第09話 「旅路の裂け目」
大会本選の前日、アレンは南区の市場に出た。影の工房の材料が運ばれるなら、匂いはここに残る。油と香辛料と人の汗の中、甘い金属の匂いが風に紛れる。
袋を抱えた少年が、足早に裏路地へ消えた。アレンが距離を取りつつ追うと、荷を受け取ったのは、王都でも名のある商会の下働きだった。彼らは箱を二重に封じ、厳重に管理するふりをしている。見栄えの膜は、商売の膜でもある。
そのとき、頭上で乾いた裂ける音がした。空がひと筋、縦に割れたような錯覚。次の瞬間、路地の先で土煙が上がる。リオの声が飛ぶ。
「離れろ!」
地面から黒い虫が湧いた。村で聞いた「金属を喰う虫」に似ているが、こちらは街に合わせて育てられたのか、鎖の金具に真っ直ぐ噛み付く。商会の男が悲鳴を上げ、箱を落とした。膜の付いた金属片が路地に散る。虫はそれに群がり、膜だけを剥ぎ取っては、芯を吐き出す。
アレンは槌を抜き、地面を軽く打った。カン。骨に響く音。虫の動きが一瞬止まる。低く、連続して二度、三度。鍛気は振動の布になり、虫の顎のリズムを狂わせる。リオが素早く油布で虫を包み、火を当てる。黒い塊は脆く崩れた。
商会の男は蒼白で、しかし口だけが動く。
「知らなかった……私は、ただ運べと……」
路地の入口で足音が止まり、ガレスが現れた。部下が手短に状況を説明する。アレンは拾い集めた膜片を布に包み、核粉の混じりを確かめる。甘い匂い、黄ばむ色、軽い手触り。さきほどの倉で嗅いだものと同じ。
「証にする。——商会の倉を押さえろ」
ガレスの声は低いが、よく通った。衛兵が散り、路地の影が揺れる。アレンは商会の男に水を渡した。「次に口を開く前に、息を整えろ」。男は唇を震わせ、やがて大きくひとつ息を吐いた。
夕暮れ、王都の風は冷え、街の屋根が赤く染まった。アレンは宿に戻る途中、核の包みにそっと触れた。鼓動は静かで、しかし芯がある。裂け目は広がる前に焼き固めなければならない。火はそれができる。音は、そのための道を作る。
路地の角でセラが立ち止まり、短く言った。「明日、本選。——出る?」
「出る。火の前に立つ場を捨てたら、明日、誰かの火を守れない」
仮面の目が笑った。「じゃあ、わたしは風を読む」。ふたりは別れ、夜が降りた。
遠くで鐘が三度。王都の夜警の合図だ。アレンは窓を閉め、枝打ち工具と鉈の刃を布で包んだ。道具は眠らない。眠らせるのは人の都合だ。火の外の裂け目は、明日、火の前で閉じる。
夜、工房で短い打ち直しをした。柄金の噛みが浅い刃が三本。ひとつは商人の娘の包丁、ひとつは荷車の留め金、ひとつは小さな鉈。どれも見栄えは変わらない。だが、手にした瞬間、目の奥が変わるのがわかる。「軽い」「逃げない」「迷わない」。それが、火の返事だ。
窓の外で、王都の夜鳴き鳥が短く鳴いた。裂け目は一度閉じたが、完全ではない。アレンは灯を落とし、核の包みに耳を当てた。明日は大会本選。火を前にしながら、火の外の火事と向き合うことになる。音で、火を通す。それだけを考えて眠った。
ガレスが現場を押さえ、商会の印を確認した。彼はアレンを見ない。だが、声は届くようにと言葉を選ぶ。
「これは王都の裂け目だ。見栄えと利益のために、芯を捨てる。……お前は、どうする」
「火は、芯から起こす。俺は、火の側に立つ」
夕暮れ、王都の空は赤く、街の屋根は厚い影を落とす。遠い村の夕焼けを思い出し、アレンは護符を指でなぞった。帰る道を忘れないように。だが、いまはまだ帰れない。王都の裂け目は、火で焼き固めなければ広がってしまう。
眠りに落ちる前、アレンは小さな決まりごとをひとつ作った。「明日、誰かの火を守るとき、三度以上言葉を費やさない」。混乱の場では、長い言葉は火を乱す。音で合図を送り、目で段取りを渡し、手で火を運ぶ。王都の夜は騒がしいが、耳の奥では鍛冶場の静けさが続いていた。
机の端に置いた釘を一本、指先で転がす。師の釘だ。頭は潰れず、芯は立っている。釘ひとつのまっすぐさが、明日の自分の背骨になる。アレンは釘を護符の隣に置き、深く息を吐いた。音は短く、確かだった。
壁に立てかけた鉈の背で、扉を軽く叩いて試す。二度、高く。隣室のリオがすぐに同じ高さで一度返し、「了解」の合図を送ってきた。声を潜める必要のある場面では、こういう稽古が効く。音は、誰かと共有して初めて地図になる。
窓の外、遠くの屋根瓦が冷えていく気配がした。王都の夜気は、焔を忘れない。どこかで残り火がくすぶっている。明日、それを急がせない。火は急がせると、必ず誰かを噛む。アレンは目を閉じ、ふいごの呼吸だけを数えながら眠りに沈んだ。
寝入り端、耳の奥で核が小さく鳴る。短く、低く、確かに。——わかった。音で守る。そう決めて、眠りは深くなった。




