第24話『十月のスランプと、完璧な処方箋』
十月。
空が高くなり、鰯雲が流れる季節。
受験生にとっては、焦りと不安が加速度的に増していく「魔の十月」だ。
夏休みの猛勉強の成果がすぐに数字に表れるとは限らない。
むしろ、現役生はここからが一番苦しい時期だと言われている。
「……くそっ。またBかよ」
颯太くんの部屋。
机に叩きつけられた模試の結果通知表には、冷酷な『B判定』の文字が刻まれていた。
あと少しでAに届く。
でも、その「あと少し」の壁が、果てしなく高く厚い。
「ごめんね、颯太くん……」
私は彼の背中を見つめながら、小さく謝った。
九月のあの日、私が復活して以来、私たちは毎日のように一緒にいる。
私が彼の時間を奪ってしまっているのではないか。
私の存在が、彼の集中力を削ぐノイズになっているのではないか。
そんな罪悪感が、胸の奥でチクリと痛む。
「……お前のせいじゃねぇよ。俺の実力不足だ」
颯太くんは私の思考を読んだように否定してくれたけれど、その声には明らかな疲労が滲んでいた。
肩が重そうだ。
時折、こめかみを押さえる仕草が増えている。
目の下には薄い隈。
「今日はもう休もう? 根詰めすぎだよ」
「いや、やる。ここで止まったら、置いていかれる気がするんだ」
彼は頑固にシャーペンを握り直した。
その横顔は、何かに追われているように険しい。
私はそれ以上何も言えず、隣で静かに自分の参考書を開くことしかできなかった。
ガタッ。
異変が起きたのは、それから一時間後のことだった。
颯太くんがトイレに行こうと立ち上がった瞬間、椅子が床を擦る嫌な音が響いた。
「……っ」
「颯太くん?」
見ると、颯太くんが立ちくらみを起こしたように、グラリと体を揺らしていた。
視線が定まっていない。
まるで、糸が切れた操り人形のように、彼の膝が折れる。
「……わり、なんか目が回っ……」
言葉は最後まで続かなかった。
ドサッ! という鈍い音がするより早く、私は弾かれたように立ち上がり、倒れ込む彼の体を寸前で受け止めた。
「颯太くん!!」
ズシリとした重み。
そして、私の腕に触れた彼の肌から伝わってくる、異常な熱さ。
(熱い……!)
「颯太くん! しっかりして!」
呼びかけるが、彼の反応は鈍い。
苦しげに荒い呼吸を繰り返している。
『無理をしてはダメよ。あなたの脳は、とてもデリケートなんだから』
脳裏に、あの白衣の女――朱里の言葉がフラッシュバックした。
七月のオープンキャンパスで言われた言葉。
彼の脳が壊れやすい?
これは予兆?
それとも、あらかじめ決められた崩壊?
恐怖で血の気が引いていく。
このまま彼が壊れてしまったら。
二度と目が覚めなかったら。
(……ふざけないで)
私は奥歯を噛み締め、頭を振ってその不吉な声を追い払った。
壊させない。
絶対に。
私がついているのに、彼を壊させるなんて失態、私のプライドが許さない。
バンッ!
