↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

落語【声劇台本書き起こし】

落語声劇「文七元結」

作者: 霧夜シオン
掲載日:2025/05/16


落語声劇「文七元結(ぶんしちもっとい)」


台本化:霧夜(きりや)シオン@吟囁亭喃咄(ぎんじょうていなんとつ)


所要時間:約80分


必要演者数:最低6名

      (0:0:6)

      (6:0:0)

      (5:1:0)

      (4:2:0)【性別準拠人数比率】

      (3:3:0)

      (2:4:0)

      (1:5:0)

      (0:6:0)


※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。

よって性別は全て不問も含まれます。

(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)


※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品

 に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。

 それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。



●登場人物


長兵衛(ちょうべえ):本所(ほんじょ)達磨横町(だるまよこちょう)の左官(さかん)。腕はいいのだが博打(ばくち)にハマって義理の悪い

    借金をこしらえてしまう。


文七(ぶんしち):横山町(よこやまちょう)は鼈甲問屋(べっこうどんや)の手代(てだい)。水戸屋敷からの集金の帰り、怪しげな男

   にぶつかられた後、集金した金がないのに気づき、絶望して身投げ

   しようとするが…。


お兼(かね):長兵衛(ちょうべえ)の妻。夫の博打(ばくち)好きのせいで借金に苦しんでいる。


お久(ひさ):長兵衛(ちょうべえ)の娘。父親の博打癖(ばくちへき)のせいで家が借金まみれなのを見かね

   、吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)に自ら身売りをしようとする。


女将(おかみ):吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)の女将(おかみ)。

   義理人情に厚く、長兵衛(ちょうべえ)に五十両を貸し、返済期限までは彼の娘の

   お久(ひさ)を預かるだけにして客は取らせないと約束する。


藤助(とうすけ):佐野槌(さのづち)の番頭(ばんとう)。


近江屋(おうみや)卯兵衛(うへえ):横山町(よこやまちょう)の鼈甲問屋(べっこうどんや)の主(あるじ)。


平助(へいすけ):近江屋(おうみや)の番頭(ばんとう)。


語り:雰囲気を大事に。




●配役例


長兵衛・酒屋:

文七:

お兼・女将:

お久:

近江屋・語り:

藤助・平助:


※枕は誰かが適宜(てきぎ)兼(か)ねてください。




枕:人というものは飲む、打つ、買うの三道楽(さんどうらく)のうち、どれか一つは

  やると申します。しかしこの中で一番怖いのは打つ、つまり博打(ばくち)だそ

  うです。あれは怖いもんですよ。

  現代に生きる我々の身近にも、そういう話はごろごろ転がってて

  ありふれてるんですが、給料が入るとすぐにギャンブルにつぎ込んで

  、二週間もするとほぼオケラ状態なんというのが当たり前、

  こういうのを耳にすると、そら恐ろしい心持ちになります。

  しかも「今月の俺は来月の俺が助けてくれる」という、

  ちょっと何言ってるか分からない話をされると、どう返事していいか

  分からない。普通の感覚ではないという事だけは確かですな。

  現代ではギャンブルも多様化し、競馬だの競輪だのパチンコだのと

  色々ございますが、江戸時代ではサイコロを使った賭博(とばく)が

  主流でして、チョボイチ、丁半(ちょうはん)、大目小目(おおめこめ)などというものが大(おお)いに

  流行(はや)ったそうです。

  当たればデカいが外すとオケラの素寒貧(すかんぴん)、賽(さい)の目ひとつで身上(しんしょう)を

  無くしてしまうなんてことは、今も昔もそう変わりはないようで。


長兵衛:おぅい、おっかぁ。

    いま帰(けえ)ったぞ。

    真っ暗じゃねぇか!灯(あか)りくれぇつけろやい。

    こう、暗かったら鼻っ面(つら)ァ摘(つ)ままれてもしゃあねぇや!

    ……おぅ、お兼(かね)はいねえのか?

    ちっ、いねえならいねえって返事しろィ!


お兼:いるよ!!


長兵衛:ぅおっ、びっくりした!

    いるじゃねぇか!


