第22話『八月の焦燥と、拒絶された海』
八月。
夏休み。
連日の猛暑日は記録を更新し続け、窓の外では狂ったような蝉時雨が世界を支配している。
本来なら、高校生活最後の夏休みとして、思い出作りに奔走すべき時期だろう。
けれど、私の世界はあの日――七月のオープンキャンパス以来、薄暗い霧に覆われたままだ。
「……颯太くん、麦茶。氷多めに入れたよ」
「ん、サンキュ」
私は颯太くんの家の、冷房の効いた部屋で、彼との「勉強合宿」に勤しんでいた。
涼しいはずの部屋なのに、私の体は熱を帯びたように火照っている。
いや、熱いというより、細胞の一つ一つが粟立っているような不快感。
ジジジ……ミーン、ミンミン……ジジジ……。
窓の外の蝉の声が、いつものそれとは違って聞こえる。
まるで壊れかけたラジオの周波数が合わない時のような、耳障りな電子音。
視界がチカチカと明滅する。
(……あれ?)
ふと、机に向かう颯太くんの背中を見た時だった。
彼の輪郭が、陽炎のように揺らいだ気がした。
Tシャツ越しの背中が、半透明に透けて、向こう側の壁が見えそうになる錯覚。
(……消える)
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
颯太くんがいなくなる。
この世界から、データごと削除されてしまう。
そんな根拠のない、けれど絶対的な恐怖が、私の喉元までせり上がってくる。
「……っ、はぁ、はぁ……」
息が浅くなる。
指先が震える。
確かめなきゃ。
彼がそこに「実在」していることを、物理的に接触して確認しないと、私の精神が崩壊する。
「あ、颯太くん、消しゴム落ちたよ。拾うね」
私は床に落ちた消しゴムを拾おうと手を伸ばした。
けれど、視界のノイズと手の震えで、距離感が掴めない。
指先が空を切り、爪がフローリングを乾いた音で叩く。
「……日和?」
「ご、ごめん! ちょっと手が滑って!」
私は慌てて消しゴムを鷲掴みにし、彼の机に叩きつけるように置いた。
焦れば焦るほど、動作が乱暴になる。
完璧な彼女でいたいのに。
彼の世話を焼いて、彼の生活の一部になりたいのに。
今の私は、ただのバグを起こした不審なプログラムだ。
「……お前、なんか変だぞ」
颯太くんがシャーペンを置き、椅子を回転させて私に向き直った。
その目は、私の心の奥底にある焦りを見透かすように、じっと私を捉えている。
「東京から帰ってきてから、ずっとそうだ。……無理してねぇか?」
「ううん! 全然! 私は元気だよ! 颯太くんの勉強が捗るようにサポートしてるだけ!」
私は顔の前で手を振り、必死に笑顔の仮面を貼り付けた。
でも、頬の筋肉が痙攣して、うまく笑えている気がしない。
「……そうかよ。ならいいけど」
彼は再び机に向き直り、参考書を開いた。
拒絶されたわけではない。
でも、彼が私に違和感を抱いているのは明白だ。
怖い。
このままでは、彼に愛想を尽かされるかもしれない。
「重い」と笑って許してくれる許容量を超えて、「面倒だ」と思われてしまったら?
その瞬間、私の存在意義は消滅する。
(捧げなさい。身も、心も)
脳内で、朱里様の声がリフレインする。
『彼を繋ぎ止める唯一の楔になりなさい』
そうだ。
もっと深く。
もっと強く。
彼に刻み込まなければ。
私という存在を。
彼が私なしではいられないように、私も彼なしではいられないように、魂ごと絡め取らなければ。
私は音もなく立ち上がり、ふらつく足取りで颯太くんの背後に立った。
震える両腕を伸ばし、後ろから彼の首に巻き付ける。
その背中に、自分の体を押し付けた。
「……おい、日和。勉強中だぞ」
「……ねぇ、颯太くん」
私は耳元で囁いた。
いつもなら冗談めかしてやるスキンシップ。
でも、今は違う。
私は震える指先で、彼のシャツの第二ボタンに手をかけた。
「休憩、しない?」
「は? まだ始めたばっかだろ」
「ううん。……もっと、深い休憩」
私は彼の首筋に唇を寄せ、甘く、湿った吐息を吹きかけた。
背中に押し付けた私の胸。
薄着の夏服越しに、私の早鐘を打つ心臓の鼓動と、体温が彼に伝わっているはずだ。
六月の雨の日、彼が気づいてしまった「柔らかさ」。
それを今、既成事実に変えてあげる。
「颯太くんになら……私、いいよ」
私は彼の胸元に手を滑り込ませ、その熱い肌に直接触れた。
指先で彼の鎖骨をなぞる。
熱い。
彼はここにいる。
実体がある。
でも、足りない。
もっと融合しないと、彼が消えてしまう。
「……日和、やめろ」
颯太くんの声が、低く響いた。
拒絶の色を含んだ声。
でも私は止まれない。
ブレーキが壊れている。
「嫌? 私のこと、好きじゃない?」
私の目は、潤んでいるというより、焦点が合っていなかったと思う。
ただ「恐怖」だけを原動力にして、彼に縋り付く。
私はさらに体を密着させ、彼の太ももの上にまたがろうとした。
その時。
ガシッ!
