第19話『GWの模試決戦と、遊園地の亡霊』
五月。
ゴールデンウィーク。
新緑が眩しい季節を迎え、世の中は大型連休という名の解放感に酔いしれている。
テレビをつければ行楽地の混雑ニュース、SNSのタイムラインをスクロールすれば友人のリア充な旅行写真。
世界中が「遊べ、楽しめ」と合唱しているような、浮かれた空気が日本列島を覆っていた。
だが、私たち星見ヶ丘高校三年C組の生徒にとって、今年のGWは「ゴールデン」ではない。
「ガマン・ウィーク」、あるいは「ガリ勉・ウィーク」だ。
受験生という重たい十字架を背負った私たちに、安息の日々は許されない――はずだった。
「お義母さーん! こんにちはー! 日和です!」
私は颯太くんの家のインターホンを押し、元気よく名乗りを上げた。
数秒後、ガチャリとドアが開き、エプロン姿の颯太くんのお母さん(美奈子さん)が顔を出した。
「あら~、日和ちゃん! いらっしゃい! 待ってたわよ~」
美奈子さんは、まるで救世主を見るような目で私を出迎えた。
「颯太ったらね、GWに入ってからずっと部屋に引きこもって勉強ばかりしてるのよ。 受験生なのはわかるけど、根詰めすぎて倒れちゃうんじゃないかって心配で……。 ねぇ日和ちゃん、あの子を外に連れ出してあげてくれない?」
お母さんからの正式な依頼だ。
これで私には、鳴海家への「強制介入権限」が付与されたことになる。
「お任せくださいお義母さん! 颯太くんのメンタルケアは私の専門分野です! 太陽の下へ引きずり出して、光合成させてきます!」
「ふふ、頼もしいわねぇ。はいこれ、差し入れのフルーツ。あの子と食べてね。 ……あ、鍵は開いてるから、そのまま部屋に入っちゃっていいわよ?」
「了解です! 突撃します!」
私は美奈子さんに敬礼し、公認の許可証(フルーツ皿)を手に、階段を駆け上がった。
外堀どころか、内堀まで埋め尽くされているこの状況。
颯太くんに逃げ場はない。
バンッ!
私はノックもそこそこに、颯太くんの部屋のドアを勢いよく開け放った。
「颯太くーん! お迎えにあがりました! 遊ぼう!」
薄暗い部屋の中で、机に向かっていた背中がビクッと跳ねた。
颯太くんが恐る恐る振り返る。
その顔には「またか」という絶望と、「なぜここに」という疑問が張り付いている。
「……日和。お前、どうやって入ってきた」
「お義母さんが『どうぞどうぞ』って招き入れてくれたよ! 『うちの息子を連れ出して!』って涙ながらに頼まれちゃった!」
「母さん……ッ!! 息子を売ったな……!」
颯太くんは天井を仰ぎ、身内の裏切りに打ち震えた。
私はすかさずポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動。
カシャッ! 絶望する彼の表情を、高画質で保存する。
「『身内に売られた颯太くん』、ゲットだぜ!」
「撮るな! 消せ!」
「消さないよー。クラウドにバックアップ済みですー」
私はニシシと笑い、スマホをしまう。
颯太くんは深い溜め息をつき、受験生モードの真剣な顔に戻る。
「……悪いけど、帰ってくれ。帝都理科大の過去問、数学が全然解けねぇんだ。遊んでる暇はねぇ」
「そんなの、一日くらい休んだって変わんないよ! むしろリフレッシュした方が脳の回転が良くなるって!」
私はカーテンをシャッ! と開け放ち、初夏の強烈な陽光を部屋に招き入れた。
「眩しっ……! 吸血鬼の気分だわ……」
颯太くんは目を細めながらも、頑として椅子から動こうとしない。
今日の彼は手強い。岩のように動かない。
「ダメだ。お前こそ勉強しろ。第一志望、俺と同じとこ書いたんだろ? 今のままだと足切りだぞ」
「うっ……それは、そうだけど……」
「わかった。じゃあ、条件を出してやる」
颯太くんは私の手を外し、机の引き出しから一枚のプリントを取り出した。
それは、彼が予備校でもらってきたという、数学の模擬試験問題だった。
「これ。去年の実力テストの過去問だ。制限時間は六十分。これを今ここで解け」
「えっ、今?」
「ああ。で、もし九十点以上取れたら、午後は勉強切り上げて遊びに行ってやる」
「きゅ、九十点!?」
私は素っ頓狂な声を上げた。
数学だ。
しかも難関大志望者向けの模試だ。
平均点は五十点前後がいいところだろう。
それを九十点? 鬼か、この男は。
「無理なら諦めて帰って勉強しろ。俺も集中したいんだ」
颯太くんが意地悪く笑う。
普通の女子なら、「ひどい! 意地悪!」と泣いて帰るところだろう。
だが、私は違う。
その挑発、受けて立とうじゃないか。
デートのためなら、私はニュートンにだってなってみせる。