お兼:また半纏(はんてん)一枚で帰ってきて!

   細川様の屋敷で負けたんだろ!


長兵衛:うるせぇなあ、分かってるなら聞かなきゃいいだろ。

    着物まで賭(か)けに張(は)っちまった。

    まさか裸(はだか)でも帰れめえってんで、この尻切(しりき)り半纏(ばんてん)貸してくれたん

    だよ…って、半ベソかいてやがら。

    おめェは泣いてるかふくれてるかどっちかだな。

    それにうすっ暗くしやがって、こういう陰気くせえ所によくいら

    れるな。

    灯(あか)り入れたらどうなんだよ。


お兼:入れりゃいいじゃないか!


長兵衛:おめェが入れろよ。


お兼:油が無いよ!


長兵衛:買ってくりゃいいじゃねえか。


お兼:どこにお足(あし)があるってんだい!

   博打(ばくち)ばっかりやってさ、負けて取られてばっかりいてさ!


長兵衛:ハナっから取られようと思って出かけてくんじゃねえんだ。

    取ろうと思って、いくらかにしようと思って出かけるんだ。

    それにみんなが取られてばっかりいるわけじゃねえ。

    取ってる奴だってちゃんといるんだ。

    俺もそっち側へまわりゃいいって話だ。

    なにも博打(ばくち)で取られて帰ってきたからって、いちいち泣くんじゃ

    ねえ!

    そんなんだから付くものも付かねえんだよ!

    丁(ちょう)とありゃ半(はん)、半(はん)とありゃ丁(ちょう)ってよ!

    裏目(うらめ)裏目(うらめ)に出ちまうんだ!


お兼:なんの関係があるってんだい!

   そんなんで泣いてんじゃないよ!大変なんだよ!


長兵衛:あ?何だよ大変だって。


お兼:お久(ひさ)がいなくなっちゃったんだよ!


長兵衛:どこ行ったんだよ。


お兼:知らないよ!

   夕(ゆん)べから帰ってこないんだよ。


長兵衛:知らないってこたァねえだろ。

    どこ行ったってんだよ。


お兼:分からないから困ってるんじゃないか!


長兵衛:分からねえって、んな所につっ立ってねえで

    捜(さが)しに行きゃいいだろ。


お兼:捜(さが)したさ!

   朝からずっと捜(さが)し歩いたけど、どこにもいないんだよ!

   あたしだけじゃない、長屋(ながや)の皆が手分(てわ)けして捜(さが)してくれたんだ。

   あの子の行きそうな所をそこらじゅうあたったんだけど、

   どこにもいないんだよ!

   どうしよう…!【泣きだす】


長兵衛:また泣きやがる…いちいちそうやって泣くんじゃねえよ!

    大丈夫だって、心配する事はねえやな。

    きっと好きな男でもできて、どっかにしけこんでんだろ。

    こないだっからどうもおかしいとは思ってたんだ。

    建具屋(たてぐや)の半公(はんこう)が、お久(ひさ)に色目(いろめ)使ってたしな。

    このぶんじゃ、あの二人はできてるかもしれねぇぞ。


お兼:あの子はそんなふしだらな子じゃないよ!

   よしんば男ができたってね、親のあたしに何も言わずに家(うち)をあける

   ような事はしやしない!


長兵衛:バカなこと言ってやがる。

    男をこさえるのに、いちいち親に断ってからこさえる奴があるか

    。

    日陰の豆だってはじける時分(じぶん)にゃはじけるってもんだ。


お兼:なに気の利(き)いたこと言ったつもりになってんのさ!

   きっと、とうとう家(うち)を出てって行っちまったんだよ。


長兵衛:家(うち)を出た?

    なんかこの家(うち)に不足でもあるってのか?


お兼:何を言ってんだい!あるに決まってるじゃないか!

   お前さんに愛想(あいそ)をつかしたんだよ!


長兵衛:俺に?


お兼:あの子は今年で十七、年頃(としごろ)だよ!?

   綺麗(きれい)な着物を着てみたい、紅(べに)のひとつも差してみたいって思うのは

   当然じゃないか!あの子のなりをごらんよ!

