それでも刑事は走らない
「先輩、コロシです!」
田所の声が、朝の事務室に響いた。
三枝は、カップ麺にお湯を注ぎながら言った。
三枝は、どう見ても“犯人側”の風貌だった。
無精髭、眠たげな目、くたびれたジャンパー。
階段で事情聴取していれば、通行人が避けて歩くタイプだ。
「おい田所。“殺人事件”って言え。あと、声のトーンが“犯人見つけました!”になってるぞ」
「すみません……初めての事件なんでドキドキしちゃって。でも、ほんとに殺人なんです。団地の一室で、男性が首を絞められて亡くなってました」
「現場は?」
「被害者の家の布団の上です」
「じゃあ、まず“殺人”かどうかも怪しいな。布団の上で死んでたら、だいたい病死か事故死だ」
「でも、首に痕が……」
「それなら、鑑識が来るな。でも科捜研は来ないぞ、現場でガッカリした表情出すなよ」
「えっ、来ないんですか?」
「来ない。科捜研は“科学捜査研究所”であって、“現場捜査研究所”じゃない。現場に来るのは鑑識課。しかも、白衣で乗り込んでくることはない。あれは演出だ。実際は、腰痛持ちの佐々木さんが、静かにルミノールを吹きかけて帰る」
「……えっ?……」
団地の一室。畳の上に布団、その上に遺体。
田所は、ドラマで見たような“現場に颯爽と乗り込む科捜研”を期待していた。
だが、現実に現れたのは、鑑識課の佐々木さん(58歳・腰痛持ち)だった。
佐々木は、どう見ても“プータロー”のような風貌だった。
色あせた作業ズボン、寝癖のままの髪、伸びたTシャツの裾。
団地の住民から「息子さん?」と聞かれそうな雰囲気だ。
作業着姿で、無言で道具箱を開ける。
佐々木さんは、スプレーボトルを取り出し、床に向かってシュッと吹いた。
ルミノール反応――血液の鉄分に反応して青白く光るはずの薬品。
田所は、部屋が青く輝くのを期待していた。
だが、何も光らなかった。
「血痕は……ないですね」
佐々木さんは、それだけ言って、次の作業に移った。
佐々木さんは、ガラスのコップに黒い粉をふりかけ、そっと筆でなぞった。
浮かび上がった指紋を、セロハンでペタリと採取。
田所は、ドラマで見たような“指紋照合システム”を期待していた。
画面に指紋が浮かび上がり、「一致しました!」と鳴るアラート。
だが、現実では、採取した指紋は袋に入れて、後日照合。
しかも、照合結果が出るのは数日後。
一致しても、「犯人確定」ではなく、「関係者の可能性あり」程度。
田所が言った。
「爪の間に皮膚片があれば、DNA鑑定で犯人が……」
三枝が即答した。
「それ、鑑定に3週間かかる。しかも、結果が出ても“誰の皮膚か”はわかるだけで、“殺した証拠”にはならん。あと、毛髪は毛根がついてないと無意味。抜け毛じゃダメだ」
佐々木さんが補足する。
「あと、DNA鑑定は予算が必要です。今回は、自白が取れれば使いません」
「靴の跡とか、繊維の付着とか……」
田所が言うと、佐々木さんは畳を見て首を振った。
「畳には靴跡は残りません。繊維も、布団と服が同じ素材なら、判別できません」
三枝が言った。
「ドラマみたいに“特殊なソールパターン”とか言うためには、全国の靴底データベースが必要だ。そんなもん、ない。あと、“この繊維は犯人のものだ!”って言ったら、鑑識が怒る。“断定するな”って」
佐々木さんは、デジカメを取り出し、無言でパシャパシャと撮影を始めた。
遺体、布団、窓、玄関、靴、ゴミ箱、冷蔵庫――すべてを淡々と記録。
田所は、ドラマで見たような“現場写真を見ながら推理する刑事”を思い描いていた。
だが、現実では、写真は記録用であり、推理には使われない。
「この写真、何に使うんですか?」
「報告書に添付します。あと、裁判で“現場状況”を説明するためです」
作業を終えた佐々木さんは、道具を片付けながら言った。
「じゃ、報告書は明日送ります。PDFで」
田所は、ドラマで見たような“現場での鑑識の推理”を期待していた。
だが、現実では、鑑識は“分析する人”であり、“推理する人”ではない。
三枝が言った。
「科捜研は来ない。鑑識はしゃべらない。現場は光らない。あと、ルミノールは、だいたい反応しない」
団地の階段を上りながら、田所は心の中で“聞き込み”のシーンを思い描いていた。
ドラマでは、刑事がチャイムを押すと、住民がドアを開けてこう言う。
「昨日の夜、悲鳴が聞こえたんです。しかも、男の声で“やめろ!”って……」
それが決定的証言となり、事件は一気に動き出す。
だが、現実は違った。
田所が最初に訪ねたのは、被害者宅の隣室に住む70代の男性だった。
チャイムを押すと、ドア越しに声がした。
「新聞いらないよ」
「警察です。昨晩、何か物音など……」
「テレビ見てたから、わかんないね」
