第27話『新春の長襦袢と、成就した願い』
一月。
新しい年が明けた。
凛と張り詰めた冬の空気が、街全体を清めているような元旦の朝。
私の部屋では、新年早々、熾烈な戦いが繰り広げられていた。
「……っぐ! 苦しい! お母さん、締めすぎじゃない!?」
「我慢なさい。着物は緩いとだらしないのよ。ほら、息吐いて!」
ギュウウウゥッ!!
私の腰に巻かれた紐が、容赦なく締め上げられる。
現在、初詣に行くための振袖の着付け中。
着付け師は、我が家の絶対権力者である母だ。
「……ちょっと日和。あなた、少し太ったんじゃない?」
お母さんが私のウエスト周りを触りながら、疑わしげな目を向けた。
「失礼な! 太ってないよ! 成長したの!」
「どこがよ。お正月のお餅はまだ食べてないわよ?」
「ここ! 胸!」
私は長襦袢の上から、自分の胸元を強調してみせた。
「颯太くんへの愛が詰まりすぎて、ここだけ発育が良くなってるの! 最近、ブラがきついの! これは脂肪じゃなくて希望の膨らみなの!」
「はいはい、そうですか」
お母さんは呆れたように受け流しつつ、手際よく紐を結んでいく。
そして、鏡越しに私をジロリと睨んだ。
「で? その愛の重さに見合う成果はあったの?」
「え……?」
「クリスマスのフレンチよ。 あれだけ高いチケットを渡して、お泊まりのお膳立てまでしてあげたのに……どうだったの?」
「うぐっ……」
痛いところを突かれた。
あのクリスマスの夜。
リボンを巻いて「プレゼントは私」と特攻したものの、颯太くんの「誕生日までお預け」という鉄壁の理性に阻まれ、結局は指輪をもらって幸せに寝るだけで終わってしまった。
精神的な絆は深まったけれど、お母さんが期待しているような「既成事実」は、まだない。
「……精神的には繋がったよ。指輪もくれたし」
「肉体的には?」
「……まだ、です」
私が消え入りそうな声で答えると、お母さんは「はぁ~」と深い深いため息をついた。
「嘘でしょう? あれだけのシチュエーションで? 我が娘ながら情けないわねぇ……。あんた、本当に私の娘? 私の時はもっとこう、強引に……」
「だって! 颯太くんが紳士すぎるんだもん! 『卒業まで待て』って言われたら、従うしかないじゃん!」
「言い訳は聞きたくありません。 まったく、颯太くんも奥手なんだから……ここは一つ、起爆剤が必要ね」
お母さんがブツブツと何かを画策し始めた、その時だった。
ピンポーン。
一階のインターホンが鳴り響いた。
「あ、お母さん手が離せないから。お父さーん! 出てー!」
お母さんが大声で叫ぶと、リビングにいたお父さんが対応に出たようだ。
少しして、階段の下からお父さんの声が聞こえてきた。
「おーい、颯太くんが来たぞー。年始の挨拶と、日和を迎えに来たって」
「!」
颯太くんだ。
約束の時間より少し早いけれど、彼が迎えに来てくれた。
早く会いたい。
振袖姿を見せて、驚かせたい。
でも、今はまだ着替えの途中だ。
「上がってもらってー! 自分の家だと思ってくつろいでってー!」
お母さんが叫び返した。
「えっ!? お母さん、ダメだよ! 私まだ着替え中……!」
私は真っ白な長襦袢姿のまま慌てた。
振袖を着る前の、いわば着物の下着姿だ。
襟元は大きく抜けているし、薄い生地越しに体のラインも出ている。
こんな、半分裸みたいな姿を見せるわけにはいかない。
「いいのよ」
お母さんはニヤリと笑った。
