第03話 「噂と訪問者、夜の槌音」
ガレスの目は、火の色ではなく帳面の行数を数えるように冷たかった。彼は村長に形式ばった挨拶をし、アレンの炉の前に立つと、いかにも退屈そうに肩をすくめた。
「鍛冶屋を名乗るなら、ギルドの登録と税を払え。辺境だろうと規は規だ。おまえのような素人仕事がまかり通れば、秩序は乱れる」
ミナが一歩前に出、怒りを瞳に宿した。
「素人の仕事で、村は救われました。鍬も槍も、あなたは見ていないでしょう」
ガレスは彼女を一瞥だけし、興味を示さなかった。
「見てやる価値があるならな。……では簡単な試験だ。村の屑鉄とやらで、正午までに包丁一本。規格に沿い、刃持ちは八合。できなければ、炉を閉じろ」
アレンは答えず、ただ頷いて炉に向き直った。試験はありがたい。火は嘘をつかない。ミナが黙ってふいごの横に立つ。彼女の手は、アレンの呼吸のリズムを覚えていて、風を送る強さも迷いがない。リオは藁束を運び、村長は木台を整える。誰も言葉を多くは使わない。必要な音が、それぞれの持ち場で鳴っている。
火が育ち、鉄が赤に染まる。槌が落ちるたび、周りの空気が少し軽くなる。鍛気は、火の上に薄い見えない蓋を作るように留まり、熱を逃さない。屑鉄から不純物が弾け、灰に落ちる音が静かに響く。ガレスは無表情だが、その指先がわずかに動いた。
刃文は控えめに、しかし芯は揺るがない一本が上がった。試し切りの藁束が、音もなく二つに割れる。刃が抜ける瞬間、音が澄んだ。空気が一つ、軽くなる。ガレスは鼻を鳴らし、帳面に雑な丸を書いた。
「合格だ。規格内。……だが、登録は別だ。近日中に王都の印を受けろ。受けぬなら、罰金と没収だ」
彼は冷たい革靴で地面を鳴らし、踵を返した。残るのは妙な空気の重さ。ミナが拳を握りしめた。
「あの人、きっと戻ってくる」
「だろうね。けれど、火は逃げない。やるべきことをやるだけだ」
その夜、風が変わった。森を渡ってくる乾いた匂い。リオがいちはやく顔を上げ、耳を澄ます。
「……人の気配。多い」
間もなく、村の外れで怒鳴り声と鈍い笑いが弾けた。松明の火が蛇のように揺れ、粗末な鎧を着た男たちが畑を踏み荒らす。野盗だ。村人は戸を閉め、子どもを抱きしめる。リオたちは武器を取ったが、数が多い。アレンは納屋の扉を閉め、ふいごに蓋をかけ、槌を握った。
「行くの?」
ミナの声は震えていない。恐れもあるが、それより確かな何かが彼女の背を押している。
「道具は人を傷つけるためにあるんじゃない。でも、守るためなら使う」
野盗が納屋に近づいたとき、アレンは一歩踏み出し、地面に向かって槌を打ち下ろした。カン、と音が夜気を裂き、見えない波が走る。鍛気が槌音に乗って広がり、松明の火が一瞬だけ青く細く揺れた。野盗は思わず足を止め、顔を見合わせる。
「何だ、今のは……」
「ここの鉄は、よく通る」
アレンは静かに言い、リオたちに目で合図した。その隙に冒険者たちは風のように動き、足を払っては二の腕に刃の背を当て、動きを封じる。殺しはしない。だが、腕の骨と心の芯に、恐れを刻む。
数分後、野盗たちは縄で縛られ、村長の家の軒先に並んだ。リオは汗を拭い、肩をすくめる。ミナは震える手で湯を配り、子どもを家に戻した。誰も怪我はない。小さな勝ち。だが、油断しない。
「あの槌音、妙だな。鼓膜じゃなくて、骨に響く」
「ただの合図だよ。火の前で打つときと同じ」
アレンの言葉に、ミナが微笑んだ。笑いは短い。だが、火にくべれば長く温かい。
「なら、わたしはもう何度も助けられてる」
夜が明ける頃、村の空気から緊張が抜け落ち、鳥の声が戻ってきた。野盗は縛られたまま、近くの駐屯所に引き渡す手配がされる。騒ぎと共に、噂も広がる。辺境に、火を扱うだけでなく、火の外まで響かせる鍛冶師がいる、と。
その噂は、誰かの耳に棘のように引っかかっただろう。正午、ガレスは何事もなかったような顔で再び現れた。
「昨夜の音。あれは何だ?」
「槌の音です。鉄を起こすために打つ」
「規格にない技は規格を乱す」
彼は一枚の通達を差し出した。「試験」。明日、王都式の検分を行う。課題は、劣悪な鉄から農具と蹄鉄の製作、そして強度試験。合格しなければ、没収と閉鎖。判定は厳格、異議は少ない——そう記されていた。
ミナがアレンを見た。彼は頷く。火は逃げない。逃げる必要もない。
「やろう」
夜、納屋の火は低く、長く燃え、槌音は村に安心の合図を送り続けた。アレンはふいごの革に掌を当て、革の張りが呼吸に合っているか確かめる。ミナは帳面に「明日:農具・蹄鉄・強度」と大きく書き、欄外に「笑顔」と小さく添えた。翌日、火の前に立つのは、アレンひとりではない。見守る目と、支える手と、使い手の暮らしがそこにある。