第44話:沈黙する神殿、震える点と棒
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第四部:算術の軛と、昏き目盛り
空から水が消え、大地がひび割れた亀の甲羅のように無惨な姿を晒し始めてから、すでに数ヶ月の時が流れていた。
ピラミッド「第一の山」の建設現場を覆う灰色の雲は、雨を降らすこともなく、ただひたすらに太陽の熱を閉じ込め、密林の底を巨大な蒸し器へと変え果てさせている。風すらも止まり、この地には腐った果実のような、甘ったるくも重苦しい停滞が満ちていた。石灰岩の粉塵が霧のように立ち込め、そこを通り抜ける男たちの影を、幽鬼のように歪ませている。
神殿の頂。パカルは、指先から流れる熱さを感じながら、再びアマテの樹皮紙に黒曜石を突き立てていた。
あの日、老神官マホクヌームから、現実の労働力を遥かに超える課せられた目盛りを手渡されて以来、パカルの日常は底のない泥沼へと変わっていた。手渡された「点と棒」の並びは、明日明後日で終わるものではなかった。それは、一族の男たちの肉体を限界まで絞り尽くすための、終わりのない差配の始まりに過ぎなかった。
「……本日も、東壁の石積みに遅れが出ております」
数ヶ月前のあの日、パカルはマホクヌームの前に立ち、震える声でそう訴えていた。
「職人たちの疲弊が限界を超えています。これ以上の延長は、彼らの肉体が持ちません。彼らは泥の奴隷ではなく、我らと同じ血を分けた一族の者たちです」
しかし、老神官マホクヌームは、首から下げた黒ずんだ銘木の定規を冷たい指先でなぞりながら、一切の揺らぎもなく言い放ったのだ。
「肉体が持つか持たないか、それを決めるのはお前の感情ではない。この山が求める石の数だ。パカル、お前がその手で文字を刻むアマテの樹皮紙は、その寸分の狂いもない割り当ての上にしか存在し得んのだぞ。これを、明日の朝一番に広場へ公示しろ。達成できない者は、その場で配置転換だ。地底の、一番深い亀裂の底へ」
「それは……死を意味します!」
「死ではない。山をこれ以上沈ませぬための、置き換えだ」
その日を境に、パカルの心は圧倒的な無力感に支配されることとなった。
毎朝、広場に掲げられる新たな割当の数。それをアマテの樹皮紙に書き込んでいるのは、他ならぬパカル自身の右手に握られた黒曜石の刃だった。自分が線を一本引き、点を一つ打つたびに、広場で一族の誰かが割り当てられた石の重みに押しつぶされ、あるいは配給のトウモロコシを減らされて飢えていく。
最初の数週間、パカルは激しい罪悪感に苛まれた。夜、神殿の宿舎で目を閉じても、昼間に見た農夫たちの虚ろな目や、漆喰と血が混ざり合って甲殻類のようになった背中が脳裏に焼き付いて離れなかった。自分の手が、一族を緩やかな死へと追いやる処刑人の刃そのものであるように思えてならなかった。
やがて、季節がさらに進み、雨季の兆しさえ完全に失われた頃、パカルの精神は別の段階へと変を遂げつつあった。
毎夜、深夜の闇の奥から、広場や簡易な小屋に横たわる男たちの低い呻き声が聞こえてくる。それは苦痛の叫びであり、呪詛の響きだった。その音を何十夜、何百夜と聞き続けるうちに、パカルの脳は激しい拒絶反応を起こし始めた。
このままでは、自らの心が内側から崩壊してしまう。
生きるために、パカルの心は無意識のうちに逃げ道を、思考の歪みを求め始めた。
(私が悪いのではない……)
暗闇の中で樹皮紙を見つめながら、パカルは心の中で何度もその言葉を繰り返した。
