水の欠片の正体は 1
目が覚めた。もう一寝入りしたい所だが、しきりに頬を叩くグアンのせいで、眠れない。來は諦め、上体を起こした。まだ全員眠っている。手足を大の字に広げて大いびきをかく沙流がブイオを蹴り、ブイオが呻き声を上げた。そういえば、万生の姿が見当たらない。その姿を探して後ろを振り向くと、ああ、居た。部屋の隅に丸くなり、かすかに喉を鳴らしている。まさに猫だ。あどけなさが浮かぶ寝顔に、顔がほころぶ。しかし、こんな可愛い奴だって、起きれば一人前の生き物だ。誰の助けも借りず、その素早い動きを技として人間界から情報を盗み、有効に活用し、いざとなれば身を挺して敵に立ち向かう。実際、この前市長達が攻めて来た時も、万生は一人で此処に残り、湖の水を使って百人近くを倒したそうだ。血は一滴もこぼさずに。來よりも、遥かに強い。強すぎると言っても良い。その強さはブイオと互角じゃないだろうか。
…考えれば考える程自分が情けなくなってきた。もう考えないでおこう。
ブイオが目を覚ました。欠伸を一つすると周りを見回し、來に気付き、にやりと笑う。
「随分と早いお目覚めだな。どうした」
「どうしたもなにも、グアンがさ」
眠ろうにも眠れない、何度も叩かれる。そう言ったら、ブイオはさも愉快そうに鼻を鳴らした。
「はっ、そりゃ良いや。昨日の俺の気持ち、思い知ったか」
「死ぬ程味わらせて貰ったよ」
ブイオが声を上げて笑う。來も苦笑した。
「さてと」
ブイオが口笛を吹きながら沙流の顔の上に屈み込む。そして鼻と口を両手で塞いだ。数分間、沈黙が流れる。突然、沙流が跳ね起きた。数回咳をし、苦しそうに息をすると、無言でブイオを睨む。
「よく眠れた?」
ブイオが軽い調子で尋ねた。沙流が一度目を閉じ、直ぐに笑顔になる。
「目覚めは最悪だったけどな」
…いや、笑顔じゃない。顔の筋肉が引きつっている。無理に作っているのが丸見えだ。ブイオもそれを見付けた様で、
「それは良かった」
と言うと、即座に飛び退いた。直後、沙流がブイオに跳びかかるが、ブイオは軽いステップでその全てをかわし、笑顔で逃げ回る。逃げる先には万生が寝ていたが、全く気にしていない様子だ。それどころか、万生の周りを回り始めた。沙流もいつの間にか怒りが冷め、笑顔でブイオを追い駆ける。張本人達は楽しそうだが、見ている來は、冷汗ものだ。万生がうるさそうに動くたび、手や足を二人が踏んでしまわないかと息を呑む。
そしてやっと万生が起きた。同時にブイオと沙流も止まる。來は、今になってようやく二人の意図が分かった。二人は万生を起こそうとしていたんだ。
―それにしても、もう少し安全な方法を取れば良いだろ―
周りを走って起こされるのはいつもの事なのか、万生はたいして怒りもせずに伸びをした。
「さて、そんじゃ行きますか!」
沙流が叫ぶ。
「主導権を握られちまったな」
ブイオは苦笑しながらも賛成の声を上げた。
「おれはいつでも良いぜ」
万生は完全に目を覚ました様だ。
三人が來の答えを待っている。來も自信満々に片手を突き上げた。
「よっしゃ、行くぞ!」
外に居た馬もいつになく元気に満ち溢れている。誰もがこれからの冒険を心待ちにしていた。
一頭に二人ずつ乗る。白い馬には來と沙流が乗った。ブイオが出発しよう、と言いかけて、口をつぐむ。
「っと、その前に。來、ほら、あんたのだ」
ブイオが來の剣を手渡してくれた。なぜか、魔界に来た時よりも輝いている。
「磨いといた。汚れてたから」
ブイオがぶっきらぼうに説明する。何かを恥じているのか、來と視線を合わせない。
「いいなあ、來。おれ武器持って無いや」
沙流が不満そうに頬を膨らます。
「止めてくれ。あんたが武器持ったら魔界は木端微塵だ」
ブイオが身震いしてみせる。
「もう、何だよ」
沙流は馬に乗ると、そっぽを向いた。完全に拗ねている様だ。