次の部屋では、40代の女性がこう言った。
「うるさい人だったけど、まあ、死ぬほどじゃないよ」
三枝が言った。
「聞き込みってのは、基本的に“知らない”“見てない”“関わりたくない”の三拍子だ。ドラマみたいに“決定的証言”は出ない。あと、住民が“実は昔、被害者と揉めてて……”って語り出すこともない。あるのは、“あの人、よく洗濯物干してた”くらいだ」
田所は、団地の中庭で聞き込みを続けた。
ベンチに座っていた女性に声をかけると、代わりに反応したのは彼女の飼い犬だった。
「ワン!」
「……あの、昨晩、何か気づいたことは?」
「この子が吠えたけど、たぶん猫です」
三枝が言った。
「ドラマだと、家政婦が“あの夜、奥様が何かを隠していたような……”って言うだろ。でも現実では、家政婦はそもそもいない。探偵も教授も来ない。現場に顔を突っ込んでくるのは、だいたい野次馬か、近所の犬だ」
田所は、団地の掲示板に貼られた“地域文芸サークル”の案内を見て言った。
「先輩、近所に作家が住んでるらしいです。もしかして、事件に関係が……」
三枝は即答した。
「ない。作家は小説を書く人だ。殺人事件の謎解きはしない。あと、近所の喫茶店のマスターが“実は元刑事”って展開もない。そもそも、喫茶店は今日は定休日だ」
「じゃあ、被害者の部屋に“意味深な絵”とか……」
「ない。あるのは、洗濯物と、食べかけのカップ麺だ。あと、壁に“過去の怨念”を書いたメモとかもない。あるのは、電気代の督促状だ」
田所は、聞き込みの内容を記録用紙に書きながら言った。
「先輩、これって、事件解決の鍵になるかもしれませんよね」
三枝は言った。
「ならない。聞き込み記録は、裁判では“伝聞証拠”扱いになる。つまり、“誰かが言ってた”は証拠にならない。必要なのは、“誰が、何を、どう見たか”を、本人が証言することだ」
「じゃあ、聞き込みって意味ないんですか?」
「意味はある。だけど、“ドラマみたいな劇的展開”はない。あるのは、“地味な積み重ね”だけだ」
昼下がり、署の玄関に一人の男が現れた。
被害者の弟だった。
彼は、どう見ても“被害者側”の顔だった。
細い肩、弱々しい声、目を合わせない仕草。
受付の警察官も、一瞬「保護の相談か」と思ったほどだ。
「兄を殺しました」
その声は、驚くほど静かだった。
取り調べ室ではなく、まずは階段の踊り場で事情聴取が始まった。
三枝が言った。
「田所、取り調べ室は今、交通課が使ってる。とりあえず、ここで聞こう」
「えっ、階段でですか?」
「そうだ。ドラマみたいに“机を叩いて怒鳴る”取り調べは、今どき録音録画でバッチリ残る。あとで弁護士に“威圧的な取り調べ”って言われて、こっちが怒られる」
犯人は、静かに語った。
「兄が金を貸してくれなくて、つい……」
それだけだった。
三枝が言った。
「現実の殺人事件の動機は、だいたい“金か家庭”だ。あと、“つい”って言葉は、供述の定番だ。深い動機なんて、そうそうない。犯人が“俺は社会に復讐したかったんだ!”って言うこともない。だいたい“すみません”で終わる」
田所は、供述調書の作成に取りかかった。
犯人の言葉をそのまま書くと、こうなった。
「兄が金を貸してくれなくて、つい、手が出てしまいました。気づいたら、動かなくなっていて……」
三枝が言った。
「それ、文法的に直して。“兄に対し金銭的要求を行ったが拒否され、感情が高ぶり、首を絞めた”って書け。あと、“気づいたら動かなくなっていた”は、“殺意はなかった”って主張になるから、注意しろ」
三枝は、気だるそうに見えるのに、調書の文言だけは異様に正確だった。
その手つきにだけ、彼の“刑事としての矜持”が宿っていた。
田所は、取り調べの終盤にこう聞いた。
「最後に、何か言いたいことは?」
犯人は、少し考えてから言った。
「すみませんでした。兄には、感謝もしてました」
田所は、ドラマのような“叫び”を期待していた。
だが、現実は静かだった。
事件は終わった。だが、田所は、書類の山を前にして、ようやく“捜査の本当の重さ”を理解し始めていた。
田所の机には、報告書・供述調書・実況見分調書・捜査報告書・被疑者供述要旨・被害者関係者聞き取り記録・現場写真台帳・証拠品目録・押収品管理簿・証拠品送致票・鑑定依頼書・鑑定結果報告書・捜査経過報告書・捜査本部設置記録・捜査本部解散記録・捜査員配置表・捜査員活動記録・捜査協力者名簿・捜査協力者謝礼支払記録……が山積みだった。
田所は、書類の束を前にして言った。
「先輩、これ全部書くんですか?」
三枝は、プリンターの紙詰まりを直しながら答えた。
「そうだ。事件は“書類が終わるまで終わらない”。ドラマだったら、エンディングテーマが流れるけど、現実は“プリンターの騒がしい音”が鳴るだけだ」
