第三話:トッピング革命と熱のイノベーション
「旦那、これを見てくだせぇ!」
源蔵の叫び声に、私は重い腹を揺らして振り返った。そこには、昨日の死んだ魚のような目はどこへやら。輝く蕎麦粉を抱え、鼻息を荒くする職人の姿があった。
「株仲間の野郎どもが隠し持ってやがった特級品だ。これなら打てる。俺の最高の一杯が!」
「……はしゃぎすぎだ、源蔵。冷静に『収支(PL)』を考えろ」
私は脂汗を拭いながら、手元の算盤を弾く。源蔵の蕎麦は絶品だ。だが、こだわり抜いた材料費を計算すれば、利益率はわずか五パーセント台。江戸の公定価格、一杯十六文という壁が、経営学講師としての私の首を絞めていた。
(このままでは、売れば売るほど資金が底をつく。江戸の価格統制を回避するには、付加価値による『クロスセル』しかない)
私は店の隅に並べた野菜を指差した。
「ゴボウ天、春菊天、紅生姜天。これらを四文から八文で乗せろ。さらに、これまで廃棄していた揚げ玉を『天かす』として二文で提供するんだ」
「天ぷらだと……? んなもん、揚げる端からつゆが冷めちまうじゃねえか」
源蔵の指摘はもっともだ。江戸の立ち食いは、熱さが命。そこで私は、特注の二重陶器で作られた『つゆ専用保温タンク』をカウンターに据え付けた。
「タンクを二重にして空気の層を作った。これで熱を逃がさない。さらに茹で壺はこの『消し炭』で囲って保温しろ。問屋の言い値で高い薪を買う必要はない」
数刻後。店の前には、江戸の街ではあり得ない活気が広がっていた。
揚げ物の香ばしい匂いが路地裏まで溢れ出し、空腹を抱えた職人や人足たちが、吸い寄せられるように列を作っている。
「なんだこの紅い天ぷらは! 辛くて、酸っぱくて……つゆが引き立ちやがる!」
「この器、いつまでも熱々じゃねえか。最後の一滴まで喉が焼けるようだぜ、粋だねぇ!」
汗を流しながら蕎麦を啜り、野菜天を豪快に噛み砕く男たち。二重陶器から注がれる琥珀色のつゆが、揚げたての衣に染み込んで「じゅわっ」と音を立てる。
(……よし。客単価が向上し、利益率は目標の二十五パーセントを超えた。これこそが路麺ビジネスの『勝利の方程式』だ)
行列の向こう側。黒い着流しの燃料問屋の手下たちが、物陰からその光景を凝視していた。
自分たちが薪を止めれば店は潰れるはずだった。だが、店は得体の知れない「炭の欠片」で勢いよく釜を沸かし、客を熱狂させている。
手下たちは、手にした書付を震わせながら、じりじりと後退りした。自分たちが握っていた「商いの掟」が、あの醜悪なデブの鼻歌混じりの算盤によって、音を立てて崩れ去っていく。
屋根裏で息を潜めるお凛もまた、その光景を鋭い眼光で射抜いていた。
(……あの紅い天ぷら、そして熱を逃さぬ奇妙な器。対象は蕎麦を売ることで、下層の民に『恩』を売り歩いている。薪炭の掟を正面から踏みにじり、江戸の火種を自らの手に集めるとは……。この男、やはりただの商売人ではない)
私は脂ぎった顔に不敵な笑みを浮かべ、源蔵が差し出した「紅生姜天蕎麦」を啜った。
「さて。損切りした十両が、ようやく『資本』として回転し始めたぞ」
江戸の空を、揚げ物の香りが塗り替えていく。理屈で世界を捻じ伏せる快感は、魔法よりもずっと中毒性があった。




