第25話『十一月の湯煙と、主導権の在り処』
十一月。
山々が燃えるような赤や黄色に染まり、冷たく澄んだ空気が冬の訪れを告げる季節。
本来なら受験勉強のラストスパートに入る時期だが、今週末だけは特別だ。
十月の看病イベント――私が颯太くんを完璧な管理下で回復させたあの一件を受け、颯太くんのご両親(特に美奈子さん)が「ぜひお礼をさせて!」と提案してくれたのだ。
それはなんと、紅葉の名所にある高級旅館への一泊旅行だった。
しかも、私たちの両親公認。まさに「公式」イベントだ。
「じゃあ日和ちゃん、颯太のことよろしくね。……もういっそ、四ヶ月後の卒業式の日に籍入れちゃってもいいんじゃない?」
出発の朝、駅まで見送りに来てくれた美奈子さんが、茶目っ気たっぷりに、しかし目は割と本気で爆弾発言を投下した。
「ちょ、母さん! 何言ってんだよ!」
「あら、だってねぇ? 日和ちゃんのご両親とも『孫の顔を見るのが楽しみですね』なんて話してたのよ? 準備は早いに越したことないでしょ?」
「気が早すぎるだろ!!」
颯太くんは顔を真っ赤にして怒っているけれど、その否定はどこか弱い。
「絶対ない」とは言わないのだ。 私はその反応を見逃さず、美奈子さんに力強くサムズアップで応えた。
「お任せくださいお義母さん! 既成事実、バッチリ作ってきます! 戸籍謄本の手配も視野に入れておきます!」
「おい日和! お前も乗るな! 行くぞ!」
颯太くんに首根っこを掴まれ、私たちは電車に乗り込んだ。
車窓を流れる紅葉よりも、私の頬の方が赤く染まっていたかもしれない。
公認の新婚旅行(予行演習)。
この一泊二日で、私たちは「恋人」から「夫婦」へとステップアップするのだ。
到着した旅館は、想像以上に豪華だった。
離れの客室。
窓の外には専用の日本庭園。
そして何より、テラスには源泉掛け流しの露天風呂がついている。
「すっご……! すっごいよ颯太くん! 見て、お部屋に露天風呂!」
私はカバンを放り出すと、即座にポケットからスマホを取り出し、カメラモードを起動した。
ここからは「記録魔・如月日和」の独壇場だ。
「颯太くん! まずはそこの掛け軸の前で立って! 威厳ある感じで!」
「え、ここで?」
カシャッ、カシャッ、カシャッ。
「次は窓際! 紅葉をバックに黄昏れて! あ、今のアンニュイな表情最高!」
カシャッ、カシャッ。
「ちょ、日和、撮りすぎだろ……」
「何言ってるの! これは『新婚旅行(仮)』という重要フォルダに保存される歴史的資料なんだよ! 一分一秒たりとも颯太くんを逃すわけにはいかないの!」
私は部屋の隅々、お茶菓子、浴衣、そして困惑する颯太くんをあらゆる角度から激写し続けた。
クラウドの容量が悲鳴を上げても知ったことではない。
夕食前。
空が茜色に染まる頃。 私はついに本丸、露天風呂へと視線を向けた。
湯船からは白い湯気が立ち上り、硫黄の香りが鼻をくすぐる。
目の前には真っ赤な紅葉。
こんな最高のシチュエーション、活用しない手はない。
「ねぇ颯太くん。せっかくだし、一緒に入ろうよ」
私は何気ない風を装って提案した。
どうせ「バカか、別々に入るぞ」と拒否されると思っていた。
その拒否をいかに崩すか、泣き落としにするか、論理で攻めるか、シミュレーションも済ませていた。 なのに。
「……ん。まぁ、いいけど」
颯太くんは、拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
「え?」
「え、ってなんだよ。お前が誘ったんだろ。 ……部屋についてる風呂だし、誰に見られるわけでもねぇしな」
彼は少し顔を逸らして、ボソッと言った。
その横顔が赤い。
(か、可愛い……! そして男らしい……!)
