月明かりに照らされて
――初恋の相手が呼んでいるからだ。
頬を叩くと、その少女は瞳をひらいた。
良かった、生きてた。
啓太は少しだけホッとする。
夜の海でスヤスヤと眠る少女を見つけた時は、心底ヒヤッとしたものだ。
夜行性の魚でも捕ろうと銛を片手に潜ったまでは良かった。だが魚の代わりに海流に揺らめく白いワンピースを見つけた時には、それこそ死ぬほど驚いた。死体発見の対応など、まだ小学五年の啓太には荷が重い。
が、生きていたからといって、悠長に構えてもいられない。
ここは浅瀬とはいえ海底であり、人間が長居出来るような場所ではないのだ。潜り漁師の息子である啓太でこそ十分程度なら問題無く息を止めていられるが、この少女もそうとは限らない。
第一、啓太が見つけた時点で少女はこの状態だった。いつから海の底で気を失っていたのか知れたものではない。一刻を争う。
『つかまって』
啓太はそう身振りで示すが、少女の方はまだ状況をよく判っていないようだった。口の端から貴重な酸素をぽわぽわと放出し、啓太が持つ銛と、防水ランタンをぼうっと眺めている。
――しかたない、もう息が続かん。
そう判断し、啓太は少女の身体に腕を回して右腕で抱きかかえた。
潜り漁師の息子は伊達ではない。人ひとりを担いで泳ぐなぞ朝飯前。
とはいえ、それは相手が大人しくしていた場合の話である。
『!』
啓太が少女を担ごうとした途端、少女は突如として暴れ出した。必死に啓太の手から逃れようと手足を振り回し、あろうことか更に深い場所へと沈んでいく。
啓太は慌てた。息の問題もそうだが、海面に近くの温かい水から突然下層の冷たい水を浴びるなど、下手をすれば心臓発作すら起こしかねない危険行為である。啓太はそれで友人一人を亡くしたことさえあった。だからこそ、見つけた少女をどうしても救わなければと思っていた。
そして少女を追いかけなければ、啓太の運命は変わっていただろう。
普段ならありえない事が起こった。
十歳とはいえ、既に潜り漁師として将来を嘱望されていた啓太である。『海流を読み違え、岩場の複雑な地形に巻き上げられた海流に身体をとらわれた』などと。ましてや『受け身もとれずに岩に頭を打ち付けて気絶してしまった』などと、彼を知る人間が聞いたら一笑に付す話だ。
『河童の啓太』がそんなヘマをするものか、と。
けれども『河童の川流れ』は実際に起こった。
――やば、俺、死んだわ。
朦朧とする意識の中で、啓太はそう悟った。
不思議と自分が死ぬことに対する恐怖は感じなかった。『やばい』と思ったことすらも、自分に対してではなく、自分が死ぬことで助ける者を失う少女への憂慮である。
海面に揺らめく満月の光を眺めながら、啓太は少女の身を案じていた。
と、
ふわりと、何かが月明かりを遮った。
啓太は最初、それを海草か何かだと思った。ヒラヒラと揺らめく姿がそう思わせたのだ。
が、再びソレが満月を隠した時、啓太は二つの間違いを知った。
一つは、ソレが海草などではなかったこと。
もう一つは、少女は助けなど求めていなかったことである。
少女が不思議そうに啓太の顔を覗きこんでいた。
整っているが、まだ幼さを残す美しい顔。肩口に切り揃えられた黒髪が潮に揺れている。
そして、月明かりが海流に揺らめく白いワンピースを透過して、少女の肢体を浮かび上がらせていた。
少女の細くしなやかな身体と――長く伸びた、シルクのように美しい尾ビレ。
――ああ、人魚だったのか。
啓太はそう自嘲しながら瞳を閉じた。
●
『――し、――鮫島飛行士ッ! 応答しろ、鮫島ァ!』
耳を叩く声で、鮫島啓太は目を覚ました。
警告音を発する計器類を視界に入れて、ようやく啓太は二十年前から現代へと意識を戻す。
昔の夢を見ていた。
まだ故郷の島で、潜り漁師を目指していた頃のである。
今あんな夢を見てしまったのは、恐らく今現在の状況と重なる部分があったからだろう。
窓の外にはいつかの海と同じような、黒くて深い闇がある。
そこは地上から120km。
空よりも更に高い場所に30歳の啓太はいた。
宇宙飛行士となり、月に兎も人魚もいない事を確かめ、宇宙ステーションを経由して地球へ戻る途中だった。何の問題もないと思われた再突入。
しかし管制センターすらも予想していなかったデブリの衝突により、再突入カプセルは危機に瀕していた。
啓太は通信機のスイッチを入れる。
「……こちら鮫島飛行士。すまない、気絶していたようだ」
『了解。……謝るな。現状を報告せよ』