田所は、供述調書を書きながら気づいた。
犯人の言葉をそのまま書くと、文法が崩れる。
感情が強すぎると、法的に曖昧になる。
だから、調書は“感情を排除した文法的な殺意”で構成される。
「兄に対し金銭的要求を行ったが拒否され、感情が高ぶり、首を絞めた」
それが、事件の“公式な物語”になる。
「この報告書、誰が読むんですか?」
「検察官が読む。あと、裁判官が“必要なら”読む。だいたいは、要旨だけ見て終わる」
「じゃあ、現場写真は?」
「裁判で“現場状況”を説明するために使う。でも、だいたい“見ない”。見ても、“ああ、畳ですね”で終わる」
田所は、初めて裁判所に行った。
法廷では、被告人が静かに座っていた。
傍聴席には、記者もいなかった。
「被告人、何か言いたいことは?」
「すみませんでした」
それだけだった。
庁舎の玄関に、地元紙の記者が現れた。
「先輩、記者が来てます。何か話すんですか?」
三枝は即答した。
「ノーコメントだ。あと、“捜査関係者によると”って書かれたら、誰かが処分される」
田所は、事件の一連の流れを振り返って言った。
「結局、家政婦も探偵も教授も来ませんでしたね」
三枝は言った。
「来ない。家政婦は家事をする人だ。探偵は浮気調査が主業務だ。教授は大学にいる。あと、作家も喫茶店マスターも来ない。現場に来るのは、鑑識と警察官だけ。あと、たまに近所の犬」
田所は、事件の終わりにこう言った。
「じゃあ、最後に“刑事手帳を机に置いて去る”とか……」
三枝は即答した。
「それやったら、紛失届を出さなきゃいけない。あとで署長に怒られる」
「じゃあ、屋上で“俺たちの正義ってなんだろうな……”って語るとか……」
「屋上は立ち入り禁止だ。あと、正義は語るもんじゃなくて、報告書の中に埋まってる」
「じゃあ、背中を見送るシーンは?」
「誰も見送らない。むしろ、庶務係が“早く出して”って言ってくる」
「じゃあ、BGMは?」
「流れない。流れるのは、エアコンの音とプリンターの紙詰まり警告音だけだ」
事件のすべてが終わった。
遺体は搬送され、供述調書は提出され、報告書はPDFで送信された。
庶務係からは「押収品の返却手続きを早く」と催促が来た。
田所は、署の階段を降りながら、ふと立ち止まった。
ドラマなら、ここで刑事が背中を見せて去っていく。
夕焼けの中、BGMが流れ、誰かが呟く。
「俺たちの正義って、なんだろうな……」
だが、現実では、階段の踊り場にプリンターの紙詰まり警告音が響いていた。
エアコンの風が、報告書の角をめくった。
「先輩、終わりました……」
田所は、静かに言った。
三枝は、カップ麺の残り汁をすすりながら答えた。
「おう。次は窃盗だ……って言いたいとこだが、あれは盗犯係の仕事だ。俺ら強行犯は、だいたい“血が出る系”だ」
「……走らないんですね、刑事って」
「走らない。走るのは、ドラマの中だけだ。現実では、走ると腰を痛める。あと、現場に走って行っても、だいたいもう終わってる」
「じゃあ、崖の上で説得することも……」
「ない。崖は風が強いし、音声が録れない。あと、犯人は崖に行くほどドラマチックじゃない。だいたい団地の階段で“すみません”って言うだけだ」
「じゃあ、特別捜査本部ができて、警視庁のエリート達が乗り込んでくるとか……」
「ない。特捜本部は、もっと大きな事件でしか設置されない。今回みたいな“家庭内のもめ事”じゃ、所轄で完結だ。エリートは来ない。来るのは、腰痛持ちの鑑識と、書類を急かす庶務係だけだ」
「じゃあ、刑事の勘とか……」
「勘は使う。でも、報告書には“勘”って書けない。書けるのは、“状況的に不自然と判断した”だ」
「じゃあ、刑事の信念は?」
「信念はある。でも、語る時間はない。語るより、書く。書くより、出す。出すより、次の事件」
田所は、署の玄関を出た。
外は曇り空だった。曇り空は、事件の色をそのまま写しているようだった。
ドラマなら、ここで夕陽が差し込む。
だが、現実では、空はグレーで、風は冷たかった。
三枝が言った。
「田所、お前、刑事ドラマ好きだったんだろ」
「はい。ずっと憧れてました」
三枝は、眠たげな目のまま、しかし妙に真っ直ぐな声で言った。
その声だけは、どう見ても“刑事の声”だった。
「じゃあ、これからは“現実の刑事”を演じろ。地味で、静かで、でも確かなやつをな」
田所は、少しだけ笑った。
「……はい。演じてみます。走らない刑事を」
これが、現実の捜査なのかな……。
崖もない。科捜研も来ない。屋台もない。涙もない。
特捜本部もない。エリートも来ない。
あるのは、布団の上の遺体と、プリンターの音だけ。
ピー、ピー、ピー……
そして、今日もどこかのプリンターが紙詰まり。




