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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い(紀元前900年頃)

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第38話:湧き上がる酸水、歪む石灰

第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い

第三部:陥没する泥地と、水平の約定

老神官マホクヌームの言葉は、冷たい楔となってパカルの背中に打ち込まれた。松明の赤黒い炎が爆ぜ、コパルの香煙が引き裂かれた雲の隙間へと吸い込まれていく。マホクヌームはそれ以上何も語らず、音もなく神殿の最上層から去っていった。残されたクニッチ・パカルは、自らの指先に残るピリピリとした不快な痛みをじっと見つめていた。大地の底に潜む、目に見えぬ破綻。それを突き止め、一族の文字の盾で抑え込まねば、この「第一の山」は巨大な墓標と化す。老神官はそう言って彼を試したのだ。


パカルは濡れた腰布を揺らしながら、未完成の漆喰の床を踏みしめ、暗黒の神殿を下り始めた。組まれたままの丸太の足場は、夜の湿気を吸ってぬめり、足をかけるたびに「み、じ……」ときしんだ音を立てる。職人頭が死んでから、この広大な建築現場には夜番の松明すら灯されていない。人間が切り拓いたはずの聖域を、夜の密林がじわじわと飲み込もうとしていた。

下層へ下りるにつれ、鼻腔を突くあの酸っぱい臭気は、より濃厚に、より粘り気を持ってパカルの呼吸を苦しめ始めた。最上層で感じた微かなガスの揺らぎとは異なり、中層の積石の影には、前夜の豪雨によって薄められたはずの泥水が、まるで巨大な獣の分泌液のように絶え間なく湧き出し、白い石灰岩の表面を黒く汚している。


パカルは足場にしがみつきながら、一歩一歩、その湧出の源泉へと近づいた。巨石同士が噛み合わさる結合部の細い隙間に、彼は傷ついた右手の指を再び深くねじ込む。

「熱い……」

泥水は冷たい夜気とは裏腹に、生温かい熱を帯びていた。そして、指の皮膚を刺す刺激は、上層のそれよりも遥かに強烈だった。爪の奥の肉が、じわじわと目に見えぬ毒によって焼かれ、ふやけていくのがわかる。パカルは痛みに歯を食いしばりながら、その指を引き抜き、今度はその泥を鼻先に近づけた。

発酵した果実の腐臭の奥に、確固たる「腐った植物」の油のような匂いがある。それは、数世代前の写本に記されていた、密林の奥深くで底なしの泥に呑まれた古い集落の記録――大地の底で何万年もの間、日の目を見ずに押し潰されてきた古代の巨木の亡霊、すなわち泥炭層の放つ息吹に極めて酷似していた。


パカルは暗闇の中で自問を深める。

「この山が、地底の泥炭を圧迫しているのは間違いない。だが、なぜこれほどまでに生温かい水が、上に向かって湧き上がってくるのだ?」

水は本来、高いところから低いところへと流れるものだ。天蓋から降った雨が神殿の隙間を抜けて地下に溜まるまでは理解できる。しかし、今起きている現象は逆だ。大地の底から、人間の肉体を害する毒の水が、凄まじい力で押し上げられている。

その時、パカルの手のひらが、据え付けられたばかりの五トンを超える巨石の側面に触れた。

――ご、き……。

その骨伝導の振動は、先ほど最上層で聞いたものよりも確実に大きく、そして重くなっていた。巨石ブロックそのものが、目に見えぬ微小な揺らぎで、斜め下へと滑り込もうとする歪な動き。万力のように噛み合わさった石灰岩の角と角が、圧倒的な圧力でぶつかり合い、互いの身を削り合っているのだ。


「……そうか。押し潰されているのだ」

パカルは息を呑んだ。暗闇の中で、彼の脳裏に一筋の、しかし最悪の構造が浮かび上がる。

地下の空洞に溜まった大量の雨水。その水面に対して、何万トンもの「第一の山」の質量が、逃げ場のない楔となって上から圧力を加え続けている。地下の胃袋は密閉された万力となり、巨大な自重によって押し潰された水が、行き場を求めてこの積石のわずかな裂け目から、凄まじい勢いで逆流しているのではないか。湧き上がる酸水は、大地が水を吸い込めなくなった結果ではなく、上からの圧倒的な重量によって、地底の毒水が「搾り出されている」のだ。


だとすれば、事態はパカルが考えていたよりも遥かに逼迫している。石灰岩は、清らかな水には強いが、この地底から湧き上がる、肉体を焼くほどの毒水に長期間晒されればどうなるか。パカルは足元に目を落とした。松明のない暗闇のなか、手探りで触れた積石の継ぎ目の漆喰は、硬化しているはずの時期を過ぎているにもかかわらず、まるで濡れたトウモロコシの粉のように、指先で容易に崩れ、どろどろとした白い泥へと還っていた。毒の水が、神殿の結合部を内側から侵し、溶かし、ふやけさせている。

「基礎が溶けている……」

パカルの肉体に、冷たい戦慄が走った。呪医バラムは「神々の怒りの血」と呼び、民はそれを盲信した。だが、真の恐怖は神の気まぐれなどではない。人間が積み上げた石の重さが、自らの足元を侵食し、底なしの陥没を引き起こすという、逃れようのない大地の因果だ。


丸太の足場をさらに下り、神殿の最下層に広がる地上の広場へと辿り着いたとき、パカルの腰布は泥と白い石灰の粉で完全に汚れ果てていた。

広場の隅には、前夜の暴動で破壊された道具や、引き裂かれた丸太の破片が無残に散乱している。誰もいない。ただ、夜の密林から漂う吸血虫の不気味な羽音だけが、耳元で執拗に鳴り響いていた。

パカルは広場の中心に立ち、天を仰いだ。金星は依然として、冷徹な輝きを放ちながら夜空の目盛りを刻んでいる。天の法はこれほどまでに不変で、美しい。なのに、地上にあるこの「第一の山」は、なぜこれほどまでに歪み、腐臭を放ち、崩壊の予兆に震えているのか。


「職人頭……あなたなら、この石の軋みをどう止めた」

パカルは呟いたが、答える者はいない。彼の胸に去来するのは、写本官としての孤独と、未知の災厄に対する圧倒的な無力感だった。大地の底に潜む暗黒の空洞は、今も天からの水を貪り食い、上からの質量に押し潰されながら、次なる爆発の瞬間をじっと待っている。

指先の痛みは増すばかりだった。しかしパカルは、その痛みを自らの理性の標本とするかのように、強く黒曜石の小刀の柄を握り直した。解き明かさねばならない。この湧き上がる酸水の量、石の軋む速度、臨時に組まれた丸太の傾き。それらすべての歪みを、先祖たちから受け継いだアマテの樹皮に、新たなる「危心の文字」として刻み付けるために、パカルは暗闇の現場に独り、深く深く踏み込んでいった。

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