「大気圏への進入角度に問題無し。同乗する武田飛行士は意識がないようだが、バイタルは安定している。いい顔で寝てるよ」
『起こせるなら起こせ。機体状況に異常はないか?』
「計器に異常なし。いや、訂正。……まいったな、デブリの衝突により再突入カプセルの一部が破損。パラシュートが開きそうにない」
『修復は可能か?』
「2500度の高熱か、秒速170mの高速に耐えられるなら出来るかもな」
そう啓太は笑ったが、無線の向こうからは重苦しい空気が返ってくる。
啓太が言ったことはつまり、機外に出なければ修復不可能ということだからだ。
「とりあえず武田は寝かしとく。無理に恐い思いをする必要もないだろうしな」
『……こちらからも出来ることを探す。諦めるな』
「了解。そろそろ通信可能限界だ、幸運を祈っておいてくれ」
『なんだと? おい、通信を切――』
まだ通信は可能だったが、啓太は帰還カプセル側から通信を切った。
本来なら許されないことだが、死ぬ間際に命令違反もくそもない。それにもう窓の外は真っ赤な炎に包まれ、カプセル内には轟音が響き渡っている。通信出来たとしてもあと数十秒程度だったろう。
こんな時だというのに、啓太の心はどこか落ち着いていた。
思い起こされるのは、二十年前の海。
あの時、人魚は死にかけていた啓太を助けてくれた。
気づくと浜辺に寝かされており、傍らにあの人魚がいた。激しく打ち付けたはずの後頭部には傷も痛みもなく、むしろこれまでにないほど身体は快調であった。
人魚は安堵の表情を浮かべたまま、啓太を見つめていた。
啓太も人魚のその表情に見惚れていた。
ただ、浜辺に打ち寄せる波音だけが耳に届く。
――何か言わなくてはならない。何かを。
数秒か、それとも数時間か。途方もなく長いあいだ少女と見つめ合って、ようやく啓太はそれだけを思いついた。
だが、啓太が口を開きかけた時、異変が起こった。
突如として少女の身体が、月明かりに溶けるように薄れていったのだ。
少女自身にもそれは予想外の出来事だったらしい。慌てるように自分の身体を探すが、既に魚の下半身は消え、それを探る両手すらも消えていた。
そして、そのまま彼女は消えた。
最後に少年の啓太が見たのは、月へと奔っていく光の粒子だった。まるで月に吸い込まれるように、人魚の少女は消えてしまったのだ。
あの時、啓太の心は成長を止めてしまったらしい。
どうしても月に行かなくてはならない。
行って、彼女に会わなくてはならない。月に連れ去られてしまった彼女に。
その想いだけが、啓太を突き動かした。
けれど、宇宙飛行士となり、遂に月へと行った啓太は心底落胆した。
月面はやたら幻想的な砂漠が広がっているだけだった。
人魚が泳ぐ海など、どこにもなかった。
この二十年は一体何だったのだろうか。
人生の目的を失した啓太は正直、今の危機的状況を『丁度良い』とすら感じていた。同乗する武田には悪いが、このまま死んでしまおう。
そう思い、啓太はふたたび目を閉じ――突然、頬を叩かれた。
「ん……?」
武田が起きたのかと、啓太は思った。
だが違った。
瞳を開くと、あの少女がいた。
●
少女は名を『雲母』といった。
雲母は満月の日になると身体の一部を魚へと変え、浅瀬の海へ潜り、海面に映る月を眺めるのが趣味だった。
自分たちの故郷がより一層美しく、そして儚く見えたからだ。
古くは竹取物語の時代にまで遡る彼女たちの一族は衰退の一途を辿っていた。月面から地上へと一瞬で行き来できる超常の力を持ちながらも、その運命は変えることは出来なかった。
そもそも霊的存在と物質的存在の中間にある彼女たちは、自意識が弱まるだけで消え去ってしまうような儚い存在である。だからこそ、自らの意志で姿形から能力まで自由に変えられる力を有し、一時は地上人たちをその力で助けてきたのだった。かつてはその存在意義が、彼女たちを現世へと留めていた。
けれど地上人たちが自身たちの力のみで生きていけるようになった現代では、自身の存在意義を見いだせない同胞達が、次々と消えていっていた。
いつの間にか生まれ、いつの間にか消えていく。
きっと自分もそうなるのだろう。
揺らめく満月はまるで、そんな自分たちを象徴しているように雲母には思えた。
そんな彼女の前で、地上人の少年が死のうとしていた。
うたた寝をしていた雲母を起こした地上人である。
驚いて逃げた自分を追いかけて、その際に海流に足を取られて頭を打ったらしいことは雲母にも判った。
しかし、薄く苦笑いを浮かべて眠る少年をどうするべきか、雲母は判断しかねていた。
助けるべきだと思うし、助けたいと感じている。
