第30話『君の「好き」が重すぎる』
桜の蕾が膨らみ、別れと出会いの季節が訪れた。
卒業式の朝。
私はいつもの時間よりも三十分も早く、鳴海颯太くんの家を訪れていた。
昨夜、あの自称「如月日和」という女が残した不吉な予言――「明日が分岐点になる」という言葉が、呪いのように心に張り付いて離れなかったからだ。
「あら日和ちゃん、早いのね! いらっしゃい!」
出迎えてくれた美奈子さん(颯太母)は、卒業式の晴れやかさ以上に、何か興奮した様子で私をリビングへと招き入れた。
「颯太はまだ着替えてるわ。……でね、日和ちゃん。これ、見ちゃったのよ」
美奈子さんが声を潜め、テーブルの上に一枚の書類を置いた。
緑色の枠線。役所の文字。 『婚姻届』。
「……えっ」
「昨日、颯太の机の上に置いてあったの。 見て、証人の欄はもうお父さんが書いてるんだけど……ここ」
震える指で指された夫の欄。
そこには、見慣れた、少し癖のある筆跡で『鳴海颯太』と書かれ、三文判が押されていた。
「あの子ったら、本気だったのね。 二人が十八歳になる誕生日に出すつもりなんでしょうけど……卒業と同時に結婚なんて、羨ましいわぁ」
美奈子さんは頬を染めてキャッキャとはしゃいでいる。
私はその書類を凝視したまま、息を呑んだ。
本気だ。
彼は、本気で私との未来を、「家族」になることを選んでくれた。
昨夜の女の言葉なんて、この紙切れ一枚の圧倒的な「愛の質量」の前では塵同然だ。
ガチャリ。
リビングのドアが開き、制服姿の颯太くんが入ってきた。
少し大人びて見える、着慣れたブレザー姿。
これが最後だと思うと、胸が熱くなる。
「……あ、母さん、何勝手に見せてんだよ!」
テーブルの上の婚姻届を見て、颯太くんが顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。
書類を慌てて奪い取る。
「颯太くん……」
私は彼を見上げた。
「……それ、颯太くんが書いたの?」
「……あー、その……」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、それから覚悟を決めたように私を見た。
「……悪いかよ」
ぶっきらぼうな、でも愛おしさが詰まった声。
「お前が『重い』って言うから……俺も、その重さに見合う覚悟、形にしねぇとなって思ったんだよ。 ……今月の誕生日、二人で出しに行くぞ」
「……っ!!」
私は彼に飛びつきたい衝動を抑え、何度も、何度も頷いた。
「うん……! 行く! 絶対に行く!」
この幸せを守らなきゃいけない。
何が来ても、私が盾になる。
彼の名前が書かれたこの紙が、ただの紙切れにならないように。
私のハイスペックな能力のすべては、この未来のためにあるんだ。
私たちは並んで登校した。
通い慣れた通学路。
私は周囲を警戒し、キョロキョロと視線を巡らせていた。
車、自転車、不審者、頭上からの落下物。
ハイスペックなセンサーをフル稼働させ、あらゆるリスクを検知しようとする。
「おい日和。今日のお前、なんか変だぞ」
颯太くんが不審そうに私を見た。
「キョロキョロして、小動物かよ。 卒業式なんだから、もっと堂々としてろって」
「だ、だって! 最後の登校だし、目に焼き付けておこうと思って!」
「大げさだな。大学行ってもこの道は通るだろ」
彼は笑って、ふと空を見上げた。
青く澄んだ春の空。
「……ま、でも高校生は終わりか。 大学行ったら、忙しくなるな」
「理工学部だっけ? 何の研究するの?」
私が尋ねると、彼は少し照れくさそうに、でも真剣な眼差しで言った。
「……笑うなよ? 俺、タイムパラドクスとか、時間の概念について研究したいんだ」
「……え?」
背筋に冷たいものが走った。
タイムパラドクス?
昨日の女が言っていた「時間がない」「分岐点」という言葉と、奇妙にリンクする。
なぜ、彼はそんな研究を?
