第29話『三月の境界線と、作られた愛の記憶』
三月。
あんなに厳しかった寒さが和らぎ、風の中に微かに沈丁花の香りが混じり始めた。
明日は、卒業式だ。
私たちが鳴海颯太くんと同じ「高校生」という記号を共有できる最後の日であり、そして二人が同じ誕生日を迎える月でもある。
「……これかな。いや、こっちのグラスの方が新居に合うかも」
私は一人、駅前の雑貨屋にいた。
颯太くんへの誕生日プレゼントと、四月から始まる同棲生活――私たちの「愛の巣」のための日用品を選んでいるのだ。
先月のバレンタインには、私の「所有権主張(透明キーケース)」を受け入れてくれた彼。
合格発表も無事に終わり、私たちの未来は輝かしい春色に染まっているはずだった。
なのに。
なぜだろう。
今朝からずっと、胸の奥がザワザワする。
まるで、忘れてはいけない何かを忘れているような。
あるいは、見てはいけないものから目を逸らしているような、漠然とした黒い不安が、胃の腑にへばりついて離れない。
「……考えすぎ、だよね。マリッジブルーならぬ、卒業ブルーってやつかな」
私は首を横に振り、ペアのマグカップを手に取った。
大丈夫。
私たちの愛は「成就」したし、お互いの両親も公認だ。
障害なんて何もない。
私はレジに向かおうとして、ふと視線を感じて立ち止まった。
店の外。
ショーウィンドウの向こう側。
賑やかな雑踏の中に、ぽつんと、色彩を失ったような一人の女性が立っていた。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
あの人だ。
夏に大学のキャンパスで会った、白衣の女。
朱里。
けれど、今日の彼女は白衣ではなかった。
色褪せたグレーのコートに、飾り気のないパンツスタイル。
化粧っ気もなく、髪も無造作に束ねられている。
まるで街の風景に溶け込み、誰の記憶にも残らないように振る舞う「影」のような姿。
でも、その瞳だけが、ガラス越しに私を射抜いていた。
(……逃げなきゃ)
本能が警鐘を鳴らした。
関わってはいけない。
彼女は私の「日常」を壊す異物だ。
私は商品棚の陰に隠れ、別の出口を探そうとした。
「逃げないで、如月さん」
いつの間にか、彼女は私のすぐ背後に立っていた。
音もなく。
気配もなく。
幽霊のように。
「……私に、何か用ですか」
私は警戒心丸出しで睨みつけた。
バッグの中の防犯ブザーを握りしめる。
「少し、話せないかしら。颯太くんのことで」
「颯太くん? あなた、彼とどういう関係なんですか」
「……彼は、私の命の恩人なの」
その言葉に、私は足を止めた。
命の恩人?
颯太くんが?
そんなドラマチックな話、一度も聞いたことがない。
でも、颯太くんならあり得るかもしれない。
彼は昔から、困っている人を放っておけない危なっかしい優しさを持っているから。
「……恩人のために、私は最大限の努力をしようとしているの。 だから、その『結果』であるあなたの話を聞きたいの。お願い」
彼女の声には、以前のような冷徹な響きはなく、どこか切羽詰まったような、懇願するような色が混じっていた。
まるで、祈るような目。
その目に絆され、私は不承不承ながら、近くの喫茶店になら入ることを承諾した。
喫茶店に入ると、彼女は一番奥の、人目につかない席を選んだ。
ホットコーヒーを二つ注文し、湯気が立つカップを挟んで向かい合う。
彼女は砂糖もミルクも入れず、ブラックのまま一口啜った。
その手は、微かに震えているように見えた。
「……大学、合格おめでとう」
彼女が唐突に言った。
「え……どうしてそれを?」
「知ってるわよ。あなたが彼の後を追って、同じ大学の同じ学部を選んだことも。 ……春からは、一緒に暮らすのよね?」
「……はい」
私はカップを強く握りしめた。
なぜ、そこまで知っているのか。
私たちの行動を監視している?
