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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い(紀元前900年頃)

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第46話:涸れた血、摩滅する木札

第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い

第四部:算術の軛と、昏き目盛り

松明の油が爆ぜる不快な音が、夜の重苦しい空気を裂いていた。

ピラミッド「第一の山」の麓に広がる広場は、夜になっても完全に静まり返ることはない。昼間の熱をそのまま吸い込んだ石灰岩の床からは、むっとするような熱気が立ち上り、農夫たちの流した汗と漆喰の混ざり合った悪臭が、霧のように空間に滞留している。その淀んだ空気のなかを、差配たちの持つ細い銘木の定規が、カチカチと乾いた音を立てて行き交っていた。


神殿の中層に設けられた記録所で、パカルは点灯された小さな油皿の光を頼りに、アマテの樹皮紙を広げていた。

数ヶ月前であれば、彼はこの時間に筆を置き、一族の行く末を憂いて夜空を見上げていたかもしれない。だが今のパカルは、ただひたすらに、昼間の「計量」で出た数値を帳簿へと転記するだけの作業を繰り返していた。彼の指先には、もはや墨の汚れを気にするような繊細さはなく、石灰の粉で白くひび割れた皮膚が、紙の表面を擦るたびにササ、ササと小さな音を立てるだけだった。


「パカルよ、西壁の割り当てが三名分、滞っているな」

暗闇から現れたのは、亡き職人頭の跡を継いだ、マホクヌームの息の狂った若い差配であった。彼の腕には、職人頭が持っていたような道具の汚れはなく、ただ男たちの木札の溝を削り取るための、鋭利な黒曜石の小刀だけが握られている。

「西壁の三名は、先刻、東の切り出し場で動けなくなった者たちだ」

パカルは顔を上げず、帳簿の上の「点と棒」に視線を落としたまま答えた。

「彼らの木札はすでに回収し、切り欠きの目盛りを『零』として処理した。西壁の遅れを埋めるには、明日の夜明けまでに、南の畑からさらに三名を引っ張ってくる必要がある」

「畑にはもう、まともに歩ける男は残っていないぞ。女や子供を山の斜面に立たせるか」

差配の言葉には、同情の色はなかった。ただ、明日の朝までに目盛り通りの人員を揃えられなければ、マホクヌームの定規によって自らの地位が削り取られるという、保身の焦りだけがあった。

「動けるか否かは問題ではない。山の斜面に配置し、石を一段分高めるための重量として存在すれば、それでよい。女であれ子供であれ、アマテの紙の上に刻まれる『一』の重さに変わりはない」


パカルの口から出た言葉は、冷徹そのものだった。

彼は、かつて自分が一族の命を守ろうとしていたことなど、とうの昔に忘れてしまっていた。毎日のように目の前で男たちが倒れ、泥のように排除されていく光景を数ヶ月にわたって記録し続けた結果、パカルの心は「人間」を見るのをやめていた。彼の目に映るのは、山を高めるために投入される、肉という名の素材の体積だけだった。素材が摩耗すれば、次の素材を穴に放り込む。それだけの、至極単純な並びの中に自分は生きているのだと、彼は信じ込んでいた。


「……分かった。南の畑から、残りの三つの木札を回収してくる」

差配は短く言い残し、闇の中へと消えていった。

一人残されたパカルは、油皿の揺れる炎を見つめた。炎の影が、壁に刻まれたピラミッドの設計図を不気味に歪ませている。あの地底の陥没以来、集落全体の構造は完全に作り替えられた。かつては血族のつながりや、神々へのささやかな祈りによって結ばれていた人々が、今やマホクヌームの配る「切り欠きのある木札」によってのみ、その存在を許されている。


その時、記録所の入り口の敷居を、這うようにして越えてくる影があった。

白い漆喰にまみれた、一人の老いた農夫だった。彼の足首は、崩落した石の重みに潰されたのか、妙な方向に曲がり、引きずった跡が床に赤黒い筋を残していた。男の首からは、ひどく摩滅し、もはや切り欠きの溝が判別できなくなった木札がぶら下がっていた。