その時、異音を聞きつけたお義母さん(美奈子さん)が部屋に飛び込んできた。
「颯太!? どうしたの、今の音!」
お義母さんは、私の腕の中でぐったりとしている颯太くんを見て、顔面蒼白になった。
「いやだ、颯太! すごい熱じゃない! どうしよう、意識がないわ! 救急車!? 救急車呼んだ方がいいかしら!?」
パニックに陥り、スマホを取り出そうと手が震えているお義母さん。
無理もない。
母親にとって、息子の急変は冷静さを奪うのに十分すぎる事態だ。
でも、私は違う。
ここからは「彼女」ではなく、「管理者」としての私の出番だ。
「お義母さん、落ち着いてください。救急車は不要です」
私は努めて冷静に、低く通る声で告げた。
「意識レベルはJCS1桁、呼びかけに反応あり。呼吸も脈拍も規則的です。 脳疾患や心疾患の兆候は見られません。ただの過労による急性の上気道炎――つまり、たちの悪い風邪です」
「え……ええ?」
お義母さんが、あまりに理路整然とした私の言葉に呆気にとられて動きを止めた。
「必要なのは安静と冷却、そして水分と電解質の補給です。 お義母さん、申し訳ありませんが、キッチンから氷とスポーツドリンクを持ってきていただけますか? あと、部屋の空気を入れ替えたいので、換気扇を強で回してください」
「は、はい! わかったわ!」
私の指示に、お義母さんはハッとしたように頷き、慌ててキッチンへと走っていった。
私はその隙に、颯太くんを抱え上げた。
重いけれど、鍛えた体幹と、愛の火事場の馬鹿力があれば造作もない。
彼をベッドに運び、ベルトを緩め、枕の高さを調整して気道を確保する。
「……日和……?」
颯太くんがうっすらと目を開けた。
「帰れ……。風邪、移るぞ……」
朦朧としながらも、私を気遣う言葉。
その優しさが、今はもどかしい。
「バカなこと言わないで。今帰ったら、誰が颯太くんを看るの?」
「でも……受験生だろ……お前まで倒れたら……」
「大丈夫。私に移して治すのが、一番手っ取り早いの。 ウイルスだって、颯太くんの体で暴れるより、私の強力な免疫細胞と戦う方が本望でしょうしね」
私は強引な理屈を並べ立てながら、彼のおでこに手を当てた。
三十八度後半。
高熱だ。
でも、私の管理下にある限り、これ以上悪化させたりはしない。
しばらくして、私はキッチンに立っていた。
土鍋でお粥を煮込みながら、手際よく薬味を刻む。
お義母さんが、心配そうにその様子を覗き込んでいる。
「日和ちゃん……ごめんね、全部任せちゃって。 私ったら気が動転しちゃって、何をしていいか……」
「いいえ、当然のことです。お義母さんは颯太くんの着替えを用意していただけましたし、助かりました」
私は火加減を調整しながら微笑んだ。
「これ、卵と生姜のあんかけ粥です。 生姜のジンゲロールで体を温め、卵のアミノ酸で免疫力を高め、とろみをつけることで嚥下しやすくしました。 今の彼に必要な栄養素を計算してあります」
「す、すごいのねぇ……お医者さんみたい」
お義母さんは感心しきりだ。
私は一度手を止め、お義母さんに頭を下げた。
「お義母さん。お願いがあります。 今夜、このまま泊まって看病させていただけませんか?」
「えっ? でも、日和ちゃんのご両親が……」
「熱の上がり下がりが心配なので、一晩中バイタルチェックをしたいんです。私がついていれば、絶対に悪化させません。 私の親には、お義母さんから連絡していただければ、きっと許してくれると思います」
「……そうね。あの子には日和ちゃんがついているのが一番の薬かもね」
お義母さんはすぐに電話をかけてくれた。
私の母も、「先月(引きこもり事件)のお礼も兼ねて、颯太くんを助けてあげて」と快諾してくれたらしい。
これで、外堀も内堀も完全に埋まった。
今夜は誰にも邪魔されず、私が彼を守り抜く。
部屋に戻ると、私はオペレーションを再開した。
「さて、環境整備」
温湿度計を確認。
気温二十四度、湿度四十%。乾燥しすぎている。
私は加湿器のタンクに水を補充し、設定湿度を五十五%に上げた。
ウイルスが不活性化し、かつ喉の粘膜を保護する最適な湿度だ。
次に、冷却。
「おでこ冷やす……」と呟く颯太くんを制する。
「おでこは気持ちいいだけ。熱を下げるなら、リンパが集中している場所を冷やすのが物理的に正解」
私はタオルに包んだ保冷剤を、彼の首筋と脇の下に的確に当てた。