「冗談だって、冗談。真面目に受け取られたらこっちが困る」
沙流はしょうがない、という面持ちでブイオの方に向き直ると、いきなり歯を見せてにやりとした。
「こっちも冗談さ」
くそ、やられた。ブイオはそう言うと、急に真顔になり、声を大きくした。
「さあ、今度こそ出発するぞ。俺達以外で何か連れて行くんだったら今のうちに言え」
万生が手を挙げる。その頭に一匹の白猫が乗っかった。
「おれはこいつを連れてく。おれらが入り込めない所でもこいつなら大丈夫だ」
ブイオが頷く。來も手を挙げた。
「僕は、グアンを。と言っても勝手に付いて来たんだけど」
「良いさ、結構役に立つ」
ブイオが微笑んだ。グアンは來の頭に止まると、嬉しそうに羽を動かす。
他には手は挙がらない。それを確認すると、ブイオは馬を走らせた。
まず着いたのは、海だった。ブイオが言った通り酸の海で、馬の足元から落ちたかなり大きい石が、数秒もしない内に溶けた。
「良いか、絶対に触れるなよ。あんたらの足なんか、それこそものの一秒で跡形も無くなっちまう」
ブイオが釘を刺すが、そんな事言われなくても分かっている。來は、陸に居るにもかかわらず、馬にしっかりとしがみ付いた。その背中には沙流が、來以上に強くしがみ付いている。
ブイオが口笛を吹いた。抑揚のある音色につられる様に、水面からいくつもの頭が出て来る。人か?いや違う、人魚だ。
「あたし達に何の用?」
鋭い声で、人魚の中の一人が言った。驚きで声が出ない來に対し、ブイオは平然と問う。
「オームル、という所を知ってるか?」
「オームル?ああ、水の都ね。それで、そこがどうしたの?」
「案内を頼みたい」
「報酬はある?」
ブイオが金貨を一枚出し、指で弾く。それが水に触れる前に人魚は長い爪の生えた手で受け取った。
「ふふ、良いじゃない。やってあげるわ」
人魚が泳ぎだし、馬がその後に続く。馬の足は水に触れても溶けない。全く便利だ。今気付いたが、どうやら馬はブイオの命令で動くらしい。貰い主である万生よりも懐いているのには驚きだ。
しばらくすると、人魚が動きを止めた。
「此処から先には、あたし達は行けない。直ぐ人魚達に追い返されちゃうのよ。真っ直ぐ行けば、オームルに着くけど、その馬は置いて行った方が良いかも。向こうの馬を使った方が良いわ」
「分かった。じゃあ、馬を預かってくれるのか?」
「お望みならね」
…待てよ。酸の海だろ。触れるなって言ったのはブイオじゃないか!
沙流も青い顔をしている。本人は、酸の海に入るというよりは自分が泳げない事を心配しているみたいだが。
ブイオが馬の背に立ち、長く飛んで水に飛び込む。そして來と沙流、万生に手招きした。万生が直ぐに続く。來は沙流と顔を見合わせ、二人共黙っていたが、沙流が目を閉じて大きく息を吸うと、一気に飛んだ。水の中で不思議そうに目を瞬き、來を呼ぶ。
「おい、無事だぞ!來も来いって!」
まだ半信半疑だが、今に始まった事じゃない。來はごくり、と唾を飲むと、一息に水へと飛び込んだ。
身体は溶けていない。まずは安心した。
「ブイオ、どういう訳なんだ?」
「此処は真水さ。境界が見えなかったのか?」
ブイオが指差す先の水面には、特に異常は無かった。しかしよく見ると、酸の海が立てる、数々の泡が見えない壁でもあるかの様にスパッと途切れている。多分あそこが境界線なのだろう。空も晴れていて、雲との境界線がはっきりと見えた。
「そういえばブイオ、あの人達は人魚に追い返されるって言ってたけど、あの人達も人魚じゃないのか?」
「あいつらはメローだ」
「メロー?」
「人魚の片割れさ。綺麗な水から追いやられて、しかたなく酸や濁った水の中で暮らしてる、憐れな奴らだ」
可哀想だと思ったが、悲惨な運命を背負ったメロー達についてじっくり考えている暇は無かった。何かが水しぶきを上げてこっちへ向かって来る…!