「着替え中を見せてあげるのも、作戦のうちよ」
「……え?」
「完成された振袖姿もいいけど、完成していく過程、それも一番無防備な長襦袢姿を見せることで、男の子の想像力を刺激するの。 これが『隙』を作るってことよ。勉強しなさい」
「な、なるほど……! さすが師匠……!」
この母にしてこの子あり。
私はその高等戦術に感服し、大人しく従うことにした。
トントン。
ノックの音がして、ドアが開いた。
「お邪魔しまーす。……おばさん、あけましておめ……」
入ってきた颯太くんは、部屋の光景を見てフリーズした。
鏡の前に立つ私。
まだ鮮やかな振袖を羽織っておらず、白無垢のような長襦袢一枚で、髪もアップにしている途中。
大きく開いた襟足から、白いうなじや、鎖骨のラインが露わになっている。
「……っ!!」
颯太くんの顔が、瞬時に沸騰したように赤く染まった。
視線が私のうなじから胸元へと泳ぎ、そして慌てて逸らされる。
「わ、わりっ! 親父さんが上がっていいって言うから……って、着替え中じゃねぇか!」
彼は慌てて回れ右をして出て行こうとした。
「あら颯太くん、いらっしゃい。逃げなくていいわよ」
お母さんが余裕の声で呼び止めた。
「ちょっと着付けに手間取っちゃってね。 日和ったら、最近ちょっと太ったみたいで、紐が回らなくて……」
「お母さん!! だから太ったんじゃないってば!!」
私は颯太くんに向かって叫んだ。
名誉のために訂正しなければならない。
乙女にとって、「太った」という濡れ衣は死活問題だ。
「ねぇ颯太くん! 私、太ってないよね!? 胸が大きくなったんだよね!? わかるよね!?」
私は詰め寄った。
長襦袢越しでもわかるはずだ。
この成長が。
薄い布一枚隔てただけの距離まで迫る。
「はぁ!? お前、何聞いて……」
颯太くんは視線を彷徨わせ、天井を見たり床を見たりして、必死に私を見ないようにしている。
でも、その耳は真っ赤だ。
「あら、日和。普通の男の子はね、胸のサイズの違いなんて、そんな細かいこと気にしないものよ?」
お母さんが追い討ちをかけるように言った。
「え、そうなの? 颯太くんも気づいてないの?」
私はショックを受けて、さらに彼に詰め寄った。
「嘘でしょ? 毎日一緒にいるのに? 私の胸が成長したことに気づいてないなんて、そんな……!」
「……っ、だーっ!! うるせぇ!!」
颯太くんがついに限界を迎えたように叫んだ。
「知らねーよ!! 気にしてねぇよ!! 見てねぇよ!! 俺は下で待ってるからな!! さっさと着替えろバカ!!」
彼は顔を覆い、逃げるように部屋を飛び出していった。
ドタドタという足音が遠ざかっていく。
「……ふふっ。可愛いわねぇ、颯太くん」
お母さんは満足そうに笑い、帯を手に取った。
「見た? あの反応。『見てない』ってことは『意識して見てました』ってことよ。 作戦成功ね」
「……なるほど。奥が深い」
私は颯太くんの真っ赤な顔を思い出しながら、ニマニマと笑いが止まらなかった。
長襦袢の威力、恐るべし。
着付けを終え、私たちは初詣に向かった。
雲ひとつない快晴。
私は赤い振袖、颯太くんはネイビーのコート姿。
並んで歩くだけで、すれ違う人たちが振り返るような(と私が勝手に思っている)お似合いのカップルだ。
神社の参道には、たくさんの屋台が並んでいた。
焼きそば、たこ焼き、りんご飴。
香ばしい匂いが漂ってくる。
「あ、颯太くん! 綿あめ!」
