温室の中で 2
「やった、遂に見付けたぞ!」
誰もいない部屋に、揚魅の大声が響く。此処は、保健機関細胞革新局新細胞開発課。落ちて割れたシャーレの中から、揚魅はあるウイルスを検出していた。
事の始まりは、三日ほど前の事だった。人間の姿で暮らしていた揚魅は、朝、空気の入れ替えをしようと窓を開けた。そして、何かに感染した。
感染した、とは言い切れなかった。単に調子が悪いだけなのかもしれない。しかし、例えそうだとしても明らかにおかしかったのは事実だ。
初めは頭がはっきりとしていないだけだった。眩暈かと思ったのだが明らかに様子が違う。周りの物が見えなくなって来て、まるで蜘蛛の巣に捕えられたかの様に脳が正常に作動しなくなった。残る力を使い、部屋に置いてあったアンドロイドの身体に魂を移す。すると途端に意識がはっきりとし、窮地を救われたのを感じた。
やはり脳に何かが起こっている。そう判断した揚魅は、人間の身体を抱えて病院に出向いた。家に両親の姿は無く、ドアは開け放たれていた。
人体に影響を催すウイルスならば、この身体でいれば何の心配も無い。しかし、他の人々は違う。もしかしたら、來や沙流の家族が既にウイルスに侵され始めているのではないかと思う心配になり、思わず足が先へ先へと急いでしまう。
病院は封鎖されていた。ウイルスの動きを察知したからなのだろうか。病院でもこうして対応出来ないとなると、このウイルスは未知の、あるいは人為的に開発途中だった物である可能性が高い。目立たない位置にあった窓を割って中に侵入する。
―窓は後で直しておくか―
派手に割れ、ガラスが床に飛び散った様子を見て、一瞬そんな考えが脳裏をよぎった。
病院の中は昼間にもかかわらず暗い。蜘蛛の巣の様に入り組んだ人気の無い病院の中を散々彷徨った挙句、ようやく満足いく設備を携えて揚魅の前に現れたのが、この保健機関細胞革新局新細胞開発課だった。
医学的な知識は、來から大方教えて貰っている。人間の身体を台に寝かせると、揚魅は少しずつ脳を切り開いていった。機能が停止している箇所を調べると、やはり未知のウイルスが脳を侵している。
そのウイルスの正体を調べる為、揚魅はずっと顕微鏡に向かっていた。しかし、どれだけ記憶を引きずり出しても見た事の無いウイルスである事に変わりは無い。諦めかけたその時、床に落ちて割れたシャーレに気付いたのだった。
―やっぱり、開発中のウイルスだったか―
大きく溜息を吐く。シュピラーニョと書かれたラベルが貼ってあるこのシャーレが原因でウイルスがばら撒かれたとなると、かなり厄介だ。下手をすれば惑星中がこのウイルスに支配されてしまう。
…取り敢えずワクチンを作らなきゃな。
ウイルスをとことんいじくり回し、試作段階の物を人間の身体に打っては一瞬だけ魂を人間の身体に移し、状況を確かめたら殺られる前にアンドロイドの身体に魂を戻す、その繰り返しが延々と続いた。
進歩も無ければ退歩も無い。人間の身体の脳は、もうほとんど機能していないも同然だった。早くしなければ、ウイルスが脳の基部まで侵入し、ワクチンじゃ治しきれない完全な手遅れの状態になってしまう。
急がなければならない。でも、思う様に進まない。焦りと悔しさが徐々に揚魅を支配していく。
そして、もう回数も忘れた頃、遂にワクチンが完成した。人間の身体に魂を移しても、頭ははっきりとし、むしろすがすがしい位だった。
―間に合った―
安心して息を吐き、胸を撫で下ろす。
取り敢えずSunに戻り、手遅れにならない内に今出来たワクチンを出来る限り配って回らなければならない。人間の姿のまま再び顕微鏡の前に移動すると、その場に残っているウイルス全てをワクチンに変え始める。
思った程時間は掛からなかった。初めにあれだけ時間を食ったからかもしれないが、次々にワクチンが完成していく。
数時間後、揚魅は完成したばかりのワクチンを持ち、病院を飛び出した。窓は結局直していないが、そんな事はどうでもいい。この騒ぎが全て収まってから手を打てば良いだけの話だ。
しかし、病院の外の景色に目を移した時、揚魅の足は動かなくなった。
目の前の道を沢山の人々が、それもあのウイルスに侵され、既に手遅れとなった人々が彷徨い歩いている。残っている人も何人いるか分からない。今持っているワクチンで助けられるのは、せいぜい五人位だろう。
そしてその中に、両親の姿を見た。
二人共周りの人々に同化して彷徨っている。既に手遅れだ。呆然と立ち尽くしている揚魅の目の前で、その姿は生ける屍達の雑踏の中に紛れて消えた。
ショックから立ち直った時、揚魅の足は自然に來の家の方向へと向かっていた。




