第5話:雨音の個室と、36.5℃の熱
6月中旬。
カレンダーが梅雨入りを告げたその日、空はまるで待っていたかのように泣き出した。
それも、シトシトと淑やかに泣くなんて可愛いものじゃない。
星見台市の空の底が抜けたような、暴力的なまでのゲリラ豪雨だった。
ザアァァァァァァッ!!
放課後の教室。
窓ガラスを叩きつける雨粒が、滝のように流れて視界を遮る。
高台にあるこの学校からは、普段なら海が一望できるはずなのに、今は灰色のカーテンがすべてを覆い隠していた。
「うわっ、マジかよこの雨!」
「坂道が川になってるぞ!?」
「誰か親呼んだやつ乗せてってー!」
クラスメイトたちの悲鳴に近いざわめきが、BGMのように響く。
湿気を含んだ重たい風が、廊下を吹き抜けていく。
ジメジメとした空気。
肌にまとわりつく不快な湿気。
普通なら憂鬱になるシチュエーションだ。
けれど、私、如月日和にとっては違う。
私は昇降口の人だかりの後ろから、鷹のような鋭い視線でターゲットを捕捉した。
いた。
人波の少し外れ、柱に寄りかかって空を見上げている背中。
少し癖のある黒髪を気だるげにかき上げ、困ったように眉を下げている彼。
鳴海颯太くん。
彼の手元には、カバンしかない。
つまり、傘を忘れたのだ。
(……勝った)
私の脳内で、高らかなファンファーレが鳴り響く。
ありがとう梅雨前線!
ありがとう低気圧!
この雨は、天が私に授けてくれた「相合傘」という名のボーナスステージだ!
私は深呼吸をして、あらかじめ用意していた少し大きめの傘を握りしめると、人混みを優雅にかき分けて彼のもとへと進んだ。
「あーあ、止む気配ねーな……」
颯太くんの独り言を拾い上げ、私は背後から声をかける。
「あれ? 颯太くん、もしかして傘忘れちゃった?」
「うおっ!? 日和か……びっくりさせるなよ」
彼は驚いて振り返り、少しバツが悪そうに頭をかいた。
「おう、朝は晴れてたから油断したわ。お前は?」
「私はバッチリだよ! ほら!」
私は手元の傘を掲げて見せる。
ネイビーブルーの、二人で入っても十分な大きさがある傘だ。
もちろん、天気予報を3つのサイトで比較検討し、降水確率が1%でもあればこの「相合傘専用装備」を持ってくる私に死角はない。
「良かったら、一緒に入る? ここで止むの待ってたら夜になっちゃうよ?」
「……悪いな。助かる」
颯太くんが観念したように頷く。
よし、ミッション・フェーズ1、クリア!
私は昇降口を出て、バサッ! と勢いよく傘を開く。
激しい雨音が、さらに大きく鼓膜を叩く。
「はい、どうぞ!」
「お邪魔します……」
彼が私の傘の下に入ってくる。
その瞬間。 世界が変わった。
ボボボボボボボ……ッ
ビニール越しに叩きつける雨の音が、周囲の雑音をすべて遮断するホワイトノイズに変わる。
傘の下という、半径1メートルにも満たない半球状の空間。
そこは、私と颯太くんだけを閉じ込める、世界で一番狭くて、世界で一番幸せな「個室」になった。
私たちは、学校前の「心臓破りの坂」を下り始めた。
普段なら息が切れる急勾配も、今日は濁流のような雨水が勢いよく下へ流れていくウォータースライダー状態だ。
「うわあ! 見て颯太くん! 道が川みたいだよ!」
「お前、はしゃぐなよ。滑って転ぶぞ」
「平気だよ! 私の体幹バランスなめないで!」
自然と、二人の距離が近くなる。
肩と肩が触れ合う距離。
湿った空気の中に、ふわりと彼の匂いが混じる。
私はこの空間を埋め尽くすように、彼に話しかけ続けた。
「そういえばね、昨日テレビでやってた特集見た? 深海魚の!」
「……見てない」
「すっごく面白かったんだよ! メンダコがね、パタパタしてて可愛かったの!」 「へえ」
「あ、あとね! さっき教室でカエルが鳴いてた気がするんだけど、空耳かな?」 「知らねえよ」
「颯太くんってば、カエル苦手だもんねー。可愛いのに」
「……可愛くねえし」
私のマシンガントークに対し、颯太くんの返事は短い。
でも、それがいい。
雨音にかき消されないように、彼が少しだけ耳をこちらに傾けてくれているのが分かるから。
私の声が、彼の鼓膜を独占している。
それだけで白米3杯はいける。
「っと、危ねえ」
足元の水たまりを避けるため、颯太くんが私の肩をグッと抱き寄せる。
一瞬の密着。
伝わる体温。
(……ひゃっ……!?)