私は袋に入った大きな綿あめを指差した。
「お前、振袖でそれ食うのか? 汚すなよ?」
「大丈夫! 颯太くんが食べさせてくれれば汚れないもん!」
「……はいはい」
颯太くんは渋々ながらも綿あめを買ってくれた。
私はそれをちぎっては口に運び、時々颯太くんの口にも押し込んだ。
甘い。
お正月独特の浮かれた空気と、砂糖の甘さが溶け合って、幸せな味がする。
「さて、おみくじ引くか」
綿あめを食べ終えた私が提案すると、颯太くんが露骨に嫌な顔をした。
「……俺はパス。去年『凶』だったし」
「えー? 引こうよー」
「嫌だ。もし今『凶』とか出たら、受験前に立ち直れなくなる。縁起でもねぇ」
彼は本気で怯えていた。
去年のトラウマと、目前に迫った受験のプレッシャー。
颯太くんは意外と繊細なのだ。
「大丈夫だよ! 私が運を分けてあげるから!」
「根拠がねぇよ……」
「いいから! 神様だって、こんなに可愛いカップルに意地悪しないって!」
私は強引に彼の手を引いて、おみくじ売り場へ連れて行った。
ガラガラと筒を振る。
棒が出る。
巫女さんから紙を受け取る。
「いっせーのーで!」
ペラッ。
私の手元には『大吉』の文字。
そして、恐る恐る目を開けた颯太くんの手元にも――『大吉』の二文字があった。
「……っ! おおっ! 大吉だ!」
颯太くんがパァッと顔を輝かせた。
「ほらね! 言ったでしょ? 私たち最強なんだから!」
「よし……これで受かる気がしてきた」
単純だけど、この自信が大事なのだ。
私たちは拝殿の前で並んで手を合わせた。
(神様。どうか、颯太くんといつまでも一緒にいられますように。 二人で同じ大学に行って、卒業して、結婚して、おばあちゃんになるまで、ずっとずっと隣にいられますように。 あと、できれば春までにお泊まりデートのチャンスをもう一度……)
私は二拍手の後、長く、熱心に祈り続けた。
隣の颯太くんがとっくに顔を上げている気配がしたが、私は気にせず念を送り続けた。
「……なげぇよ」
参拝を終えて歩き出すと、颯太くんが呆れたように言った。
「何をそんなに熱心に願ってたんだ?」
「内緒! 言うと叶わなくなっちゃうから」
私は人差し指を唇に当ててウィンクした。
言えるわけがない。
「颯太くんとの未来のすべて」を願っていたなんて。
「お前なぁ……。なんか忘れてないか?」
「え? 何?」
「俺たち、受験生だろ? あと二週間でセンター試験だぞ。普通、『合格祈願』しかねぇだろ」
「あ! そうだった!」
あまりに颯太くんのことばかり考えていて、受験のことをすっかり失念していた。
私としたことが、優先順位がバグっている。
「ほら、絵馬買うぞ。神頼みもしとかないと」
私たちは絵馬の授与所へ向かった。
色とりどりの絵馬が並んでいる。
私は無意識のうちに、ピンク色のハートが描かれた絵馬に手を伸ばしていた。
『良縁祈願』『恋愛成就』と書かれたやつだ。
「よし、これに……」
「おい」
颯太くんが私の手首を掴んだ。
そして、呆れ果てたような、でもどこか優しい目で私を見下ろした。
「お前……それはもう、成就してるだろ?」
「……え?」
時が止まった。
周囲の雑踏も、お正月のBGMも、すべてが消え失せた。
今、なんて?
成就してる?
それって、つまり……。
「叶うことを願う必要なんてない。俺たちの恋は、もう完成している(両想いだ)」ってこと?
ドッッッカーーーーン!!
