーはどんだけ気楽なら気が済むんだ」
「気楽かな?」
「気楽だよ、とびっきりのな。そこから言わなきゃいけねぇのかよ、全く。しかもこんな薄気味悪りぃ所で寝るとか図太すぎだ」
「あー、それブイオにも言われた」
「自覚してんのか!」
徹底的に怒鳴る俺と、それに怒る事も落ち込む事も無く笑顔を浮かべて聞いている來。來を見ていると、何だか気が抜ける。
麒麟がブイオと万生の所に行き、三人で何やら話し始めた。それに気付いた俺と來が話を聞こうとして近付くと、万生が振り向いて残念そうに溜息を吐く。
「あーあ、終わっちゃったか」
「は?終わっちゃったって、何がだ」
「今の口論…っていうのか?それがだよ」
「何でだ?何かおかしい事でもあったのかよ?」
「いや別に、おかしい訳じゃないんだけど…。麒麟が言うには、生き物の心の葛藤をそのまま表したみたいだ、って」
「どういう意味だ、それ」
「善と悪が戦ってるって。欲望がまくし立てて、良心がそれをかわしながら留めているっていう」
「ふうん、なるほどな」
てことは、俺は当然悪の方なんだろうな。まぁ、当たり前…てか、來が悪だとか考えられるかっ!
何故か自分に逆ギレしてしまった複雑な心を抱えながら、俺はふと來の方に目をやる。そして、重要な事を見逃していたのに気付いた。入口付近に置きっぱなしになっていた服を慌てて拾いに行き、來に手渡す。
「体格は同じ様なもんだからサイズはこれで良いだろ。デザイン云々についての不満、苦情は一切受け付けねぇからな」
「あ、うん良いよ何でも。此処までされてそんな事を言う程僕は命知らずじゃない」
「それはどうだかな。おめー位図太かったらそれ位すんだろうよ、普通に」
俺がそう言っている間に來は服を着終えていた。全く、羽が俺にも來にもあって良かったな。
「…っと。何だ、案外似合ってんじゃねぇかその服。ずっとマジメな服ばっか着てっからそういう感じのは嫌いってか似合わねぇと思ってたんだがな、正直」
「うん、僕自身驚いてるよ。そりゃ顔が同じなんだから当然と言えばそうなんだろうけど、何だかんだ言って結局君と僕とは同一種なんだね」
「一緒にしてんじゃねぇよ、馬鹿。思い込みで自己完結すんな」
俺が持っているのは黒い服だけだったので正直若干の心配はあったのだが、これなら問題ないだろう。少なくとも、半裸の状態でそこら辺を歩き回られるよりはずっと良い。
「…で、殺角石は結局?」
万生が顔を覗かせ、來に訊いた。來は分からないんだ、と首を傾げる。
「後でちゃんとするってブイオは言ってるんだけどね…」
「本当何なんだ、あいつ」
「俺は俺だ。それ以外の何者でもない」
驚愕のあまり、俺の肩が跳ねる。万生も同様に驚いたようで、目の前に突然現れた人物を、目を丸くして見詰めていた。ただ來だけが例外で、
「ブイオ、そういう意味じゃないよ。君だって話の流れからそれ位は分かるだろ?」
などと抜かす。
…いや、待てよ。話の流れからって、いったいブイオ、いつから此処に居たんだ!?
そしてそれに來は気付いていたのか…。
ブイオは気配を消していた。それも、完全に。生まれつき持っているのかもしれない、命を奪い、剥奪し、また収奪する為にあるその能力には、例え俺でも、もしかするとサタンでさえも敵わないのかもしれない。
ブイオは全てを消し去り、消却し、抹消して消除する氏族の血を受け継いでいる。だからこそ闇に溶けて見え、それでいて戦慄させられる。
そして來は全てを感じ取り、察し、見越して斟酌する氏族の血を受け継ぐ、いわゆる血統書付きだ。だからこそ空気に紛れ、それでいて震慴させられる。ブイオが完膚なきまでに消し去った筈の気配さえもことごとく嗅ぎ付けてしまう。
この二人、傍目には対照しているようであり、心髄は対称している。
これは何だ。…そうか、俺と來の逆か。
傍目には対称しているようであり、心髄は対照している俺達と。
A=Bであり、B=Cである。故に、A=Cである。これは、典型的な三段論法。これに俺達三人、心髄の部分を代入するとどうなるか。
來=ブイオであり、俺≠來である。故に、俺≠ブイオである。そのまんまだ。
なら、これは何を意味するのか。
それはつまり、俺かブイオのどちらかが常軌を逸しているという事。これに尽きる。元来麒麟の名のもとに繁栄していった俺達が全く正反対になってしまっている事など、有り得ない。いや、あってはならない。
…ならば、どっちが狂っている?