私の心臓が、雨音に負けないくらい激しく警鐘を鳴らす。
ドクン、ドクン、ドクン……。
ねえ、聞こえてないかな? 雨の音で誤魔化せてるかな?
「ちょっとコンビニ寄っていい? 雨宿りも兼ねて」
「おう、いいぞ」
坂の中腹にあるコンビニへ逃げ込む。
自動ドアが開いた瞬間、店内の強力な冷房が濡れた体に直撃した。
「ひやっ! 涼し~!」
「……寒っ。冷房効きすぎだろ」
颯太くんは身震いをして、ホットスナックのコーナーへ向かう。
私はその隙に、お菓子コーナーへダッシュ。
いつもの「無塩ミックスナッツ(大袋)」を手に取りつつ、鋭い視線で彼を観察する。
(颯太くんは何を選ぶ……? 肉まん? それともアメリカンドッグ?)
彼がレジで注文したのは「あんまん」だった。
(メモメモ……雨の日は甘いものが欲しくなる傾向あり、と……!)
「お前、またナッツかよ。リスか」
「栄養満点だもん! 颯太くんこそ、あんまん?」
「……悪いかよ」
二人で店を出て、再び雨の中へ。
あんまんをハフハフと食べる彼の横顔を見ながら、私は心の中で「次は私もあんまんを食べよう」と固く誓った。
コンビニを出てしばらく歩くと、雨脚がさらに強まった。
バケツをひっくり返したような豪雨。
傘を叩く音が激しすぎて、会話もままならない。
「おい日和! 一回そこの神社で雨宿りしようぜ!」
「う、うん! そうだね!」
私たちは坂道の途中にある、大きな神社の境内へと駆け込んだ。
立派な屋根のある社務所の軒先。
ここなら雨は当たらない。
「ふぅ……すげぇ雨だな」
颯太くんが濡れた髪をかき上げる。
私も傘をたたみ、バサバサと水滴を払った。
その時だった。
「……おい、日和」
「ん? なあに?」
彼が私の体を見て、ぎょっとしたように目を見開き、一瞬で顔を真っ赤にして視線を逸らした。
「お前っ……濡れすぎだろ! つーか……その……」
彼は言い淀み、視線を泳がせ、最後に意を決したように小さな声で言った。
「……透けてるんだよ、シャツ……」
指摘されて、自分のブラウスを見る。
豪雨と、さっきのコンビニの冷房で冷やされた白い生地は、水を含んで肌にぴったりと張り付いていた。
その下のキャミソールや肌の色が、うっすらと……いや、結構くっきりと透けてしまっている。
「あちゃー、やっぱり? さっき傘、颯太くんの方に傾けすぎちゃったかな?」
普通の女子高生なら「キャーッ!」と叫んで隠すところだろう。
でも、私はニマリと小悪魔的な笑みを浮かべ、あえて彼の方に体を寄せた。
「え~? なになに? 颯太くん、私のこと見てたの?」
「み、見てねぇよ! 目に入ったんだよ! ほら、これ着ろ!」
颯太くんは慌ててカバンを開け、中から部活用のジャージ(上)を取り出すと、私の頭からガバッとかぶせた。
「むぐっ!」
「ったく……風邪ひくぞ。 ……ん? あれ?」
私の前髪を整えようとした彼の手が、ふと私の額に触れる。
「お前、なんか熱くないか?」
「え?」
「体、すごい熱持ってるぞ。大丈夫か?」
彼の手のひらが、私の額や頬に触れて温度を確かめる。
ひんやりとした指先と、温かい掌底。 そこから流れ込んでくる電気のような痺れが、全身を駆け巡る。
違うの、颯太くん。
これは風邪の熱じゃない。
貴方が触れるから。
貴方が心配してくれるから。
私の血液が沸騰して、体温が急上昇しているだけなの!
