我と猛り 1
ブイオは來を抱えたまま広場の中心に降り立った。上を見上げると、入ってきた穴が豆粒程になって見える。辺りは真っ暗だった。
「外界広場って言うんだ。魔界と地上の唯一の接点だな」
ブイオが教えてくれた。それにしても、頭上が暗い。星の光の一つでもあるかと思ったが、厚い雲の層が折り重なっているから全く見えない。
「此処は晴れないのか?」
ブイオの方を振り返り尋ねる。ブイオは闇に溶け込んだようだった。
「晴れないな。昼と夜で明るさの違い位はあるけど」
そうなのか。此処の人達は太陽も月も見ないまま一生を終えるのか…。なんだか可哀想になってきた。あんなに美しい物が見られないなんて…
「付いて来い」
ブイオはそう言って背を向けた。何だか地上と雰囲気が違う。急に大人っぽく見えてきた。商店街の様なものを抜け、郊外へ。そこをさらに抜けると、見捨てられたのか、廃墟が多い所に来た。その中の一軒にブイオは入った。家の中には何も無い。しかし、ブイオはそこで足を止めず、奥へ奥へと進み、突き当りの壁に触れた。壁に線が入り、音もなく開く。中には階段が地下へと延びていた。暗闇の中を降りると、そこにはもう一つ扉があった。鍵を開け、取っ手を引く。中には土で出来た道が広がっていた。
「坑道さ。今はもう使われていない」
來が訊く前にブイオは答えてくれた。さらに進むと、地面に鉄の扉があった。鍵を開け、取っ手を掴んで持ち上げる。そこには鉄の梯子が遥か下まで続いていた。十メートル位降りると、ようやく部屋に出た。しかしそこには家具という家具は無く、机と椅子が三脚しかなかった。こんなにシンプルだと逆に驚く。
「此処が…君の家なのか」
「まさか。そこは来客用さ。本当の家はこっち」
ブイオが奥の壁に触れたかと思うと、再びそこが開いた。センサーでも付いているのか、一歩踏み入れると電気が点く。かなり暗い光だが、少し安心した。電気も無いのかと一瞬思ったからだ。それにしても、此処には樽が多い。その一つ一つの下にはコンクリートが敷かれ、水はけが良く作られていた。後、カウンターに並べられたビン。同じ形の椅子と机が幾つかあった。此処はどこかで見た事がある。何だったか…
「居酒屋」
「へ?」
「此処が何だか知りたそうな顔してたからな。此処は昔居酒屋って呼ばれてたらしい。そこの樽の中にはワインが入ってて、そのビンの中には…」
「酒が入ってた、だろ?」
「ご名答。知ってたんだ」
「本で読んだことがある」
ブイオは右端の樽からコップに水の様な物を注ぐと、僕に手渡した。
「飲めよ」
喉が渇いていたが、素直に飲む気にはなれなかった。水の様に見えるが、確かワインの一種にこんなのがあったような気がする。來は酒が苦手だった。
「僕はいい。酒、苦手なんだ。水ある?」
ブイオは妙に優しい笑顔で言った。
「これは水だよ。貯めてるんだ。ワインもそこまで長くはもたない」
ブイオが樽を指さし、何食わぬ顔で説明した。
「右から、水、雨水、汚水、下水…」
僕は一口飲んだ水を吹き出しそうになった。
「凄いな、そんな物まで貯めてるのか」
それを聞いてブイオは一瞬固まったが、急に腹を抱えて笑い出した。
「あんた面白いな。疑うって事を知らないんだから…」
そして笑い転げる。息をするのもきつそうだ。
幾らなんでもそれは酷くないか。
そう言いたくなるのを堪えて水をもう一口飲み、残りはブイオに浴びせる。ブイオは笑うのを止め、頭を振って水滴を飛ばした。
「そんな訳無いだろ。此処にあるのは全部綺麗な水さ。安心してどこからでも飲むと良い」
そんな事だろうと思った。でも、本当に騙された。ちょっと悔しい。それにしても、安心したらお腹が空いてきた。腹が鳴る。ブイオはくすっと笑った。
「今作ってやるよ」
「悪いな」
カウンターの中に行き、何やら始めるブイオ。背後から覗くと、そこには簡易キッチンが作ってあった。