いや、それにしては情報が正確すぎる。
まるで未来を見てきたかのような口ぶりだ。
「それで……どうなの?」
彼女はカップを置き、縋るような目で私を見た。
「彼とは、一つになれた? 肉体的な関係は……持てたの?」
「ぶっ……!?」
私は飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。
「な、ななな、何を言ってるんですか!?」
「答えて。重要なことなの」
「関係ないでしょ、あなたには! それは私たち二人の問題です! 無関係のあなたに話すようなことじゃ……!」
「関係あるわ。それが彼の幸福度を最大化する、一番確実なアンカー(錨)なんだから」
彼女は真剣だった。 そこには野次馬根性も、下世話な好奇心もない。
ただひたすらに、医学的な処置の結果を問うような切実さがあった。
「……どういう、意味ですか」
「愛する人と肌を重ね、溶け合うこと。 それは脳内麻薬物質を分泌させ、精神を深い安らぎで満たし、『生』への執着を強固にする。 この世で最も安全で、幸福な場所へ彼を避難させること……それが私の狙いだった」
彼女は独り言のように呟いた。
「彼を幸せの絶頂に閉じ込めてしまえば、どんな運命の干渉も跳ね除けられるはずだった。 ……で、どうなの? まだなの?」
私は圧倒されながらも、正直に答えるしかなかった。
「……まだ、です。 何度かトライはしましたけど……颯太くんが、誕生にまでは待つって。大切にしたいからって……」
私がそう告げると、彼女はガクリと肩を落とし、深く、深く絶望したように目を閉じた。
「……そう。やっぱり、ダメだったか」
「え?」
「優しすぎるのよ、あの人は。 『愛しい』という記憶を埋め込むだけじゃ、彼の理性を壊すほどの衝動にはならなかった……。 もっと強烈な、依存や執着のパラメータをあなたに設定するべきだったのかしら」
カチャリ。
私の頭の中で、何かが噛み合わない音がした。
世界に亀裂が入るような、乾いた音。
記憶に、埋め込んだ?
パラメータ?
設定?
「……ちょっと、待って」
私は震える声で遮った。
カップを持つ手が震えて、コーヒーが波打つ。
「何言ってるの……? 記憶を埋め込んだって……何? 私の『好き』って気持ちが……誰かに作られたものだって言いたいの?」
全身の血が引いていく。
私のこの、颯太くんへの溢れんばかりの愛。
重いと言われるほどの執着。
彼のためなら何でもできるハイスペックな能力。
それらがすべて、私の意志ではなく、「恩人のために彼を幸せにする装置」として、あの女によってプログラムされたデータなのだろうか?
私は目の前の女を凝視した。
似ている、と彼女は言った気がする。
もしかして、彼女は未来の私?
タイムトラベルをして、過去の自分に干渉している?
「……あなた、何者なの?」
私は探るように、彼女の顔の細部を観察した。
目元の形。
鼻梁の高さ。
骨格のバランス。
毎日鏡で自分の顔を見続けているナルシストな私にはわかる。
(……違う)
似ていない。
雰囲気や顔立ちは同系統かもしれないけれど、決定的に何かが違う。
彼女が私の未来の姿だとしたら、どんなに歳を取っても、もっと面影が残るはずだ。
遺伝子レベルでの違和感。
彼女は、私ではない。
「朱里なんて、偽名なんでしょ? あなたは私じゃない。未来の私でもない。 ……本当は誰なの?」
彼女は顔を上げ、私を見た。
その瞳は、ひどく悲しげで、そしてどこか遠い場所を見ているようだった。
「……ええ、私はあなたではないわ。 でも、名前は偽名と言うあなたの推測も当たっているわ。」
彼女は寂しげに微笑んだ。
「私の本当の名前はね……『如月日和』よ」
「……は?」
思考が停止した。
キサラギ、ヒヨリ?
私の名前だ。
同姓同名?
いや、彼女は私ではないと確信したばかりだ。
なのに、同じ名前?
