第20話『衣替えと、雨に濡れた空白』
六月。
星見台市に、じっとりと肌にまとわりつく湿気を含んだ風が吹き始めた。
梅雨入りと、そして夏の気配。
学校の制服も冬服の重厚なブレザーから、軽やかな夏服のシャツへと切り替わり、教室の色彩が少しだけ明るく、そして涼しげになった頃。
「ねぇ颯太くん! 今度の日曜日、ショッピングモール行こ! 夏服買い出しツアー!」
放課後、私の前の席で気だるげに頬杖をついている颯太くんに、私は身を乗り出して提案した。
「……去年も同じこと言ってたな、お前」
「だって衣替えだよ? 去年の服なんて、もう今の私には似合わないかもしれないじゃん! 日々進化する『如月日和・高3バージョン』に合わせて、装備もアップデートしなきゃ!」
「はいはい。……ま、俺もTシャツとか欲しいし、いいけど」
「やった! 言質取った! 逃さないからね!」
颯太くんの了承を得て、私はガッツポーズを決めた。
夏服の買い出し。
それは単なるショッピングではない。
これからの暑い季節、颯太くんの隣を歩くための「戦闘服」を選ぶ、重要な儀式なのだ。
そして今回は、さらに一歩踏み込んだ「秘密の作戦」も用意している。
日曜日。
予報では曇り時々雨。
空はどんよりとした厚い雲に覆われているけれど、私の心は快晴だ。
私たちはバスに揺られ、市内で一番大きなショッピングモールへとやってきた。
「まずは洋服! 颯太くん、私のコーディネートお願いね!」
「俺にセンスなんて求めるなよ……」
文句を言いながらも、颯太くんはちゃんと選んでくれる。
「これとかどうだ? お前、黄色似合うし」と手に取ったサマーニットを、私が試着室で着て見せる。
カーテンを開けた瞬間、私はスマホを構えた。
「颯太くん! どう!?」
「……うん、悪くないんじゃね?」
カシャッ! 私はすかさず、少し照れくさそうに顔を背けた颯太くんを激写した。
「おい、撮るなよ」
「レアな『照れ顔』いただきました! フォルダ名『高3の夏・衣替えデート』に保存っと」
「フォルダ名が重いんだよ……」
その反応が見たくて、私は何着も何着も試着を繰り返した。
彼が私を見て、私が彼を撮る。
この永久機関こそがデートの醍醐味だ。
一通りの洋服を選び終え、次の店へ移動しようとした時だった。
私はいつものように、自然な動作で颯太くんの腕に自分の腕を絡ませた。
「次、あっち行こ!」
ギュッ。
私の腕が、胸が、彼の二の腕に押し付けられる。
これは日常茶飯事のスキンシップだ。
いつものことだ。
……でも、今日は「中身」が違う。
「……っ!?」
その瞬間、颯太くんの体がビクッと硬直した。
彼は歩みを止め、驚いたように私の方を見た。
「……おい、日和」
「ん? なぁに?」
私は小首を傾げて、無邪気を装う。
颯太くんの視線が、私の胸元あたりを彷徨い、そしてまた私の顔に戻る。
彼の口がパクパクと動く。
「なんか……今……いつもより……」
「いつもより?」
「柔らか……いや、なんでもねぇ!!」
颯太くんは顔を真っ赤にして、ブンブンと首を横に振った。
言いかけて、やめたのだ。
「いつもより感触が柔らかい」なんて、口が裂けても言えないだろう。
言ったらセクハラ認定だし、彼自身の理性が崩壊する。
彼は「気のせいだ、俺が疲れてるだけだ」と自分に言い聞かせているのが手に取るようにわかる。
(ふふふ、気づいた?)
私は心の中でニヤリと笑った。
そう、今日の私は一味違う。
その理由は、この後の「メインイベント」で明らかになるのだ。
私はさらに体重を預け、彼の二の腕に「違和感」を刻み込んでやった。
「次はこっち! 夏といえば海! 海といえば水着!」
スポーツ用品店の水着コーナー。
色とりどりのビキニやワンピースが並ぶエリアに、私は颯太くんを引きずり込んだ。
「今年は受験生だけどさ、一日くらいは海行きたいじゃん? 息抜き必要じゃん?」
「……ま、そうだな」
「だから選んで! 颯太くんが一番『グッとくる』やつ!」
颯太くんは周囲の目を気にしながらも、真面目に水着を物色し始めた。
私はその隙を見逃さない。
彼が白いフリルのついたビキニを手に取り、「……これとか、どうだ」と言った瞬間。
カシャッ!
