第16話『バレンタインの質量保存の法則』
2月14日、バレンタインデー。
暦の上では春が近いとされるが、実際にはまだ寒風吹きすさぶこの日。
世の中の男子が朝から落ち着きなくソワソワし、女子が勝負下着ならぬ勝負チョコで気合を入れる、年に一度の決戦の日だ。
私のクラスも、登校直後から甘ったるいカカオの香りと、浮足立ったピンク色の空気に包まれていた。
けれど、私、如月日和の場合は、他の女子とは少し事情が異なる。
ライバルを警戒する必要も、告白のタイミングを計る必要もない。
このクラスで、いやこの学校で、私と颯太くんという強固な結合の間に入り込めるような命知らずは存在しないからだ。
私の指定席は、揺るがない。
「おっはよー! 颯太くん! 今日も世界一カッコいいね!」
私は誰よりも元気よく教室に入り、颯太くんの前の自分の席に着く。
そして、肩にかけていたスクールバッグを、よいしょ、と机の上に下ろした。
——ズンッ……!!!
「……!?」
その瞬間、教室の床が揺れた気がした。
机の天板が悲鳴を上げ、まるで金庫を落下させたかのような、重く鈍い低音が教室の喧騒を切り裂いて響き渡る。
静かに教科書を読んでいた颯太くんが、ビクッとして体を震わせ、驚愕の表情で顔を上げた。
彼の視線は、私のスクールバッグに釘付けになっている。
「……おい、日和」
「ん? なぁに? 朝から熱い視線だね?」
「今の音、なんだ? お前のバッグの中に一体何が入ってんだ? 鉄アレイか? それともダンベルでも持ち歩いてんのか?」
その異常な音に反応したのは彼だけではない。
隣の席の健人くんも、目を丸くして身を乗り出してくる。
「お前、これから工事現場のバイトか? 今の、完全に建築資材を置いた音だろ。学校の机、耐荷重大丈夫か?」
男子二人の引いた視線に対し、私は余裕の笑みを浮かべる。
「失礼だなぁ。乙女の秘密だよ? 中に入っているのは、夢と希望と……愛だよ!」
私はニシシと悪戯っぽく笑って誤魔化しつつ、ポケットからスマホを取り出す。
「今の『未知の脅威に怯える小動物』みたいな颯太くんの顔、いただきました!」
パシャッ、と無音カメラで保存。
今日も私のフォルダは、彼のレアな表情で潤っていく。
この重みが何なのか、それは放課後のお楽しみだ。
放課後。
私たちは冷たい北風が吹く通学路を、マフラーに顔を埋めながら並んで歩いていた。
周囲に生徒の影が少なくなったタイミングを見計らい、私は公園の入り口付近で立ち止まった。
「颯太くん! ちょっとストップ!」
「ん、なんだ? 寒いから早く帰ろうぜ」
私はバッグから、可愛らしいパステルピンクの包装紙で丁寧にラッピングされた箱を取り出した。
大きさは手のひらサイズより一回り大きいくらい。
リボンもかけてあり、見た目はごく普通の、どこにでもありそうな可愛いバレンタインギフトだ。
「はい、これ! ハッピーバレンタイン! 今年も愛を込めたよ!」
「お、サンキュ。今年は……なんだ、普通サイズだな。去年みたいなバケツプリンじゃなくて安心したわ」
颯太くんは箱の小ささに少し拍子抜けしたような、安堵したような顔を見せ、ポケットから出した片手で、ひょいっと箱を受け取ろうとした。
ズシッ……!!!
「おもっ!?!?」
箱を受け取った瞬間、颯太くんの右腕が、まるで何かに引っ張られたようにガクンと垂直に沈んだ。
彼は慌てて両手で箱を支え直し、腰を入れて踏ん張る。
信じられないものを見る目で、手の中の小さな箱と、私の顔を交互に見た。
「な、なんだこれ……!? 見た目に反して比重がおかしいだろ! 中身、鉛か!? それともブラックホールでも入ってんのか!?」
「違うよ! 手作りブラウニーだよ! 食べ物だよ!」
「ブラウニーがこんな質量になるわけねぇだろ! 中性子星でも練り込んだのか!? これ凶器だぞ!」
私はえっへん、と胸を張って、この奇跡の製法について解説する。
「あのね、中身は『超高密度ナッツ・ブラウニー』なの! ほら、あの台風の夜に颯太くんと一緒に食べたナッツ、美味しかったでしょ? あれをね、これでもかってくらい砕いて、生地の隙間という隙間にギッチギチに詰め込んで、さらにプレス機並みの力で圧縮したの!」
私の独自理論、名付けて『バレンタインの質量保存の法則』。
愛の大きさは、体積ではなく物理的な質量に比例するのだ。
小さな箱に宇宙のような無限の愛を詰め込むには、密度を上げるしかない。
「私の愛を目一杯詰め込んだら、こうなっちゃった! 空間が歪むくらいの愛だよ!」
「……お前の愛、重すぎだろ(物理的に)。引力を感じるレベルだわ」
颯太くんは呆れたように笑ったけれど、「ま、ありがとな。お前の愛、しかと受け止めた」と、その重すぎる箱を大切そうに抱え直した。
「ぐっ……腕が……プルプルする……食べる前にパンプアップしそうだ……」
「頑張れー! 颯太くんの筋肉が喜んでるよ! あ、その苦悶の表情も素敵! 愛の重さに耐える男の顔! パシャッ!」
私がスマホで連写していると、向こうから健人くんと美咲が腕を組んで歩いてきた。
「おーい、お前らも帰りかー?」
「あ、健人くん。見て見て、私の愛の結晶!」
