第9話『文化祭前夜のメイドと、眠らない良妻』
九月も下旬に差し掛かると、私たちの日々を見守る星見台市を包む風には、どこか寂しげな秋の気配が混じり始める。
空は高く、雲は薄く。
季節は確実に移ろいでいる。
だが、私たち星見ヶ丘高校の校舎内だけは、そんな外の世界の情緒など知ったことかとばかりに、真夏以上の熱気に包まれていた。
そう、年に一度の祭典――生徒たちの、生徒たちによる、生徒たちのための「星見祭(文化祭)」が目前に迫っているのだ。
我が2年B組のホームルームは、まさにその熱源の中心地だった。
黒板には、日直が書いた連絡事項を押しのけるように、チョークで大きく『メイド喫茶』と書かれている。
ベタだ。
あまりにもベタすぎる。
昭和、平成、令和と時代が移り変わろうとも、高校生の思考回路は変わらないのだろうか。
だが、この王道こそが、一周回って高校生活の醍醐味だと私は思う。
非日常を演じる舞台として、これほど分かりやすいものはない。
「それじゃあ、このクラス企画を統括する実行委員を決めたいと思うんだけど……誰かやる人は?」
担任の言葉が教室に落ちた瞬間、それまでのざわめきが嘘のように静まり返った。
誰もが視線を逸らす。
机の木目や、窓の外の雲、あるいは自分の爪先。
みんな、ただでさえ忙しい部活や勉強の合間を縫って、面倒な仕事なんて背負い込みたくないのだ。
わかる、わかるよ。
その気持ちは痛いほどわかる。
でも、誰かがやらなきゃ祭りは始まらない。
祭りが始まらないということは、私の楽しみも始まらないということだ。
沈黙が痛い。
担任の苦笑いが引きつり始めたその時、私はスッと右手を高々と、まるで天を突くように挙げた。
「はい! 私、やります!」
私の元気な声が、凍り付いた空気を打ち破る。
「おっ、如月か。助かる!」
先生が心底安堵したような息を漏らすのと、それはほぼ同時だった。
クラス全員の視線が――まるで強力な磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、あるいは示し合わせたかのような機械的な動きで――私ではなく、私の隣の席へ、一斉に向けられたのだ。
その視線の集中砲火の先にいるのは、頬杖をついて気だるげに窓の外を見ていた颯太くんだ。
彼は背中に突き刺さる三十人分の、期待と憐れみと面白がりが混ざった視線に気づき、嫌そうに眉をひそめてゆっくりと顔を向けた。
「……なんだよ、お前ら」
その低い声に対し、クラスメイトの高木くんがニヤニヤしながら口火を切る。
「いやぁ、委員長が日和ちゃんに決まったってことはさ?」
その言葉に含まれたニュアンスを敏感に察知し、女子の長谷川さんも悪ノリ全開で続く。
「副委員長は……ねぇ? 誰が適任か、言わなくてもわかるよね? 日和ちゃんの暴走を止められる人が誰か、なんてさ」
無言の圧力(同調圧力)。
いや、もはや暴力に近い期待。
『お前の嫁が手を挙げたんだぞ、お前が手綱を握らなくてどうする』
『責任取れよ、旦那』 そんな、クラス公認の「夫婦」に対する無茶振りであり、絶対的な信頼の証でもあった。
「はぁ……。わーったよ、やりゃいいんだろ、やりゃ!」
颯太くんはガシガシと乱暴に頭をかきむしりながら、盛大なため息と共に観念したように手を挙げた。
その瞬間、教室中から「よっ、ご夫婦!」「さすが旦那!」「お熱いねぇ!」という冷やかしと、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
私はその拍手喝采の中で、申し訳なさと、それ以上の嬉しさを込めて彼を見た。
「ごめんね颯太くん、巻き込んじゃって」
「別に。お前一人に任せたら、予算度外視でとんでもないことになりそうだからな。俺がやるのは監視役だよ、あくまで監視役」
そう憎まれ口を叩くけれど、私の方を見るその横顔には、「仕方ないな」という呆れと、隠しきれない優しい諦めが滲んでいる。
私はその表情がたまらなく好きだ。
こうして私たちは、名実ともにクラスの「運営本部」――もとい、クラスメイト公認の「夫婦」として、文化祭を取り仕切ることになったのだ。
そこからの役割分担は、あうんの呼吸と言うべきか、実にスムーズだった。
颯太くんが全体のスケジュール管理、予算配分、資材発注、当日のシフト作成や人員配置といった、緻密な計算と論理的思考を要する「脳」を担当。
そして私が、資材の運搬、大道具の設営、買い出し、クラスメイトへの声かけや士気向上といった、体力と行動力を要する「体(物理)」を担当する。
完璧な布陣だ。
「日和、そこのベニヤ板、高木たちに運ばせろ。お前じゃ危ない」
設計図を確認していた颯太くんが声をかけるが、私は首を振る。
「ううん、大丈夫! 私が持ったほうが早いから! 男子は繊細な作業やってて!」