「!?」
「『私の水着を真剣に選ぶ颯太くん』、ゲットだぜ!」
「不意打ちすんな! ……で、買うのか?」
「うーん……今日は保留! 颯太くんの好みの傾向は把握したから、また今度、海に行く日程が決まってから買う!」
「なんだよ、買わねぇのかよ」
颯太くんは拍子抜けした顔をしたけれど、私の本命はここではない。
水着はあくまで前哨戦。
私は彼の腕をさらに強く引いて、モールの奥にある専門店街へと足を踏み入れた。
「じゃあ次! 今日のメインイベント!」
「おい、どこ行くんだ……って、うわっ!?」
颯太くんが足を止め、絶句した。
目の前にあるのは、淡いピンクや黒のレースがショーウィンドウに飾られた、ランジェリーショップ。
甘い香りと、男性立ち入り禁止の結界が張られた聖域だ。
「ちょ、日和! ここは流石に……!」
「何言ってるの? 水着が『外の鎧』なら、こっちは『内の鎧』だよ? 一番肌に触れるものなんだから、一番颯太くんに選んでほしいに決まってるじゃん!」
私は恥じらいもなく断言した。
「無理無理無理! 男が入れる空気じゃねぇよ! セクハラで通報される!」
「大丈夫! 『彼女のプレゼントを選びに来た誠実な彼氏』に見えるから!」
「俺のメンタルが保たねぇよ! 帰るぞ!」
颯太くんが全力で踵を返そうとする。
私はその背中にしがみつき、とっておきの提案を口にした。
「じゃあさ! お互いに選びっこして交換するのはどう!? 私が颯太くんのパンツ選ぶから、颯太くんが私のを選んで、レジで交換するの! これなら『プレゼント交換』っていう健全なイベントになるでしょ!?」
「どこが健全なんだよ! 変態の儀式だろそれ!!」
颯太くんの顔が真っ赤に染まった。
耳まで茹でダコみたいだ。
「お前のパンツなんて持てるか! 想像しただけで寿命が縮むわ!」
「えーっ? 私は颯太くんのボクサーパンツ選びたいよ? 黒がいいかな、それとも勝負運が上がる赤?」
「やめろ! 公衆の面前で俺の下着事情を大声で話すな!」
結局、私の必死のプレゼンも虚しく、颯太くんの強固な理性の壁(と羞恥心)に阻まれ、私たちはランジェリーショップの前から強制撤退させられてしまった。
残念。
お互いの下着を交換する「契約の儀」は、またの機会にお預けだ。
「……はぁ。疲れた……」
買い物を終え、モールの外に出ると、世界が一変していた。
入る時は曇り空だった空が、今は墨汁を流したような漆黒の雲に覆われている。
ポツッ。
「あ」
ザァァァァァァッ!!!
予兆もなく、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注いだ。
いわゆるゲリラ豪雨だ。
「うわっ!? マジかよ!」
「きゃーっ! 冷たい!」
私たちは慌てて走り出し、近くにあったバス停の小さな屋根の下へと滑り込んだ。
わずか数十メートルの距離だったけれど、横殴りの雨は容赦なく私たちを濡らした。
「……最悪だ。傘、持ってねぇし」
颯太くんが濡れた髪を払いながら、空を見上げる。
雨脚は弱まる気配がない。
バスが来るまであと二十分。
私たちはこの狭い空間で、雨宿りを余儀なくされた。
「濡れちゃったねぇ……」
私は自分の夏服のシャツをパタパタと仰いだ。
白い生地が雨を含んで、肌に張り付いている。
じっとりと重たい感触。
ふと見ると、颯太くんの視線が私の胸元あたりで固まっていた。
「……ん? どうしたの?」
「お前……透けてるぞ」
颯太くんが気まずそうに、でも指摘せざるを得ないといった様子で顔を背けた。
確かに、濡れた白いシャツは透明度を増し、その下の肌の色をうっすらと浮かび上がらせている。
男子高校生には刺激が強すぎる光景かもしれない。
「あはは、ごめんごめん。サービスショットだね!」
「笑い事じゃねぇよ。……ていうか」
颯太くんは顔を背けたまま、何か違和感を覚えたように眉をひそめた。
彼の脳内で、さっきの「感触」と、今の「視覚情報」がリンクしようとしているのがわかった。
「……お前、紐、見えなくね?」
「え?」
「いや、だから……透けてるのに、その……ラインとか、肩紐とか……全く見えねぇんだけど……」
彼の指摘は正しい。
私の濡れたシャツの下には、健康的な肌色があるだけだ。
ブラジャーのレースも、ストラップの凹凸も、存在しない。
