水の欠片の正体は 4
車のエンジン音がした気がして、揚魅は動きを止めた。
―何だ、こんな所に人が?―
どうか聞き違いであって欲しい。
此処まで開発されたらスキーをする所が無くなっちまうよ…
その場にスキー板を突き刺し、足音を消して音のした方へ忍び寄る。雪を掘って穴に身を隠し、様子を窺うと、人影が複数見えた。いや、人は一人だけで、後は悪魔だ。悪魔は、人の指示に従って行動している。信じられない。悪魔が人に従うなんて…。敵じゃなかったのか?
その内、異変に気付いた。悪魔の様子がおかしい。目は虚ろ、身体の力も抜け、まるで何かに身体を支配されているかの様だ。あの人間がした事に違いない。おそらく、悪魔を使って何かをするつもりなんだろう。どうせ非情で、血も涙も無い嫌な奴なんだろうな。一体誰だ…?
その人間が高笑いを止めてこちらを向いた。あれは…
―市長じゃないか!―
まさか市長だとは思わなかった。じゃあ一体何を?
市長が目を逸らしたのを確認し、確かめようと身を乗り出す。再び市長がこちらを向いた。
慌てて身を隠そうとするが、遅かった。市長と目が合い、動けなくなる。
蛇に睨まれた蛙、とはこの事を言うのか…。
市長の口元が醜く歪む。笑っているのだ。こちらを指差し、何か叫ぶ。背後に殺気を感じた。振り向く間も無く口を塞がれる。その手が悪魔の物だという事を理解した直後、首筋に鋭い痛みが走った。身体から力が抜ける。意識はあるのに抗えず、目を開けて空を見詰めるしかない。
雪面に落とされ、痛みに呻く。手足に力が入らず、起き上がる事も出来ない。目の前に、市長の下卑た笑いがあった。
「なかなか可愛い子じゃないか。小学校五年生って所かな?」
「おれは高一だ」
「おや、それは失礼」
ちっとも失礼とは思っていない口調で、市長は笑った。
「おい、治安実験局員!こいつを保健機関治安実験局に連れて行け。処理はおまえ達に任せる」
首筋をかすかな痺れが走った。意識が遠のく。市長の高笑いだけが耳にこびり付いていた。
目を開けると、白い天井が見えた。身体を動かすが、何かで固定されているらしく、動かない。しかも裸だ。揚魅を使って何かをする気らしい。それでも必死に身を捩っていると、二つの顔が覗き込んだ。
「おい、おまえら…此処はどこだ」
「保健機関治安実験局精神結合課No,247」
そんな事言われても分からない。だが、何となく危なそうな場所だというのは理解できた。質問を変えよう。
「何する気だ」
「言わなくても直に分かる」
その言葉が終わるか終らないかの内に、ぬるぬるした物が身体に触れた。その数はどんどん増え、手足にも顔にも、体中に巻き付き、穴と言う穴に入り込む。悲鳴を上げる間も無く口にも入って来た。目の周りを、首の周りを這う。
何だよこれ、気持ち悪い…
息苦しくならないのは有難かったが、だんだん意識が身体から離れていく気がする。身体の内に留めておこうとするが、押し出される…
…気が付くと、自分の身体を見下ろしていた。幽体離脱、とでも言った所か。身体を取り囲んでいるのは、壁から生えた無数の触手で、もう身体が見えなくなっている。壁の向こうから、さっきの二人の会話が聞こえてきた。
「おい、見ろよ。マザーボールに反応が出てるぜ」
「遂に成功か。計画成就に一役買った訳だな」
「その通りだ。にしても、捕まえたのがSunの住民で良かったな」
「ああ。ある程度の知力、体力はあると睨んだが、まさにその通りだ。ほら、こんなに良い数値が出てる」
何をされたのか、未だに理解できない。飛び出そうとしたが、揚魅の魂は何か球形の物に閉じ込められていた。おそらくこれがマザーボールなのだろう。
二人が部屋に入って来て、マザーボールを覗き込んだ。
「おい、本当に入ってるんだろうな。何も見えないぞ」
「見えなくて当然さ。この中にはあの少年の魂が入ってるんだ」
揚魅はマザーボールごと二人に持ち出された。箱に詰められ、暗闇に閉ざされる。
「よし、後はこれを住民福祉機関生命維持局身体継続課に送れば完璧だ。完成品は後で送り返して貰うとしよう」
マザーボールに閉じ込められたまま、揚魅はどこかへと運ばれた。しばらくして光が飛び込んで来る。立派な髭を蓄え、眼鏡をかけた白衣の男が薄笑いを浮かべながらこっちを見ていた。白衣の男の手に持ち上げられ、光の中へと出される。そこには他に数人の男たちが居た。白衣の男はマザーボールを高く掲げた。
「皆、保健機関治安実験局精神結合課No,247からマザーボールが送られて来たぞ!十六歳男子、Sunの住民だそうだ」
歓声が上がる。白衣の男は揚魅を別の部屋へと連れて行った。見た事のある廊下だ。確か幼い時に…
此処は、公民館じゃないか!