「……わかった。やるよ」
私は颯太くんから問題用紙を奪い取ると、彼のベッドを占拠し、あぐらをかいて座った。
「見ててね颯太くん。私の愛の偏差値、見せつけてあげるから!」
「愛じゃなくて数学力を見せろよ……。よし、スタート」
ストップウォッチが押された瞬間、私のスイッチが入った。
世界から音が消える。
目の前の数式、図形、確率の羅列。
それらが全て「デートへの障害物」に見える。
脳のCPUをフル回転させ、愛という名のガソリンを注ぎ込む。
オーバーヒート寸前だ。
「……終わりッ!!!」
「早っ……まだ五十分だぞ」
「見直しもした! 完璧! さぁ採点して!」
私は回答用紙を颯太くんに叩きつけた。
颯太くんは半信半疑の顔で赤ペンを持ち、模範解答と照らし合わせ始めた。
私はその横顔に向けて、再びスマホを構える。
カシャッ、カシャッ。
(『真剣に採点する横顔』、『眉間のシワ』……よし、完璧)
シャッター音にも気づかず、颯太くんは採点に没頭している。
そして、最後の計算問題。
「……っ」
颯太くんが小さく息を呑み、回答用紙に大きく点数を書き込んだ。
「どう!? 九十点いった!?」
私は身を乗り出して覗き込む。
そこには、赤いインクで大きくこう書かれていた。
『89点』
「…………は?」
時が止まった。
八十九点。あと、一点。
「嘘……でしょ……?」
私は膝から崩れ落ちた。
目の前が真っ暗になる。
遊園地の観覧車が、クレープが、遠ざかっていく。
「あぁ……終わった……私のGW……さようなら……」
私が床に突っ伏して絶望していると、頭上から颯太くんの震える声が降ってきた。
「……お前、化け物かよ」
「え……?」
顔を上げると、颯太くんが青ざめた顔で私を見ていた。
「これ、俺でも初見で七十点しか取れなかった難問だぞ? なんで一夜漬けみたいな勉強で八十九点も取れるんだよ……半分取れればいいと思ってたのに……」
「で、でも……九十点じゃないもん……約束は約束だし……勉強するよ……」
私は涙目で鼻をすする。
すると、颯太くんがふっと笑い、私の頭にポンと手を置いた。
「ま、頑張った賞だな。四捨五入すりゃ九十点だ」
「……え?」
「八十九点も取れるなら、今の実力としては十分すぎる。……これ以上勉強しろって言ったらバチが当たりそうだ。少しぐらい、遊んでもいいか」
「……っ!!」
地獄から天国へ。
颯太くんのデレが、五月の太陽よりも眩しく私を照らした。
「颯太くん大好きーーッ!!!」
「ぐわっ!? 飛びつくな重い!! 母さんに聞こえるだろ!」
午後。
私たちは近所の遊園地にいた。
地元の人に愛される、少しレトロな遊園地だが、GWということもあり園内は賑わっている。
「颯太くん! あそこのパンダの乗り物に乗って! 撮るから!」
「嫌だよ! 高校生男子だぞ!?」
「いいじゃん、誰も見てないって! はい、チーズ!」
カシャッ!
嫌がりながらもピースをしてくれる颯太くん。
保存。
クレープを食べている口元にクリームがついている颯太くん。
保存。
ジェットコースターで魂が抜けたような顔をしている颯太くん。
保存。
私のスマホのフォルダは、『GWデート』という新しいアルバムで埋め尽くされていく。
被写体の99%は彼だ。 背景の景色なんてどうでもいい。
彼こそが絶景なのだから。
「……お前、撮りすぎだろ。容量大丈夫かよ」
「平気だよ! 颯太くん専用にクラウド契約してるから! 容量は無限大だよ!」
「その情熱を勉強に向けろよ……」
颯太くんは呆れているけれど、その表情は柔らかい。
勉強漬けの日々から解放され、久しぶりにリラックスできているようだ。
連れ出してよかった。
私の判断は間違っていなかった。
夕暮れ時。
西日が差し込む遊園地のゲートを出て、私たちは駅へと向かう歩道を歩いていた。
空が茜色に燃えている。
この美しい景色も、記録しておかなきゃ。
「ねぇ颯太くん! 夕焼けバックに一枚撮らせて! エモい感じで!」
「まだ撮るのかよ……はいはい」
颯太くんは観念して、夕日を背に振り返った。
私はスマホを構え、画面の中に彼を収める。
「いいよー! かっこいいよー!」
私は構図を調整する。
画面の中の颯太くん。 その肩越しに、駅へと向かう人混みが映り込む。
家族連れ、学生グループ、そして――。
「……ん?」
スマホの画面の端。
颯太くんの少し後ろに、一人の女性が立っているのが見えた。
黒髪のロングヘア。
知的な黒縁メガネ。
服装は地味で、これといった特徴のない大人の女性。
彼女は、まるでカメラのレンズを見つめ返すように、無表情でこちらを見ていた。
(……あれ?)
