第18話『進路希望調査と、迷子の花嫁』
四月。 星見台市を彩っていた桜の蕾は、約束通り満開の時を迎え、そして今は風に乗って薄紅色の花びらを散らし始めていた。
舞い散る花吹雪の中、私たちは新しい靴箱、新しい教室、そして「受験生」という決してありがたくない新しい肩書きを手に入れた。
星見ヶ丘高校、三年C組。
神様は今年も私に微笑んでくれたらしい。
奇跡的にも、私はまたしても鳴海颯太くんと同じクラスになることができたのだ。
昨年の四月、二年B組で彼と同じクラスになった時の衝撃と歓喜は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
あれから一年。 文化祭でメイド服を着て夫婦漫才をしたこと、台風の夜に彼の家へ特攻したこと、クリスマスのマフラー、バレンタインの質量兵器、そして誕生日の合鍵……。
走馬灯のように駆け巡る思い出は、どれもこれも色が濃すぎて、私の青春というキャンバスを、これでもかというほどピンク一色に塗りつぶしている。
「はぁ……幸せな一年だったなぁ……そして今年も幸せ確定……」
ホームルームの時間。
私は窓の外の桜を見つめながら、恍惚のため息を漏らした。
颯太くんの斜め後ろという、彼の背中(猫背気味で愛おしい)と横顔(たまに眠そうで可愛い)を同時に観測できる「神席」を確保できたこともあり、私の新学期は順風満帆のスタートを切ったはずだった。
「はい、それじゃあ後ろに回してくれ。期限は来週だが、早めに考えるように」
担任の無機質な声とともに、現実という名の紙切れが前方から回ってきた。
前の席の女子が、「はぁ……憂鬱」と重い溜め息と共に私に手渡したプリント。
そこには、太いゴシック体で残酷な文字が印刷されていた。
『進路希望調査票』
その瞬間、私の頭の中のお花畑は、一瞬にして枯れ果てた荒野へと変わった。
「……うっ」
私は呻き声を上げ、シャーペンを握りしめたままフリーズした。
第一志望、第二志望、第三志望……。
罫線で区切られた空欄が、まるで大きな口を開けて私を嘲笑っているように見える。
『お前の人生の目的は何だ?』
『鳴海颯太以外に、お前を構成する要素はあるのか?』
そんな幻聴さえ聞こえてきそうだ。
放課後。
クラスメイトたちが部活や塾へと散っていく中、私と颯太くんは教室に残っていた。
二人で机を突き合わせ、例の「紙切れ」と睨めっこをするためだ。
「……書けねぇ」
颯太くんが頭を抱えている。
彼もまた、自分の未来という不確定な存在に悩んでいるようだ。
だが、私の悩みは彼とは質が違う。
彼が「複数の選択肢からどれを選べばいいか」で悩んでいるとしたら、私は「選択肢が存在しない(彼以外が見えない)」ことで悩んでいるのだ。
「日和、お前は書いたのか?」
「ううん、まだ。だって……何書いても颯太くんに怒られそうで」
「怒るようなこと書かなきゃいいだろ。真面目に書けよ?」
「うん、嘘は書けないからね。私の正直な気持ちを書くよ!」
私は意を決して、シャーペンを走らせた。
私の人生設計における、揺るぎない第一志望。
サラサラサラ……ッ!
