災厄の兆し 1
チャイムが鳴り、日直が授業の終わりを告げた。
椅子に腰かけた來は全身から力を抜き、椅子の背に頭をもたせ掛けた。疲れた体と脳に、暖かな陽光が心地良い。カレンダーの日付は既に、冬が来た事を告げていた。
「よぉ、來。何やってんだ?」
声に顔を上げると、沙流が覗き込んでいた。沙流は柔道部主将で、大柄な男だった。平均身長を僅かに上回るだけの來とは十センチ以上身長差がある。体重は二倍近くあるだろう。その半面、大のメカ好きで、実物大のヘリコプターのラジコンをたった一日で作り上げた事もある。作成だけでなく、操縦もプロ並みだった。一度遊びに行った家には大量のトロフィーが並び、壁の一方がそれで埋め尽くされていたのをよく覚えている。來とは幼馴染で、もう十年以上の付き合いになるが、その間、彼は一度も風邪をひいたことが無い。
「全く、高一になって余計おっさん臭くなったな。今日は部活無いんだから、早く帰ろうぜ。帰りにどっかの喫茶店にでも寄ってさ」
「この後、仕事が入ってるんだ。金も無いし」
「良いじゃないか。おれが奢ってやるし、少しの間だけだから。な?」
沙流がここまでして人を誘うのは初めてだ。何かが匂う。相手の意図は五感を使って手に取る様に分かる。
「分かった、行くよ。話はそこで聞こう」
面白そうな匂いだ。沙流は眉をしかめた。
「おまえ相手に嘘は吐けないな。じゃあ、行こうか」
学校から歩いて五分位の所に、その喫茶店はあった。中に入り、カウンター席に着く。
「なあ沙流、これって思いっきり校則違反だよな」
「良いんだよ、校則なんか。あんなのカビの生えた古い束縛さ」
沙流はそう言って、コーラを一気に喉へと流し込んだ。炭酸が入っているのを忘れていたのか、思いっきり咳き込む。思わず吹き出してしまった。
「笑うなよ。人には誰だって失敗があるんだからな」
沙流は怒った様にそう言ったが、それが照れ隠しである事は分かっていた。來は微笑みながら、サイダーを一口飲む。
「來、おまえ変わったよな」
唐突に沙流が言った。深い紫色の眼が、真剣な眼差しを向けている。
「変わったって、いつ」
「三年前からだよ。朝おまえは元気が無かった。手に持った紙ばっかり見て、溜息を吐いてた」
紙とは、あの日ブイオが残していったメモだ。その紙は不思議と破れたり穴が開いたりする事は無かった。
「それからなんだよ、おまえが変わったのは。苦しみから解き放たれたみたいに、明るくなって。成績も伸びたし、まるで心の中にもう一人のおまえが居て、支えてくれてるって感じだった」
そうだったのか。自分では全く気付いていなかった。ブイオはずっと心の中に居て、支え続けてくれていたんだ。
「來、一体何があったんだ?教えてくれ、頼む」
どうしようか迷った。正直に答えれば、悪魔の存在を知らせる事になる。しかし、沙流は信用できる親友だった。
「実は…」
言いかけて口をつぐむ。約束を思い出したからだ。あの日、ブイオと交わした約束。互いに他言しないと誓った。今更その誓いを破る訳にはいかない。
「…いや、何でも無い」
沙流が不満げに口をとがらせた。
「何だよ、言いかけてそれは無いだろ。少しでも良いから教えてくれよ」
「ちょっとしたサプライズがあったのさ」
ウインクする。沙流は溜息を吐いた。
「分かった。言いたくないなら訊かない。よっぽど良い事だったんだな」
詮索しない所も、沙流の良い所だ。説得するのには向いていないが、こういう時には有難い。
「さてと」
沙流が机に手をついて立ち上がる。
「おれも働こうかなって思ってたんだ。おまえの職場を見せてもらおうと思って。行こうぜ」
そして足早に店の外へ出ていく。ソーダの残りを飲み干し、來はあわててその後を追った。店の外に出た時、視界の端を黒い影がよぎった。動きを追うが、その姿は既に消えていた。不思議に思いながら、曲がり角で手を振る沙流に向かって來は走った。外では人々が笑顔を浮かべながら楽しそうに歩いて行く。その中には小さな子供もいた。全てが光に包まれる中、その黒い姿は異質な物だった。
それからしばらく歩いて、來と沙流は市庁舎の前に立った。
「うわ、こんなにでかい建物初めて見たぜ」
沙流が感嘆の声を上げる。
「なあ來、おまえ本当にこんなとこで働いてんのか?」
「…まあな」
市庁舎に入ると、向かって左―地下へと続く階段に、僕は向かった。
「此処三十階建て!?…嘘だろ」
案内板に載った地図を見て、沙流がまたもや感嘆の声を上げる。それだといちいち面倒臭いので、沙流の首根っこを掴んで強制的に引っ張っていく。
「何だよ、離せ來」
沙流が訴えるがお構いなし。地下三階へと向かう。來の手から逃れた沙流が、しぶしぶ着いて来た。