   年がら年中、わかめの行列みたいなおんぼろにくるんどいてさ!

   かわいそうだと思わないのかい!?

   なのにお前さんは着物や帯はおろか、かんざし一本買ってやるわけ

   じゃない!

   博打(ばくち)ばっかりやって、酒呑(さけの)んでうち帰って来て暴れて、

   あの子を怒鳴ったり、あたしをぶったり蹴(け)ったりなんかしてさ!

   そんなのが毎日毎日のべつに続いたら、嫌になっちまわない方が

   おかしいんだよ!


長兵衛:うるせぇな、なに言ってやがんでぇ。

    そんな事で出てったってのかよ。


お兼:そうに違いないさ!

   いたたまれなくなって、親にもこの世にも愛想(あいそ)つかして出てって…

   もし身投(みな)げでもしたらどうしよう…!


長兵衛:縁起(えんぎ)でもねえこと言うんじゃねえよ。


お兼:そんな事になったらね、あたしはこんな家(うち)にいないよ!


長兵衛:この野郎ォ…ああそうかい!

    出てけ出てけ!

    誰がいてくれって頼むかい!

    おめえが出ていきゃ、俺も出てくんだ!


お兼:あたしが出てって、お前さんが出てって、

   それでどこに行くってんだい!


長兵衛:よそで所帯(しょたい)持つんだよ。


お兼:お前さんって人は…本当になに言ってもわかんないんだね…!


長兵衛:うるせぇこの野郎ッ!


藤助:こんばんわ!


長兵衛:【何事もなかったように】

    はい!

    …誰か来たぞ。

    おめぇはどこか隠れてろ。そんな汚ねぇ泣きっ面(つら)見せるんじゃね

    えよ。


    誰だい?

    しまりはしてねえから、用があるなら開けて入って来てくれ!


藤助:こんばんわ、ごめんください。

   …どうも親方(おやかた)、しばらくでございました。


長兵衛:え?

    あぁぁ!これァどうも!

    しばらくでござんしたねェ!

    …誰でしたっけ?


藤助:ははは…これは恐れ入りました。

   お見忘(みわす)れでござんすか?

   佐野槌(さのづち)の藤助(とうすけ)でござんすよ。


長兵衛:あ、【ポンと手を叩いて】

    違(ちげ)えねぇ、そうそう藤助(とうすけ)さんだよ。

    声まで忘れちまって、面目(めんぼく)ねえ。

    にしても…太ったねぇ。

    ああ、こちら吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)の番頭(ばんとう)さんだ。

    大変に世話(せわ)になってるんだ。

    いやァしばらくでござんした!

    まま、よくこんな汚ねえところへおいでになりやした。

    それで、何かご用でござんすか?


藤助:ええ、うちの女将(おかみ)さんが親方(おやかた)においでを願いたいと、

   こういう話なんです。


長兵衛:あー…、女将(おかみ)さんがね。

    えぇ分かってるんですよ。

    蔵(くら)の仕事がやりかけになっちまってる。気にはしてるんですが、

    こっちもなんだかんだと色々ありやしてね。

    今やってる仕事が一日二日でもって片(かた)が付きますんで、

    二、三日したら必ずうかがいますと、藤助(とうすけ)さんから女将(おかみ)さんに

    そう伝えといておくんなせェ。


藤助:それがあの、今すぐにおいでを願いたいと、

   こう言ってるんですが。


長兵衛:あー…今すぐでござんすか…弱っちゃったなぁどうも。

    実はね、ちょいと取り込み事(ごと)がありやしてね。


藤助:その取り込み事(ごと)てのは、お久(ひさ)ちゃんの事じゃございませんか?


長兵衛:え?よく知ってやすね。

    いつお耳に入ったんで?


藤助:そりゃああんな大きな声でわあわあわあわあ騒いでたらね、

   聞くなったって聞こえますよ。

   それで、うちの女将(おかみ)さんのご用と言うのも、その事なんでして。

   お久ちゃんが昨晩、店(たな)の方へお見えになって、

   そのまま泊(とま)ってるんで。


長兵衛:…え、佐野槌(さのづち)さんに!?

