災厄の兆し 2
「ヒャッホー!」
雪しぶきを上げて揚魅が來の前に止まった。顔は紅潮し、息を弾ませている。
「久々の雪だな、最高!」
Sunには滅多に雪が降らない。降ったとしても数年に一度、僅かに舞う程度だ。それが今日は数十センチも積もっている。十年ぶり位だろう。揚魅がはしゃぐのも無理ない。揚魅は雪が大好きで、少しでも休みが取れると、その度にスノーボード一つ持ってわざわざEarthの高山地帯まで滑りに行く程だ。小柄な体に白い肌で、運動神経は抜群に良い。童顔に笑顔が張り付いている。小学生と間違えそうな位だ。にしても、こんなにテンションが高くなるとは思わなかった。顔に付いた雪を払いのける。
「揚魅、落ち着け。楽しいのは分かったけど、それじゃ小学生と同レベルだぞ」
「ちぇっ、分かったよ」
揚魅はふくれっ面をしていたが、数秒間もすると元の笑顔に戻った。そういえば自己紹介の時、揚魅が言っていた。
得意な事は、立ち直りです。
―どうして皆変わった奴ばっかりなんだろう―
頭を抱える來の背中を揚魅が押す。
「ほら、もう一回滑ろうぜ。競争だ」
咄嗟の事に足がついて行かず、バランスを崩して膝をつく。俯いて見えた視界に何かが滑り込んできた。摘み上げると、それはとてつもなく精巧にできたスキーヤーのロボットだった。遠隔操作が出来る様になっている。元の地面に降ろし、立ち上がった所に、沙流が横の雑木林から顔を出した。
「よっしゃ、ちゃんと着いてる」
持ち上げたロボットを大切そうにしまう沙流。何時もに増して機嫌が良い。
「沙流、それ何だ?」
揚魅が沙流に背後から抱き着き、無邪気な声で訊く。沙流は一瞬固まったが、直ぐに振り向いた。
「揚魅、恋人でもないのに抱き着くなよ…寒気がした。これはおれが作ったロボットさ。今朝起きたら雪が積もってたんで、作ってみたんだ。良く出来てるだろ」
得意そうに胸を張る沙流。でも、あんな精巧な物を作るのに、一体どれ位かけたんだろう。
「沙流、起きたの何時だ?」
「朝の十時半」
「此処に来たのは?」
「二時間くらい前かな」
左手に着けた腕時計を見る。今、午後三時。二時間前と言えば午後一時。沙流の家から此処まで三十分はかかるだろうから…製作時間は二時間。
「來、どうした?顔が死んでるぞ」
時計を見つめたまま動かなくなった來の顔を、沙流が覗き込む。我に返った來は沙流の目を直視してしまった。
「うわわわわ!」
仰け反る。再びバランスを崩し、倒れそうになった体を、寸前で揚魅が支える。
「気を付けろよ。この下崖だぜ」
振り向くと、奈落の底まで続いている様な崖がそそり立っていた。もし落ちていたら二度と生きて帰っては来れなかっただろう。今更になって冷や汗が出てきた。横に立っている揚魅が神々しい。
「さ、皆で競争しようぜ。沙流のロボットと、來のスキーと、俺のスノボで」
光り輝く神様の揚魅が満面の笑みを見せる。來は思わずひれ伏してしまった。
「何やってんだよ來。ほら、早く」
顔を上げると、二人は既にかなり上にいた。慌てて追いかける。やっとのことで追いつくと、目の前はもう頂上だった。
「あ、そういえば沙流、おまえどうやって操縦すんだ?さっきそのロボットが下りてきたとき、いなかったよな?」
揚魅がロボットを雪の上に降ろしながら訊く。沙流はまだ気付いて無かったのか、とでも言いたそうな表情をした。ストックですぐ脇の雑木林を指す。
「心配無用。おれは、そこの雑木林を通って行くから」
―おい沙流、ちょっとまてよ―
確かその雑木林は危険な荒れ地として有名だったはずだ。急斜面や小さな崖が、いくつもあり、大きな岩がそこらじゅうに転がっている。雪が積もった位じゃどうにもならないだろう。
「でも沙流、どうやって。危ないし、操縦なんかろくに出来ないだろう」
「だから心配無用。やり方だったら簡単だ。操作しながら、ロボットと並走する。それだけだ」
「操作って…」
沙流は、ポケットから銀色の箱を出した。
「このコントローラーを、両手で操作するんだ」
「ロボットなんか見えるのか?」
「大丈夫。片時も目を離さないから」
「前は見ないのか?」
「全く」
そういや、さっきも沙流は雑木林から出てきた。葉のかすり傷さえ無い、全くの無傷だった。あの雑木林の中を前も見ずに、無傷で滑り降りるなんて…やっぱりこいつは化け物だ。
硬直してしまった來を尻目に、沙流は雑木林へと向かい、揚魅が声を張り上げる。
「位置について、用意―」
まて、まだ準備もしてないぞ!