実は、彼女は少年のことを前から見知っていた。夜になると夜行性の魚を捕りに浅瀬へと潜る少年を面白く思っていたのだ。食事という行為すら必要ない雲母には少年の行為全てが珍しく、いつも岩場の陰から少年を眺めて楽しんでいた。毎晩のように地上へ降りて海底で月を眺める行為も、少年が来るまでの暇潰しに近い。
見る者がいれば、その行為は片想いする相手を見つめる少女のようだと感じただろう。
その彼にいきなり抱きかかえられそうになって、思わず雲母は逃げてしまったのだ。
そして今、彼は死に行こうとしている。
助けたい。
もっとずっと長く生きていて欲しいと、強く思う。
けれど雲母は、そもそも地上人がどうやって生き、どうやって死ぬのかすら知らなかった。
そんなことすら彼女たちの一族は忘れてしまっていたのだ。地上人たちのことは僅かに残る口伝で聞き及ぶのみである。
悩んだ末に、雲母はある口伝に従うことにした。
『曰く、地上人は唇を重ねることで眠りから目覚めるらしい』
そんな真実とはかけ離れた言い伝えだった。
けれども、それで少年は救われた。
『眠り』と『死』の区別すらついていなくとも、問題なく一族の力は行使された。
雲母の存在意義は『鮫島啓太を生かすこと』となり、
人の姿では行えぬその願いを叶える為に、一族の力は彼女を『月明かり』へと変えた。
●
「き――君、は」
啓太は狭い再突入カプセル内に浮かぶ少女を見つめていた。
あの、二十年前と同じ白いワンピース。ただ、足は魚ではなく人間の足であり、彼女の姿は幽霊か何かのように薄く透けていた。
「あ――ああ、あ」
何か、言わなくては。
そのために。そのためだけに、自分はこの二十年を費やしたのだ。
「――――」
ふわふわと空中を泳ぐように浮かぶ彼女は、可笑しそうにクスクスと笑った。
――何を慌てているの?
そんな声が聞こえてきそうだった。
何も言えずにいる啓太をよそに、彼女は再突入カプセルをペタペタと触る。
そして、ありえない事が起こった。警告を発する計器に彼女が触れる度、その計器が警告を止めて正常値を示す。数度それを繰り返しただけで、カプセルはデブリ衝突事故など無かったかのように元の状態へ復旧してしまった。
「どうやって……」
唖然とする啓太をよそに、彼女は楽しそうに笑った。
――また会おうね。
彼女の口がそう動いた。
そして、二十年前と同じように光の中へ溶けていくように消えてしまった。
十分にも満たない、僅かな邂逅だった。
『――鮫――行士――、応答せよ、鮫島飛行士!』
気づくと、再び通信機ががなり声をあげていた。既にオゾン層も突破し、航空機が飛ぶ高度に達している。オートで通信機のスイッチが入ってしまったらしい。
「こちら鮫島、どうぞ」
『あと二分で減速開始位置に到達する。現在の機体状況を報告せよ』
「オールグリーン。機外温度順調に低下、パラシュート解放準備完了」
『……何? 減速は可能なのか?』
「ああ。体が温まって体調が良くなったんじゃないか?」
『あまりふざけるな。……帰還後、色々と話を聞くことになるぞ』
「お手柔らかに頼む」
通信を終え、啓太は座席へと深く身を沈ませた。
――また月に行かなきゃならんな。
窓の外からは空に浮かぶ満月が見えていた。
●
その後、鮫島啓太飛行士は十八回の月面調査に参加し、六回の重大事故に見舞われ、その全てから生還した。
そのことから彼は『不運な男』と呼ばれ、彼が発見した知的生命体の痕跡等の功績と共に、歴史にその名を記されることになる。
ある時、取材記者に彼はこう問われた。
『そんな危険な目に遭ってまで、どうしてまだ月に行こうとするのか?』
月面の洞窟内で落盤に巻き込まれ、一週間後に生還した時のことである。あと一時間救出が遅れれば、命は無かったと言われていた。
退院したばかりの彼は笑顔で答えた。
『月明かりが俺を呼んでいるからだ』
この言葉は『不運な男』の名言として、後世に語り継がれた。
しかし、
その言葉の本当の意味を知る者は、彼と彼女以外にはいない。
【おわり】
「月明かりに照らされて」はお楽しみ頂けたでしょうか?
もし、少しでも有意義な時間を提供できたのなら幸いです。
この作品は「朝起きたら驚く場所」というテーマでお題を募集した際、「海の底、空の上」というお題を頂いて書いた習作になります。
お題は随時募集しておりますので、今回の作品をお楽しみ頂けましたら、感想かメッセージなどからお題を投稿ください。
それでは、僕の作品を読んで頂きありがとうございました。