第3話:イチジクの皮を剥ぐ手
第1章:文字の誕生と契約
第一部:日常と予兆
夜が明けても、集落を満たす重苦しい沈黙は晴れなかった。
ヤシュ長老の遺体は、彼が死んだ小屋の床下に深く掘られた穴へと埋められた。先祖たちの白骨が眠るその泥の底へ、長老は一族の記憶を抱いたまま滑り落ちていった。人々は、墓の上に容赦なく踏み固められる赤土の音を、ただ虚ろな目で見つめていた。知恵の歌は途絶えた。残されたのは、いつ狂い出すとも知れない密林の「今」と、言葉を持たぬ人間たちの剥き出しの不安だけだった。
クシは、押し潰されそうな胸の痛みに耐えかね、逃げるように集落を離れた。 彼が向かったのは、ミルパのさらに奥、まだ人の手が全く入っていない原生林の境界だった。巨大な湿気を含んだシダの葉が顔を打ち、棘だらけの蔓が容赦なく腕の皮膚を切り裂くが、その痛みがむしろ、混濁する彼の意識をかろうじて現世に繋ぎ止めていた。
頭の中で、死に際の老人の声が、地鳴りのように何度も何度も鳴り響いている。 ――カポックの葉が三度裏返る。北の丘の裏。白い石の割れ目。 その言葉の断片は、一族の命を繋ぐために絶対に忘れてはならない極秘の地図だった。だが、すでに記憶の輪郭は、時間の経過とともに恐ろしい速さで薄れ、形を変えようとしている。「北の丘」とは、どの盛り土のことだったか。カポックの葉が「裏返る」とは、どのような風が吹くことを指していたのか。
「消えてしまう」
クシは立ち止まり、激しく喘いだ。脳の肉に刻みつけたはずの言葉が、密林の湿気に溶けて、指の隙間からこぼれ落ちていくような恐怖。人間が声として放った言葉は、耳に届いた瞬間に死に始め、次の瞬間には大気に吸われて消えていく。このままでは、次の雨季が来る前に、自分もあの言葉を失う。それは、村全体の死を意味していた。
気がつくと、クシの目の前に、一本の巨大な野生のイチジク(アマテ)の樹が立ちはだかっていた。 その樹皮は、湿気を吸って不気味なほど滑らかで、灰白色の不気味な肌を晒している。密林の精霊がそこに佇んでいるかのような錯覚に、クシは息を呑んだ。
言葉を、何かの形にして残すことができれば。
その切実な情動が、クシの身体を突き動かした。彼は腰から黒曜石の剥片ナイフを抜き払うと、狂ったようにイチジクの幹へと掴みかかった。漆黒の刃先が、白っぽい樹皮に深く突き刺さる。 「ぎ、じ」と、植物の肉が裂ける鈍い音が響いた。クシは力を込め、刃を下方へと引き下ろした。切り口から、乳白色の粘り気のある樹液が、まるで傷口から流れる血のようにどろりと溢れ出て、彼の泥まみれの手を濡らす。
クシは構わずに、その湿った樹皮の層を指先で毟り、強引に剥ぎ取っていった。 一枚、また一枚。手のひらほどの大きさに引き剥がされたイチジクの内皮は、繊維が緻密に絡み合い、まるで平らな布のような、あるいは未知の生き物の皮膚のような奇妙な弾力を持っていた。クシはその繊維の塊を近くの平らな岩の上に叩きつけると、傍らに転がっていた硬い川真珠貝の殻を拾い上げ、狂暴な勢いでその表面を叩き、擦り始めた。
「こ、ん。こ、ん」
静まり返った森に、樹皮を打つ硬質な音が響き渡る。 叩かれ、引き伸ばされたイチジクの皮は、水分を絞り出されながら、次第に薄く、平らな、薄茶色の「面」へと姿を変えていった。それはまだ、後世に「アマテ紙」と呼ばれることになるものの、最も原始的な祖形に過ぎなかった。しかし、クシにとっては、それは己の叫びを受け止めるための、唯一の空白の盾だった。
クシは岩の隅に溜まっていた、焚き火の跡の黒い炭の粉を指先にかき集めた。少量の唾液で練り込むと、指先はまたたく間に漆黒の泥で染まった。
彼は、まだ生乾きの、イチジクの樹皮の布に向かって、その指を突き立てた。
「……あ」
喉から、言葉にならない声が漏れる。彼は何を書き残せばいいのかを知らなかった。文字というものの形を、彼はまだ見たことがない。描くべきは、言葉そのものの形か、それとも頭の中に浮かぶ情景か。
クシの指は、本能の赴くままに動いた。 まず描かれたのは、三つのギザギザとした波のような線だった。それは、老人が言った「西からの風」であり、同時に激しく揺れる「カポックの葉」の動きそのものだった。その下へ、さらに力強く、尖った三角形の山を一つ突き立てる。それは「北の丘」の象徴だった。そしてその山の中心を縦に叩き切るように、一本の太い直線を刻み込む。「割れ目」だ。割れ目の底からは、いくつもの小さな点――「水」の滴が、溢れ出るように描き殴られた。
炭の黒が、イチジクの繊維の奥深くへとじわじわと染み込んでいく。
それは、絵ではなかった。クシの胸を焦がす「飢えへの恐怖」と「長老の遺言」が、人間の執念によって物質へと定着した、悍ましくも美しい「記号」の誕生だった。泥の上に足跡が残るように、今、人間の思考が、イチジクの皮という肉体を得て、この現世に踏みとどまったのだ。
「これだ……」
クシは、炭で黒汚れた自分の指先と、樹皮に刻まれた奇妙な黒い紋様を交互に見つめながら、激しく肩を揺らした。 形になった言葉は、もう消えなかった。彼がどれほど忘れようとも、このイチジクの皮を引き裂かない限り、長老の知恵はここでじっと息を潜め、クシを睨み返し続けている。
「クシ! 何をしている!」
突然、背後の藪を押し分けて、チュエンが姿を現した。長老の埋葬を終え、戻らないクシを捜しに来たのだろう。だが、チュエンの目は、岩の上に広げられた薄茶色の樹皮と、そこに描き殴られた黒い不気味な記号を見た瞬間、恐怖に大きく見開かれた。
「お前……それは何だ。何の呪いだ!」
「呪いではない、チュエン。これは、長老の言葉だ」 クシは狂気に取り憑かれたような目で振り返り、樹皮を指差した。 「長老の言った『丘』と『水』が、ここにいる。消えずに、ここに留まっているんだ!」
チュエンは、クシが放つ異様な熱気に気圧され、一歩、後ろへと退いた。文字を知らぬ者にとって、物言わぬ物体に「言葉が宿っている」という主張は、精霊の憑依や、邪悪な魔術以外の何物でもなかった。
「気が狂ったか、クシ。そんな不吉なものを集落に持ち込むな。森の神々が怒るぞ!」
チュエンの怯えに満ちた叫びが、イチジクの巨木に跳ね返り、密林の奥へと消えていった。しかし、クシはもう、その樹皮を離すつもりはなかった。彼は乾き始めたアマテの布を胸に強く抱きしめた。その内側から、一族の未来を揺るがす、全く新しい「力」の胎動が、静かに、だが確実に脈打ち始めていた。