「やめろって言ってるだろ!!」
颯太くんが私の腕を強く掴み、乱暴に私を引き剥がした。
「あっ……」
私は反動で、彼のベッドの上に倒れ込んだ。
天井の照明が視界の中で滲む。
プツン。
その瞬間、私の中で張り詰めていた糸が切れた。
悲しいとか、恥ずかしいとか、そういう感情が湧いてこない。
ただ、真っ白な空白だけが広がった。
ああ、ダメなんだ。
拒絶された。
私は彼にとって、必要なパーツじゃなかったんだ。
世界から色が抜け落ちて、自分がただの「肉の塊」になったような虚無感。
「お前、いい加減にしろよ」
見上げると、颯太くんがかつてないほど怖い顔で私を見下ろしていた。
怒り。
困惑。
そして、深い悲しみを含んだ目。
「何なんだよ、最近のお前。 空回って、焦って、挙句の果てにこんな……安っぽいことして」
「……安っぽい……」
私はベッドのシーツを握りしめた。
指先が白くなるほど強く。
「俺が欲しいのは、そんな……怯えたようなお前じゃねぇよ。 いつもの、うるさくて、図々しくて、自信満々なお前だろ」
彼は私の手首を離し、深いため息をついた。
「……あの時か? オープンキャンパスの時。 あの白衣の女に、何か言われたのか?」
ドキリとした。
鋭い。
彼は何も聞いてこなかったけれど、ずっと気にしてくれていたのだ。
「……言われてない。関係ないよ」
私は目を逸らして嘘をついた。
言えるわけがない。
「あなたに全てを捧げないと、あなたは救われない」なんて。
そんな呪いを彼に共有させるわけにはいかない。
「……はぁ。頑固だな、お前は」
颯太くんは頭をガシガシとかき、ドカリとベッドの端に座り込んだ。
西日が差し込む部屋。
長く伸びた二人の影は、交わることなく平行線を辿っている。
私は体を起こし、膝を抱えて座った。
乾いた焦燥感だけが胸に残っている。
「……ねぇ、颯太くん」
私は夕焼けに染まる彼の横顔に、問いかけた。
「颯太くんは、生まれ変わっても私を見つけてくれる?」
それは、自分でも驚くほど唐突で、重たい質問だった。
死を予感しているわけではない。
でも、この世界で私たちが結ばれる未来が見えないのなら。
せめて次の世界で、という祈りにも似た問い。
颯太くんは呆れたように私を見た。
「……お前、マジで重症だな。夏バテか?」
「答えてよ。真剣だよ」
私が食い下がると、彼は「やれやれ」と肩をすくめた。
そして、ぶっきらぼうに、でも真っ直ぐに答えた。
「……見つけるも何も、お前がどっかにいても、どうせうるさいからすぐわかるだろ」
「……え?」
「ギャーギャー騒いで、俺の半径五メートル以内に勝手に突っ込んでくるんだろ? 来世でも。 だったら、探す手間なんてねぇよ。向こうから来るんだから」
それは、彼なりの最大限の「約束」だった。
私がどこにいようと、どんな姿になろうと、私たちの引力は変わらないという保証。
いつもなら、飛び上がって喜ぶ言葉だ。
「やっぱり運命だね!」と抱きつく場面だ。
けれど、今の私には、その言葉が薄いガラスの向こう側から聞こえるように、現実味がなかった。
嬉しい。
嬉しいはずなのに。 心が麻痺したように震えない。
「……そっか。そうだよね」
私は力なく笑うことしかできなかった。
「……なあ、日和」
颯太くんが空気を変えようと、少し明るい声を出した。
「今度の日曜、暇か?」
「え? うん、空いてるけど……」
「買い物、行くぞ。……水着」
「え……?」
「六月の時、保留にしてただろ。海に行きてぇってうるさかったし。 受験の息抜きだ。一日くらいなら、付き合ってやるよ」