「……へへっ。平気だよ。 颯太くんが心配してくれて嬉しいから、熱が出ちゃったのかも!」
「バカなこと言ってないで、大人しくしてろ」
彼は呆れつつも、ジャージのファスナーを首元まで上げてくれた。 包み込まれるような彼の匂い。
ああ、幸せすぎて気絶しそう。
雨音が響く静かな軒先。
二人の間に、少し気まずくて、でも心地よい沈黙が流れる。
颯太くんが、雨を見ながらポツリと言った。
「……なんか、前にもあったよな。こういうの」
「え?」
「小学生の時だよ。 俺たちが秘密基地にしてた公園で、急に雨が降ってきてさ。 二人で土管の中で雨宿りして……お前、あの時も『寒くない!』って強がって、結局次の日熱出しただろ」
懐かしそうに目を細める彼。
もちろん、私は覚えている。
あの日、彼が貸してくれたハンカチの柄まで鮮明に脳内ハードディスクに保存されている。
でも、私は小首を傾げてみせた。
「え~? そうだっけ~? その後どうしたんだっけ~?」
「……は?」
「私、覚えてなーい。 熱でうなされて記憶飛んじゃったのかなー?」
ニヤニヤするのを必死に堪えて、とぼけてみせる。
すると、颯太くんはジトッとした目を私に向けた。
「……やめた。 お前、分かってて言ってるだろ?」
「ん~? なんのことだかわかりませ~ん♡」
「……性格わりーな」
颯太くんは苦笑いをして、軽く私のおでこを小突いた(デコピン)。
痛くない。
むしろご褒美だ。
彼の中に、ちゃんと「私との思い出」が刻まれている。
その事実確認ができただけで、今日の雨宿りは最高のイベントになった。
雨が小降りになったのを見計らって、私たちは再び歩き出した。
坂を下りきり、レトロな街並みが広がる住宅街へ。
私たちの家は、道路を挟んで向かい合っている。
「じゃあな、日和。ジャージは洗って返せよ」
「はーい! 柔軟剤の香り、何がいい?」
「普通のでいいよ。あと、すぐ風呂入れ」
お互いの家の玄関灯が見える距離。
名残惜しいけれど、ここがお別れの場所だ。
私は彼から借りたジャージの襟元をギュッと握りしめた。
「ねえ、颯太くん」
「ん?」
「今日は……雨のおかげで、最高の日だったね!」
私が満面の笑みで言うと、彼は一瞬きょとんとして、それから少し照れくさそうに顔を背けた。
「……物好きだな、お前は」
そう言って、彼は自分の家へと入っていった。
パタン、とドアが閉まる音。
残された私。
雨上がりの空には、雲の切れ間から一番星が顔を出していた。
肩にかかる彼のジャージからは、雨の匂いと、大好きな彼の匂いがする。
「ふふっ……ごちそうさまでした」
私はジャージに顔を埋め、思い切り深呼吸をしてから、スキップで自宅のドアを開けた。
明日、もし熱が出たとしても、それは間違いなく「恋の病」だ。




