第23話『九月の鍵穴と、下着姿の復活劇』
九月。
新学期が始まってから、もう一週間が過ぎていた。
窓の外からは、あんなにうるさかった蝉の声が消え、代わりに秋の虫たちが涼やかな音色を奏で始めている。
季節は確実に進んでいる。
けれど、私の時間は八月のあの日――颯太くんの海への誘いを断り、逃げるように帰ってきたあの日から、ぴたりと止まったままだ。
私の部屋のカーテンは閉め切られ、昼間なのに薄暗い。
あんなに大好きだった太陽の光も、今の私には眩しすぎて、直視することができなかった。
私は布団の海に沈み、膝を抱えて、ただ天井のシミを見つめていた。
(……学校、行かなきゃ)
頭ではわかっている。
受験生だ。
二学期は重要だ。
でも、制服に袖を通そうとすると、指先が震えて動かない。
教室に行って、颯太くんの顔を見たら。
またあの「ノイズ」が走って、彼が陽炎のように消えてしまうんじゃないか。
そんな根拠のない恐怖が鎖となって、私をベッドに縛り付けていた。
数日前、一階のリビングから、両親の深刻な話し声が聞こえてきたことがあった。
「日和、今日も部屋から出てこないわね……」
「ああ。ご飯も少ししか食べてないみたいだし」
「颯太くんとも連絡取ってないみたいだし……まさか、振られたのかしら?」
「……あんなに仲良かったのになぁ。青春だなぁ」
お父さんとお母さんが勘違いして心配している。
違うの。
振られたわけじゃないの。
私が勝手に壊れて、勝手に逃げ出しただけなの。
心の中でそう叫んでも、それを説明する言葉すら、今の私の中にはなかった。
(……颯太くん)
会いたい。
死ぬほど会いたい。
でも、会うのが怖い。
この矛盾した感情が、私の中で渦を巻いて、私の心をすり減らしていく。
私はこのまま、部屋の隅で埃になって消えていくのかもしれない。
そんな絶望的な想像に浸っていた、ある日の夕暮れ時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
誰だろう。回覧板かな。
それとも宅配便?
私は布団を頭まで被り、世界を遮断しようとした。
どうせ私には関係ない。
「あら、颯太くん! いらっしゃい!」
一階から、お母さんの弾んだ声が聞こえた。
ドクン。
心臓が跳ねた。
え? 颯太くん? 来てくれたの? 嘘でしょ。
今の私は髪もボサボサで、顔色も悪くて、こんなボロボロな姿、絶対に見られたくない。
帰って。
お願いだから帰って。
でも、帰らないで。
一階で話し込む声が聞こえる。
そして、階段を上がる足音が近づいてくる。
トン、トン、トン。
一歩、また一歩。
その重みのある足音は、私の心臓のリズムと同期して、近づくたびに胸を締め付ける。
足音が、私の部屋の前で止まった。
「……日和。入るぞ」
低く、落ち着いた声。
颯太くんだ。
ドア一枚隔てた向こうに、彼がいる。
心臓が破裂しそうだ。
でも大丈夫、鍵はかかっている。
私は中から鍵をかけたはずだ。
開けないで。
見ないで。
そう祈った瞬間。
チャリ。
金属音がした。
鍵穴に何かが差し込まれる音。
(……え?)
