第05話 「森の小迷宮、響く核」
迷宮の入口に吸い込まれていった「風見の羽」は、昼過ぎには一度戻ってきた。浅い階層は湿って滑りやすく、壁に生えた苔が光を吸う。だが、灯り籠は安定して燃え、鳴き鋲は足音を拾って小さく鳴いた。リオは短く報告し、道具の調整を頼む。
「この紐、もう少し手に馴染ませたい。汗をかくと滑る」
「革に油を含ませて、手の癖に合わせて織りを変える。夜までに」
アレンは手際よく革を裂き、編み、油を含ませ、縫い目を槌の背で軽く叩いて整える。槌音はいつもより低く、迷宮の冷えた空気に合わせて姿勢を正すように響く。革紐の交点は外れにくい「八の字」に。金具は角を落とし、衣に引っかかりにくく。ミナは卓に地図を広げ、彼らが印した線を重ねる。
「ここの分岐で音が響いた。風が逆に抜ける感じがした」
「なら、空間が裏で繋がってる。たぶん、狭いところを通ると、荷が引っかかる」
荷をまとめ直し、金具を軽くして形を揃える。重さを削ることは、戻ってくるための力を増やすことだ。夜、彼らはふたたび暗がりに消えた。アレンは炉の火を落とし、静かな闇に目を慣らす。やがて、彼の耳は夜の中のごく微細な音を拾い始める。遠くで鳴き鋲がひとつ鳴き、すぐに二つめ、三つめ。リズムは乱れず、戻る足取りだ。
明け方、リオたちは泥と汗にまみれて帰った。だが、目は輝いている。肩で息をしながらも、動きは軽い。彼は背負い袋から布に包まれた何かを取り出した。包みを開くと、拳ほどの金属塊が現れた。黒く、しかし内側からかすかな光を漏らすような、奇妙な鋼。
「階段の先の、骸骨の籠の中にあった。刃じゃない。道具でもない。けれど……音がする」
アレンが手に取った瞬間、胸の奥で小さな鈴が鳴った。チン、と、第1話の夜に包丁を打ったときと同じ、空気のどこかを細く通る音。鍛気がわずかに震え、核はそれに応えるように温度を持った。
「……古い。誰かが、火ではなく『何か』で精錬した痕がある」
ガレスの言葉が頭を掠めた。規格では測れないもの。火の外へ響くもの。ミナが不安げにアレンの顔を覗き込む。
「危ないもの?」
「わからない。けれど、呼んでいる。鍛えろ、と」
アレンは核を炉の傍に置き、火を起こした。核は火に近づけると、わずかに音を変える。高く、低く、まるでこちらの呼吸を測るように。アレンの手は槌を取り、しかしすぐに置いた。これは叩く前の仕事がいる。核の周りに薄い鉄の帯を巻き、振動を逃がす器を作る。火の温度を数段階に分け、鍛気を薄く、広く、布のように掛ける。
最初の夜、核は眠り、音は少しだけ澄んだ。二日目、核は微かに膨らみ、音は短く跳ねた。三日目、核はひとつ溜息のような振動を漏らし、アレンの掌に馴染む温かさを持った。ミナは毎夜、湯と軽い食事を運び、何も聞かずに火のそばで座った。リオたちは交代で見張りをした。誰も急かさず、ただ火の時間に身体を合わせる。
四日目の夜、アレンは初めて槌を上げた。落とすのは、一度だけ。核は音を返した。炉の火が青く細く伸び、納屋の屋根板がわずかに鳴った。遠くで犬が寝返りを打ち、森の梢がざわめく。核は形を変えない。ただ、音だけが変わる。澄んで、深く、どこまでも通る。ミナの目が驚きで大きくなり、すぐに細く柔らかくなった。
「……これ、楽器みたい」
ミナの囁きに、アレンは笑った。
「道具は、音だ。切る音、削る音、掬う音。なら、これはきっと、何かを『起こす』音」
核は、まだ名を持たない。だが、火は知っている。これがただの金属ではないことを。アレンはそれを布に包み、炉の奥に短い祈りとともに置いた。
翌朝、森の奥からまた新しい噂が届いた。迷宮の二階に、金属を喰う虫がいるという。刃が鈍り、鎧が軋む。リオは困ったように笑って頭を掻く。セラは黙って槍の柄を撫で、木目の流れを確かめた。ミナは帳面に「虫」「油」「焼き入れ」の三つの言葉を並べ、矢印で結んだ。
「また、手を借りる。虫の歯に噛まれにくい表面が欲しい」
「なら、焼き入れの仕上げを少し変える。油の種類を混ぜて、表に薄い皮膜を作る。核の音も使えるかもしれない。音で表面を落ち着かせれば、噛まれにくい」
火は今日も立ち上がり、槌は規則を刻む。アレンの暮らしは、辺境の静けさの中で確かに回り始めた。追放は痛みだった。しかし、その痛みの先で、彼の槌は世界のどこか遠くまで響き始めている。ミナは帳面に新しい欄を作った。「核」。そのページは、これからしばらく、村の歴史になる。
夜更け、アレンは核の包みにそっと耳を当てた。遠くで誰かが打つ音が、微かに重なって聞こえた気がした。錯覚かもしれない。だが、その錯覚が、明日の手を確かに軽くする。音は、時に人を支える嘘をつく。火は、その嘘を本当へ押し出す力をくれる。
そして納屋の奥、布に包まれた核は、誰にも聞こえないほどの小さな音で、次の一打を待っていた。