颯太くんからの誘い。
あの日、雨の中で私が切望していた「海デート」の約束。
彼が私を元気づけようとしてくれているのがわかる。
「ここにいていいんだぞ」「未来はあるんだぞ」という、彼なりの生存肯定。
目の前に差し出された、光り輝くチケット。
でも。
キーン。
また、脳内にあのノイズが走った。
海に行く未来。
水着を着て彼と笑い合う未来。
それが、どうしても見えない。
約束をして、それが果たされなかった時の絶望が怖い。
未来を確定させることへの、根源的な恐怖が、私の喉を塞いだ。
私は、差し出されたその光を、掴むことができなかった。
「……ごめん」
「あ?」
「ううん、うれしい。うれしいんだけど……」
私は視線を床に落とし、曖昧に笑った。
「ちょっと、模試の復習とか溜まってて……また今度、ね?」
「……は?」
颯太くんが目を見開いた。
信じられないものを見る目だ。
あの「遊びたがり」で「デート狂」の私が、彼の誘いを、しかも海デートを断ったのだから。
「……そう、か。まぁ、受験生だしな」
彼は深く追求しなかった。
でも、その声に滲む失望と、戸惑いが、私の胸を鋭利な刃物のように抉る。
「今日は、もう帰るね。お邪魔しました」
私は逃げるように立ち上がり、カバンを掴んだ。
これ以上ここにいたら、私が私でなくなってしまいそうで。
「……おい、日和」
背後から呼ぶ声を振り切って、私は部屋を出た。
颯太くんの家の玄関を出ると、まだ生温かい風が吹いていた。
目の前にある片側二車線の県道。
その向こう側に、私の家がある。
物理的な距離にして三十メートル。
でも、今の私には、その距離が果てしなく遠く感じられた。
信号が青に変わるのを待って、私は横断歩道を渡る。
幽霊のような足取りで、自分の家の玄関を開けた。
「ただいま……」
「あら、お帰りなさい」
リビングからお母さんが出てきた。
「早かったのね。夕飯までまだ時間あるけど……って、日和?」
お母さんが私の顔を見て、ハッと息を呑んだ。
「あなた、顔色が……。何かあったの?」
母親の勘。
普段なら、颯太くんの家から帰ってきた私は、スキップでもしそうなほど上機嫌なはずだ。
それが、泥人形のような顔で帰ってきたのだから、心配するのも無理はない。
「……ううん、なんでもない」
私はお母さんの視線から逃れるように、顔を伏せた。
「ちょっと勉強しすぎて疲れちゃっただけ。 夕飯まで寝るね」
「あ、ちょっと日和……」
制止する声を背中で受け止め、私は自分の部屋へと駆け上がった。
ドアを閉め、鍵をかける。
そして、制服のままベッドにダイブした。
「……うぅ……」
枕に顔を押し付けると、堰を切ったように感情が溢れ出してきた。
行きたかった。
すごく、すごく、行きたかった。
颯太くんと海に行って、水着を見せて、可愛いねって言ってもらいたかった。
「なんで……断っちゃったんだろう……」
後悔の念が押し寄せる。
でも、どうしても「うん」と言えなかった。
約束をした瞬間に、颯太くんが消えてしまう気がして。
未来を描いた瞬間に、キャンバスが破れてしまう気がして。
「……颯太くん……ごめんね……」
枕が涙で濡れていく。
窓の外では、ヒグラシが「カナカナカナ」と悲しげに鳴いている。
近くて遠い、向かいの家。
そこにある灯りを窓から見ることすら、今の私には怖かった。
ただ、得体の知れない不安に押し潰されながら、私は一人、泣き続けるしかなかった。