私は薄めのベニヤ板を三枚まとめて小脇に抱え(総重量は約二十キロに達する)、重さを感じさせない軽快なステップで廊下を駆け抜ける。
後ろで男子たちが「あいつマジか……」「重機要らずだな」「もはや生物としてのスペックが違う」とドン引きしている声が聞こえるけれど、そんな些末なことは気にしない。
颯太くんの描いた設計図を、私が形にする。
彼の頭の中にある理想を、私の手で現実に引きずり出す。
この共同作業こそが、何よりの喜びであり、愛の形なのだから。
そして迎えた、文化祭前夜。
放課後のチャイムから既に数時間が経過し、窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。
普段なら静まり返っているはずの校内だが、今夜だけは違う。
あちこちの教室から準備に追われる生徒たちの叫び声や笑い声、金槌を叩く音が不協和音となって響いている。
独特の活気と、間に合うか分からないという切羽詰まった焦燥感。
廊下に漂うペンキのシンナー臭と、段ボールの乾いた匂いが混ざり合い、祭りの予感を加速させるスパイスとなって鼻腔をくすぐる。
「……悪い、終わらねぇ」
教室の隅、机を並べて作った即席の作戦本部(仮設デスク)で、颯太くんが低く呻いた。
彼の視線の先には、未完成の内装がある。
凝り性の私たちがこだわった結果、飾り付けが予想以上に遅れているのだ。
「いいよいいよ! 残ってやろう! 納得いくまでやりたいし!」
私は即答する。
二人きりの残業なんて、願ってもないチャンスだ。
「帰らなくていいのか? ご両親、心配すんだろ。こんな時間だし」
「あ、そっか。電話する!」
私はポケットからスマホを取り出し、手早く母にコールする。
数回のコールの後、母ののんびりした声が聞こえた。
『もしもし日和? 遅くなるの?』
「うん、まだ準備が終わらなくて。あと少しなんだけど……颯太くんと一緒に学校に残って仕上げちゃうね」
『あらそう。颯太くんと一緒なら安心ね。パパも「颯太くんなら間違いはない、あいつは信用できる」って言ってるわ。遅くなりすぎないようにね、頑張ってねー』
プツッ。
通話時間は十秒足らず。
あまりにもあっけない許可に、私はスマホを掲げてニカッと満面の笑みを浮かべた。
「許可出たよ! 『颯太くんなら安心』だって! 全幅の信頼だね!」
「……俺、お前の親父さんから一体何だと思われてんだ? 彼氏じゃなくて、SP(要人警護)か何かか?」
颯太くんは複雑そうな、なんとも言えない顔をしたが、それでも私の両親からの信頼を無下にはできない性格だ。
真面目な彼は、覚悟を決めたようにペンを握り直した。
私たちはそこから、怒涛のラストスパートをかけた。
時刻が二十三時を回る頃。
校舎内の喧騒もさすがに落ち着き、静寂が忍び寄ってきた時、ふと、隣からペンの走る音が消えた。
「……颯太くん?」
不思議に思って振り返ると、彼は指示書を書きかけたまま、机に突っ伏して眠っていた。
連日の準備で一番頭を使い、神経をすり減らしていたのは間違いなく彼だ。
クラス全員の勝手な意見をまとめ上げ、発生するトラブルを処理し、予算を管理し、そして何より私の暴走を制御し……疲労は限界を超えていたに違いない。
規則正しい寝息が、静まり返った教室にスー、スーと響く。
「お疲れ様、颯太くん」
私は作業の手を止め、彼の寝顔を覗き込む。
以前、海に行った帰りのバスで寄りかかられた時とは違う。
あの時は、私はただ彼に寄りかかられて、その重みにドキドキし、幸せを感じるだけだった。
でも今は違う。
私は彼のパートナーなのだ。
(あとは、私に任せて。ゆっくり休んで)
私は音を立てないように立ち上がると、自分のカーディガンを彼の肩にそっと掛けた。
そして、未完成のカフェスペースを見渡す。
壁の装飾の仕上げ、テーブルの配置、メニューボードの書き込み。
やることは山積みだ。
普通なら絶望する量かもしれない。
でも、不思議と辛くない。
むしろ、体の奥底から力が湧いてくる。
私はスイッチを切り替え、「静音モード」に入った。
足音を完全に消し、忍者のように教室内を移動する。
重い会議用テーブルを一人で持ち上げ、床に擦る音ひとつ立てずに所定の位置にセットする。
脚立に登り、天井からのモールをミリ単位のバランスで飾り付ける。
時折、颯太くんの寝顔を確認しに戻るのが、私のエネルギー補給だ。
窓から差し込む月明かりに照らされた彼の横顔は、昼間の頼もしさやしかめっ面とは違って、どこか幼くて無防備だ。
胸がキュンと締め付けられる。
私はスマホを取り出し、フラッシュを焚かないように設定を確認してから、その寝顔を一枚だけ撮影した。
フォルダ名は『私のために頑張る旦那様』。
パスワード付きの秘密フォルダ行きだ。
「……世界一、かっこいいよ」
誰にも聞こえない声で呟く。
その寝顔という最高級の燃料を投下された私の作業効率は、ここから通常の三倍に跳ね上がった。
