6話
親の七光りとはよく聞く言葉だけど、私はそのおかげで今仕事に就いているような気がする。
正確には、親と同じ仕事に就いてるわけじゃないけれど、写真家だった父親の影響と人間関係によるところが大きいに違いない今の職場。
大学を卒業して以来、私は出版社の営業部で事務をしている。
超大手の出版社で安穏と仕事をさせてもらえるのは、父親が生前この出版社から写真集を数多く出していた事と、お兄ちゃんとお姉ちゃんからの強い勧めがあったから。
大学で就活に励むには励んでいたけれど、結局は周囲の後押しによって入った会社は、出版界を目指す誰もが入社を希望すると言っても過言ではない業界トップの会社。
本当、お父さんの名前のおかげだ、ありがとう。
社内には、お父さんが親しくしていたらしい人もかなりいて、採用面接もあっけなく終わって。
もともと、大して行きたい会社もなかった私だったから。
そんなに勧めるのならラッキーなんて軽い気持ちで今に至る。
入社してからずっと、それほど上昇志向もないままに日々の仕事をこなしながらお給料をもらって。
お兄ちゃんとお姉ちゃんが結婚した後も、どうにか一人で楽しく暮らしてきた。
可偉と出会うまでは、人間関係を広げる事もどこか怖くて逃げ腰だったけど、今は自分以外の大切な人と一緒に生きている事がとても幸せに思える。
両親が亡くなって以来私の心に宿っていた怯えた感情は今も心にあるけれど、可偉の愛情が私の感情全てを包み込んでくれるから、少しずつ平気だと思えるようになってきた。
大切な人といつか離れてしまうかもと怯える事も、少なくなった。
可偉を愛して、可偉に愛されて、本当に幸せだ。
そして今、二人で迎える初めてのクリスマスが近い。
まだ日にちに余裕はあるけれど、欲しい物は意外に早く売り切れるから、とりあえず何かないかとリサーチに来た。
夕方の混み合うショッピングモールは、会社に近くて、時々立ち寄るお気に入りの空間。
ただ見るだけでも楽しくて、可偉に何をプレゼントしようかと温かい気持ちで何軒もお店を見て回った。
そして、そんな温かい気持ちが一瞬にして凍りつくものを見てしまった。
妙に真剣な顔をする可偉と、向かいの席で甘えたように綺麗な笑顔で何かを話している女の人。
ガラス窓越しに見える可偉は、確かに可偉本人に間違いない。
綺麗な女の人をじっと見つめたまま、話を聞いている。
ときどき口角を上げて聞く表情からは、二人の親しさも感じられて、私の心臓はどきどきとうるさい。
今日は出張で遅くなるって言っていたのに、可偉はどうしてショッピングモールのカフェにいるんだろ。
「……やだ」
思わずそう呟いて、その場から駆け出した。
可偉から早く離れたくて、必死に走って走って。
息切れを隠さずに飛び込んだ電車。
どこに行くのかわからないまま乗り込んでしまったけれど、そんな事どうでもいい。
私以外の女の人と親しげに過ごす可偉から早く離れたかったから。
運よく空いていた席に体を沈めて、昔味わった、大切な人がいなくなる怖さがよみがえらないように祈った。
* * *
肌寒い夜に一人、何となく下りた駅前の居酒屋で飲んでる自分を、今朝起きた時には想像もしてなかった。
「ほっけもちょうだい。お漬物もよろしく~」
意識も言葉もはっきりしない私は、周りの喧騒に紛れながらビールを飲んでいる。
既に一時間くらい、カウンターの端で自由にのんびりまったりと。
「誰かと待ち合わせかい?一人なら、ちゃんと帰れるくらいにしときなよ」
「あーい」
初めてのお店、初めて会う店長が苦笑しながらお漬物を置いてくれる。
特に深く聞いてくるわけではないけれど、お店に入ったときに赤かったに違いない私の目を見て、何か感じてくれたのか、妙に優しくしてくれる。
最近ずっと可偉の優しさに包まれていて、それを当たり前とは言わないまでも慣れていた私には、可偉以外の人からの気遣いや優しさが新鮮に思える。胸にしみる。
「もう少し飲んだら、ちゃんと帰るから大丈夫」
ふふっと笑って、やっぱり可偉のところに帰ろうって改めて思う。
今まで何度も味わった事がある、大切な人がいなくなる怖さに負けそうで怯えて逃げてきたけれど。
可偉が私の側からいなくなるなんて事、ないのに。
いつもいつも私を一番に愛して、大切にしてくれる可偉が、私の側からいなくなるなんて事ないのに。
『俺は何よりも紫を大切にして生きるから。不安になるな』
そう私に言い聞かせる可偉は、私が怯える理由も知ってるって言っていた。