私の心臓が爆発した。
脳内でドーパミンとエンドルフィンが奔流となって駆け巡る。
「そ、そ、そ、颯太くぅぅぅぅん!!!」
「うわっ、うるせぇ! 叫ぶな!」
「今なんて言った!? もう一回! もう一回言って! あああ、なんで録音してなかったの私のバカ!! 成就してる!? してるの!? 私たち、もうゴールインってこと!?」
「ゴールインとは言ってねぇよ! 両想いって意味だろ! ……恥ずかしいこと言わせんなバカ!」
颯太くんは顔を背け、フードを深く被ってしまった。
耳が赤い。
破壊力が高すぎる。
お正月からこんな特大の供給があるなんて、今年一年、私は無敵になれる気がする。
「……へへっ。そっか。成就してるのかぁ……」
私はニヤニヤが止まらない顔で、ピンクの絵馬を戻し、代わりに『合格祈願』の木製の絵馬を手に取った。
そうだ。
恋はもう叶っている。
なら、願うべきは、その恋を続けるための未来だ。
私たちは並んで絵馬を書いた。
『二人で一緒に、合格しますように』
そう書いて、境内の奉納所に並べて結んだ。
そして一月中旬。
運命のセンター試験当日。
雪がちらつく寒い朝。
私たちは同じ会場で、それぞれの戦いに臨んだ。
「……寒いな」
会場の門の前で、颯太くんがポツリと呟いた。
見ると、彼の手が微かに震えている。
顔色も悪い。
「俺は絶対に受からなきゃいけない」
「日和と同じ大学に行かなきゃいけない」というプレッシャーが、彼を押しつぶそうとしているのだ。
普段は強気な彼が、こんなに小さく見えるなんて。
私は無言で彼の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
そして、ハーッと温かい息を吹きかける。
「……日和?」
「大丈夫。颯太くんの手、あったかくなってきた」
私は彼を見上げて、ニッコリと笑った。
「颯太くんなら絶対大丈夫。私が保証する。 だっておみくじは大吉だし、絵馬も書いたし、何より私がついてるんだもん。 私の旦那様が、センター試験ごときでつまづくわけないでしょ?」
根拠のない、でも絶対的な自信。
それを伝えると、颯太くんは目を丸くして、それからふっと肩の力を抜いた。
「……普通、逆だろ」
彼は苦笑した。
「ここでビビって震えてるお前を、俺が励ますのがセオリーだろ」
「ふふん。今日は特別に、私が支えてあげる」
「……ありがとな。目が覚めたわ」
颯太くんの顔に、いつもの不敵な色が戻った。
もう大丈夫だ。
すべての科目を終え、会場の外で合流した時。
私はかつてない達成感に包まれていた。
「颯太くん! どうだった!?」
「……おう。まぁ、多分大丈夫だとは思うけど……数学がちょっと怪しいかも」
颯太くんは少し自信なさげに首を傾げたけれど、朝のような悲壮感はない。
力を出し切った顔をしている。
「私はね、過去最高の手応え! 神様と颯太くんの愛がペンに宿ってたよ! マークミスさえなければ満点かも!」
「お前……本番に強すぎだろ」
颯太くんが呆れるように笑う。
私は彼の手を取り、ギュッと握りしめた。
「ねぇ、颯太くん」
「ん?」
「もし、万が一……私が受かって、颯太くんがダメだったら」
私は真剣な目で彼を見つめた。
「私、入学辞退して、一年待ってあげるからね」
「……は?」
「颯太くんがいない大学生活なんて意味ないもん。 一緒に浪人して、来年また一緒に受けよう? 私、一年くらいなら全然待てるし!」
それは、冗談ではなく本気だった。
私の人生設計において、「大学卒業」よりも「颯太くんとの同期入学」の方が優先順位が高いのだ。
颯太くんは目を丸くして、それからふっと吹き出した。
「……重いな、相変わらず」
「愛だよ、愛!」
「まぁ……でも、ありがとな。 でも安心しろ。お前に一年も棒に振らせるような無様な真似、俺はしねぇよ」
彼は握り返した手に力を込め、不敵に笑った。
「絶対受かる。二人でな」
「……うん!」
その言葉が、何よりのお守りだった。
雪空の下、私たちは繋いだ手を離さずに帰路についた。
成就した恋と、これからの未来。
その両方を抱きしめて、私たちは春を待つのだ。