    おいおっかぁ、冗談じゃねえな。

    油断も隙(すき)もねえ、物騒(ぶっそう)な世の中だよ。

    で、誰です?どんな野郎が連れ込んだんで!?


藤助:いえ、お一人でお見えになってるんで。


長兵衛:え、一人で?


藤助:はい、女将(おかみ)さんとずいぶん長いこと話し込まれてました。

   それで、今日になってから親方(おやかた)を呼びに行くよう使いに出されたん

   ですが、ほかの用を足しておりましたら遅くなりまして。

   こんな遅い刻限(こくげん)で申し訳ありませんが、何とぞご同道(どうどう)いただけたら

   と。


長兵衛:そうですか!

    おい、お久(ひさ)のやつ、佐野槌(さのづち)さんとこへ行っちまってるんだとよ。


お兼:あぁ…見つかって良かったよ。

   どうもわざわざ、ありがとうございます。

   お前さん、すぐに迎えに行っとくれ。


長兵衛:いやぁよかった、本当にありがとうございます。

    本当にもうね、ほうぼう捜(さが)しまわってたんですよ。

    おいおっかあ、良かったな、居所(いどころ)が分かって。


お兼:何のんきなこと言ってんだい。

   あたしも行きたいけど、女が行けるところじゃないから…

   お前さん頼むよ、早く迎えに行っとくれ。

   ぐずぐずぐずぐずしてないでさ。


長兵衛:なに言ってやがんでぇ。

    こんな尻切(しりき)り半纏(ばんてん)一枚に下がふんどし一丁、

    こんな格好(かっこう)でもって吉原(よしわら)歩けるわけがねえだろ。


お兼:そんな事言ったって、それしかないんだからしょうがないじゃないか。

   恰好(かっこう)がいいよ、お前さん。


長兵衛:バカ野郎。

    こんな格好(かっこう)のまま表(おもて)を歩いてみろ。

    細川様の屋敷で博打(ばくち)に負けたんです、って看板ぶら下げて、

    自分から広めて歩いてるようなもんじゃねえか。

    吉原(よしわら)なんざ見栄(みえ)の場所だってのに、みっともなくてしょうがねえ。

    ましてや佐野槌(さのづち)の女将(おかみ)さんにはな…ちょいと具合(ぐあい)が悪いんだよ。

    だからよそ行きの着物出せ。


お兼:よそ行き…って、どうかしちまったのかね、この人は。

   家(うち)にはもう何もないよ!

   ぜんぶ質(しち)に入れちまってるんだから!


長兵衛:え、ねえのかよ。


お兼:ねえのかよじゃないよ!

   何から何までありゃしないよ!


長兵衛:しょうがねえなあ…。

    じゃ、おめえの着物貸せよ。


お兼:ハァ?なに言ってんだい、冗談じゃないよ!

   女物(おんなもの)の着物を、男のお前さんが着て歩くってのかい?

   八(や)つ口(くち)だってあいてんだよ?


長兵衛:あいてたっていいだろうが。

    いいんだよなんだって。尻切(しりき)り半纏(ばんてん)よりゃマシだ。

    こうやって腕組んで歩きゃいいんだから、かまわねえよ!

    だから脱げ。


お兼:嫌だよ!

   これ、着てるから着物に見えるけど、脱いだらボロなんだから。

   どこもかしこも継(つ)ぎだらけで、どれがもとの生地(きじ)なんだか分かりゃ

   しない!

   こないだなんか、あんまり継ぎが多いもんだから陰(かげ)で、

   東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)って、そう言われてたんだからね!


長兵衛:なに言ってやんでェ、ちっとも上手(うま)くねえやな。

    いいから早くしろィ!


お兼:じゃああたしはどうするんだい!

   これ脱いじゃったら着るものが無いんだよ!?


長兵衛:俺の尻切(しりき)り半纏(ばんてん)、貸してやるよ。


お兼:半纏(はんてん)って…あたしは胴が長いんだよ。

   着たってへそまでしかないじゃないか!

   長屋(ながや)のはばかり行く時どうすんだい!