「おう、なんか颯太、すげぇ重そうなもん持ってるな……。俺なんて美咲から貰ったの、このフワフワのシフォンケーキだぜ? 軽い軽い♪」
健人くんが軽い紙袋を指先でくるくると回している横で、颯太くんはまるで漬物石、あるいは金塊を持つような体勢で脂汗をかいている。
「ふわふわ」対「超圧縮」。
その対比があまりにシュールで、私はさらに一枚、記念撮影をした。
私たちの愛は、軽くないのだ。
「さむさむ~っ! こたつ天国~!」
私たちはそのまま颯太くんの家に直行し、リビングのこたつに滑り込んだ。
外の寒さが嘘のような、温かいオレンジ色の空間。
冷え切った手足がじんわりと解凍されていく。
ここは私たちだけのシェルターだ。
「よし、食うか……いざ、開封の儀」
颯太くんがラッピングを慎重に解き、箱を開ける。
中には、見た目は綺麗なダークブラウンのブラウニーが鎮座していた。
表面は艶やかだが、密度が高すぎて光を吸収しているように見える。
そこにあるだけで空間が歪んで見えそうだ。
颯太くんがナイフを入れる。
ギチチ……ギリギリ……と、お菓子を切る音とは思えない硬質な音がして、刃がなかなか通らない。
「硬っ! レンガかよこれ! のこぎり持ってこようか?」
「愛が凝縮されてるからね! 気合を入れて!」
なんとか切り分け、颯太くんがその一切れを持ち上げる。
箸を持つ手が少し震えている。
彼は覚悟を決めて、それを口に運んだ。
「……ん!」
「どう? どう? 味見は完璧だったはずだけど」
「……美味い。味はすげぇ美味い。ナッツの香ばしさとチョコの濃厚さが合ってる」
颯太くんが目を見開く。
やった、味は完璧だ! 料理の腕は伊達じゃない。
「ただ……なんつーか、ひと口食べただけで、カツ丼一杯食ったくらいのエネルギーを感じる。胃にズドンと来るな」
「えへへ、栄養満点だよ! これで山で遭難しても、その一切れがあれば一週間は生き延びられる完全食だよ!」
すると、リビングのドアが開いて、お母さん(美奈子さん)がお茶を持って入ってきた。
「あら~、日和ちゃんいらっしゃい! まあ、すごいチョコ……それ、レンガ? それともインゴットかしら?」
「あ、お母さん! 手作りブラウニーです!」
「あらやだ、ごめんなさいね。色が似てたから。ふふ、若い二人は熱々でいいわねぇ~、お邪魔虫は退散するわね」
お母さんはニヤニヤしながら、私たちがこたつでくっついているのを見て、楽しそうにウィンクをして部屋を出て行った。
公認って素晴らしい。
この家の敷居はもう私のものだ。
「ほら颯太くん、私も食べる! あーん」
「自分で食えよ。手ぇあるだろ」
「愛のお裾分け! 私が作ったんだから毒味も兼ねて! ほらほら!」
颯太くんは「毒なんて入ってねぇだろ」と少し照れながらも、観念して口を開けて、私の指先から(超高密度)ブラウニーを齧ってくれた。
「……ん、甘いな」
「でしょ? あ、口についてる」
私は指先で颯太くんの唇の端についたチョコの欠片を拭い、それをそのまま自分の口に入れた。
「ん、美味しい」
間接キス、なんてレベルじゃない濃厚な接触。
こたつの熱気も相まって、颯太くんの顔が一気に赤くなるのがわかる。
この最高に甘い瞬間も、心のシャッターでしっかりと高画質保存した。
「ふぅ……食った……」
「お腹いっぱいだねぇ……」
私の愛(超高カロリー)を完食した颯太くんは、強烈な満腹感と血糖値の上昇、そしてこたつの温かさに包まれて、とろんとした目をしている。
一種の幸福な気絶状態だ。
私も彼の隣に座り、その肩に頭を預けた。
テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているけれど、今は触れ合っている肩から伝わる体温と、二人の鼓動の音の方が心地いい。
「……もうすぐ春だな」
窓の外を見ながら、颯太くんがぽつりと呟いた。
「そしたら俺たち、三年生か。いよいよ受験生だな」
「うん。忙しくなるね」
「イベントも減るかもな。勉強しなきゃなんねぇし、遊んでばっかいられなくなる」
少し寂しそうな、不安を含んだ颯太くんの声。
未来への変化に対する戸惑い。
でも、私は首を横に振った。
彼の不安なんて、私が全部食べてあげる。
「大丈夫だよ」
私はこたつの中で彼の腕に自分の腕を絡ませ、ぎゅっと抱きしめる。
私の体温を、彼に流し込むように。
「受験も、勉強も、卒業も。全部一緒にクリアしようね! 私のスタミナがあれば、颯太くんの分まで頑張れるから! 私が颯太くんのエンジンになるし、ガソリンにもなるよ!」
「はは、頼もしいな。……ま、お前となら退屈はしなさそうだしな。どんな壁も壊して進めそうだ」
颯太くんの手が、私の頭を優しく撫でる。
その手のひらは温かくて、大きくて、何よりも落ち着く。
ブラウニーはずっしりと重かったけれど、今の私の心は羽が生えたように軽い。
彼がいれば、重力なんて関係ない。
「大好きだよ、颯太くん。誰よりも、何よりも」
「……俺もだ」
こたつの中、重なる足と手。 窓の外にはまだ冷たい風が吹いているけれど、私たちの春はもう、すぐそこまで来ている。
物理的な重さ以上の「想い」を共有しながら、私たちの高校二年生の冬は、どこまでも甘く、穏やかに幕を閉じた。




