口づけは人差し指に
手を口の前に運ぶ。人差し指を立て、唇に押し当てる。「しーっ」。こうしておけば独りよがりな優越感を獲得可能だ。
白い息が板につく冬の終わりの夜、近所の公園に立ち寄ってぶらぶら。ふと、立ち止まる。手袋から人差し指だけ出して、植え込みに向かって、ハンドサインを繰り出した。
もとより木々の葉擦れがするくらいの静かな小さな空間が、より煩いもののように意識せざるを得なくなる。
そしてそれが、この自身のこの人差し指によって引き起こされていると考えると身震いすらある。
空間の勝利者になったのだ。証人はいない。多くの木々も、己も気付かぬうちに私に勝利を献上している。
自身のたったこれだけの所作がもたらす満足感といったらなかった。どんな映画や漫画より生暖かい純なものがあった。
これを目撃されたことがあった。夏の闇のどこからか鳴く蝉へ向け、一方通行の道路から空を見上げるように、「静かに」ハンドサインを送った。夏と冬とでは風情などまるで違う。夏はこんなハンドサインをしようがしまいがバカみたいにゔぃんゔぃんと、がなり立てるから、冬ほど効果を感じられはしない。実際の頻度自体も少ないものだが夏の時期は特に思い立とうとすら思わない。
しかし何を思ったか、やってしまった。誰も見ていまいと高をくくった節はあったが、なんと前方から来る婦人とその連れるサモエドに見られていた。幸い、暗がりの内だったから、奇っ怪なにやけ面は見られてはいないだろう。
サモエドは吠えこそしないが、こちらを見るなり婦人の、リードを巻いて持つ手をずっぽ抜く勢いで迫り来ようとする。婦人は慣れた感じで、両手でリードを掴んで制止する。そうして、去っていった。
私もまた、顔の赤らむのを知りながら、逃げるようにその場をあとにする。ふと振り返ると、白いものが婦人を引っ張りながら道を無尽に歩いていくのが見えた。
私は人差し指を唇にあてた。途方もない敗北を感じる。だけども、何かに勝った気持ちもあった。