「なんかさ、昔から気になるんだよ。 『もしあの時、違う選択をしてたら』とか、『時間がループしてたら』とか。 ……俺たちがこうして一緒にいるのも、奇跡的な確率の積み重ねなのかなって」
「……そうだね。奇跡だね」
私は同意しながらも、得体の知れない不安に襲われていた。
まるで、彼自身が無意識のうちに、繰り返される運命の歪みを感じ取っているかのような。
卒業式は、滞りなく進んだ。
厳かな空気。
校長先生の式辞。
答辞を読む生徒の涙。
「仰げば尊し」の合唱。
すべてが美しく、平和な「終わり」と「始まり」の儀式だった。
何も起きない。
事故も、事件も、襲撃者も現れない。
私のシミュレーションにあった最悪のケースは、どれも発生しなかった。
(……よかった)
校門を出て、多くの生徒たちが記念撮影をしている中、私はようやく息を吐いた。
あの女の予言は外れたんだ。
私たちは無事に高校生を終えた。
「日和。腹減ったな」
卒業証書の筒を持った颯太くんが、ネクタイを緩めながら言った。
「どっか食いに行こうぜ。フレンチは無理だけど、ラーメンくらいなら」
「うん! 行こう! 私、チャーシュー麺大盛り!」
「色気がねぇなぁ」
私たちは笑い合い、いつもの交差点へと向かった。
桜並木が続く、大きな交差点。
信号が青に変わる。
私たちは、横断歩道へと足を踏み出した。
その時だった。
「……あ」
対岸の人混みの中に、彼女がいた。
昨日と同じ、色褪せたグレーのコート。
朱里。
いや、自らを「如月日和」と名乗った女。
彼女は、この世の終わりのような悲痛な顔で、こちらを見ていた。
まるで、これから起こる惨劇を嘆くかのように。
そして、音のない口を動かした。
『ごめんね』
プツン。
世界から、音が消えた。
私の意識が、視覚が、すべて彼女一点に吸い寄せられた。
彼女は何を言っているの?
なぜ謝るの?
ハイスペックなはずの私の脳が、その一点の解析にリソースを全振りしてしまった。
周囲の警戒がおろそかになった、ほんの一瞬の空白。
ドンッ!!
強い衝撃が、真横から私を襲った。
「――え?」
私の体は宙を舞い、ごろん、ごろんと無様に歩道へと転がった。
硬いアスファルトの感触。
擦りむいた膝の痛み。
「……いったぁ……」
私は顔をしかめながら、体を起こした。
もう、危ないなぁ。急に押さないでよ。
せっかくの卒業式なのに、制服が汚れちゃったらどうするの。
「何するのよ、颯太く……」
文句を言いかけて、視線を上げた。
そして、私の時間は凍りついた。
横断歩道の中央。
そこには、車も、トラックも、何もなかった。
ただ、見慣れたブレザー姿の彼が、不自然な形で横たわっていた。
「……え?」
アスファルトに広がる、鮮烈な赤。
それは、彼が私の首に巻いてくれたマフラーの色よりも、ずっとずっと濃い赤だった。
彼を弾き飛ばした「何か」は、すでに走り去った後なのか、それとも見えない運命の力なのか。
私にはわからなかった。
ただ、結果だけがそこにあった。
「……う、そ……」
思考が真っ白に染まる。
嘘だ。
私が守るはずだった。
私のハイスペックな体は、そのためにあったはずなのに。
なんで、私がここにいて、彼があそこにいるの?
なんで、彼が私を突き飛ばしたの?
「……颯太、くん……」
私は這うようにして彼に近づいた。
周りの人々が遠巻きに見ている。
誰も助けようとしない。
動かない。
ピクリとも動かない。
彼の瞳は虚空を見つめ、そこにはもう、私の姿は映っていなかった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
私の絶叫が、春の空に響き渡った。
喉が裂けるほど叫んでも、涙が枯れるほど泣いても、彼は戻らない。
婚姻届。
あの紙切れ。
三文判の印鑑。
未来の約束。
全部、全部、無意味になってしまった。
「……一万、五千、四百、九十八回目」
静かな、氷のように冷たい声が、頭上から降ってきた。
顔を上げると、彼女が立っていた。
朱里。
「……今回で、15,498回目よ。彼が死ぬのは」
その言葉が意味を持つ前に、私の体は弾かれたように動いていた。
「朱里!!」
私は彼女の胸倉を掴み、そのまま背後のガードレールへと叩きつけた。
ガンッ! と鈍い音が響く。
痛みなんてどうでもいい。
理屈なんていらない。
私の颯太くんを壊した。
その事実だけで、この女を生かしておく理由がない。
「あなたが、やったの……!?」
至近距離で睨みつける。
殺してやる。
こいつがすべての元凶だ!