疲れなど、微塵も感じない。
チュン、チュン……。
窓の外が白み始め、朝を告げる小鳥のさえずりが聞こえる頃。
私の作業は、完璧な形で終了していた。
机に突っ伏していた颯太くんが「ん……っ」と身じろぎをして、ゆっくりと重そうに目を開けた。
「……あ? 俺、寝て……」
焦点の定まらない目で顔を上げ、ガバッと体を起こした彼の目に飛び込んできたのは、昨日とは見違えるように完成された「優雅なカフェ空間」だった。
殺風景だった教室は消え失せている。
窓には深紅のドレープカーテンが優雅な曲線を描き、黒板は見事なチョークアートで彩られ、各テーブルには手作りのフラワーアレンジメントが飾られている。
朝の光が差し込み、教室は幻想的な雰囲気に包まれていた。
「おはようございます、旦那様」
呆然として言葉を失う彼の前に、湯気の立つティーカップが差し出された。
私は給湯室で淹れたての、最高級茶葉(自腹)を使った紅茶をトレイに乗せて微笑む。
「……これ、全部お前が?」
「んーん、二人で作ったんだよ。颯太くんの完璧な指示通りにね」
「いや、俺寝てたろ。お前、まさか一睡もしてねぇんじゃ……」
彼は慌てて私の顔を覗き込み、目の下にクマがないか、顔色が悪くないかを確認する。
心配性なその視線が嬉しい。
もちろん、私の肌は徹夜明けでも陶器のようにツルツルだ。
日頃の鍛錬と栄養管理、そして何より愛の力により、この程度の負荷で肌荒れするような軟弱な細胞は持ち合わせていない。
「寝たよ! ちゃんと寝た!」
「どこでだよ、寝る場所なんて……」
「ここ! 颯太くんの背中を枕にして、ぐっすりとね! 暖かかったよー」
私は嘘をついた。
本当はずっと起きて作業していたけれど、そんなことを正直に言えば、彼は「無理させた」と責任を感じて、罪悪感を抱いてしまうだろう。
だから、ちょっとしたジョークで煙に巻く。
彼の心の負担にならないように。
「それにね、旦那様より早く起きて支度を整えるのは、良妻の証拠でしょ?」
「……誰が旦那だ、誰が」
颯太くんは呆れたように笑い、ふっと肩の力を抜いて紅茶を一口啜った。
「……うめぇ」という小さな呟きが聞こえて、私は心の中でガッツポーズを決める。
徹夜の疲れなんて、その一言で吹き飛んでしまった。
「さぁ、そろそろ着替えなきゃ! 開店時間になっちゃう!」
私はそう言うと、颯太くんの目の前で、何のためらいもなく制服のブラウスの第1ボタンに手をかけた。
「は……?」
彼が状況を理解できずに固まる。
「颯太くんも早く着替えてね? 執事服、絶対に似合うと思うなぁ」
私が第2ボタンを外して、白い肌を露わにしようとしたその瞬間、颯太くんが弾かれたような猛烈な勢いで立ち上がった。
「わぁぁぁぁ! ストップ!! バカ! お前何してんだ!?」
「え? 着替えだけど? 時間ないし」
「ここ教室! 鍵開いてる! 何より俺がいる!」
「うん。でも颯太くんなら見えても減るもんじゃないし……むしろ夫婦なら普通……」
「俺の理性が減るんだよ!! あっち行って着替えろ!」
颯太くんは耳まで真っ赤にして私の方を向き、両手を広げて視界を遮るようにしながら、更衣室代わりのパーテーションの方へ私をグイグイと押し込んだ。
その必死な様子がおかしくて、愛おしい。
もう、照れ屋さんなんだから。
パーテーションの裏に入った私は、本格的な着替えを始める。
用意していた衣装は、量販店のパーティーグッズ売り場で売っているようなペラペラの安物ではない。
演劇部のつてを借り、交渉に交渉を重ねて調達した、本格的な「クラシカル・メイド服」だ。
スカート丈は膝下までのロングタイプ。
生地は重厚感のある黒のマットサテンで、動くたびに上品な光沢を放つ。
白いエプロンの紐を背中でキュッと結び、気合を入れる。
最後にフリルのついたカチューシャを頭に乗せる。
露出は極端に少ない。
だが、だからこそ「奉仕する者」としての禁欲的な色気が漂う(はずだ)。
「……着替えたよ、颯太くん」
私はパーテーションからゆっくりと姿を現す。
スカートの裾をつまみ、片足を引いて背筋を伸ばし、優雅にカーテシー(膝を折るお辞儀)を披露する。
「本日の給仕は、この如月日和にお任せくださいませ」
朝日に照らされた教室で、黒と白のコントラストを纏った私を見た颯太くんは、持っていた空のティーカップを取り落としそうになった。
彼は瞬きを忘れ、私を凝視している。
「…………似合いすぎだろ、お前……なんか、雰囲気違うな」
「へへっ、惚れ直した?」
「……ノーコメント」
彼は赤くなった顔を隠すように、また紅茶を飲むふりをした。
カップの中身はもう空っぽなのに。
その分かりやすい動揺こそが、私への最高のご褒美であり、徹夜作業への対価だ。
私は心の中で高らかに叫ぶ。
(お帰りなさいませ、ご主人様!! 今日は徹底的に尽くしてあげるからね!)