カチャリ。
シリンダーが回る、乾いた音が響いた。
ガチャリ。
ドアノブが回り、扉がゆっくりと開いた。
廊下の光が、薄暗い部屋に差し込んでくる。
その光の中に、見慣れたシルエットが立っていた。
「……お邪魔します」
颯太くんは、まるで自分の部屋に入るかのように、当たり前のように足を踏み入れた。
その右手に握られているものを見て、私は息を呑んだ。
銀色の鍵。
そして、そこにぶら下がっているのは、平仮名で『ひより』と書かれた、ファンシーなプラスチックのキーホルダー。
三月の誕生日。
私が「いつでも不法侵入していいよ!」と言って無理やり押し付けた、あの合鍵だ。
あの時、「親父さんに怒られる」とか「常識的に考えて」とか言ってドン引きしていた彼が。
私の許可もなく。
自分の意思で。
この「絶対不可侵領域(ひよりの部屋)」へのアクセス権を行使した。
捨てずに、ずっと持っていてくれたんだ。
「……久しぶりに入ったな、ここ」
彼は部屋を見回し、カーテンの隙間から漏れる光の中、ベッドで丸まっている私を見つけたはずだ。
でも、彼は何も言わなかった。
「なんで学校来ないんだ」とも「心配したぞ」とも言わず。
ただ、そこに私が「いる」ことを確認しただけで、満足したように息を吐いた。
コンコン。
開いたドアの向こうから、お母さんが顔を出した。
「颯太くん、どうする? お茶でも淹れる?」
「あ、すみませんお義母さん」
颯太くんはドアの入り口で振り返り、お母さんと会話を始めた。
私は布団の隙間から、その背中を呆然と見つめていた。
「もし良ければなんですけど……今日の夕飯、ここで食べてもいいですか?」
「えっ? ここで?」
「はい。日和の分と、俺の分と。二人分、この部屋にお願いできますか? 久しぶりに、一緒に食べようかと思いまして」
「あらあら……ふふ、もちろんよ! 今夜はハンバーグだから、大盛りにしとくわね!」
「ありがとうございます。助かります」
日常的な会話。
今日の夕飯の話。
ハンバーグ。
二人分。
この部屋で。
その具体的な言葉が耳に入った瞬間。
私の脳内で、火花が散った。
(……あ)
見えた。
見えたのだ。
さっきまで真っ白な霧に包まれていた未来が。
ノイズだらけだったスクリーンに、鮮明な映像が映し出された。
この部屋のローテーブルを囲んで。
颯太くんと向かい合って。
ハンバーグを食べている私。
「美味しいね」と笑う私。
「食い過ぎだろ」と呆れる彼。
それは数時間後の未来。
ほんの少し先の、でも確実に訪れる未来。
想像できた。
あんなに拒絶されていた未来が、今、すとんと私の中に落ちてきた。
「……見えた」
私の口から、声が漏れた。
「え?」
颯太くんが振り返る。
私は布団を跳ね除け、ベッドの上で立ち上がった。
「想像できたああああああっ!!!」
「うおっ!?」
私は両手を突き上げ、天井に向かって叫んだ。
歓喜の咆哮だ。
霧が晴れた!
バグが直った!
私は颯太くんとご飯を食べられる!
未来がある!
世界はこんなにも鮮やかだったんだ!
「おい日和! 急に起き上がって……って、お前!!」
颯太くんが私を見て、ぎょっとしたように目を見開き、そして瞬時に顔を真っ赤にして両手で顔を覆った。
「……あ」
私は自分の姿を見下ろした。
九月の残暑。
エアコンを切った蒸し暑い部屋。
布団の中で鬱々としていた私は、Tシャツも着ていなかった。
身につけているのは、上下お揃いの、淡い水色の下着だけ。
いわゆる、ほぼ全裸だ。
「わぁお」
「『わぁお』じゃねぇよ!! 服を着ろバカ!! 目のやり場に困るだろ!!」
颯太くんが指の隙間から私を見ながら(絶対見てる!)、叫んだ。
彼の耳まで真っ赤だ。
可愛い。
愛おしい。
久しぶりに見る彼の動揺した顔。
それを見られただけで、私は生き返った気分だった。
「いいじゃん減るもんじゃないし! ていうか颯太くん、私の合鍵使って入ってきたってことは、こういうハプニングも想定内なんでしょ? いつでもウェルカムって言ったよね!?」
「ねぇよ! メシ食わせに来ただけだ! まさか半裸で待ち構えてるとは思わねぇだろ!」
「えー? 颯太くんだけ服着てるなんてズルいよ。 そうだ、颯太くんも脱げば恥ずかしくないよ? 裸の付き合いだよね? これからもっと恥ずかしいことするんだもん、予行練習しとこ?」
私はベッドの上で妖艶なポーズ(自分比)をとってみせた。
「何言ってんだお前!! 頭沸いたか!?」
「はいはい、お待たせ~! ハンバーグ持ってきたわよ~!」
そこへ、お盆を持ったお母さんがタイミング悪く(良く?)登場した。
「……あら」