「何作ってんの?」
「肉団子。桜の」
「桜⁉この時期に?」
「…そこかよ」
違うのか。それなら…。ブイオは肉団子を作るって言ってた。何も不具合無いじゃ…
え。
「桜に肉なんかあったか?」
ブイオはわざとらしい溜息を吐いた。
「やっと気づいたか。使うのは桜肉。馬肉だ。やっぱり知らなかったんだな。普段牛しか食べてないんだろ、どうせ。…にしても、まさかそこを突っ込まれるとは思ってもみなかったな」
確かに。今思えばそこで季節の事を訊くのは…笑ってしまう。
「來…もし良かったら作ってくれないか」
「何を?」
「スープ。あの時の味が忘れられなくてさ」
三年前作ってやったスープの事を言ってるのか。まさかまだあの味を覚えてるとは思わなかった。そんなに美味かったのかな。だとしたら嬉しい。よし、やってやろうじゃないか。
あの時と同じ要領で作っていく。幸い全く同じ材料があった。僕の手つきをブイオは目を離さずに見ている。手元に視線を感じるので、さすがに緊張したが、何とか出来上がった。ものの十分ほどで出来上がったスープに蓋をする。熱が逃げないようにしなければ。そのままブイオと交代。カウンターから出ていきかけた僕にブイオが後ろを向いたまま言った。
「暇なら、奥の部屋に行けよ。古い日誌や神話、物語が沢山ある。読んで、少しは頭を鍛えるんだな」
「有難う」
言われた通り奥の部屋へ向かう。そこには大量の本が山積みになっていた。巻物もあれば、何千ページもありそうな本もある。古い物から新しい物まで様々だ。
―ブイオの奴、よくこんなに集めたな―
取りあえず、その中の一つを手に取る。赤い表紙には[神獣]と書いてあった。剣を脇に置いて床に座り、本の山に寄りかかって読み始めた來の肩に、何かが舞い降りる。柔らかい毛皮が頬に触れた。本を閉じ、出した指に乗ってきたその生き物は、白い毛並みの小さな蝙蝠だった。こうして見ると意外に可愛い。上を見上げると、そこには大小様々な蝙蝠が居た。毛の色も、黒、茶、灰色と様々だ。でもその中で、この蝙蝠だけは白かった。紅い眼が來を見上げる。背中を撫でてやると、蝙蝠は気持ちよさそうに目を細めた。そのまま來の服の中に潜り込み、顔だけ出す。何だかくすぐったかった。再び本を開く。そこには五匹の[神獣]についての説明がイラストと共に詳しく載っていた。順調に読み進めていく。しかし、あるページで來の手が止まった。目が釘付けになる。そこにはこう書いてあった。
[青竜。昔この星の空を治めていたが、姿を消した。一説によると子孫を残したという話も残っているが、姿は未だ確認できていない。又、竜族と呼ばれる部族がいたが、その消息も不明となっている。彼等は龍石と呼ばれる石を身に着ける事によって、人間の姿から悪魔と似た姿になり、その違いは個人個人が持つ様々な色と蛇の様な尻尾である]
青竜…本当に居たんだ。じゃあ龝さんやブイオが言ってた竜ってまさか青竜の…。どうしよう。知らせた方が良いのだろうか。竜を見付けたとなれば、多額の金や名誉が与えられる。動物園がこぞって捕まえに来るかもしれない。神山を汚すものとして駆除されるかもしれない。竜にとっては悲惨だが、人間に取っては大きな利益となる。でも、本当にそれで良いのだろうか。龝さんは竜を神として崇めていた。でも、僕はどうしても神だとは思えない。それは事実だ。しかし、竜を見付けたと報告するのは…
竜を助けなければならない。
來の心はそう訴えていた。理由は無い。いや、分からないだけかもしれない。とにかく、そう訴えかけられたのだ。同時に意識が薄れる。來は必死で意識を保ちながら震える手で本を棚に戻した。本が落ちる。拾おうと手を伸ばすが、そこまでだった。目の前が暗くなる…
―現実を見ろ。目を背けるな。立ち向かえ―
頭のどこか奥で、かすかにそんな声が聞こえた。