文化祭は大盛況のうちに幕を閉じた。
私の人間離れした高速配膳と、颯太くんの的確かつ無駄のないホール指示のおかげで、回転率は驚異的な数値を叩き出し、我がクラスの喫茶店は全校売り上げ一位を記録したのだ。
そして今、辺りはすっかり暗くなり、校庭にはキャンプファイヤーの巨大な炎が燃え上がっている。
後夜祭。 祭りの終わりの一抹の寂しさと、それを打ち消すような高揚感が入り混じる、一年で最も特別な時間。
「はぁ……マジで疲れた……足の感覚がねぇ……」
颯太くんはグラウンドの端で膝に手をつき、荒い息を吐いている。
一日中立ちっぱなしで、トラブル対応に追われながら指示を出し続けていたのだ、無理もない。
一方の私は、メイド服から制服に着替えたものの、体力ゲージはまだ満タンだ。
むしろ、成功の喜びとこの後のイベントに向けて、アドレナリンがドバドバと出ている。
スピーカーから、フォークダンスの定番曲『オクラホマミキサー』が流れ始めた。
この瞬間のために、すべてがあったと言っても過言ではない。
「ほら颯太くん! 踊るよ!」
「勘弁してくれ……もう足が棒だ……動けねぇよ」
「大丈夫! 私がリードしてあげるから! なんならお姫様抱っこして踊ろうか? 私、颯太くんくらいなら余裕だよ?」
「それだけは死んでもやめろ! 一生の恥だ!」
嫌がる彼の手を強引に引き、私はダンスの輪の中に飛び込んだ。
パチパチと爆ぜる炎の明かりが、生徒たちの笑顔をオレンジ色に照らし出し、影を揺らす。
タタタッ、とリズムに合わせてステップを踏む。
次々とパートナーが入れ替わっていく。
高木くん、長谷川さん、知らない1年生……。
みんな笑顔だ。
そして、曲が一番盛り上がるサビのところで、私の目の前に回ってきたのは――もちろん、彼だ。
「……またお前かよ」
呆れたような、でもどこか期待していたような声。
「運命だね、颯太くん!」
私は彼の手をギュッと握る。
彼の手は大きくて、少し汗ばんでいて、そしてゴツゴツとして温かい。
準備期間にできた小さな切り傷や、ペンだこが指先に触れる。
そのすべてが、彼が私のために、クラスのために、今日という日まで頑張ってくれた証だ。
その感触だけで、胸がいっぱいになる。
「私ね、まだ全然疲れてないよ。このまま朝まで踊れるかも! 颯太くんとならね!」
「俺が死ぬわ。……でも、まぁ」
颯太くんは一瞬言葉を切り、視線を泳がせた後、私の手をギュッと握り返してきた。
その力強さに、心臓が跳ねる。
「……お疲れ、日和。お前のおかげで成功したよ。……ありがとな」
ぶっきらぼうだけど、飾り気のない真っ直ぐな言葉。
炎に照らされた彼の瞳が、いつになく優しく、そして真剣に私を見つめている。
その瞳に映っているのは、私だけだ。
「……うん! 颯太くんこそ、最高の旦那様だったよ!」
「だから旦那はやめろっての」
私たちは笑い合いながら、ステップを踏む。
周りの喧騒が遠のき、世界には私たち二人と、揺らめく炎だけが存在しているようだった。
この手が繋がっている限り、私の祭りは終わらない。
心地よい疲労感(颯太くんの)と、溢れ出す幸福感(私の)を乗せて、秋の夜長は更けていくのだった。