予想外の快諾。
颯太くんの中で、何かが変わっている。
十月のあの日から、彼は私を「異性」として意識しつつも、それ以上に「家族」のような絶対的な信頼を寄せてくれている気がする。
「あ、うん! そうだね! じゃあ私、先に入ってるね!」
私は慌てて洗面所へ駆け込んだ。
実は私には、この時のために用意していた「秘密兵器」があった。
トランクから取り出したのは、肩紐のない、チューブトップ型の黒いビキニ。
これを着てお湯に浸かれば、水面から上は「何も着ていない」ように見えるという、あざとい高等戦術用アイテムだ。
(ふふふ、これで颯太くんをドキドキさせてやるんだから!)
私は大急ぎで水着に着替え、バスタオルを巻いてテラスに出た。
「この状況もスマホで撮りたいけど、さすがにお風呂場は水没リスクが……くっ!」と記録魔としての悔しさを噛み締めつつ、湯船へ。
ザブン、と肩までお湯に浸かる。
水面の下には水着があるけれど、上から見れば完全な裸体(に見える)。
よし、準備完了。
「……失礼しまーす」
ガラス戸が開き、颯太くんが入ってきた。
私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、上目遣いで彼を見た。
そして、絶句した。
彼は、一糸纏わぬ姿だった。
前を隠すタオルすら持っていない。
堂々たる全裸で、湯気が立つテラスを歩いてくる。
鍛えられた体躯。
湯気越しに見えるその姿は、あまりに無防備で、そして圧倒的に「男」だった。
(ええええええっ!?)
私の脳内処理が追いつかない。
いや、お風呂だから裸なのは当たり前だ。
でも、普通はもっとこう、恥じらうとか、隠すとかあるじゃない!
なんでそんなに自然体なの!?
まるで何十年も連れ添った夫婦が、銭湯に来たみたいな落ち着き払った態度。
水着で武装している私の方が、なんだか邪道に思えてくるほどの潔さだ。
「……ふぅ。いい湯だな」
颯太くんは私の隣に、ザブンと入ってきた。
近い。
肌と肌が触れ合う距離。
お湯の中で、彼の手足が伸びる。
私は目のやり場に困り、視線を紅葉の方へと固定した。
顔が沸騰しそうだ。
お湯の温度以上に、私の体温が急上昇している。
「……日和」
「は、はい!」
「背中、流そうか?」
「へっ!?」
私は驚いて彼を見た。
颯太くんは、いたずらっ子のような、でもすごく優しい目で私を見ていた。
「看病のお礼。ずっと世話になりっぱなしだしな」
彼は私の背中に手を回そうとした。
待って。
今触られたら、水着のホックがバレる。
「裸だと思ってドキドキしていたのに、実はガードが堅い」なんてバレたら、私の「覚悟」が疑われる!
「あ、あのね、颯太くん!」
「ん?」
「実は私……その……」
私は観念して、お湯の中で自分の胸元を指差した。
「……着てるの」
「は?」
「水着。着てます」
「…………」
颯太くんが目を丸くした。
そして、自分の全裸と、私の水着姿を見比べ、ガックリと項垂れた。
「なんだよ……俺だけ全裸かよ。恥ずかしいじゃねぇか」
「ご、ごめん! 違うの! 裸に見えるように肩紐なしを選んだの! でも脱ぐ勇気がなくて……!」
颯太くんの「損した」と言わんばかりの反応に、私は逆にスイッチが入った。
「わかった! 脱ぐ! 今脱ぐから! 平等になるから!」
私は水中で水着をずらそうとした。
「バカ! やめろ!」
颯太くんが慌てて私の手を掴んで止めた。
その手が熱い。
「ここで脱がれたら、俺の理性が持たねぇよ……。 そのまま入ってろ。……背中は、部屋に戻ってからマッサージしてやるから」
「……うぅ。はい」
結局、私は水着のまま、でも心は裸以上に無防備な状態で、彼とお湯に浸かり続けた。
お風呂上がり。
部屋には豪華な懐石料理が運ばれてきた。
部屋食だ。
誰にも気兼ねなく、二人だけの時間を楽しめる。
配膳をしてくれる仲居さんが、私たちを見て微笑ましそうに言った。
「お二人とも、よくお似合いですね。 まだ学生さんでしょうに、とても落ち着いてらして……まるで若夫婦のようですわ」
「あ、ありがとうございます……」
私は照れくさくて縮こまったけれど、隣の颯太くんは違った。
「……そう見えますか?」
「ええ、とても」
仲居さんが下がった後、颯太くんはお茶を啜りながら、独り言のように呟いた。
「……若い夫婦、か」
「……嫌だった?」
私が恐る恐る聞くと、彼は首を横に振った。
「いや。……それ以外には見えないなって、自分でも思った」
「え……」
「お前が隣にいて、飯食って、風呂入って。 それが当たり前すぎて、恋人とか通り越して、もう家族みたいだなって」
彼は箸を置き、真っ直ぐに私を見た。
ドキュン。
私の心臓が、本日最大級の音を立てて射抜かれた。 見えた。
今度こそ、完全に未来が見えた。
五月の遊園地でも、七月のキャンパスでも見えなかった、二人が並んで歩く未来。
それが今、確かな輪郭を持ってここに存在する。
(こ、これは……記録しなければ!)