長兵衛:しょうがねえな…。

    じゃあ俺が畳(たたみ)上げて床板(ゆかいた)剥(は)がしとくから、そこにしな。

    あとに砂かけときゃ分かりゃしねえよ。


お兼:あたしは猫じゃないよ!


長兵衛:ごちゃごちゃうるせぇな!

    いいから貸せってんだよ!

    っ藤助(とうすけ)さん、先に戻ってくだせえ。

    あっしもおっつけ後から参りますんで!


藤助:そうですか?

   分かりました、では…。


長兵衛:あ、どぶ板跳ねますんで、気を付けて!


    …っバカ野郎。

    おめえ、藤助(とうすけ)さんの前でみっともねえ真似(まね)するんじゃねえよ。


お兼:着物貸すのは嫌だって、そう言ってるだけじゃないか!


長兵衛:~~ぐずぐずぐずぐず言うんじゃーー


お兼:言うよ!

   だってその尻切(しりき)り半纏(ばんてん)着ちゃったら、下はどうすんだい!


長兵衛:腰巻(こしまき)まいてんだろ。


お兼:してたらこんな事言いやしないよ!


長兵衛:え、おめえ…腰巻(こしまき)ねえのか…?

    それじゃ、下は生まれたまんまなのかよ…?


お兼:なに言ってんだい!

   もう忘れちまったのかい!?

   五日ほど前だよ、博打(ばくち)に取られて真(ま)っ昼間(ぴるま)から帰ってきやがってさ

   、「おっかあ、うちに何か質草(しちくさ)ねえか」って聞くから、

   何にもありゃしないよって言ったら、いきなりあたしをバーンと

   押し倒した。

   久しぶりだったからあたしは嬉しかったよ。

   お前さん、そんな慌(あわ)てんじゃないよ。いま戸締(とじま)りするから、

   って言ったら、「バカ野郎、勘違いすんな」って、

   腰巻(こしまき)外(はず)して質屋(しちや)に持ってっちまったじゃないか!


長兵衛:あぁ…そうだったっけか?

    自分で持ってってアレだけどよ、…買う奴いるのかね?


お兼:知らないよ!

   あれからあたしはね、スカスカスカスカしてしょうがないんだ!

   そんな尻切(しりき)り半纏(ばんてん)なんか着れるもんか!


長兵衛:うるせえなぁバカ野郎!

    いいから貸しねェ!


お兼:だから、貸したあとあたしはどうすんだい!

   主(おも)にへそから下!


長兵衛:…じゃあしょうがねえ、この風呂敷(ふろしき)を代わりに巻いとけ。


お兼:嫌だよそんなの!

   それにその風呂敷(ふろしき)、紋(もん)が付いてるじゃないか。


長兵衛:いいじゃねえか。

    紋付(もんつき)の腰巻(こしまき)ってなもんだ、贅沢(ぜいたく)じゃねえか。

    いいから、向こうあんまり待たせちゃなんねえ。

    早く脱げ!


お兼:~~~わかったよ……。

   【二拍】

   ほら!


長兵衛:おう。


    【二拍】


    よし、行ってくる。


    【二拍】


藤助:親方(おやかた)。


長兵衛:!?おぅなんだい、待ってたんですかい?


藤助:ええまぁ。

   親方(おやかた)、面白(おもしろ)い格好(かっこう)してますね。

   この辺じゃそう言うのが流行(はや)ってるんで?


長兵衛:いやいや、バカ言っちゃいけやせんよ。


藤助:…羽織(はおり)、貸しましょうか?


長兵衛:えっ、いいんですかい?

    助かるなぁ。


藤助:いえいえ、では参りましょうか。


   【三拍】


   さ、どうぞ。

   女将(おかみ)さん、達磨横町(だるまよこちょう)の親方(おやかた)をお連れ申しました。


女将:あぁ、分かったよ。

   一人だけ残って、あとはみんな下がっとくれ。


   【二拍】


   どうぞ。


長兵衛:…ごめんなすって。

    どうも、ご無沙汰(ぶさた)して申し訳ありやせん。

    貧乏(びんぼう)暇(ひま)なしというやつでして…。

    ご当家(とうけ)もご繫盛(はんじょう)で何よりで。


女将:あぁありがとう、おかげさまでなんとかなっててね。

   無沙汰(ぶさた)は無事のたより、気にしないでおくれ。

   それよりすまないね、呼び立てちまって。

   親方(おやかた)も元気でやってるかい…と言いたいところだけど、

   あんまり顔色もさえないし、なんだかボロがうずくまってるみたい

   な…、まぁお前さんの暮らしの事はいいや。

   …この子は知ってるよね?