首に手をかけ、力を込めようとした。
その時――彼女の瞳があまりにも悲しげで、私の指が止まった。
「いいえ。これは『収束』よ」
彼女は淡々と、しかし瞳からはとめどなく涙を流しながら言った。
その表情は、悲しみを超えて、摩耗しきった魂の抜け殻のようだった。
「私が何度繰り返しても……どうあがいても、彼はこの日、この場所で死ぬ運命にある。 私が身代わりになろうとしても、あなたが守ろうとしても……彼は必ず、愛する人を庇って死ぬの。 そういう『魂』を持った人だから」
彼女はその場に膝をつき、颯太くんの亡骸に触れようとして、震える手を止めた。
触れる資格すらないと、自分を戒めるように。
「……説明するわ。私の役目だから」
彼女は語り始めた。
信じられない真実を。
彼女こそが、オリジナルの「如月日和」であること。
かつて、この場所で事故に遭いそうになった時、颯太くんに突き飛ばされて生き残ったのは、彼女だったこと。
彼を失った絶望から、彼女は彼の夢であった「理工学部」へ進み、タイムパラドクス理論を完成させたこと。
そして、彼を救うために過去への干渉を、一万回以上繰り返していること。
「でも、私が直接干渉すると、パラドクスの歪みで彼が私を認識できなくなったり、別の不幸が起きたりした。 彼を救うためには、彼が『心から愛し、守りたいと思う存在』が必要だった。 だから……私は『最高の変数』を用意したの」
彼女は悲しげに私を見た。
「それが、あなたよ」
「……え?」
「あなたは、私が作った生体アンドロイド。 私の若い頃の姿をベースに、頭脳、身体能力、容姿、そして何より『鳴海颯太を愛する機能』を極限まで強化した、完璧な恋人」
「…………」
アンドロイド?
私が?
嘘だ。
私は人間だ。
心臓も動いているし、血も流れている。
こんなに悲しいのに。
こんなに愛しているのに。
お母さんも、お父さんもいたじゃない。
「あなたの記憶も、両親という認識も、すべてプログラムされたもの。 彼を、人生の最期まで孤独にさせないために。 そしてあわよくば、その完璧な愛と能力で、彼の死の運命さえも回避してもらうために」
彼女は颯太くんの胸ポケットから、少しはみ出した婚姻届を見つめた。
「……今回は、一番うまくいったケースだったわ。 彼はあなたを愛し、婚姻届を書くほど満たされ……最高の幸福の中で、あなたを守って死ねた。 実験は、ある意味で成功ね」
「ふざけるな!!」
私は叫んだ。
成功?
これが?
彼が死んだのに?
「……ええ、ふざけてるわ。 彼を救うためにわたしの知識と愛、科学のすべてを注ぎ込み、時間を冒涜して、偽物の私まで作ったのに……。 結局、私が証明したのは、『私の愛が重すぎて、彼をこの死の運命に縛り付けている』という事実だけだった」
『君の「好き」が重すぎる』
颯太くんの言葉がリフレインする。
それは、私のことじゃなかった。
時空を超えて彼を追い回し、死んでもなお彼を離さない、このオリジナルの彼女の狂気じみた業のことだったのだ。
サイレンの音が近づいてくる。
救急車。
パトカー。
もう、手遅れなのに。
朱里――オリジナルの日和は、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の体もまた、陽炎のように揺らぎ始めている。
この時間軸での役割を終え、また次の地獄へ、あるいは虚無へと消えようとしているのか。
「……ねぇ」
彼女は消えゆく輪郭の中で、私に問いかけた。
「あなたは、これから自由よ。 私の干渉はここで途切れる。あなたはアンドロイドとして、この世界で生き続けることができる。 ……どうしたい?」
「…………」
私は、動かなくなった颯太くんの手を握りしめたまま、その問いを聞いた。
どうしたい?
自由?
私の脳内では、膨大な演算が音を立てて行われていた。
しかし、その全てが真っ赤な警告色で埋め尽くされている。
『警告:ターゲット喪失』
『エラー:存在意義の消失』
『推奨アクション:検索中……なし』
『幸福定義:不能』
『システム障害:愛する対象が存在しません』
私は「鳴海颯太を愛するため」に作られた。
私の「好き」という感情も、彼を守るための「ハイスペック」も、すべて彼という関数があって初めて成立するものだ。
彼がいない世界で、私は何者になればいい?
この重すぎる愛を、どこへ持っていけばいい?
人間なら、時が経てば癒えるかもしれない。
でも私は機械だ。
この瞬間の絶望も、喪失も、彼への愛も、劣化することなく永遠に鮮明なデータとして残り続ける。
「あ、あぁ……あ……」
口を開こうとした。
でも、言葉は出てこなかった。
肯定も、否定も、嘆きさえも。
ただ、圧倒的な「虚無」だけが、私の回路を焼き切っていく。
涙だけが、壊れたバルブから漏れ出す冷却水のように、止まることなく流れ落ちた。
私は答えられなかった。
ただ、冷たくなっていく彼の手の温度だけが、私に残された唯一の現実だった。
桜の花びらが、血溜まりの上に静かに舞い落ちる。
君の「好き」が重すぎる。
その重さに押し潰された世界で、私はただ、動かなくなったお人形のように、どこまでも青い春の空を見上げていた。
記録ログ15,498回目(完)