両親の死が私に植え付けた恐怖を、今も私が完全には乗り越えてない事を、お兄ちゃんとお姉ちゃんから聞いていると言っていた。
夜、眠りの中でさえ泣いている私を抱きしめて癒してくれて、ほんの少しでも私が不安に思う事はその場で誤解を解いてくれたり慰めてくれる。
私が笑って生きていることが、可偉の生きる活力であり全てだと。
あの男前の、強気な男は照れる事なく何度も言う。
まるで洗脳するように、甘いキスを落としながら。
可偉に包まれていないと、私は生きていけないと洗脳されてしまった。
そんな可偉が、私から離れてしまったらどうしようと短絡的に考えて、不安になって混乱して。
そして逃げ出した私は今、接点を持つはずのなかった気のいい店長に心配されながら、ほろ酔い気分。
鞄に入れてある携帯が鳴っているのに気付いたのは、そろそろ帰ろう、と思い始めたころ。
予想どおり、帰りの遅い私を心配した可偉からの着信だった。
「もしもし。大丈夫だから。ちゃんと帰るから」
通話ボタンを押したと同時にそう言って、可偉をとりあえず安心させてみた。
そんな自分のナイスな判断に、意外に自分は酔ってないみたいだとほっとする。
『……で、どこにいるんだ?』
そんな私の軽い考えなんか吹っ飛んでいくような可偉の低い声のせいで、携帯を持つ手に力が入る。
「えっと、ここって……どこだろ」
意味なく下りた駅。えっと、ここって、どこ?
『紫、飲んでるだろ。迎えにいくから、どこにいるのかさっさと言え!!』
どうしよう。かなり怒ってるし、相当心配してる。
「ごめん!!わかんないから、代わる!!」
可偉の返事も聞かずに携帯を差し出したのは、目の前で心配そうに成り行きを見ている店長。
「この居酒屋の店長なんだし、この場所くらい、説明できるでしょ」
切羽詰まると、こんなこともできる自分を新たに発見した真夜中は、はらはらどきどき。
結局、状況もわからず戸惑っている店長は、私から無理矢理押し付けられた携帯で可偉に店の場所を説明してくれた。
『意識はしっかりあるし、ご機嫌に飲んでるから安心して迎えに来てください』
そう軽く言って、可偉と交わす会話。
時々私に向ける視線は苦笑気味で、そのたびに申し訳なくなる。
初めて来た客に、携帯を押し付けられて。
多分可偉の口調も穏やかではないし、突然の展開に驚いているはず。
店長さん、本当にごめんなさい。
『……はいはい、任せてください。焦って事故ったりしないでくださいよ』
会話を終えたらしい店長さんは、肩を竦めながら私に携帯を返して
「ほかの男にお持ち帰りされないように、見張ってくれってしつこく言われたよ。よっぽど好きみたいだね、……ゆかりちゃんのこと」
「あ、はい……そうなんです……へへ」
ほんの少しの照れはあるけれど、お酒のせいか照れるよりも嬉しさが勝る。
私を心配してくれる可偉には申し訳ないけれど、今はすごくすごく気分がいい。
「私にはもったいなくらい、私の事が好きなんです」
こんな言葉が思わず出るほど、さっきまで落ち込んでいた気持ちが消えてしまうくらいに軽やかな気分。
可偉が私から離れるかもっていう不安が全くなくなったわけじゃないけれど、ここに来る前よりも、可偉は私から離れないっていう自信が少し増えた気がする。
「小松菜の煮びたしってある?」
店長さんに聞いてみると、
「あるよ、食べるかい?」
にっこり笑ってくれる。
「食べるのは、もう少し後にします。可偉が大好きなの。私もよく作るし」
「そうかい。じゃ、彼が来たら用意するよ。ま、食べるどころじゃない感じで焦ってたけどな」
ははっと笑いながら私をからかう店長に、ほんの少し恥ずかしいと思いながら、焦ってる可偉が想像できて笑える。
焦って私を迎えに来てくれる可偉に、私は今すぐ会いたくて、たまらない。
店に来た時よりも、ぐんと浮上した気持ちで可偉を待つこと約1時間。
珍しく焦りと不安を隠そうともしていない表情の可偉が来てくれた。
カウンターの端で照れ笑いしている私を見つけた途端、その表情が一気に緩んだ。
「もう、最後にしてくれ」
「え?」
「心配でどうにかなりそうだった。頼むからこんなかくれんぼは最後にしてくれ」
大きく息を吐いて、私の背後から抱きしめる可偉は震えていた。
私の胸元で結ばれた両手はしっかりと私を包み込んでいて、二度と離さないとでもいうような強い想いが感じられる。
普段の強気な可偉の片鱗もなく、私に体を預けるのはただの男。
それも、どう見ても私に夢中の男だ。