(私はただ、書き写しているだけだ。マホクヌーム様が算定し、この『第一の山』が必要としている絶対的な石の量を出しているに過ぎない。もしこの目盛りに狂いがあるならば、このピラミッドはとうに崩れ落ちているはずだ。しかし、山は厳然としてそびえ立っている。ということは、この並びこそが正しいのだ。これが正しい以上、それに伴う苦痛や飢えは、岩を切り出す際に出る『破片』のようなものに過ぎない……)
そう思わなければ、翌朝、再び黒曜石を握ることはできなかった。
パカルの心の中で、生身の人間の苦しみは、次第に「置き換えるべき記号」へと変わっていった。彼らが泥を啜り、命を散らすのは、彼らの肉体が神殿の要求する重さに届かなかったからだ。悪いのは自分でもマホクヌームでもなく、定規の溝に従いきれない、人間の肉体という不完全な器の側なのだ――。極限状態の中で生み出されたその自己正当化は、じわじわとパカルの魂の奥深くまで浸透し、彼を内側から蝕んでいった。
数ヶ月が経過した。
ピラミッドの足元にある広場では、亡き職人頭の跡を継いだ新たな差配たちが、完全に定着した「計量」の役務を淡々とこなしていた。一族の名前が呼ばれることはもうほとんどなく、男たちはマホクヌームが配った木札の切り欠きのみで識別されていた。
神殿の頂に立つパカルの姿からは、かつてあった瑞々しい迷いや、人としての生気は完全に消え失せていた。
彼の感情のスイッチは、数ヶ月に及ぶ精神の摩耗の果てに、完全に切れていた。
瞳は濁った沼の底の黒曜石のように冷え切り、肌は石灰の粉にまみれて青白く、まるで生きながらにして石像になったかのようだった。そこには、大袈裟な笑みすら浮かばない。ただ、徹底的な「無感動」と、他者への関心を完全に喪失した「平然」だけが、彼の五感を支配していた。
「次だ。木札を出せ」
広場から響く差配の声を聞きながら、パカルは手元のアマテの樹皮紙に、寸分の狂いもなく点と棒を刻んでいく。
カチ、カチ、カチ。
黒曜石が紙を擦る規則正しい音は、もはや彼の心拍数そのものだった。
かつて彼を怯えさせた、石の隙間から覗く大きなトカゲたちの金色の視線も、今のパカルには何ももたらさなかった。土着の精霊がどれほど呪いを視線に込めようとも、紙の上の記述はそれらをすべて呑み込み、処理してしまう。神々が神秘を失い、石を積むための指針の中に閉じ込められていくプロセスを、パカルはただの現象として受け入れていた。
「パカルよ、現在の進捗は」
背後からマホクヌームが近づき、その枯れた声をかけた。
パカルは振り返ることもなく、感情の起伏が完全に削ぎ落とされた、乾いた声で答えた。
「東壁、予定通り三千塊の積み上げを完了。本日の不足分は十名。すべて定尺通りの排除です。明日の積み上げを維持するには、さらに隣の谷から三十名を補充せねば、建築の工期予定が維持できません」
「よろしい。そのように手配しよう」
マホクヌームはパカルの背中を見つめ、満足そうにその銘木の定規を指先で弾いた。
若き写本官は、完全に「数の軛」を受け入れ、その仕組みを駆動させるための最も精緻な歯車へと成り果てていた。かつて一族のために涙を流しかけた若者の面影は、この巨大な石の山の重みと、終わりのない記録の繰り返しの前に、完全に圧殺されたのだ。
夕闇が広がり、石灰岩のピラミッドが青ざめた影を大地に落とし始める。
広場からは、今日も半分に減らされた糧食を手に、力なく歩き出す男たちの影が伸びていたが、パカルはもう、彼らを見下ろすことすらしなかった。彼の世界には、ただ、アマテの樹皮紙の上に整然と並ぶ「点と棒」の美しさだけが存在していた。
長い時間をかけて完成された数の支配の構造は、一族の首に深く、深く食い込み、もはや誰の力をもってしても、それを取り外すことは叶わなくなっていた。パカルの心の中に訪れた絶対的な静寂の中で、ピラミッドという名の怪物だけが、次の石の数を求めて不気味にそびえ立っていた。