それは四人の目の前で止まった。ブイオが口を堅く結び、それを睨み付ける。それは、馬に乗った女性だった。馬は、普通の馬となんら変わらないが、下半身が水に埋もれている。
「オームルに何の用、汚れた悪魔!」
ブイオの耳がぴくっと動いた。少し頭に来たか…?
しかし、ブイオは軽く鼻を鳴らしただけだった。
「汚れた、だなんて。俺達魔界の悪魔を、地獄の奴らと一緒にして欲しくないね」
「同じでしょう、そんな物」
「違うも違う、大違いさ。地獄の奴らには優しさも、愛情も友情も、慈悲心さえも無いんだぜ。それこそ本当の悪魔ってもんだ」
女性は冷たい視線を向けてはいたが、玄武石の事をブイオが話すと、途端に口調が柔らかくなった。
「玄武石の事を知っているの?…いいわ、特別に許可する。この子達に乗って付いていらっしゃい」
言葉が終わると同時に、女性が乗っているのと同じ馬が四頭、現れた。近くで見ると、その下半身は魚の様な尾びれになっているのが分かる。
「ヒポカンポスよ」
女性が教えてくれた。
「水の中なら、この子達が何よりも速いわ。水の住人でなければ操るのは難しいだろうけど」
乗ってみると、確かに扱い辛い。万生は馬に話しかけて仲良くなっているし、ブイオは何とか力で押さえ付けて服従させた。來の場合、それが出来ない為、馬が暴れる。
「よせ!」
鋭い一喝に馬の動きが止まった。しかも驚いた事に、それを言ったのは沙流だった。力で押さえ付ける訳でも無く、話す訳でも無く、ごく自然に乗りこなしている。來を乗せた馬は、しぶしぶ大人しくなった。ごめんよ、と馬の首筋を撫でてやる。馬は目を細めた。どうやら受け入れてくれたらしい。
「へえ、あなた、なかなかやるわね。一目見た所人間の様だけど」
沙流を見て、女性は感嘆の声を上げた。來は、沙流にコツを教えて貰おうと尋ねる。
「おれにも分からないんだ。何故か懐かれちゃって」
沙流が水の住人とか…まさかな。だったらブイオはどうなんだ、って話になる。まあ、良いか。
「そうだ、言い忘れたけど、私の名前はリュットよ」
リュットは先に進んだ。その後ろに沙流、ブイオ、來、万生の順で続く。一人ずつ乗り方が違っていて面白い。
沙流はリュットと同じ位乗りこなし、ブイオは馬を睨み付けて無理やり走らせている。万生の方からは、しょっちゅう「頼むよ」「お願い」と聞こえて来るし、來はといえば、「辛くない?」「ごめんね」の連発だ。周りから見れば、かなりおかしな一団だっただろう。
「さあ、此処よ」
そこには、息を呑むほど美しい島があった。透明な水の滝が至る所にあり、島の周りには人魚が住み、歌を歌っている。
「おれ、この歌…知ってる」
沙流が歌いはじめた。今まで気付かなかったが、かなり美しい声をしている。歌詞にしろ、メロディーにしろ、どこか物悲しい、心を打つ物だった。
白い殻を突き破って
青い空の下
命は芽生える
果てしない草原に一人
答えてくれる者はいない
此処はどこなの?
僕は誰なの?
誰か教えて
僕の名前を…
孤独と不安に包まれて
命は居場所を失う
どこへ消えた?
遠く彼方へ…
戻って来るのか?
誰にも分からない…
永遠に待ち続けるしかない
再び帰って来るのを信じて…
「どこかで聞いたんだが…思い出せないな」
リュットがしばらく沙流を見詰めた。そして信じられないといった様子で口を開く。
「称えの歌よ」
「称えの歌?」
「ええ、そう。もとは玄武を称える為、人魚達が考え出し、水の生き物と蛇亀族にだけ伝えられていた歌よ。でも、ある時蛇亀族が何者かに襲われて、跡形も無く消えてね、運よく残った一人も、捕まって消えてしまったの。それから歌詞が変わって、今に伝わっているのよ」
そうなのか…。道理でこんなに悲しい歌な訳だ。でも、何故その歌を沙流が?
訊く間も無く、大きな入り江に着いた。