暴かれない嘘を吐いて全てを消していくこの俺と、全てを暴いて気付かれない死を与えるブイオと。
…でも、よく考えれば、やってる事は同じなんだよな。
「…どっちも狂ってる訳じゃねぇんだよな…」
溜息。何がどうなってんだよ、全く。本当に混乱する。A=B、A≠C、B=C。何なんだ、これ。矛盾の塊じゃないか。
「何悩んでるんだ?」
気付くと、目の前に來の顔があった。驚いてバランスを崩した俺を、いつの間にか背後に居たブイオが支える。
「ちょ、おめ…一体いつから」
「結構前から居たけど。反応がないから、声かけたんだ」
「あ、ああ…そうか」
「うん。あ、ほら、殺角石はちゃっかりブイオが手に入れてたよ」
「え?」
慌てて身体を起こす。改めて振り返ると、そこに居たブイオの首にはしっかりと石が掛かっていた。
「僕達が話し込んでた間に、麒麟と二人で部屋の隅に行ってそこで歌ったんだって。僕達が聞いて何かあったら困るからって言ってた」
「ふん、余計なお世話だな」
わざとブイオに聞こえる様に言う。そしてその直後、激しい後悔。
背中を向けているのでブイオの表情は窺えなかったが、正直言ってまずいと思った。何故か。それは、ブイオや來の様な洞察力が無くとも明らかだ。
…來が必死になって俺の背後の何かを留めようとしている。
普段の來の調子からはあまり想像出来ない、滅多に拝めない珍しい表情。この状況さえ違えば、俺は躊躇う事も無く來をからかっていただろう。
ただ、俺の背後に居るそれが何なのかが想像出来る今、そんな事をする勇気は俺の中に絶無だ。
本能的に、俺は横に転がる。案の定、直前まで俺が居た所の空気を軌道だけでそれと分かる鋭い鍵爪が音を立てて切り裂いた。
「冗談だろ、おい…」
止めてくれ、そんな攻撃もろに喰らったら俺の頭部が弾け飛ぶ!
デスストーンが無いとはいえ、角翼族ともなれば俺より格上なのは間違いない。つまり、俺の破壊行動が全く通用しないという事だ。こうなれば、なす術は無い。切り札という物は、ほとんど全てに有効であるが故に使えなくなった時のリスクもまた膨大だ。我ながら無様だという事を自覚しつつ、俺は腰が抜けた身体で後退りしながら金切り声を上げる。
「た、頼む、來、助けてくれえぇぇ!」
目を固く閉じ、迫り来る激しい殺気から顔を背けた。
再び空気が切り裂かれる音がして。
俺の顔面近くで金属にぶつかった様な音がした。
恐る恐る目を開ける。目前数センチに迫った鍵爪の鋭い切っ先を目の当たりにして、俺はもう一度、声にならない悲鳴を上げた。
「く…空気の、壁、なのか?」
視線を泳がせると、ブイオの肩越しにこっちに向かって掌を突き出している來の姿が見えた。肩で息をし、その身体は震えている。
「はぁはぁ…ま、間に合って、良かった…」
精神力に限界でも来たのだろうか、來はそのまま床にぺたんと座り込んだ。空気の壁が消え、俺に再び緊張が走る。ブイオは迷う様に俺と自分の鍵爪を見比べていた。そしておもむろに手を伸ばすと、竦む俺の頬に引っ掻き傷を付けて指を引く。
「今はこれで許してやる。けど、次は無いからな。もし今度さっきみたいな戯言を吐いたらその時は…」
ブイオの眼が細まり、鍵爪の消えた冷たい指先が俺の頬の傷の上を滑る。ブイオはその指先に付着した僅かな血を見せつける様に、俺の目の前に指を突き出した。
「…俺の腹がこの血で満たされる事になるぜ」
恐かった。今までに直面してきたどんな危機よりも、敵よりも、味方である筈のこいつが怖い。
ブイオは指先の血を舐め取ると、來に手を貸して立たせた。そして、さっきの事がまるで幻影であるかの様な明るい笑顔を俺達全員に向ける。
「ほら、早く帰ろうぜ。こんな薄気味悪い所からは即刻退去したい」
「薄気味悪いだと?よくそんな口が利けたものだな」
麒麟が牙を剥いた。ブイオは口を押えて麒麟のおそらく射程距離であろう範囲から跳び下がる。
「い、いや…冗談だ。ただ此処には新鮮でない空気がこもっているって言いたかっただけで」
「ふん…それは一理あるな。ならば外に出た後、竜族の力を利用して空気の循環を頼もう」
「ああ…仰せの通りに」
ブイオはそれで安心した様に息を吐いた。すかさず來が言葉尻を捕えて噛み付く。
「ちょっと、竜族は僕だぞ。君が勝手に返事するなよ」
「じゃあ何だ、あんたはこの頼みを断る様な薄情者なんだな」
「それは違う。僕はただ、何か言うなら本人の許可を得てから言って欲しいって」
「どうせ同じ答えなら、訊くも訊かぬも同じ事」
ブイオはそう言って、くすりと笑った。取り敢えず話はまとまったようなので、俺は出口へと戻る。左腕には例によって相変わらずの真っ暗闇だが、幸い一本道だからこのまま歩き続ければいつかは外に辿り着くだろう。
と、その時、背後の闇からブイオと來の声が聞こえて来た。
「もう本当、最悪の記憶だよ」
「それはする方が悪い。少なくとも俺はそう思うぜ」
「断言しないでよ。悲しくなる」
「…じゃあ、一つだけフォローしといてやるよ」
「え…何?」
「あれは確かに上手いとは言えない。けど、美味かったぜ。味は相当の物だな」
「ちょ、それ、フォローになってない」
「ははっ、そうかもしれないな。けど、あんたにはそれで十分だろう」
…[美味かった]って、何の事を指してるんだ?
その場に居合わせなかった俺が考えうる事は一つなのだが、それがあって尚その感想というのはあまりにも常識から外れている。ましてやそんな事を言うなんて、恋人でも滅多な事が無い限りしないだろう。本当に何なんだ、こいつらは。
俺は再び会話から耳を背け、ただひたすら目の前の闇へと足を進める事にした。