No,097と書かれたドアを開け、白衣の男は中に入り、鍵を閉めた。広い部屋の中心には一人の男が立っている。揚魅と同じ位の年齢だろうか。しかし、容姿端麗であり、若干憎たらしい。
男は動かなかった。よく見ると、脳天に大きな穴が一つ空いている。まさか、脳味噌を抜かれたんじゃないかと思ったが、近付いてみて分かった。何本ものコードや配線が見えている。これは機械、つまりロボットだ。本当に人間によく似ている。本物と見分けがつかない位だ。
「さあ、これが君の新しい身体だ。気に入ったかね?」
白衣の男が自慢げに言う。確かに格好良いが、自分の身体となれば、話は別だ。抗議しようとしたが、声が出ない。それを見越して、白衣の男は言った様だった。
ああ、もう駄目だ、おれはロボットにされてしまう。
白衣の男が脳天の穴にマザーボールをはめ込んだ。穴が塞がったのを感じて、目を開ける。自分の手を、足を触り、声を出してみる。うん、問題ない。と、なればやる事は一つだ。
目の前に立つ白衣の男を睨み付け、あらん限りの声を出す。
「おまえ何て事すんだ!勝手に人をロボットにしやがって!」
白衣の男はびっくりした様だったが、直ぐに不機嫌そうな表情を浮かべ、息を吐いた。
「ロボットではない、アンドロイドだ。従来の人造人間とは違い、このアンドロイドは本物の人の魂をだね…」
うるさい。ついでに鬱陶しい。
「そんな事はどうでも良いんだ!おれを元に戻せ!」
説明を遮られ、白衣の男は心底気を悪くした様だった。顔は真っ赤で、表情は、何て言えば良いんだろう…。
踏み潰した苦虫を更に噛み潰した蛸?
そういえば來にも良く言われた。
君の例えは複雑すぎて訳が分からない。
そうなんだよな…。そこが、おれの問題点だ。…うん、でもまあ、良いや。気にしない気にしない!
「何を言っている。今の自分を見てみたまえ。全人類が憧れるような姿になっているんだぞ。死なないし、歳も取らない。最高じゃないか。なんなら、鏡でも見てみるか?え?どうなんだ、D-26!」
声が震えている。相当怒っている様だ。でも、この姿は嫌だ。たとえ死ぬ運命にあっても、おれは前の姿を選ぶ。
「嫌だ。たとえ鏡を見ようと、おれは前の姿のままでいたい」
「物分かりの悪い奴だ。少しは身体を与えた私に敬意を表する位する物だろう」
「敬意?はっ、ふざけんなよ。誰がそんな事するもんか」
「何だと?口を慎め、D-26!」
何だよ、全く。こんな身体は嫌だって言ってるのに、誰が敬意なんか。
「後さあ、さっきから言ってるD-26って、何?」
「君の個体識別番号に決まっているだろうが」
「だったら名前で呼べ!おれは揚魅だ。D-26じゃない」
「名前など捨てたまえ!君はもう人間じゃ無い、アンドロイドなんだ」
そんな、だったら、身体はどうなるんだ?おれの本当の身体は。
「身体については、心配無用だ。しっかりと保存しておくからな」
「保存?あの状態でか」
「そうだ」
何て事を…。拳を握りしめる。身体が震える。怒りに身体が戦慄く。白衣の男に掴み掛ろうとした。次の瞬間、揚魅の身体は何かに捕らわれていた。縄だ。何本もの縄が、揚魅を引き倒す。
「全く、普通の人間の作りにしておいて良かった。ちなみに、元の君の体力が、そのまま反映されている」
唸り、食い込む縄に抗う。腕の皮膚が裂けたが、血は出てこない。代わりに黒い機械が見えた。自分が人間ではなくなったのを、思い知らされる。
元の姿に戻りたい。鼓動を、温かみを、命を感じたい…
吼え、身を捩る。縄が千切れる音がした。無我夢中で走る。どこをどう走ったか分からなかったが、気が付くと揚魅は果てしない草原の中で一人、立っていた。頭上には、雲一つ無い青空が広がっている。きっと、Earthの一部だろう。場所は分からないが、多分Sunからは離れている筈だ。
そのまま真っ直ぐ走り出そうと足を一歩踏み出した所で、何かを踏み付け派手に転んだ。屈み、拾い上げてみる。ビー玉位の青い石だった。
―何だろう、これは―
まさかこんな小さな石に躓くとは思わなかった。まさか…
「おれを探してた?」
石に話しかけてみる。当然の事ながら、石は答えない。
しかし、何となくそんな気がしたのも事実だった。
まるで、おれに見付けて欲しかったかの様に偶然現れた。
取り敢えず、手に取って握ってみる。冷たい。
冷たくて、中で何かが流れている。水…だろうか。
この石は、何か力を秘めている気がする。人間の力を遥かに超えた…
超自然の力を。