私は感動に打ち震えながらも、テーブルの下でスマホを操作した。
ボイスメモ起動。録音開始。
今の言葉、もう一回言ってもらって、一生の宝物にするんだ!
「ね、ねぇ颯太くん! 今のもう一回言って! 『それ以外には見えない』ってとこ! 録音するから!」
私はスマホを突きつけた。
「はぁ? 嫌だよ恥ずかしい」
「えーっ! ケチ! じゃあ私が再生する! 実は今の、こっそり録ってたんだもーん!」
私はニシシと笑い、さっきこっそり録音していたデータを再生した。
『……それ以外には見えないなって、自分でも思った』
颯太くんのイケボが部屋に響く。
「ほーら! 言質とったよ! これでもう逃げられないよ旦那様!」
私は勝ち誇った顔で彼を見た。
普通なら「消せよ!」と顔を赤くして奪い取りに来るはずだ。
しかし。
「……まぁ、間違ってないしな」
颯太くんは、天ぷらを食べながら平然と言った。
「え?」
「だから、本音だって言ったろ。録音したきゃすればいいじゃん」
彼は全く動じていない。
むしろ、その目は揺るぎない確信に満ちていて、私を真っ直ぐに見つめている。
「…………っ」
ブシュウウウウウッ!
私の顔から蒸気が噴き出した。
え、なにその余裕。
なにその「当然だろ」みたいな旦那力。
私の知ってる照れ屋な颯太くんはどこに行ったの?
「ふぇ……あ、う……」
「なんだよ、自分から仕掛けといて自爆すんなよ」
颯太くんが呆れて笑う。
完敗だ。
今の彼は、私がどんな変化球を投げても受け止める、鉄壁の守備力を誇っている。
食後。
「腹ごなしに運動でもするか」という颯太くんの提案で、私たちは館内のゲームコーナーへ向かった。
そこにあったのは、温泉旅館の定番・卓球台。
「よーし! 勝負だ颯太くん! 負けた方はジュースおごりね!」
「お前、卓球できたっけ? 部活入ってないだろ?」
「ふふふ、甘いな颯太くん。 私が特定の部活に入らないのは、放課後の時間を全て颯太くんに捧げるためであって、能力がないからじゃないの! 私は『才能ある帰宅部』のエースなんだから!」
私は浴衣の袖をたすき掛けにして、ラケットを構えた。
試合開始。
カコッ、カコッ、カコッ――
最初はラリーを楽しんでいた。
しかし、徐々に私の「負けず嫌い」と「ハイスペックな反射神経」が覚醒し始めた。
「ほらっ! 右! 次は左!」
シュッ! パコォーン!