私はスマホを構えたまま、指を止めた。
既視感。
この画面越しの構図、どこかで……。
そうだ、去年の修学旅行。
大阪のテーマパークで、二人で出会った人だ。
あの時も、彼女はじっとこちらを見ていた。
私は思わずスマホを下ろし、肉眼でその方向を確認した。
「……ッ!」
「おい、日和? 撮らないのか?」
「……颯太くん」
私の強張った声に気づいたのか、颯太くんも振り返り、私の視線の先を追った。
そして、あの女性と目が合った瞬間。
「……あ」
颯太くんが短く息を呑んだ。
次の瞬間、彼はこめかみを押さえ、苦しそうに顔を歪めた。
「……なんだ、今の……」
「どうしたの!? 頭痛い?」
「いや……あの人……修学旅行の時、俺たちと一緒に見たよな? なんでここに……」
颯太くんの視線が、あの女性に吸い寄せられている。
彼の瞳が小刻みに揺れ、焦点が定まっていない。
「なんか……思い出しそう……だ……ッ、痛ぇ……」
彼は頭を抱え、その場にうずくまってしまった。
ただごとじゃない。
彼の脳内で、何かのロックが外れようとしているような、あるいは無理やりこじ開けようとして拒絶反応が出ているような。
私の内側で、警報が鳴り響いた。
アラート。
緊急事態。
『アレ』を、彼に見せてはいけない。
「颯太くん! 見ちゃダメ!」
私はとっさに彼の前に立ちはだかり、その視界を体で遮った。
そして、しゃがみ込んで彼を強く抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だよ。私がいるから」
「……日和……?」
「何も見なくていいの。私が守るから。全部、私が守るから」
それは、自分でも驚くほど自然に口から出た言葉だった。
まるで、ずっと昔から唱え続けてきた呪文のように。
私は彼を抱きしめたまま、肩越しに振り返り、あの女性がいた場所を睨みつけた。
スマホをもう一度構えようとした、その時だ。
そこには――
誰も、いなかった。
魔法使いが煙のように消えたかのように、黒髪の女性の姿は跡形もなく消え失せていた。
ただ、楽しげな家族連れが通り過ぎていくだけだ。
「……消えた?」
私が呆然としていると、腕の中の颯太くんから力が抜けた。
「……あ、悪い。なんか急にめまいがして」
彼は顔を上げ、いつもの調子で瞬きをした。
さっきまでの苦痛に満ちた表情は消え、ただ少し疲れたような顔をしている。
「……もう、平気?」
「ああ。やっぱ根詰めすぎたかな。久しぶりに外に出たから、目が回ったのかも」
颯太くんは「情けねぇな」と苦笑いをして立ち上がった。
記憶のフラッシュバックも、頭痛も、まるで最初からなかったかのように。
「……うん、きっとそうだよ! 颯太くん、最近引きこもりだったもん! 栄養と睡眠が足りてないんだよ!」
私は明るく振る舞い、彼の腕を取った。
でも、私の心臓はまだ早鐘を打っていた。 あの地味で、特徴のない女性。
何者なのだろう。
私は颯太くんを家まで送り届けた。
玄関で出迎えてくれた美奈子さんに、「楽しかったです、ありがとうございました」と笑顔で挨拶をし、颯太くんを託す。
「颯太くん、最近部屋に籠もってたから、少し疲れたみたいです。今日はゆっくり休ませてあげてください」
そう伝えると、美奈子さんは「あらあら、無理させたわねぇ」と心配そうに頷いてくれた。
自分の家へと戻り、部屋のベッドに倒れ込む。
天井を見上げても、あの黒縁メガネの女性の残像が消えない。
「……そうだ、写真」
私は慌ててスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。
最後に撮ろうとした一枚。
シャッターボタンを押した記憶はないけれど、もしかしたら。
最新の画像を開く。
そこには、夕焼けに照らされて振り返る、少しかっこつけた颯太くんが映っていた。
でも、その背景。
人混みの中。
彼女が立っていたはずの場所。
そこには、ただのアスファルトの地面と、通り過ぎる親子連れの背中しか映っていなかった。
「……映ってない」
やっぱり、幻覚だったのか?
でも、颯太くんも見た。
修学旅行の時も、今回も。
二人同時に幻覚を見るなんてことがあるだろうか。
(修学旅行で見た。うん、それは間違いない)
でも、それだけだろうか? もっと前。
もっとずっと昔。
私がまだ、今の「如月日和」になる前。
幼い頃の記憶の片隅に、あの無機質な視線があったような気がするのだ。
まるで私たちを、ずっと遠くから観察しているような……。
「……考えすぎ、かな」
私はスマホの画面を消し、布団を頭まで被った。
颯太くんは無事だ。
私が守った。
それだけで十分だ。
GWの楽しかった記憶と、フォルダに残らなかった不可解な空白。
その二つを抱えたまま、私は泥のような眠りへと落ちていった。




