闇の虚空へ 2
「ん…」
此処は…どこだ?
紗蘭から剣を受け取ったきり、記憶が無い。遠くに落ちている剣を拾おうとしたが、足に力が入らなかった。空を仰ぐ。その時、目の前に立つ者に気付いた。何の感情も浮かんでいない紅い眼が見下ろしている。ブイオだった。ブイオはしばらく來を見つめた後、手を差し伸べた。その手を掴もうと、手を伸ばす。
―あと少し―
突然、ブイオが崩れ落ちた。仮面が取れ、顔が露になる。気を失っているのか、目は開かない。
「大丈夫か、來!」
声に顔を上げると、ブイオに剣を向ける一人の男が見えた。今にもとどめを刺そうとしている。違う、違うんだ、待って…
もう間に合わない。來は足の痛みも忘れ、剣を掴むと、思いっきり横に振った。
目の前に崩れ落ちた人を見て、來は剣を取り落した。この人は命がけで僕を守ってくれたのに…なのに僕は…殺してしまった。膝を着く。取り返しのつかない事を犯してしまった。いつの間にか悪魔が周りを取り囲み、成り行きを見守っている。せめてこの人を埋めてあげよう。それで罪が償われるわけではないが、何かしなければ気が済まない。遺体の下に手を入れ、仰向けにする。その顔を見て、來は叫び声を上げそうになった。
―先生―
その人は、來のクラス担任で、來がいつも慕っていた教師だった。胸が締め付けられる。來は遺体に顔をうずめて泣いた。
來が顔を上げたのは、それから何分かすぎた後だった。涙の痕を拭い、遺体を土に埋める。それからブイオを抱え上げた。
「誰か洞窟を見付けてくれ。君達の主人を手当てする」
周りの悪魔を見渡し言う声は、威厳のある響きだった。一匹の悪魔がおずおずと手を上げる。
「案内してくれ」
悪魔は背を向けて歩き出した。來はそれに従う。行きついた先には、見上げるほど大きな洞窟があった。中に入り、ブイオを降ろし、傷口を探す。あった。左の脇腹が裂けている。縫合の必要は無いが、少し安静にしておいた方が良いだろう。幸い、洞窟の奥に地底湖があった。傷を洗浄し、悪魔がどこからか持ってきた包帯を巻く。これで大丈夫だ。大きく息をつき、ブイオの髪を撫でる。ひんやりとしたその髪は驚くほどしなやかで、また艶やかだった。ブイオが目を開ける。自分の腹に巻かれた包帯を、そして來の顔を、周りを取り巻く悪魔を見る。
「おまえたちは下がっていろ」
そう悪魔に命令するブイオは、全てを理解した様だった。
「また、あんたに命を助けてもらったな」
悪魔が出ていってしまったあと、ブイオはそう言って微笑んだ。あの夜と同じ微笑みだった。
「お互い様」
「そんな事無いさ。俺はあんたの命を助けた訳じゃ無い。でも、あんたは俺の命を助けてくれた。それも二度。だろ?」
それはそうだけど。それでも支えてもらった。足せば同じ位にはなるんじゃないか。
「そういえば來、あんたどうした」
唐突に話しかけられた。
「どうしたって、何が」
「覚えてないのか?」
「何を?」
そうは言った手前、見当はついた。さっき気付いた時、しばらくの間の記憶が無かった。もしかしたらその間に何かを起こしたのかもしれない。だとしたらまた暴れだしたのか…寒気がした。
「もしかして、暴れてた?」
「その通り。俺が咄嗟に振り払わなかったら俺は間違いなく殺されてた。かなり凶暴になってたな。だけど…本当に覚えてなかったんだな」
でも今回はいつもと違う。いつもなら自分で自分を殺そうとしていた。だけど今回はブイオを殺そうとしていた。何故だ、何故…
「どんな状態だったか分かるか?記憶が無いから自分で理解不能なんだ」
ブイオはしばらく考えていたが、何かを思いついたらしい。怖じているかの様に目を見開いた。
「怒りだ」
怒り?確かに悪魔が怨めしいと感じてはいたけど…そうか。そこから記憶が無い。ということは怒りで間違いないのか。いや、でも、それだけでそんな凶暴になれるのだろうか。不思議だ。
「怒りに我を忘れたって所だろうな」
そんな事ってあるのか。先生にも友達にも、温和な気質だって言われ続けていたのに。そんな事、考えもしなかった。
「ブイオ、僕は自分が分からない。捕えきれない。抑えきれない。どうしたら良いんだろう」
「誰だって同じさ」
ブイオは優しくそう言うと、急に真顔になって來に顔を近づけた。
「來、正直に答えろ。あんたはどうして俺を探しに来たんだ。あれだけ忠告したのに」
僕は大きく息を吸うと、口を開いた。龝さんから聞いた事を、記憶の底から全て話した。その全てを、ブイオは黙って聞いていた。紅い瞳には何の感情も浮かべずに。