「ああ、それ?」
私は悪びれる様子もなく、むしろ「当たり前でしょ?」という顔で答えた。
「つけてないもん」
「…………は?」
颯太くんの動きが止まった。
雨の音だけが、ザァザァと響く。
「……今、なんて?」
「つけてないの。ノーブラだよ」
「なっ……!?」
颯太くんが目を見開き、私を凝視した。
その顔には、エロさなんて微塵もない。
あるのは純粋な驚愕と、理解不能な生物を見る恐怖だ。
そして同時に、さっき腕を組んだ時の「違和感」の正体を理解した顔をしている。
「まさか……さっき、腕組んだ時に柔らかかったのは……そういうことか!? お前、家からここまでどうやって来たんだよ! 防御力ゼロだろ!?」
「だって!」
私は頬を膨らませ、正当性を主張する。
「今日、颯太くんに下着買ってもらうつもりだったから!」
「……は?」
「颯太くんが選んでくれたやつを、買ってすぐにその場で着替えて帰るつもりだったの! だったら、家から着てくる意味ないじゃん? 洗濯物も増えるし、脱ぐ手間も省けるし! これぞ『如月流・究極のエコ&効率化』だよ!」
「エコの使い方を間違ってる!!!」
颯太くんが叫んだ。
「なんで『買ってもらえる(しかも今すぐ着る)』前提なんだよ! 俺が断る可能性を考慮しろ!」
「えー? だって颯太くん優しいもん。私におねだりされたら断れないもん」
「……っ、否定できねぇのが腹立つ!」
彼は頭を抱えた。
私の完璧なロジックに、反論の余地はないはずだ。
古い装備を捨てて、新しい装備を受け入れるための空白。
それは彼への絶対的な信頼の証なのだ。
「ちぇっ。颯太くんが買ってくれれば、今頃は可愛いピンクのレースに包まれてたのに。 今は無防備な『野生の日和』だよ。どうしてくれるの?」
「知るか! ……待てよ」
颯太くんの顔色が、さらに青ざめた。
彼の視線が、私のスカートの方へとゆっくり下りていく。
「……おい、日和。まさかとは思うが」
彼の声が震えている。
「……下も、か?」
上を着てくるのが無駄だという論理なら、当然、下も同じ結論に至るはずだ。
セットアップで揃えるつもりだったのだから。
私はニヤリと、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「……見る?」
私はスカートの裾をつまみ、ゆっくりとたくし上げようとした。
「わぁぁぁぁぁっ!! バカ!! やめろ!!!」
颯太くんが弾かれたように動き、私の手をガシッと掴んで静止させた。
「ここバス停! 誰が見てるかわかんねぇだろ! 社会的に死ぬ気か!」
「えー? 誰もいないよ?」
「俺の心臓が止まるんだよ!!」
颯太くんは真っ赤な顔で怒鳴ると、着ていた自分の薄手の上着を脱ぎ、乱暴に私の頭から被せた。
「ほら着ろ! 前もしっかり閉めろ!」
「むぅ……颯太くんの匂い……」
「匂いとかどうでもいい! とにかく隠せ!」
彼は私を自分の背中に隠すように立ち、通り過ぎる車の視線を遮断する壁となった。
その背中は、怒っているようで、呆れているようで、でもやっぱり頼もしくて暖かい。
「……帰るぞ。バスじゃなくてタクシー呼ぶ」
「え、タクシー? リッチだね!」
「お前みたいな『歩く放送事故』を公共交通機関に乗せられるか! 俺の小遣いが飛ぶけど、必要経費だ……くそっ」
颯太くんはスマホを取り出し、配車アプリを操作し始めた。
私はその隙に、こっそりと自分のスマホを取り出した。
彼の上着に包まれた私と、必死にタクシーを呼ぶ彼の背中。
この奇妙で最高なシチュエーションを記録に残さない手はない。
カシャッ。
「……あ、こら撮るな!」
「えへへ、記念だよ記念! 颯太くんが守ってくれた証拠!」
「……勘違いすんな。これ以上、お前の奇行に付き合いきれねぇだけだ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげる」
雨はまだ降り続いている。
私の服の下の「空白」は埋まらなかったけれど、その代わりに颯太くんの上着という、もっと素敵な「鎧」を手に入れた。
これなら、どんな雨の中でも無敵だ。
でも次は絶対に、あのお店に連れ込んでみせる。
そう心に誓いながら、私はタクシーが来るまで、彼の背中で雨音を聞いていた。