長兵衛:え、ええ、知ってるも何も…、うちの娘ですからね。

    まったく見世(みせ)のほうへ押しかけて…礼儀も何も知らねえ、

    本当にガキと同じですよ。

    【お久ヘ向かって】

    ッこのバカ野郎、何でこちらさんにうかがったりしてんだよ。

    ご迷惑じゃねえか。

    行くなら行くって、なぜ一言(ひとこと)おっかあに言わねえんだ。

    字が書けねえわけじゃあるめぇし、紙切れにでも書いておけって

    んだ。

    おっかあは気違(きちが)いになって騒いで心配してたんだぞ。

    俺だって寝らんねえよ。

    長屋(ながや)じゅうだって蜂(はち)の巣をつついたような騒ぎだ。

    だいいちな、そんななりで来るやつがあるか。

    こういうとこへ来る時はな、箪笥(たんす)の奥にある良いのを

    着てこいって、普段からそう言ってるじゃねえか。


女将:なんだい親方(おやかた)、いきなりポンポンポンポン小言(こごと)を言ってさ。

   お前さんの方こそ、箪笥(たんす)の奥の良いのを着てくりゃ良かったじゃな

   いか。

   だいたいなんだいその着物は。

   八(や)つ口(くち)あいてるってことは、女房(にょうぼう)のだろ?

   いくら出入りの者だからって、そんな恰好(かっこう)でこういう所へ来る人が

   あるかい。

   それにその羽織(はおり)、藤助(とうすけ)のだろ?


長兵衛:え、いやまぁ…ええ、そうですけど。

    いや、実はこの着物、気に入ってるやつなんで…。

    【お久に向かって】

    おい、何のんきにそんなとこに座ってんだ。

    ぐずぐずぐずぐずしてねえで、帰(けえ)るんだよ!

    ったくしょうがねえな!


女将:だから小言(こごと)を言うんじゃないよ!

   親方(おやかた)、この子に小言(こごと)を言うと…お前さん、バチが当たるよ。


長兵衛:いやいや、とんでもねえ。

    こんなガキはーー


女将:【↑の語尾に喰い気味に】

   そうじゃないよ。

   こんないい子はありゃしないよ、ええ?

   夕(ゆう)べ…中引(なかび)けちょいと前だったかね。

   この子があたしに会いに来たんだよ。


お久:本所(ほんじょ)達磨横町(だるまよこちょう)、左官(さかん)の長兵衛(ちょうべえ)の娘、

   お久(ひさ)でございます。


女将:そう言われてびっくりしたね。

   お前さんがうちへ仕事に来ている時分(じぶん)、ちょくちょく弁当を届けに

   来ていたあのチビが、こんなに大きくなっちゃったんだもの。

   まあ大きくなって、でもこんな刻限(こくげん)にいったい何の用だいって

   聞いたら、


お久:親の恥をしのんで話さなければなりません…。

   おとっつぁんは近頃、仕事もしないで博打(ばくち)ばかりしておりまして、

   取られて帰ってくるとおっかさんをぶったり蹴(け)ったりいたします。

   黙ってそれを見ているわけにはいきませんが、私の力じゃどうにも

   なりませんし、のべつに別れるだの、所帯をしまうだのと言い出さ

   れると心配でなりません。

   以前はそんなことは無かったんですけど、博打(ばくち)を始めてから

   おとっつぁんは、急に人が変わったようになってしまいました。

   なんとかしてまた仕事を始めてもらおうと、こないだおっかさんに

   話をしたんです。

   そしたら、義理の悪い借金を返さなきゃおとっつぁんは仕事を始め

   る事ができないんだって聞かされました。

   そこで女将(おかみ)さんにお願いでございます。

   こんなお多福(たふく)でも良ければ、どうか私を買って下さいまし。

   そしてそのお金でおとっつぁんが借金を返して、

   また仕事に精を出すことができるように、

   おっかさんと仲良くするように、

   女将(おかみ)さんからよく意見をしてくださいまし…!