「そうか…それで、その龝って人が探せと言ったから来たって訳か」
「そうだ」
「にしても、おかしな話だよな。悪魔と人間が協力するなんて」
「うん。それは僕も思った。でも、それしかSunを救う方法は無いって聞いたから…」
「危険を冒してまで来たって訳か」
「記憶は無いけどね」
ブイオはまあな、と笑った。それから考え込む。何かを迷っている様だった。
龝さんの言った事は、やっぱり合っているとは言い難い。ブイオがその話を聞いても攻撃を止めなかったら駄目な話だ。
不意にブイオが立ち上がった。洞窟の入り口に行くと、口の所に手を当て、叫ぶ。
「撤収―!」
その声に、全ての悪魔が動きを止めた。次第にブイオの周りへと集まって来る。
「ブイオ、どうして…」
「あんたは俺を見付けたんだろ。ここは、予言通りに行動してやらないとな。あんたの苦労を無駄にしたくはないし、攻めるチャンスはまだ幾らでもある」
意外な優しさに驚く。悪魔はもっと非情な生き物なのかと思っていた。こんなにも気遣ってくれて嬉しい。
「有難う」
自然に言葉と笑みが漏れていた。
「こう見えても結構人に近い生き物なんだよ、悪魔ってのは。それに、俺達は受けた恩を忘れない。仇で返すような事もしない。そういった点では人よりも長けてるぜ、きっと」
ブイオは照れ臭そうに頭を掻いた。そして周りの悪魔に洞窟の外で待つよう命令した。本当に人間そっくりだ。ただ少し体の部位が多いだけなんだ。尻尾と角と羽を取ってしまえば見分けなんかつかないだろう。
「來、まさか俺から尻尾と角と羽を取って人間に仕立て上げよう、とか考えてないよな」
悪魔を洞窟から出し終えたブイオが冷や汗を垂らして後ずさる。
駄目か。出来る物ならそうしたかったんだけどな…。でも、何故分かったんだろう?
「あんたの目が輝いてたからさ。これからモルモットを使った実験をしようとする科学者みたいな眼で見てたんだぞ」
気付かなかった。そんなに嬉しそうな表情だったのか。
でも、攻撃を止めるという事はブイオの役目も終わるという事だ。そうなる位ならいっそ人間にしても良いと思ったんだけど…駄目だ、そんなの個人の都合だ。ブイオの望むことじゃない。來は頭を振ってそのばかげた考えを振り払った。それでもブイオが居なくなったら淋しい。今までも何となくそんな気分だった。
「君は魔界に帰るんだろ」
「そうさ。でも、ただ帰るだけじゃない。あんたも一緒だ」
一緒…?どうしてだろう。僕達は敵同士の筈じゃなかったのか。視線を來から逸らしながら、ブイオはやや早口で呟いた。
「正直言って俺はあんたが敵だとやりにくいんだ。敵なんだけど、殺せない。戦うより、助けちまう。…ふふ、甘い考えだよな、全く。それじゃ駄目だって思ってたんだけどな。それだったらいっそあんたを味方に付けた方がやりやすいと思ってさ。もちろん、あんたが良ければだけど」
悪い訳無い。ぜひそうして欲しい。でも、そう考える僕もかなり甘い。Sunと悪魔を両方味方に付けようってんだから。
―それでも良いんじゃないか―
そうだ。僕はSunの住民だけど、ブイオの仲間。それで良いじゃないか。僕の心は決まった。
「行くよ。君と一緒に行く」
ブイオは僕を真っ直ぐ見た。無表情を保っていたが、嬉しさと迷いが見て取れた。
「そんなに簡単に決めて良いのか。俺と来たら最後、Sunには二度と帰れなくなるんだぞ。あんたの母親にも、友達にも、もう一生会えなくなるんだぞ」
「それでも良いよ」
自分でもびっくりする程さらっと言葉が流れ出た。でも、それは嘘じゃない。自分の本心だ。ブイオと共に生き、共に過ごしたい。それが僕の内に隠れていた本心だったのだろう。ブイオは目を瞬いた。かなり驚いたらしい。
「それでも良い」
來は、もう一度ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「僕は君と共に居たい。友達…沙流も揚魅も大切だし、母さんだって大切だし好きだ。でも、それ以上に僕は君を大切に思っている。あの日、君が僕の部屋に飛び込んできたその時から、僕の運命は決まっていたんだ。龝さんも言っていた。僕は悪魔と共に生きる運命だって」
ブイオはしばらく時が止まったかの様に固まっていたが、やがて軽やかな笑い声をたて始めた。
「嬉しい。こんなに笑ったのは久しぶりだ。そうか、それがあんたの運命だったんだな。だったら遠慮なんかいらない。一緒に行こう、來」