「お、意外と早いな。何になりたいんだ……って、おい!」
書き込まれた文字を見た瞬間、覗き込んだ颯太くんが素っ頓狂な声を上げた。
【第一志望:鳴海颯太の配偶者(専業主婦希望)】
「却下だ! 即刻消せ! 今すぐだ!」
「ええーっ!? なんで!? 私の夢だよ? 幼児期からの悲願だよ? これ以上に尊い職務がある?」
「職業じゃねぇからだ! 進路指導室で先生に何て説明すんだよ! 『夢は嫁です』『採用担当は鳴海です』とか通じるか!」
「通じるよ! 少子化対策に貢献する愛国心溢れる進路だよ! 先生だって泣いて喜ぶよ!」
「屁理屈言うな! 真面目に書け、社会的な肩書きを!」
颯太くんは私の手から消しゴムを奪い取ると、私の愛の結晶(文字)を無慈悲にゴシゴシと消し去った。
うぅ……ひどい。
でも、確かに職員室でこれを読み上げられるのは、羞恥プレイかもしれない。
「わかったよぅ……じゃあ、もっと実用的なやつにする」
私は気を取り直し、第二志望の欄にペンを走らせる。
これなら文句ないはずだ。
【第二志望:鳴海家の専属警備員(SP・住み込み可)】
「それもダメだ! なんで頑なにウチの実家に就職しようとしてんだ!」
「だって、颯太くんを守るのが私の使命だし。台風の日も守ったじゃん! 私の身体能力は颯太くんを守るためにあるんだよ?」
「あれはただの過剰防衛だ! 親父もお袋も、SPなんて雇う金ねぇよ! 俺は要人か!」
「大丈夫、給料は『颯太くんの笑顔』でいいから。あと三食昼寝付きで」
「ブラック企業すぎるだろ! 労基署が飛んでくるわ!」
またしても却下された。
颯太くんは頭を抱え、「お前なぁ……もっとこう、自分の能力を活かした仕事とかあるだろ?」と諭してくる。
「能力……?」
「お前、料理うまいし、体力あるし、成績だって悪くねぇじゃんか。もったいないだろ」
「むぅ……じゃあ、これなら文句ない?」
私は第三志望の欄に、自信満々で書き込んだ。
【第三志望:鳴海颯太専属の管理栄養士】
「……あの、凶器みたいなブラウニーを毎日食わされる未来が見えるんだが」
「失礼な! ちゃんとカロリー計算して、颯太くんをムキムキの健康体にするよ! 長生きしてほしいもん!」
「動機が重いんだよ……! それに『専属』ってつけるな、『専属』って!」
颯太くんは深い深いため息をつき、椅子に深くもたれかかった。
教室の時計の針だけが、カチ、コチ、と音を立てて進んでいく。
「……はぁ。ダメだ、日和。お前、ふざけてるだろ」
「ふざけてないよ! 真剣だよ!」
私は机をバンと叩いて立ち上がった。
「私には、颯太くん以外の未来なんて想像できないの! 颯太くんがいない大学に行って、颯太くんがいない会社に入って、颯太くんがいない老後を過ごす……そんなの、私にとっては『生きてる』って言わないよ! 私の進路は『鳴海颯太』なの! それ以外は全部誤差だよ!」
私の魂の叫びが、放課後の教室に響き渡る。
颯太くんは目を見開き、少し呆れたように、でもどこか困ったような顔で私を見上げた。
「……お前さぁ。相変わらず極端だよな」
彼は視線を外し、自分の手元にある、まだ白いままの調査票を見つめた。
そして、覚悟を決めたように静かに口を開いた。
「俺はさ……行きたいところ、あるんだ」
「えっ?」
「まだ迷ってたけど……やっぱり、あそこに行こうと思う」
颯太くんはシャーペンを持ち直し、第一志望の欄に、しっかりとした筆致で書き込んだ。
【第一志望:帝都理科大学 理工学部】
その文字を見た瞬間、私の思考回路は光の速さで回転を始めた。
帝都理科大学。
県外にある、理系学部では名門中の名門だ。
偏差値は高い。
倍率も高い。
そして何より――私の家からは通えない距離にある。
「……そっか。颯太くん、東京に行くんだ」
「ああ。やりたい研究があるんだよ。……難しいかもしれないけど、挑戦してみようかと」
颯太くんは照れくさそうに鼻をこすった。
自分の夢を語る彼の横顔は、いつもの気だるげな雰囲気とは違って、凛としていてカッコいい。
応援したい。
心からそう思う。
でも、それ以上に――私の本能が告げている。
『離れてはいけない』と。
「決めた!」
私は叫ぶと同時に、自分の調査票の第一志望欄(さっき消されて黒ずんでいる場所)に、猛烈な勢いで書き込んだ。
【第一志望:帝都理科大学】
「はあぁっ!?」
書き込まれた文字を見て、颯太くんが椅子から転げ落ちそうになった。
「お前っ、お前な!?」
「私も行く! 東京! 帝都理科大!」
「待て待て待て! 落ち着け! お前、文系だろ!? バリバリの文系選択だろ!?」
「関係ない! 愛の力で数ⅢCも物理もねじ伏せる!」
「ねじ伏せられるか! 帝都理科大の入試問題なめんな! それに学部どうすんだよ!」
「経営工学科とかあるよ! 文系でも受けられる枠があるはず! 調べる! 今すぐ赤本買う!」
私はスマホを取り出し、帝都理科大の入試要項を検索し始める。
私の目は、獲物を狙う猛獣のように血走っていたはずだ。
「おい、日和。ちょっと待てって」
