温室の中で 3
紗蘭は元気だった。それまで寝ていた様だったが、揚魅が居るのを見ると直ぐに家に招き入れ、熱いコーヒーを淹れてくれた。コーヒーをすすりながらワクチンについてのいきさつを話し、手に持ったワクチンを差し出す。
「いらないわ」
しかし、帰って来たのは意外な言葉だった。
「何故?このウイルスは自らの力で耐えられる程弱い物ではありません。このワクチンが無ければ、もしも感染した時に手の施し様が無くなってしまいます」
「あら、そんな事は無いわよ」
紗蘭は相変わらず優しい笑顔のままだった。何故拒むのかが理解出来ない。
「それに、わたしはまだ感染していないもの。それよりも今、ウイルスに侵されて苦しんでいる人に、このワクチンを届けてあげて。大丈夫、わたしはずっとこの家にこもっているから。生き残った人を皆連れて此処に来ると良いわよ」
その口調からは力強さがしっかりと感じられた。紗蘭を信じる事に決め、家を出る。渡しておけば良かった、と感じる時がいつか来るかもしれない。でも、今は紗蘭を信じる事が大切だ。こんな非常事態にも他人の事を思いやるその優しさが何よりも有難い。
揚魅は駆け出すと、沙流の家に向かった。
沙流の両親は既に感染していた。しかし、彷徨わず座り込んでいる所からして、まだ手遅れにはなっていない。ワクチンが本当に効くのかはまだ分からないが、此処で迷う事は許されない。自力で動けない二人に、揚魅は手早くワクチンを打った。
「…っん…うん…」
二人が目を覚ます。見た所、脳に以上は無い。ワクチンはしっかりと効いた様だ。大きく息を吐く。
「ああ、君が助けてくれたのか、有難う。もう存じているかもしれないが、我輩は流貴といって沙流の父親だ。君は…揚魅だね?」
「…っはい」
彫りの深い顔立ちといい、堅苦しい口調といい、沙流とは似ても似つかない。揚魅は目を丸くして沙流の父親の顔を見詰めた。
「あら、御機嫌よう」
横から声を掛けられた。その方向を向くと、沙流の母親が立っていた。
「あたくしと夫を助けて下さって有難う。あたくしは沙李。沙流の母親よ」
「…本当ですか?」
思わず訊き返していた。二人が怪訝な表情になる。
「本当に、沙流の御両親なんですか?」
「何を言っている。当たり前じゃ…」
流貴が言いかけて口をつぐみ、いや、と付け足した。
「そうだな。君には言って良いかもしれん。…確かに、我輩達は沙流の本当の親ではない。言うならば、育ての親とでも言った所だろう」
「そうですか…やっぱり」
「あたくし達は、沙流を拾ったのよ」
言葉を継いだのは沙李だった。拾った、という所が何か引っ掛かる。
「養子とかで引き取ったんじゃないんですか?」
「いや、本当に拾ったのだ」
「草原のど真ん中でね」
「まだ生まれたてだったな」
二人が交互に話す。それによると、沙流はどこかに運ばれる途中だった誰かが産み落とした者で、草いきれに埋もれて泣きじゃくっている所を散歩に来た二人が偶然見つけ、連れ帰ったのだという。
「そしてあいつは…人間じゃない。君は知っていたか?」
「ええ。この前会った時、牙があったのを覚えています」
「牙?そんな物は見ていないが…。我輩は目の色の事を言ったのだ」
「でも確かに」
「そうなのかもしれないわ。あなたも取り敢えずはこの子のいう事を聞いてあげなさいな」
沙李が助け舟を出してくれた。流貴もしぶしぶといった様子で頷く。
「とにかく、あの子は無事なのね?」
「ええ、その点は。とても元気でした」
良かった、二人はどちらからともなくそう言って、顔中に安堵の色を浮かべた。生みの親ではないが、こんなに心配するのは本当の親そのものだ。
「すいません、もし…」
「何だね?」
「もし、あの沙流が、お二人が本当の親じゃない事を知って、それでお二人の事を避ける様になってしまったら、どうしますか」
ふと疑問に思った事を訊いてみた。赤ん坊に対する慈悲心で拾い育てた子供が、自分の事を嫌ってしまったら二人はどうするつもりなんだろう。
「どうもしないわ」
沙李が何でそんな事を訊くの、という様に首を傾げる。流貴が言葉を引き継いだ。
「沙流は正真正銘、我輩達の子供だ。それに偽りは存在しない」
この二人は、何よりも沙流の事を大切に思っている。その気持ちが言葉に込められていた。
「有難うございました。…そうだ、もし良かったら紗蘭さんの所へ行って下さい。生き残った人を連れておれもそこに行きますから」
軽く頭を下げる。二人は優しい微笑みを見せた。
「礼を言うのはこちらの方だ。そうさせてもらうよ。君のその技術を生かして、もっと多くの人を助けてあげなさい」
「あたくし達も応援しているわ。沙流に宜しくね」
沙流の家を後にすると、道を歩く人々の数は一層増していた。事態はかなり危ない状況に陥っている。残ったワクチンは手遅れになっていない人をランダムに選んで全て打ち切った。その途中でまだ感染していない人も何人か見付けたので、出来るだけ息を止めて鼻と口を覆う様に指示を出して紗蘭の所まで連れて行く。命を救えたのは嬉しかったが、救う事が出来なかった残りの者の事を思うと胸が苦しくなった。
揚魅の両親も、決して例外ではない。
思いを振り切る様に、揚魅は足早に紗蘭の所へと急いだ。
その途中、街路樹の根元が光っているのに気付く。
土…?いや、土の中だ。
掘り返すと、純白の石が出て来た。
暖かい様な、冷たい様な不思議な感覚に捕らわれる。
全ての哀しみを忘れ、揚魅はしばらくその石を握り締めていた。
ふと我に返り、揚魅はその石をポケットに押し込んだ。
悲しさが蘇って来るが、気にはしない。
紗蘭の所からは明るい話声が聞こえて来る。
紗蘭の所には、既に生き残った全員が集まっていた。皆元気で、揚魅を温かく迎えてくれる。その中には親子も居れば夫婦も居た。沙流の両親も、手を振っている。外の光景から目を背ければ、それは暖かな一日の風景にも見えるだろう。
しかし当然の事ながら、その中に揚魅の両親はいない。
分かっている。この目で、両親の状態を見た。受け入れた筈だった。でも…
自然と、涙が溢れて来る。それは頬を伝ってとめどなく流れた。
生き残った人々の真ん中で、揚魅は床に崩れる様に座りずっと泣き続けた。




