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第十話:氷の帝国と「温度の支配者」

 

「……暑い。死ぬ。このままでは、夏を越す前に私が脂で溶けて消えてしまう」


 宗兵衛は四段に重なった腹を揺らし、滝のような脂汗を手拭いで拭いながら算盤を弾いていた。食中毒の冤罪を晴らしたものの、彼の焦念は消えていない。江戸の夏は湿気と熱気の地獄だ。蕎麦の香りは飛び、つゆは傷み、仕入れた魚は瞬く間に腐敗する。これらは精神論では防げない、物理的な壁であった。


「源蔵、次の『ネクスト・タスク』は温度管理だ。我々は、江戸の季節そのものをアップデートする」


 宗兵衛は、かつて買い取ったスラム街の地下に、密かに掘り進められた空間を指差した。


 1. 加賀藩の「贅沢で切実な悩み」

 当時、氷は冬に貯蔵され、真夏に将軍家へ献上される超高級品であった。その流通を一手に握っていたのが、百万石の威容を誇る「加賀藩」である。

 ある日、越後屋に加賀藩の役人・前田兵衛が怒鳴り込んできた。


「越後屋! 貴様、街中の端氷はがみを端から買い集めているそうだな。氷は公儀への献上品。庶民が口にするなど不届き至極!」


 宗兵衛は震える膝を押さえ、脂ぎった顔を畳にこすりつけた。だが、そのネズミのような目には、かつてのような純粋な恐怖はない。むしろ、「この役人をどう料理してやろうか」という不遜な計算が透けていた。


「……前田様。落ち着いて算盤を弾いてください。加賀から運ばれる氷、江戸城に届くまでに、一体どれほどが水になって消えておりますか?」

「何だと……?」

「三割、いや酷暑の年であれば半分が道中で溶け、捨てられている。百万石の富が道端に垂れ流されているも同然だ。前田様、あなた方の悩み、私が『解決ソリューション』して差し上げましょう」


 宗兵衛は滔々と説いた。越後屋の『断熱保冷箱』を使えば氷の損失ロスを最小限に抑え、さらに余剰分を越後屋が買い取ることで、加賀藩は「献上の完遂」と「莫大な利益」を同時に得られるのだと。


「端氷を、金に変えるというのか……」


 役人は、宗兵衛が提示した「氷と塩」を混ぜて零下二十度まで下げる『寒剤』の冷気に息を呑んだ。


 2. 氷結冷凍と「粉の保存」

 宗兵衛の策は止まらない。加賀藩から安く買い叩いた余剰氷を使い、巨大な地下氷室コールドストレージを完成させた。


「源蔵、これはただの氷置場じゃない。時間を止める魔法の箱だ」


 新そばの時期に仕入れた蕎麦粉を密封し、氷室の最深部で低温保存させる。熱と湿気から隔離された粉は、真夏になっても秋の収穫直後のような香りを放ち続けた。

 さらには、『氷結冷凍』である。


 脂っこく、すぐに傷むとして江戸っ子から「猫跨ぎ」と蔑まれていたマグロ。宗兵衛はこれを寒剤でキンキンに冷やしたままセントラルキッチンへ運び、鮮度を保ったまま「マグロ蕎麦」として蘇らせた。


 3. 江戸OS、温度の書き換え

 数週間後。うだるような暑さの江戸に、奇妙な光景が広がった。

 越後屋の一輪車部隊が、冷気を発する保冷箱を押し、街を疾走する。中には加賀藩の家紋が入った氷と、その冷気で引き締められた「冷やし蕎麦」、そして鮮度抜群のマグロが積まれていた。


「冷てぇ! 夏にこんな冷たい蕎麦が食えるなんて、夢かよ!」

「加賀藩様のお墨付きだ。越後屋の旦那、とんだ魔法を使いやがる」


 庶民は熱狂した。将軍家だけの特権だった「冷気」を、宗兵衛はビジネスの力で民主化したのである。

 宗兵衛は地下氷室の入り口で冷水を飲み、ようやく人心地ついた顔をした。だがその呟きは、以前よりもずっと傲岸だった。


「……ふぅ。これで江戸の市場は『温度』という物理的牢獄から解放された。……さて、次は江戸中の『井戸』のシェアを奪いに行こうか」


 屋根裏のお凛は、冷気を放ちながら暗闇に消えていく提灯の列を見つめ、静かに戦慄していた。


(この男……蕎麦屋の看板を掲げながら、江戸の『季節』そのものを書き換えてしまった。幕府の権威すらも『インフラ(基盤)』の一部として組み込んでしまう。私は、この男を単なる悪徳商人だと思い込んでいたけれど……誤解していたのかもしれないわ。これは、もっと底知れない「何か」だわ)


 紺色の暖簾が、真夏の江戸を涼しい氷の色で塗り潰していく。

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