[誰だ]
ドアの前に立つと、天井のスピーカーから声がした。
「地域清掃課の來です。こっちは友人の沙流。職の見学をして、可能ならそのまま就きたいそうです」
[了解。指紋認証、虹彩認証を終えて仕事を始めろ。見学者の指紋、虹彩も登録しておくように]
ドアに現れた二枚のパネルに両親指を押し当てる。
[指紋認証]
続いて現れたパネルを覗き込む。
[虹彩認証。登録番号002-357であると判断します]
音も立てずにドアが開いた。
「僕がやった通りにするんだ」
そう言ってドアを抜ける。背後でドアが閉まった。とは言うものの、しばらくすると心配になってきた。体力はあるが、頭脳はそれ程でも無い沙流の事だ、緊張で突っ立ったままかもしれない。ドアを開けようかと思った時、
[登録完了。登録番号002-369]
ドアが開き、沙流が頭を掻きながら入ってきた。
「いやあ、緊張したよ。一瞬頭ん中真っ白になっちゃって。無事に入れて良かった、良かった」
苦笑する。学校の最初の授業でした自己紹介の時に聞いたが、沙流の特技は確か「過去を振り返らない事」だった。
「良かったな。行くぞ」
廊下を突き当たった右側の部屋に行く。ドアには「53」と書いてあった。中には、一人の女が座っていた。
「あら、來。遅かったわね」
「ごめん、歌恋。ちょっと話し込んでて…」
「まあ、いいわ。今日の重点区域はR-57地域。落ち葉の量が物凄いのよ」
「だってさ。手伝ってくれよ、沙流」
横を見ると、沙流が固まっていた。口をあんぐりと開け、ぱくぱく動かしている。顔が真っ赤だ。
「沙流…大丈夫か?」
ようやく正気を取り戻したのか、沙流がゆっくりと來の方へ顔を回した。まだ顔は赤いままだ。
「ら、ら、ら、來。か、か、か、歌恋…さんは、お、お、おまえのか、か、彼女な…のか?」
駄目だ、まだ狂っている。
―歌恋に一目惚れでもしたかな―
大方そんな所だろう。モニターに向かい、真剣にキーボードを打つ歌恋は確かに美しかった。もうすぐ十七歳で、大学進学の為に働いている。金髪の髪を腰まで垂らし、目は青い。近々一年間位留学するとか何とか言っていた。
「歌恋は僕の彼女じゃない。だから今は手伝え」
その言葉に、沙流が動き出した。機械の前に座り、やるぞ、と呟いて機械の上に両手を置く。その状態のまま数分が経過し、こっちを向いた。
「この機械、どう操作するんだ?」
溜息を吐く。
「君も、ラジコンヘリ持ってるだろ。同じ要領で、この清掃用ロボットを操作するんだ。落ち葉をすくい上げて…そうだ、出来るじゃないか」
沙流がピースサインを出す。
「どんなもんだ。よっしゃ、バリバリやるぜ」
動き出した沙流の手は速かった。山積みになった落ち葉が瞬く間に消えていく。さすが、クラスで一番のメカ好きだ。來の数十倍は役に立つ。しかも、その間何回か歌恋に視線を送るという余裕まで見せていた。もっとも、歌恋はそれに気付いていない様だったが。
―この様子じゃ、僕の居場所は無くなるな―
二人が鮮やかに醸し出す音をBGM代わりに、コーヒーを淹れに行く。壁にもたれかかって飲もうとカップに口を近づけた時、歌恋が軽やかに打っているキーボードの音が止まった。口を離して顔を上げると、清掃用ロボットに取り付けられた小型カメラが送って来た映像を沙流と一緒に覗き込んでいるのが見えた。視線に気付いた沙流が振り返って手招きする。
「來、見ろよ。凄い珍しい蝶が居るぜ」
カップを持ったまま二人の背後からモニターを覗き込むと、そこにはカメラの前でホバリングする蝶の姿があった。確かに珍しい。体も羽も真っ黒で、尻の先と左目だけが赤い。
「おまえ、生物学が得意だったよな。この蝶が何だか分かるか?」
冷静に分析してみる。
「普通の蝶と同じなら、雄の筈だ。でもこんな模様は見たことが無い」
「何だ、さすがの來でも分からないのか」
でも何処かで見た様な記憶がある。思い出せない。思い違いかもしれない。諦めかけた時、ある疑問が頭をよぎった。
―まてよ、蝶がホバリングなんかするか?―
思考回路を記憶が駆け抜ける。夏の記憶、闇の記憶。思い出した。羽があって、左目だけが赤くて、尻の先―いや、想像が正しければ尻尾の先が赤い奴…約一名思い当たる人物がいる。もう一度確かめようと画面を見た時、そこにはもう蝶の姿は無かった。
「歌恋、蝶は?」
「今、飛んでっちゃったわ」
惜しい事をした。気付くのがもう少し早ければ…。
沙流の方に視線を戻した時、沙流の手が一度も止まっていなかった事に気付いた。モニターを見たまま、操縦を続けていたことになる。
―怪物か、こいつは―
冷や汗を垂らしながら、来はすっかり冷めて冷たくなったコーヒーをすすった。