目の前にブイオの冷えた手が差し出される。來はその手をしっかりと握った。その細い手に強い力がこもる。手を離すと、ブイオは來の背後に回り、両肩に手を置いた。そしてそのまま押す様にして洞窟から出ると、外で待機していた悪魔に告げた。
「おまえ達は先に行け。俺も後から行く」
悪魔は分かったという様に頷き、飛んで行った。
「待ってろ」
ブイオはそういうとさっき來と戦った辺りへと飛んで行った。
一体何をしに行くのだろう。先生の遺体は埋めたし…ああ、そうか、悪魔の死体を片付けに行くんだ。うん、きっとそうだ。自分でも多くの悪魔を殺したのを自覚した來は、洞窟の入り口に腰を下ろして待つことにした。
手伝いたかったが、そんな事をしても來はブイオの足手纏いにしかならない。きっとブイオもそれを分かっていて來を置いて行ったのだろう。それとも、死体を來に見せたくなかったのだろうか。いや、そんなことはない。魔界に來と一緒に行くことを望んだブイオだ、そんな事はあんまり考えないだろう。それよりも、來に死体を見せ、犯した罪の重さを分からせるのが妥当だと判断するのがブイオらしい。でも、それなら今だって來を連れて行った筈だ。しかし、今來はこうして此処に残っている。じゃあ、一体何をしに…?
考えが行き詰まった來は、余計な事を考えずに黙ってブイオを待つ事にした。そして、睡魔に襲われた來は洞窟に頭をもたせ掛けて眠り込んだ。
「…來…?」
耳元で囁かれる声に目を覚ます。空には星が瞬いていた。來の前にはブイオが、來の剣を手にして立っていた。
「悪い。これを探すのに手間取っちまって…」
予想もしていない事だった。あの時、ブイオを抱え上げていたから持って来れず、もう諦めていたのに。三年前は口に銜えていたが、それもこの距離ではもちそうになかったからだ。
「大切な物なんだろ。せめてそれ位は持って行けよ」
確かにこの剣は大切な物だった。來の父が作ってくれた。來にとっては父の唯一の形見だった。ダイヤモンドで出来た刃は透明に透き通り、輝いていた。しかし、この剣を見た人は皆、剣が黒いという。來はその言葉を信じなかったが、一度不安になって明かりに透かして見た事がある。その時剣を通してみた世界は僅かに黒く翳り、來は慌てて目を逸らしたのだった。
「どうして分かったんだ?これが大切な物だって…」
「俺はスパイだったんだぜ?それ位は、調べてた。Sunの住民は皆剣を持っていて、それはその者の親が作ったって。あんたの母親はそんな事しそうにないから、これはあんたの父親が作った奴だろ?」
凄い。全て当てられていた。いつも思うけれど、ブイオの調査力と判断力と推理力には、いつも感嘆する。密かに憧れてさえいた。剣をベルトに差す。これでもう落とすことは無い。
「さあ、行くぞ」
言葉と共に、身体が宙に浮いた。何が起こったか分からず、手足をばたつかせて暴れる。
「落ち着け。そんな事してたらいつか落ちるぞ」
身体が強く締め付けられた。いくらか落ち着く。完全に冷静さを取り戻して、來は自分の置かれている状況をやっと理解した。來はブイオに抱きかかえられ、空を飛んでいたのだ。さっきの締め付けはブイオが力強く抱きしめてくれたからだろう。今二人は草原の上を飛んでいた。所々に野生の姿の動物が見える。周りは高い山に囲まれていた。空に浮かぶ月は、あの夜と同じ輝く満月だった。満月の日に僕たちは出会い、そして共になった。また何かが満月の夜に起こる…そう思った。
「良い景色だろ」
不意にブイオが言った。
「地上と空とじゃ景色が別物だ。空からは壮大さが味わえるけど、地上からは迫力が味わえる。俺が学んだことの一つだ」
うん、僕も今学んだ。遥か後方に、大きく口を開けた洞窟の姿があった。
「そういえばブイオ、さっきまでいたあの洞窟、広かったよな」
「俺達が隠れ家として使ってたんだ。Earthじゃ一番広い。昔、竜が住んでたって噂だぜ」
また竜か。龝さんといい、ブイオといい、どうして竜が関係してくるんだ?何か今回の事件に関係しているのだろうか。
それにしても、僕は怒りに我を忘れただけでSunからSkyを通り越してEarthまで来たのか…怒りとは恐ろしい物なんだ。改めて実感した。でも、ブイオの口からEarthという言葉を聞いて、何か思い当たる事があった。不自然を感じた記憶がある。ブイオの顔を見上げた時、思い出した。
「なあ、僕たちが最後に会った日のこと覚えてるか?」
「ああ。雑木林の中でだったな」