お母さんは、ベッドの上で仁王立ちする下着姿の娘と、顔を覆ってうずくまる彼氏を見て、数秒間静止した。
そして、にやりと笑った。
「お邪魔だったかしら?」
「うん! お母さん邪魔! これから私と颯太くんは、身も心も胃袋も一つになる神聖な儀式を行うところだから! ちょっと出てって!」
私は胸を張って(下着姿で)宣言した。
「ばっ……! 違いますお義母さん! 誤解です! こいつが勝手に脱いでるだけで……!」
「あらあら、若いっていいわねぇ。 颯太くん、後はお願いね。たっぷりと……味わってね?」
お母さんは意味深にウィンクをして、ハンバーグの乗ったお盆を机に置くと、颯太くんの背中をポンと叩いて部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まる。
「……母さん、絶対勘違いした……」
颯太くんはガックリと項垂れた。
「心配して損した……なんだよこの展開……」
「あはは! 颯太くんの負けー! さぁ、ご飯にしよ! いただきまーす!」
私はベッドから飛び降り、そのまま机に向かおうとした。
「だ・か・ら! なんか着ろって言ってんだろ!!」
颯太くんが立ち上がり、脱ぎ捨ててあった私のジャージを拾って投げつけてきた。
「えー? 暑いもん。それに、これからどうせ……」
私は投げられたジャージを受け取りながら、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「……ねぇ、颯太くん」
私は一歩、彼に近づいた。
「下着、これじゃない方がよかった? 六月に買いそびれたやつ、まだ買ってないけど……今から脱いで、交換する?」
私はブラのホックに手をかけた。
「うわぁぁぁぁっ!! やめろ!!!」
颯太くんは弾かれたように後ずさり、ドアノブに手をかけた。
「俺は出ていく! 廊下で食う!」
「待って待って! 嘘だよ! 着るよ! 着ます!」
彼に出て行かれたら困る。
私は慌ててジャージを頭から被り、ズボンを履いた。
わずか三秒の早着替え。
「……ふぅ。着たよ。これで文句ないでしょ?」
私はファスナーを上げ、くるりと回ってみせた。
「……はぁ。寿命が縮んだ……」
颯太くんは深い深いため息をつき、ようやく机の前の座布団に座り込んだ。
私もその向かいに座る。
湯気の立つハンバーグ。
向かい合わせの二人。
さっき脳裏に浮かんだビジョン通りの光景が、今、ここにある。
私は箸を取り、一口食べた。
美味しい。
一週間ぶりのまともな食事の味が、体に染み渡っていく。
そして何より、目の前に彼がいるという事実が、私を満たしていく。
「……颯太くん」
「ん?」
「調子、戻った?」
彼はハンバーグを頬張りながら、ぶっきらぼうに聞いた。
でも、その瞳は優しく私を気遣ってくれている。
「何があったのか」なんて聞かない。
「これからどうするのか」とも聞かない。
ただ、私が私に戻ったかどうかだけを確認してくれる。
私は箸を置き、彼を見つめた。
未来のことは、まだ少し怖い。
朱里の言葉も、まだ胸の奥に棘のように残っている。
でも、今は大丈夫。
彼が鍵を開けて入ってきてくれたから。
私の部屋に。私の心に。
私はわざとらしくコホンと咳払いをして、真面目な顔で彼を見た。
「うん……なんかね、風邪ひいたみたい」
「……は? 風邪?」
「そう。颯太くんが足りなくて、心が風邪ひいちゃったみたい。 だから……完治するまで、定期的に補充しに来てね?」
私が可愛く(当社比)言うと、颯太くんは呆れたように笑った。
「……面倒くせぇ病気だな」
「え~? 颯太くん知らないの? 恋する乙女は面倒くさい生き物なんだよ?」
私は身を乗り出して、彼に顔を近づけた。
「でも、私ほど積極的で、わかりやすくて、攻略しやすい女の子はいないよ? イージーモードだよ? ボーナスステージだよ?」
颯太くんは私の顔をじっと見て、ふっと笑った。
「はいはい」
彼は軽く受け流し、またハンバーグを食べ始めた。
「あ、冷たい反応! ねぇ、私も食べる?」
「……心配して損したわ」
颯太くんのその一言に、私は心底ホッとした。
呆れられている。
面倒がられている。
でも、拒絶されていない。
これが私たちの日常だ。
私が演じるべき「如月日和」だ。
無理をしているわけじゃない。
これが私なんだ。
「ふふっ、大好きだよ颯太くん」
「飯食え、飯」
私は彼のくれた日常を、ハンバーグと一緒に噛み締めた。
鍵穴はこじ開けられた。
私たちの時間は、また動き出す。
もう二度と、彼から目を逸らしたりしない。
どんな未来が待っていようと、彼が私のテリトリーにいる限り、私は無敵なのだから。。




