温室の中で 1
―わたしは、何て事をしてしまったの―
二階のベッドの上に突っ伏し、紗蘭は頭を抱えていた。
しわの無いシーツを撫でる。このベッドは、かつて來が使っていた物だ。それを考えると、涙が溢れてきそうになる。
前は、この家も賑やかだった。二人しかいなかったし、來は本当の子供ではない。でも、家の中にはいつも笑いがあった。
來を救い出せたのは本当に奇跡としか言いようが無かった。あの男の手から逃れ、生き延びられたのはあの子だけ。だから、何としても守りたかった。例えいつかは尽きて朽ちる命だとしても、絶対に無理だと分かっていても、彼が歳を取って穏やかに死ぬその時まで、傍に付いていたかった。共に笑い、共に泣き、共に生きていたかった。
そうでないと、死んだ來の両親に申し訳が立たない。そうとも思っていた。
その為に、どれだけの事をしたか。
星じゅうを歩き回って遥か昔の古文書を探し、そこに載っていた通りに材料を集め、くらましの呪文を掛けた。名前を付けて自分の住むSunに匿い、自分のチップを來に与えてSunの住民だと偽った。
それだけの事をした。それでも、彼を留めて置く事は出来なかった。來は自分から望んでわたしの元を離れていった。歌恋から聞いた話では、來は魔界に居ると言う。そして、捕まった訳でもないそうだ。
いつか絶対に帰って来る、と歌恋は言っていたが、本当にそうなのだろうか。もしかしたら何かのはずみで自分の正体を知り、二度とSunには帰らない、そう決意したのではないか。
歌恋が訪ねて来た時、來と同じ物を感じた。直ぐにも壊れて消えてしまいそうな、僅かな希望とそれを覆い隠そうとしている絶望を感じ取った。
だから、救おうと思った。來の様にはしない、この手で守ろう、と思っていた。それなのに…
また、失ってしまった。ほんの数分外に居ただけなのに、歌恋はおかしくなってしまった。我が目を疑った、その時の光景が今でもありありと浮かんでくる。
わたしの言葉にも全く反応しなかった。どこを見ているかも分からない視線は神山と反対の方向を向き、そしてあの石を持ったままその方向へと歩いて行った。
束の間の出来事だった。本当に束の間の…
閉め切ったカーテンを見る。歌恋が行った数日前から閉めたままで、歌恋が行ってからはこの部屋にこもりっきりだったから、しばらく外の景色を見ていない。紗蘭は手を伸ばしてカーテンを開け、窓の外の景色を見た。
そして、凍り付いた。
全ての時が止まった様だった。目の前の道にはいつもと同じ様に人が居て、歩いている。でも、活気が無かった。
同じだ。そう、あの時の歌恋と全く同じだ。
皆、死んでいる。いや違う、生きている。でも魂が抜けかけている、そんな感じ。
そうだ、生ける屍達が歩き回っているんだ。何かの病に侵されて…
Sunの住民のほとんどはこの病に掛かっているらしい。紗蘭の様に偶然家にこもり、いち早くこの危険を察知した僅かな人々だけが生き残っているのだろう。
その光景をぼんやりと眺めている内、紗蘭は歌恋と人々のある違いに気付いた。
―歩き方が明らかにおかしい―
道を行く人々は皆行く当ても無く、ただ単にそこを彷徨っているだけだ。しかし、歌恋は違った。人々と同じ様ではあったが、その足だけはしっかりと確実に、ある方向を目指して真っ直ぐに歩いていた。
きっと、いや絶対に、何かの目的があるに違いない。それとも、何かに導かれているのか。
窓の外から視線を外し、立ち上がる。しばらく座りっぱなしだったから腰が痛い。しかし、今はそんな事どうでも良かった。リビングに移動する。コーヒーでも飲むつもりだったのだが、その途中、机の前で足が止まった。
机の上には、歌恋が残していったブラックダイヤが無造作に置かれていた。そっと手を伸ばし、掌に包み込む。冷たかった宝石が自分の体温で温まって行くと共に、自分の心も温まって行く様な気がした。この石を握り締め、この家に駆け込んで来た歌恋の事がはっきりと思い出される。
それと同時に、この石を歌恋に送る來の姿も…
宝石を手に握ったまま踵を返し、元の部屋へと戻る。そしてベッドに倒れ込むと、紗蘭はいつしか寝入っていた。
目を覚ますと、玄関で誰かがドアを叩いている様な音が聞こえた。慌てて走っていくと、ドアの外には揚魅がいた。病からは逃れたらしい。
揚魅はワクチンが出来たと言って勧めてきたが、断った。数が多いのならともかく、少ない量なのに念の為という理由だけで受け取る事は出来ない。その代わりに助力を申し出た。この元気な体を活かすには、この方法でしか力になれない。少しでも役に立ちたかった。それだけの理由だが、十分な動機になる。
揚魅が立ち去って直ぐに、沙流の両親が来た。紗蘭は大きく息を吸うと、これからやって来る人々の為に、ドアを開けた。