言おうとしたが、遅かった。
「ドン!」
ロボットと揚魅が同時にスタートする。慌ててゴーグルをつけ、來も雪の斜面へ身を躍らせた。
前から吹き付ける風が冷たい。白一色の視界に黒い物がよぎる。まさか、とは思ったが、向けた視線の先には黒い蝶が居た。この前沙流や歌恋と見たあの蝶だ。競争の事などすっかり忘れ、いつの間にか足は蝶を追っていた。重力から解放されたように進んでいく。
「おい來、試合放棄か?戻れよ、危ないぞ」
揚魅の声は耳に届いていない。黒い蝶を追いながら、徐々に雑木林に近づいていく。蝶は時々止まってはまた動き出す。まるで來を待っている様だ。半ば転びそうになりながらふもとに辿り着くと、蝶は雑木林の中へどんどん入っていった。雪にスキー板が埋もれて走れない。板を脱ぎ捨て、自分の靴を履くのもそこそこに、來は雑木林の中へと踏み入った。草木が鬱蒼と茂っていて、つたが腕に絡まる。雪が積もっていなければ、黒い蝶の姿はあっという間に木々に掻き消されてしまうだろう。
その途中で沙流に会った。
「來、何処行くんだ、危険だぞ」
沙流の声はしっかりと耳に届いた。でも、今此処で戻る訳にはいかない。せっかく見つけたのに、今見放してしまったらもう二度と出逢えない、そんな気がしていた。
蝶が飛ぶのを止めた。蝶のいる位置を確認しながら周りを見回す。周り一面木ばかりで、街の匂いは全く感じられない。今までこんな所にいた経験など無い。怖い。木々が來を飲み込もうとしているのが感じられた。たまらなくなってしゃがみ込み、頭を抱え、耳を塞ぐ。周りの恐怖から目を背けたかった。でも木々のささやきが耳に入ってくる。
出ていけ。
此処はお前のいる場所じゃない。
お前は我らを裏切ったのだ。
「どうして付いて来るんだ」
突然人の声が聞こえて來は目を上げ、手を離して立ち上がった。木々の声が途端に聞こえなくなる。目の前に蝶の姿は無く、男が一人立っていた。
「ブイオ…」
成長しているが、ブイオに間違いなかった。長い前髪が右目を隠し、同様に長い髪を後頭部で束ねている。余分な肉が付いていないからなのか、体も顔も細いが、脆弱ではない。そればかりか、この寒いのに着ている薄い服の下には鋼の様に硬い筋肉が付いているのが分かる。今來が掴みかかったら片手で捻り潰されるだろう。紅い瞳は変わっていなかった。
「俺達は敵同士だって言ったよな?何で付いて来るんだ。そんなに俺にあんたを殺させたいのか」
「そんな訳無い。それに君は僕の前を飛びながら、時々止まって待っててくれたじゃないか」
ブイオが顔をしかめる。舌打ちが聞こえた。
「誰が敵に付いて来いって言うんだ。俺は勝手に飛んでただけだ。あんたが勝手に付いて来ただけだろ」
昔の様な幼さはどこにも残っていない。あの時感じた比護欲など微塵も湧いて来ない。
「あの日、あんたは俺に、スパイとして来た目的を訊いたよな」
頷く。あの時ブイオはスパイとして来たと言った。その目的が知りたかったのに、あっさりとかわされてしまった。
知ったら間違いなくあんたは俺の敵になる。
そう言われた。意味も分からない答えだった。その後言われた恥という言葉に心が痛めつけられていて、質問する事も出来なかった。
「教えてやる。俺がスパイとして送り込まれたのは、Sunを攻め滅ぼすためだ」
「Sunを…攻め滅ぼす」
「そうだ。Sunだけじゃない。Skyも、Deathもだ」
「何故」
「理由はちゃんとある。でも、あんたには言わない」
「教えてほしい」
「いずれ知ることになる」
いずれ…いずれっていつだよ。
まだ分からない。今の來にはブイオの全てを理解する事は出来ない。俯き、唇を噛みしめる。
「それもあんたの悪い所だ」
ブイオが來の顎に指をかけ、無理やり視線を合わせる。
「現実逃避。俯いて、現実を見ない。前もそうだったよな。カーテン…」
ちょっと待て。何で知ってるんだよ。カーテンをいつも閉め切ってる事。ブイオにその事を言ったら、ブイオはにやりと笑った。
「今でもそうだろ」
ああ、その通りだよ。忘れていた。ブイオは飛べるんだ。家の様子を見に来る位容易い事だ。しかも蝶に姿を変える事まで出来る。カーテンを閉め切っていればその姿に気付く事など無いし、開けていてもただでさえ黒いその姿は闇に紛れてしまうだろう。ブイオは指を離した。
「分かったらもう俺に近づくな。俺はお前を殺したくはない」
それから口を抑えた。視線を泳がせる。
俺は何を言っているんだ。
そんな声が聞こえてきた気がした。
「とにかく」
焦りの残った顔で、ブイオが言う。かなり早口だった。
「次に会うときは、俺達が此処を攻める時だ」
そう言い残してブイオは蝶に姿を変え、飛び去ろうとした。呼び止める間もなく、黒いその姿は空高く舞い上がり、空に紛れた。來は蝶の消えた虚空を、見つめたまま動かなかった。ブイオ、何を言ったんだ。何もおかしな事は言っていないだろう。それに何で家の前にわざわざ来てカーテンを見たりするんだよ。それはやっぱり心配してくれているんじゃないのか。全てが謎だった。せめて、せめてこのいさかいを止める事位出来ないのか。そのきっかけでも、手掛かりでも、教えてほしかった。理由位、知りたかった。
「來!」
背後から沙流がやって来た。後から揚魅も走って来る。
「どうしたんだよ、急にいなくなって。何か大切な用事でもあったのか?」
「いや、何も」
心配顔の沙流。その後ろで伸びあがるようにしている揚魅も、心配そうだった。二人の優しさが嬉しい。さっき会ったやり取りなど、教えられない。余計二人を心配させてしまう。
「本当に、何でも無いから。行こう、道に迷ったんだ。案内してくれ」
二人の後を付いて行きながら、見かけは明るく振舞っていても、來の心は重く、沈んでいた。どうにかして此処を救う方法を見付けなければ…