「かくれんぼなんか、もうしないよ。ていうか、あの人は誰?」
「ん?誰って?」
可偉の手の上に私の手を置いて、とりあえず聞いてみなきゃ。
可偉はいつも私が勝手に誤解しないように言葉にして話してくれるから、私も気になる事はちゃんと聞けるようになってきた。
「だから、あの綺麗な女の人。夕方、モールのカフェで一緒にいた親しげな人」
私の肩に頭を乗せたままの可偉に、一気にそう聞いた。
どんな答えが返ってくるか少し不安だけど、背中に感じる可偉の体温が私を勇気づけてくれる。
「あー、やっぱり見たか。不格好な走り方で駅まで全力疾走の女。
紫に似てたから気にはなったんだけど。隠し事はできないな。すぐにばれる」
小さくため息を吐いた可偉の声が私の体を一気に突き刺す。
隠し事って言った。ばれるって言った。
どういう事?私にばれるとまずいって事なのかな。
あの女の人と、ばれると困るような事になってたりするの?
「可偉?えっと……」
不安な気持ちを隠す事もできないままあたふたと言葉がもれてしまう。
このお店に来てから徐々に浮上していた気持ちは一気に再降下。
ほろ酔い気分も瞬く間にさめる。
「ばーか。またそうやって悪い方に考える。俺が隠し事するにしても紫の為にならない事はしない」
くすくすと笑いながら私の隣の椅子に腰かけて、膝の上に置いてた私の手をぎゅっと握ってくれる。
いつも見せてくれる優しい瞳の色には、何にもやましいこともないって言ってるようでほんの少しほっとしたけれど、それでも、わかんない事ばっかり。
「で、誰?」
改めて聞かずにはいられない。
そんな私の気持ちを焦らすかのように口元を上げた可偉は
「とりあえず何か食うわ。紫探し回って何も食ってないから」
「えー、それより……」
「ん。ま、ゆっくり話したいからな。焦ってする話じゃないから」
ぽんぽんと私の頭をたたいて笑いかける可偉は、変わらず甘い視線を向けてくれるけど、どこか厳しい想いも見え隠れしていて、私は何も言えなくなった。
あらかじめお願いしていた小松菜の煮びたしや、豚の角煮。
可偉は好きなものを食べながら店長にお礼を言っていた。
酔っ払いの女を世話してくれた事に。
酔っ払いの女って私の事なんだけど……そんなに酔ってないのに。
とはいえ、可偉がお店に来てからずっと、隣でべったりと寄り添ってる私を見たら酔っぱらってるって思われても仕方がないのかな。
可偉が側にいるっていう事を実感したくて体温に触れたくて、体のどこかに可偉のどこかを絡ませていたいから。
必要以上に椅子を寄せて、近くにいる私。
そんな私の気持ちを拒むでもなく、時々苦笑しながらも、可偉はちゃんと受け入れてくれる。
それだけで、夕方から巣食っていた不安な気持ちが消えていくから不思議。
可偉の細かな優しさとか愛情を感じるだけで、ちゃんと私は浮上していく。
一緒に暮らし始めてから、少しずつ私の体に浸透していく可偉の想いは、単純。
私を一番に大切に想っているって事。それだけ。
可偉は包み込む穏やかな愛情を私に与えようとしてくれて、不安を感じる事があっても、すぐに取り除くように動いてくれるから。
きっと、可偉が今から言おうとしてくれてることも私を悲しませる事はないんだと思うけれど、それでも。
どんな話になるのか不安はないわけじゃないから、可偉の隣で、私の心臓は暴れている。
「どうして、今の会社に紫が入社したか知ってるか?」
突然の言葉にどう答えていいのか。
予想もしてなかった質問だから、混乱してしまう。
どうして今そんな事を聞いてくるのかな。
「とりたてて入りたい会社もなかったし……みんなが勧めてくれたし……お父さんがお世話になってたし……。でも、なんで今頃そんな話?」
「うん、今頃だよな。でも、お兄さんやお姉さんには今が一番のタイミングだって言ってた」
「は?言ってる意味がわかんない。私、かなり酔ってる?」
「くくっ。少し酔ってるけど、そんな顔もかわいい。俺の前だけで見せるならな」
「な……何を……」
そっと寄せられる顔にどう応えていいのかわからなくて、思わず俯いてしまう。
顔も熱くなって、醒めかけてた酔いも、戻ってきそうだ。
「そんな可愛い紫を、手離して俺に託してくれるらしいぞ」
「……誰が?」
「お兄さんとお姉さん」
「えっと。あの」
可偉の言葉が全く理解できなくて、言葉を失ってしまう。
いたって真面目に話してる可偉をじっと見つめるだけ。
車で来てるからお酒を飲んでないはずの可偉だけど、もしかして酔ってるのかな?