「うん。別れる前に君は言ったよね。Sunだけじゃない、SkyもDeathもだって」
「それがどうした」
「Earthは?」
ブイオの動きが止まった。表情が険しくなり、黙って中空を見つめている。
「Sunを…いや、人間界を襲う気なら、四つの地域全てを襲うだろ?それか、魔界に近いDeathを残して後を滅ぼすか…でも、君はEarthを残した。何故だ?」
「知る必要は無い」
突き放す様にブイオは言った。話すのを避けている様にも思えた。
「でも、考えたんだ。もしかしたら君は…」
「うるさい!」
地を揺るがす様な大声がした。驚き、見上げると、そこには憎しみの炎を湛えた紅い瞳があった。その視線が一瞬かち合い、紅い瞳は前へ逸れた。
「…今に分かる」
聞こえるか聞こえないかの小さな呟きだったが、來の耳はしっかりとその声を捕らえた。もう、いくら訊いてもブイオは答えてくれないだろう。その言葉にはそれだけの意味がこもっていた。この答えは自分で考えるしかないようだ。しかし今は何かと疲れている。來は頭を使うのを止め、視線を落とした。小さい家の影所々に灯りが灯っている。Sunと似ているが、全く異なっている。Sunの灯りは人が少なく、一軒一軒に広大な土地があるからだが、此処の灯りはその逆だ。人が多く、所狭しとバラックや屋台が立ち並んでいる。灯りが少ないのは、それ自体を持つ所が少ないからだ。
―此処がDeathか―
見た事は無かったけれど、想像はついた。学校で散々聞かされてきたからだ。
Deathにはね、とっても可愛そうな人たちが住んでいるんだ。お金も家も、電気も食べ物も無い人たちがね。そんな人たちに比べたら、ほら、皆幸せだろう。先生も皆も、Sunに住める事に感謝しなければいけないよ。
そう言われてきた。何度も何度も…それが真実だと教えられてきた。でも、今こうして見ている限り、僕は逆だと思う。Deathの人達はそれなりに楽しそうに暮らしている。食べ物も明かりも無い中で、楽しみを見つけ、自由に生きている。でもSunはそうじゃない。確かに住居も食べ物もなんだってあるが、束縛されている。安全という名の鉄格子に囲まれて暮らしている。それに気付かないだけで…。僕だってそうだった。ブイオがその鉄格子を突き破って来てくれたおかげで、僕はこの世界をよく知る事が出来た。Sunには母さんも沙流も揚魅も居て、皆僕を大切に思ってくれている。だけど、Sunには帰りたくない。暖かいベッドも、美味しい食事もいらない。何よりも自由が欲しい。Sunの居住権なんてどうでもいいんだ。來は剣の柄を開き、中からICチップを取り出した。Sunの者である唯一の証拠品だ。しばらく手の内で弄んだ後、來はそれを空高く放り上げた。月の光を浴びて落ちてきたそれを指で潰す。これでもう使う事は出来ない。粉々になったチップの欠片はどこからか吹いてきた風に乗って飛ばされていった。それを目で追いながら來は心が満足感に満たされるのを感じた。そんな來の様子をブイオはじっと見つめていたが、來は気付かなかった。
やがてDeathの灯りも後方に消えていった。それでもブイオはまだ飛び続けている。おかしい。この先は何も無い筈なのに。もしかして、どこかに異次元へのワープ口があるのだろうか。それとも、Deathの一角に魔界へと通じる扉があるのか。來は期待に胸を弾ませながら、思いを巡らせた。
「此処で降りるぞ」
ブイオの声に我に返った。何があるのだろう。視線を落とす。
そこには大穴があった。
驚きのあまり声が出ず、口を開けたまま固まった來を見て、ブイオは笑った。
「そりゃ驚くだろうな。見た事無いだろ、こんな穴」
無言で頷く。Deathにこんな大穴があるなんて。学校で地理の勉強はしてきたが、こんな穴がある事など教えてもらっていない。とにかく大きい。神山がすっぽりとはまってしまいそうだ。夢を見ている様な気分でその穴を見詰めていると、背後からブイオの手が伸びて来て、來の顎を上げた。
「來、放心状態になってるぞ。驚いたのは分かったから、まずはその馬鹿面を何とかしろよな」
ブイオは手を外すと、縦に向きを変えた。そのまま穴の中へと降りていく。穴の壁は初め広かったが、降りていくにつれて次第に狭くなり、やがて二人がやっと通れる程まで狭まった。土の壁に、頬を擦りそうだ。すると突然、視界が開けた。一面の曇天。薄暗い世界の中で明らかに人間ではない様な者が動いている。
そこは、魔界だった。