太い血管を冷やすことで、循環する血液の温度を効率的に下げる。
熱力学の基本だ。
「……ん、なんか……楽になってきた……」
「でしょうね。さぁ、ご飯できたよ」
私は彼の上半身を起こし、お粥をフーフーと冷ましてから口に運んだ。
「はい、あーん」
颯太くんは素直に口を開け、ハフハフと言いながら食べた。
「……うん、美味い。すげぇ優しい味する」
「よかった。全部食べてね。栄養つけないと判定Aは取れないよ」
颯太くんはお粥を完食し、スポーツドリンクもしっかり飲んだ。
顔色が少し良くなっている。
私は満足して、彼の汗ばんだTシャツを着替えさせた。
清拭用の温かいタオルで背中を拭く手つきにも、迷いはない。
すべての処置を終え、私は椅子に座って彼を見下ろした。
部屋は適切な湿度に保たれ、加湿器の静かな音だけが響いている。
完璧だ。
一片の隙もない、完璧な看病。
颯太くんは、熱で潤んだ目で私をじっと見つめていた。
その瞳には、感謝と、そして驚嘆の色が浮かんでいる。
「……日和」
「ん? 何か欲しいものある? 氷枕変える?」
「いや……」
彼は少し恥ずかしそうに、でも真剣な声で言った。
「お前……やっぱすげぇな。 頭良くて、運動できて、料理も上手くて、看病まで完璧で……。 その上、顔も可愛いとか……チートすぎだろ」
「……え?」
不意打ちの褒め言葉。
しかも「顔も可愛い」というオマケ付き。
私の思考回路が一瞬ショートした。
「なんか……自信なくすわ。俺、こんな完璧な彼女に釣り合ってんのかなって」
颯太くんは弱々しく笑った。
熱のせいで本音が漏れているのかもしれない。
でも、その言葉は、どんな模試のA判定よりも私を安心させてくれた。
私は椅子から立ち上がり、ベッドの縁に座った。
そして、彼の手を両手で包み込んだ。
「何言ってるの。 私がハイスペックなのは、全部颯太くんのためだよ?」
私は彼の目を見て、慈しむように微笑んだ。
「颯太くんが倒れたら私が治す。 颯太くんが困ったら私が解決する。 ……そのために、私は完璧になったの。 だから、颯太くんは安心して、私に身を委ねてくれればいいんだよ」
「……お前、本当に……敵わねぇな」
颯太くんは観念したように目を閉じ、私の手を握り返してきた。
「……最高の奥さんになれるよね?」
「……ああ。認めざるを得ないな」
その言葉を聞いて、私は勝利を確信した。
勝った。
スランプにも、風邪にも、そしてあの朱里の呪いにも。
私の完璧な愛と技術の前では、どんな障害も無力だ。
「おやすみ、颯太くん」
やがて、颯太くんの寝息が規則正しくなった。
薬が効いて、深い眠りについたようだ。
私は立ち上がり、大きく伸びをした。
「ふぅ……任務完了」
時計の針は深夜一時を回っている。
お義母さんも自分の部屋で休んでいるはずだ。
この部屋には、私と、無防備に眠る颯太くんだけ。
私はベッドの脇に立ち、彼を見下ろした。
熱は下がってきているけれど、まだ体は熱いはずだ。
急激な体温変化がないか、継続的なモニタリングが必要だ。
……そう、モニタリングが必要なのだ。
「……仕方ないなぁ」
私はニヤリと笑うと、音もなく自分の制服のリボンを解いた。
ブラウスを脱ぎ、スカートを下ろす。
九月に見せた、淡い水色の下着姿になる。
「服を着てたら、微妙な体温変化を感じ取れないもんね。 肌と肌を密着させて、熱伝導による直接観測をするのが、一番合理的だよね」
誰に言い訳をしているのかわからない独り言を呟きながら、私はそっと掛け布団をめくった。
そして、颯太くんの背中側に滑り込む。
「……ん」
颯太くんが身じろぎをする。
私は彼の熱い背中に、自分の体をぴったりと密着させた。
冷たい私の肌に、彼の高熱が伝わってくる。
熱い。
でも、心地いい。
彼の熱を、私が吸い取ってあげる。
「……役得、役得」
私は彼の背中に腕を回し、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
完璧な看病をしたのだから、これくらいの報酬は許されるはずだ。
もし目が覚めて怒られても、「熱が移るように努力してるの!」と言い張ればいい。
「大好きだよ、颯太くん」
私は彼のうなじに小さくキスをして、目を閉じた。
最強の守護者は、今夜、最高に幸せな抱き枕となって、彼を朝まで守り抜くのだ。