「お兄さんお姉さん、そしてお父さんが生前関わっていた出版社の人たちが紫を守る為に今の会社に就職させたらしいんだ」
さらにわからない言葉が並んで、これは日本語に違いないよね、と悩まずにはいられないほどに、訳がわからなくて。
私はおかしくなったんじゃないかと、本気で不安になってきた。
「紫のお父さんって有名な人だったんだな。俺は写真とかに興味なかったから知らなかったけど、その世界ではかなりの人だったって、紫の会社の人が言ってた」
「……会社の人?」
「そ。一緒に暮らし始めてすぐくらいかな、お兄さん達と一緒に会った」
まるでなんてことないように軽く言ってる可偉だけど。
なんで私の会社の人と会うわけ?
それにお兄ちゃんもお姉ちゃんも何も教えてくれてないのに。
私の知らないところで何が?
「あの、私が聞きたい事からすっごく離れてるんだけど、可偉は一体何が言いたいわけ?」
私が知りたい事には何も答えてくれてない気がして、ほんの少しいらいらする。
声にもそれは表れてると思うんだけど、可偉が夕方会ってた女の人が誰ってことかを知りたいのに。
可偉の言う事って、どんどん遠くに行ってる気がしてくる。
「何が言いたいかって、決まってるだろ」
私の顔をのぞきこむと、ふざけた様子もなく真面目な視線を向けて。
「紫を大切に想ってる」
その言葉、言われて嬉しいけれど、どうして今言うのかな。
「紫のお父さんが遺してくれた写真の中に、紫たち兄妹が小さい頃の写真がたくさんあるんだ」
突然話し始めた可偉は、私の手をぎゅっと握る。まるで安心するようにと伝えるように。
「活躍中の実力派の写真家が突然亡くなって、当時のマスコミはかなり騒いだらしい。
遺された紫たち三人の兄妹をマスコミは追っかけたらしいけど、お父さんに近かった人達が守ってくれた。……紫の会社の人たちだ」
「え?」
思いがけない話が出てきて、どう受け止めていいのかわからない。
お父さんとお母さんが亡くなった時、私は自分の悲しみを受け止めきれなくて自分自身はどんどん壊れて。
お兄ちゃんやお姉ちゃんが必死に支えてくれた。
当時の私には、周囲の様子に気を配る余裕も何もなかった。
今思えば、両親が亡くなっただけでもその後の手続きやら大変だったと思う。
遺産やら家やら、多分お父さんの作品の権利やらも。
「私、何も知らない」
「うん。周りみんながマスコミへの対処に追われてる間、紫は自分の心が壊れていく事と闘ってたから。
逆に、それが良かったんだ」
「でも。私何も知らない……何があったのか」
「結局は出版界のトップ…今の紫の会社の会長がマスコミから紫たちを守ってくれたんだ」
茫然と聞いている私を気遣うように、優しく肩を抱き寄せてくれる可偉。
逆らうことなく体を預ければ、不思議と不安も半減していく気がする。
まだ私の知らない話が続きそうで、私は覚悟を決めるように、唇をかみしめた。