颯太くんが私の手首を掴み、真剣な眼差しで私を止めた。
「あのな……俺に合わせて進路決めるの、やめろよ」
「なんで?」
「重いんだよ。お前の人生だぞ? もし俺が落ちたらどうすんだ? もし大学で俺たちが別れたらどうすんだ? 俺を基準にしてたら、後で絶対後悔するぞ」
彼の言葉は正論だ。
優しさから来る、至極全うな忠告だ。
普通のカップルなら、ここで「そうだね、私の人生だもんね」となるのかもしれない。
でも、私たちは違う。
私は、如月日和だ。
「……颯太くん」
私は彼の手を握り返し、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「颯太くんがいない人生の方が、私にはよっぽど重荷だよ」
「……っ」
「後悔なんてしない。私が選んだのは『大学』じゃないの。『颯太くんがいる場所』を選んだの。 そこがたまたま帝都理科大だっただけ。もし颯太くんが南極に行くって言ったら、私はペンギンの着ぐるみ着てついていくよ」
一ミリの迷いもない私の言葉に、颯太くんは言葉を失った。
彼はしばらく口パクパクさせていたが、やがて「はぁー……」と、この世の全ての諦めを凝縮したような深いため息をついた。
「……勝てねぇ。お前には一生勝てる気がしねぇよ」
「えへへ、私の勝ちだね! じゃあ、これ決定!」
「……知らねぇぞ。落ちても慰めてやらねぇからな」
「落ちないよ。だって、落ちたら颯太くんと一緒にいられないもん。そんなバッドエンド、私のシナリオにはないよ」
「……わかったよ。じゃあ、教えてやるよ。数学も物理も」
「えっ、本当!?」
「お前一人じゃ絶対無理だろ。……俺が行く場所に、お前がいないのも、なんか調子狂うしな」
その一言は、どんな甘い言葉よりも私の胸に響いた。
それはつまり、彼もまた、私との未来を望んでくれているということだ。
夕暮れ時。
私たちは並んで、心臓破りの坂を下っていた。
西日が二人の影を長く伸ばしている。
颯太くんは前を向いている。
「難関だけどな……頑張るわ」と呟くその横顔は、一年前よりもずっと大人びて見えた。
彼は明確な「目標」を見つけ、そこに向かって歩き出そうとしている。
一方、私はどうだろう。 私は隣を歩く彼の横顔を見つめながら、ふと胸の中に冷たい風が吹いたような気がした。
颯太くんは凄いな。
ちゃんと自分の足で、自分の行きたい場所を決めている。
それに比べて私は、「彼についていく」ことしか決めていない。
「ねぇ颯太くん」 私は無意識のうちに、彼の袖を掴んでいた。
「私がついていったら……迷惑?」 珍しく弱気な問いが口をついて出た。
颯太くんは少し驚いたように私を見て、それからふっと優しく笑った。
「……いや。東京で一人暮らしとか不安だしな。お前がいてくれた方が、俺も心強いよ」
その言葉に救われた。
「そっか! じゃあやっぱり、私が守ってあげなきゃね!」
私はいつもの笑顔を取り繕ったけれど、胸の奥の小さなトゲは消えなかった。
夜。
自分の部屋のベッドの上で、私は天井の木目をぼんやりと見つめていた。
昼間の騒ぎは落ち着き、家の中は静まり返っている。
机の上には、まだ書き込んでいない真っ白な調査票の予備と、新しく買った数学の参考書。
(……もし)
ふと、恐ろしい思考実験が頭をよぎる。
(もし、私が颯太くんと出会っていなかったら。私は何になりたかったんだろう?)
私は頭が良い方だ。
自分で言うのもなんだけど、成績は学年トップクラスだし、運動もできる。
先生たちが言うように、医学部だって法学部だって、目指せばきっと届く。
医者になって人を救う?
弁護士になって正義を守る?
想像してみる。
……何も感じない。
色のない映像が流れるだけで、そこには何の情熱も、高揚感もない。
ただの「優秀な如月日和」という抜け殻が、社会の歯車として機能しているだけだ。
「……ない」
私は呟いた。
本当に、何もないのだ。
私という人間は、ハイスペックな機能を搭載しているだけで、その中心にあるはずの「核」が空っぽなんだ。
その空洞を埋めているのが、「鳴海颯太」という存在だけ。
彼がいて初めて、私は動き出す。
彼がいて初めて、私は「私」になれる。
「……そっか。やっぱり、私の構成要素の99%は『鳴海颯太』なんだ」
その事実に、少しだけ背筋が寒くなるような戦慄を覚えた。
これは愛なのか、それとも依存なのか、あるいはもっと別の何かなのか。
わからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
私は彼を失ったら、生きる意味そのものを失うということだ。
「だから……絶対に離さない」
私は自分に言い聞かせるように呟くと、ガバリと起き上がった。
不安を打ち消す方法は一つしかない。
私は机に向かい、数学の参考書を開いた。
数式は無機質だけれど、これを解くことが、彼との未来を繋ぐ唯一の道だ。
シャーペンの芯を出し、私は深夜の静寂の中で、戦いを開始した。
迷子の花嫁が生きる場所を確保するための、長い長い戦いを。