女将:そうやって涙ながらに手をついて頼むんだよ?

   あたしももらい泣きしちまったよ。

   だらしのない親の為に苦界(くがい)へ身を沈めて、

   そのお金でお前さんをまっとうにしようってんだよ?

   あたしはしょせん女郎屋(じょろうや)の女将(おかみ)、お前さんは堅気(かたぎ)の親方(おやかた)だ。

   意見するなんて出過ぎた真似(まね)だと思うだろうけど、

   長年(ながねん)の付き合いに免じて言わせてもらうよ。

   昔から言うだろ、

   「酒も呑(の)みなよ博打(ばくち)も打ちな、たんと稼(かせ)いだ端(はした)だけ」ってさ。

   はした金(がね)で遊ぶには構わないんだよ。

   女房(にょうぼう)子供に泣きを見せるような遊びをして、それで亭主(ていしゅ)なのかい?

   親方なのかい?蜂(はち)の頭なのかい?

   長兵衛(ちょうべえ)さん、この子にああいう事言わせて、

   恥ずかしいとは思わないのかい?


長兵衛:【ぶつぶつ言う】

    …だからあっしァ女のガキは嫌いだってんですよ…。

    家(うち)の事ぺらぺらぺらぺら喋(しゃべ)ってやがる…このバカ。


女将:やかましいね!

   小言(こごと)を言うんじゃないってんだよ!!

   こんな親孝行の娘がいて、働き者の女房(にょうぼう)がいてさ、

   何が不足でお前さん博打(ばくち)なんぞしてんだい?

   腕が無いってんならまだしも、コテを持たせたらお前さんの右に

   出る者はこの江戸にいないって、仲間がみんな褒(ほ)めてるじゃないか

   。

   「見ねえ、この蔵(くら)はあの長兵衛(ちょうべえ)が塗(ぬ)った漆喰(しっくい)だ。

   だからいざって時にこの蔵(くら)にゃ、目塗(めぬ)りはいらねえよ」って。

   そういう言葉を小耳(こみみ)にはさむたびに、あたしはどれほど鼻が高かっ

   たか知れやしないよ。

   そんないい腕を持っていながらさ、

   何だって女房(にょうぼう)子供に嘆(なげ)きをかけながら博打(ばくち)打つんだい、え?

   それで生計(せいけい)たてようってのかい?

   博打(ばくち)で蔵(くら)建てたって話はいまだに聞かないけどね!

   …ちょいと、長兵衛(ちょうべえ)さん、黙ってちゃ分からないよ。

   何とか言ったらどうなんだい!


長兵衛:……。

    ……どうも、相(あい)すいませんで…、

    本当に、面目次第(めんぼくしだい)もありやせん…。

    …あっしもね、こんなんなるとは思ってもいなかったんで。

    女将(おかみ)さんも知っての通り、あっしは博打(ばくち)なんてものは、

    ガキの頃からこれっぱかりもやったことがなかった。

    それが、ある時ちょいと付き合いで手ェ出したやつが面白(おもしろ)くて…

    夢中になってしまいやしたね。

    女房(にょうぼう)や娘に、帯(おび)の一本も下駄(げた)の一つも何とかしてやりてえと、

    そう思ってるところに細川様の屋敷の中間部屋(ちゅうげんべや)のぞいたら、

    ガラポンの真っ最中だ。

    盆の周りは銭(ぜに)の山、一つ目と出てあの銭(ぜに)が残らずあっしのものに

    なりゃ、かかぁと娘にうわっと喜ぶほど買ってやれると思って、

    ちょいと手を出したがつまづきのもとで。

    取られたやつを取り返そうと、深みにハマっちまったんでござん

    す。

    気が付いたら、命の次に大事な商売道具のコテまで、

    質(しち)に入れちまってて…。

    今にひとつ大きく当たったら、そん時にはすっぱり足を洗って、

    女房(にょうぼう)と娘に綺麗(きれい)な着物の一枚でも買ってやりてえと思ってるんで

    すが、義理の悪い借金のせいでもう、にっちもさっちもいかなく

    なっちまって…。

    面目(めんぼく)ありやせん…。


女将:…困ったね。

   それじゃお前さん、きりが無いよ。

   借金を返して、仕事に精を出したいという気にはならないのかい?