私の放ったスマッシュが、台の端を掠めて突き刺さる。
浴衣姿の可憐な少女(自称)からは想像もつかない、鋭い打球。
「おっ、お前! マジかよ! 手加減しろ!」
「勝負の世界に慈悲はないの! 私の愛を受け止めるなら、このスマッシュも受け止めてみせろーっ!」
「理屈がおかしいだろ!!」
私たちは汗だくになりながら、白球を追いかけた。
笑い声と、ボールの弾む音が響く。
ただの恋人同士のじゃれ合い。
でも、全力でぶつかり合えるこの時間が、何よりも愛おしい。
一時間後。
私たちは部屋に戻ってきた。
二人とも汗びっしょりだ。
「はぁ、はぁ……暑いな。もう一回、風呂入るか」
颯太くんが浴衣の襟をパタパタと仰ぎながら言った。
「……うん、そうだね」
私はニヤリと笑い、帯に手をかけた。
「よし! リベンジだ! 今度こそ、全裸で入る!」
「は?」
「さっきは水着で失敗したけど、今は汗だくだし、脱ぐ理由がある! 正々堂々、タオルなしで混浴よ!」
私はスルリと帯を解いた。
「ストップ!!! バカ!! 待て!!」
颯太くんが血相を変えて飛んできた。
私の両腕をガシッと掴み、全力で静止させる。
「なんで!? 夫婦なんでしょ!? 減るもんじゃないし!」
「心の準備ってもんがあるだろ! さっきは不意打ちだったから耐えられたけど、今から『脱ぎます』って宣言されて入られたら、俺の理性が死ぬんだよ!!」
「えー? 颯太くんの理性が死ぬところ見たいなー?」
「見せるか! お前は部屋のシャワーで済ませろ! 俺は一人で頭冷やしてくる!」
「ちぇーっ」
結局、颯太くんは顔を真っ赤にして露天風呂へ逃げていった。
その背中を見送りながら、私はクスクスと笑った。
やっぱり、余裕なんてないじゃん。
私の勝ちだ。
夜。
部屋の照明を落とし、二組の布団が並べられた。
ふかふかの布団。
静まり返った部屋。
窓の外からは、秋の虫の声だけが聞こえる。
「……日和」
先に布団に入っていた颯太くんが、自分の布団の端をめくり、ポンポンと叩いた。
「……こっち、来いよ」
「え?」
「一緒に寝るんだろ? ほら」
それは、今まで私が散々ねだって、彼が拒否してきたシチュエーションだ。
それを彼の方から求めてくるなんて。
旦那様が積極的すぎる。
本来なら、「キャー! 喜んで!」とダイブする場面だ。
でも。
「……颯太くん」
私は布団の端に座り、ニヤリと笑った。
「今日は、旦那様が積極的ですね~」
「うっ……お前がいつも言ってるから、たまにはと思って……」
「嫌か?」と、彼は少し拗ねたように聞いた。
私は、満面の笑みで即答した。
「うん、嫌」
「はぁ!?」
颯太くんがガバッと起き上がった。
心外だ、という顔をしている。
「なんでだよ! お前、いつも一緒に寝たいってうるさいだろ! せっかく俺が覚悟決めたのに!」
「だって!」
私は人差し指を立てて、チッチッチと振った。
「颯太くんにリードされて、守られて、愛されるだけのヒロインなんて、私らしくないもん! 主導権は、私が握るの!」
「……は?」
「颯太くんは、大人しく私に愛されてればいいの! 私が夜這いかけて、私が抱きしめて、私が颯太くんを食らうの! それが『如月日和』の流儀なの!」
私は謎の理屈を叫びながら、彼の布団にダイビングした。
そして、彼を押し倒すようにして抱きついた。
「……なんだよそれ。意味わかんねぇ」
颯太くんは呆れたように息を吐いたけれど、私を拒絶することはなかった。
むしろ、その腕を私の背中に回し、強く抱きしめ返してくれた。
「……ま、お前らしいか」
「でしょ? 覚悟してね、旦那様。今夜は寝かせないから」
「はいはい。……おやすみ、日和」
「あ、ねぇ颯太くん。今の心音も録音しておこうかな?」
私は彼の胸に耳を当て、スマホを探るふりをした。
「うるさい。耳で聞け」
彼は私の頭をポンと叩き、その大きな手で私の耳を塞ぐように撫でた。
トクトクと響く心音。
録音なんてしなくても、この音は一生忘れない。
私は彼の胸に顔を埋め、深い安らぎの中へと落ちていった。
明日も、明後日も、そしてその先もずっと。
この温もりが私の世界であり、私の帰る場所なのだ。