「パカル様……、お願い、でございます……」

老農夫は、ひび割れた声を絞り出した。

「私の木札の溝を……もう一度、深く刻んでくだされ……。差配に溝を平らに削り落とされ、今日の分の糧食がもらえぬのです。このままでは、小屋で待つ孫たちが、明日を越えられませぬ……」

男の伸ばした手は、石灰と血が固まって、まるで干からびた木の根のようだった。

パカルは、その手を静かに見つめた。かつて、この老人は集落の祭りの際に、パカルにトウモロコシの酒を振る舞ってくれた優しい一族の長老の一人だった。その記憶の断片が、パカルの脳裏をかすめた。


しかし、パカルの瞳の奥にある黒曜石の冷たさは、微塵も揺らがなかった。

「その木札を見せなさい」

パカルは冷淡に言った。

老農夫が震える手で差し出した木札を受け取り、油皿の光にかざす。表面の切り欠きは、本日の搬送重量に達していないことを示すため、差配の小刀によって綺麗に平らにならされていた。数式、いや、この割り当ての仕組みにおいて、切り欠きのない木札は「無」を意味する。

「この木札は、今日の山の高まりに貢献しなかったことを示している」

パカルは、乾いた声で告げた。

「私がこの溝を新しく刻めば、帳簿の中にある『石の体積』と、実際に積まれた『石の数』の間に狂いが生じる。その狂いは、山の土台を揺るがす。お前の孫が飢えることと、山が揺らぐこと。どちらがこの集落の終わりを意味するか、お前にも分かるはずだ」

「そんな……、私たちは、ただの石の破片ではございませぬ……!同じ血が、流れているのでは……」

「血など、ここには流れていない。あるのは、目盛りだけだ」

パカルは木札を老農夫の前に落とした。カツン、と軽い音がした。

「下へ行きなさい。明日、その足で石を一個でも運べば、差配が新しい溝を一つ刻む。運べなければ、お前の木札はそれまでだ」


老農夫は、絶望のあまり声を失い、ただ泥のように床に伏した。彼は曲がった足を引きずりながら、再び闇の中へと這い戻っていった。床に残された赤黒い筋を、パカルはただの「汚れ」として、手元のアマテの樹皮紙で静かに拭い取った。

パカルの心には、もう一滴の波紋も立たなかった。長い時間をかけて、マホクヌームの定規によって削り取られたのは、農夫たちの肉体だけではない。写本官であるパカルの、人間としての魂そのものだった。


深夜、神殿の最上層から、マホクヌームがゆっくりと階段を下りてきた。

老神官の衣服からは、かつてのような香煙の匂いは完全になくなり、代わりに乾いた石灰の匂いだけが漂っている。彼の首に下げられた銘木の定規は、夜の闇の中でも、不気味な絶対性を持ってパカルの前に提示された。

「パカルよ、カウイルの血筋はすべて排除されたな」

「はい。先刻、最後の記号を抹消しました」

パカルは淡々と答えた。

「それにより、明日の南壁の進捗は、予定通り二寸高まります。人員の置き換えはすべて完了しており、目盛りの進行に狂いはありません」

「よろしい」

マホクヌームは定規の端を爪で弾き、満足そうに頷いた。

「数が、一族を純粋にしている。不純な肉体が削ぎ落とされるたびに、この『第一の山』は神々の領域へと近づいていくのだ。パカル、お前の右手は、もはや迷うことを知らぬな」

「私の右手は、ただ定規の通りに動きます、マホクヌーム様」


二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。

神殿の四方では、十数匹の金色の目を持つトカゲたちが、夜の闇に紛れてじっとこちらを見つめていた。彼らはもう呪うことすらやめ、ただ完成へと向かう石の怪物の前で、静かに平伏しているかのように見えた。

夜空を見上げれば、ひび割れたアマテの樹皮紙の隙間から、星々が冷酷な光を放ちながら、定められた軌道を正確に移動していくのが見える。星も、山も、そして擦り切れていく一族の命も、すべては一つの巨大な仕組みのなかに組み込まれていた。

長い時間をかけて完成された数の支配の構造は、一族の首を完全に締め上げ、息の根を止めようとしていた。パカルはその支配の檻のなかで、ただ淡々と、明日の夜明けに向けた「計量」の準備のために、新たな黒い点を紙の上に打ち続けるのだった。

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