「何の冗談……? じゃあ何? 私たちは偶然、同じ名前を持った赤の他人だって言うの?」
「偶然じゃないわ。 『如月日和』というのは、彼を愛し、彼を守るために存在する役割の名前だから」
彼女は腕時計に目をやった。
その腕時計は、私が去年、颯太くんにプレゼントしたものと酷似していたが、ガラスには無数のひびが入っていた。
「……もう時間がないわ。 肉体的な結合による『確定』がなされなかった以上、明日が分岐点になる」
彼女は伝票を掴んで立ち上がった。
「待って! どういうこと!? 時間がないって何!? 明日って……卒業式のこと!?」
私も慌てて立ち上がった。
聞きたいことが山ほどある。
私が何者なのか。
あなたが何者なのか。
そして明日、颯太くんに何が起きるのか。
「卒業式が終われば、すべてわかるわ」
彼女は背中を向けたまま言った。
「彼を幸せにしなさい、日和。 たとえあなたの『心』が作られたものだったとしても……彼を愛するその機能だけは、誰よりも高性能に作られているはずだから」
「待って!!」
彼女は店を出て行った。
私は小銭をテーブルに叩きつけ、慌てて後を追った。
店のドアを開け、通りの左右を見渡す。
「……嘘」
いない。
店を出て数秒しか経っていないのに。
雑踏の中に、彼女の姿は影も形もなかった。
まるで、最初から幻影だったかのように、春の風に溶けて消えてしまった。
夜。
私は自分の部屋のベッドで、膝を抱えて震えていた。
窓の外は暗く、風の音が不気味に響いている。
(……埋め込まれた、記憶)
自分の胸に手を当てる。
トクトクと脈打つ心臓。
この中にある「颯太くんが好き」という感情。
それは、本当に私のものなのだろうか?
私が幼い頃から彼を見て、彼に恋をして、積み重ねてきた思い出は……すべて「彼を幸せにする」という目的のために、あの女によって後から書き込まれたデータなのだろうか?
私は、精巧に作られた「恋人ロボット」みたいなもの?
私の意思だと思っていた「重い愛」は、ただの初期設定?
『君の「好き」が重すぎる』
颯太くんが笑って言ってくれた言葉。
愛の質量。
でも、もしその「重さ」が、私の魂の重さではなく、誰かに書き込まれた「運命の重力」だとしたら。
「……怖い」
スマホを握りしめる。
颯太くんに電話したい。
「声が聞きたい」「怖いことがあった」と甘えたい。
でも、発信ボタンが押せない。
もし、私が彼に近づくこと自体が、彼を何かに巻き込むトリガーだとしたら?
(……シミュレーション開始)
私の脳内の「ハイスペックな演算機能」が、勝手に最悪の未来を予測し始める。
ケース1:明日、卒業式に向かう途中で事故に遭う。
ケース2:式中に何者かが襲撃してくる。
ケース3:世界の理が崩壊し、颯太くんが存在ごと消滅する。
ケース4:私が暴走し、彼を傷つける。
ケース5:私たちの時間が巻き戻り、全てがリセットされる。
ケース6……。
無限に湧き出るバッドエンド。
その中には、ありえないような「理不尽な結末」も混じっているかもしれない。
「…………」
私は恐怖に震えながら、一つ一つ、その絶望的なビジョンを噛み砕いていった。
怖い。
逃げたい。
自分が何者かわからないなんて、狂ってしまいそうだ。
でも。
(……だから、何?)
ふと、心の底から冷たく、硬質な声が聞こえた。
たとえ私の記憶が偽物だとしても。
私のこの「好き」という感情が、プログラムされた電気信号に過ぎないとしても。
今、私が颯太くんを想って流しているこの涙は、熱いじゃないか。
彼に触れた時の喜びも、彼に「重い」と言われた時の幸福も、全部私が感じた「現実」じゃないか。
「……私が偽物でも、構わない」
私は顔を上げた。
暗い部屋の中で、私の瞳だけがギラリと光った。
「私が作られた存在なら、作った奴に感謝してやる。 だって、こんなに颯太くんを愛せるように作ってくれたんだから」
そうだ。
目的が「颯太くんの幸福」なら、利害は一致している。
あの女が何を目論んでいようと、私は私のやり方で彼を守る。
明日、何が起きようと。
たとえ世界がひっくり返ろうと、空から槍が降ってこようと。
私のハイスペックな頭脳と、鍛え上げた身体能力、そして何よりこの「重すぎる愛」の全てを使って、絶対に彼を幸せにしてみせる。
「……待っててね、颯太くん」
スマホの画面の中で笑う彼の寝顔を、親指で優しく撫でる。
「あなたの幸せは、私が守る。 運命だろうが、呪いだろうが、私の愛の重力で全部ねじ伏せてあげる」
夜明けが来る。
それは終わりの始まりかもしれない。
でも、私は逃げない。 私は「如月日和」。
鳴海颯太を愛するためだけに生まれた、最強のヒロインなのだから。