長兵衛:ッそれは、そうしてえと思ってるんですが…、

    商売道具も質(しち)のかたに取られちまってて…

    受け出す銭(ぜに)すらねえんです。


女将:じゃあ、商売道具を受け出して、借金を返していけるんなら

   仕事を始めるんだね?


長兵衛:え、ええ、そりゃまぁ、そうしてえと思ってるんですよ。


女将:いくらあればいいんだい?


長兵衛:…そうですね…博打(ばくち)の借りを払って、あちこちの借金を返して、

    質屋(しちや)から道具箱だのなんだかんだ受け出して…、


女将:細かいところはいいんだよ。

   まとめるとどれくらいになるんだい?


長兵衛:まぁ…四十五(しじゅうご)、六両(ろくりょう)あれば何とかなるんでござんす。


女将:ずいぶんこさえたね…。

   なら五十両(ごじゅうりょう)もあれば何とかなるんだね?


長兵衛:え、ええ、五十両(ごじゅうりょう)ありゃ御(おん)の字(じ)なんで。


女将:そうかい。

   じゃあその五十両(ごじゅうりょう)、あたしが貸してあげようじゃないか。


長兵衛:えっ!女将(おかみ)さんが!?

    い、いいんですか…!?

    あ、ありがとうございやす!お願いしやす!

    そうしていただけたら助かるんです!

    この通りでござんす!


女将:それで、いつ返してくれるんだい?


長兵衛:そうですね…正月七草(ななくさ)までには返しやす。


女将:…お前さんね、いま年(とし)の暮れだよ?

   この暮れに来て、五十両(ごじゅうりょう)の金を借りて、

   正月七草(しょうがつななくさ)までに返せるわけがないじゃないか。

   そんないい加減な事を言わないで、本当に返せると思う時期を

   言ってごらん。

   いつだい?


長兵衛:ええ、あの…なるたけ早く返しにあがりてえんですが、

    三、四月…だとちょいと苦しいんで。

    五、六月…来年のお盆までには何とかなると思うんです。


女将:何とかなるってのは心細(こころぼそ)いねえ。

   はっきり返してもらえるのかね?


長兵衛:ええ、それはもう、きちっとお返しにあがります。


女将:…そうかい。

   じゃあこっちも大負(おおま)けに負けようじゃないか。

   二年だ。再来年の大晦日(おおみそか)まで待ってあげよう。

   お前さんの腕だったら返せるだろ?むこう二年あるんだからさ。

   そりゃいっぺんに返そうと思えば大変だけど、ある時に少しずつ

   入れていけばいいさ。

   お前さんの腕だったら、その気になりゃ五十両(ごじゅうりょう)は必ず返せるさ。

   けれどその気にならなきゃ話は別だよ。

   それでいいかい?


長兵衛:あ、ありがとうございやす!


女将:その代わり、ただでは貸せないよ。


長兵衛:ってえと、どういう…?


女将:と言って、証文(しょうもん)をお前さんから貰(もら)ったってしょうがないし…。

   どうだろう、あたしがこの子を預かるってのはどうだい?


長兵衛:え、お久(ひさ)を…ですか?


女将:そうさ。

   不人情(ふにんじょう)な事を言うようだけどね、

   今のお前さんにはとてもおっかなくて、五十両(ごじゅうりょう)の金なんか貸せない

   。

   まとまった金を手にした途端(とたん)、今まで取られた口惜(くや)しさでもって

   カーッとなって、また博打(ばくち)に手を出しちまったらもう何にもなりゃ

   しない。

   だから人質(ひとじち)ってわけでもないけど、この子を預からせとくれ。

   ただし、心配はしないでおくれ。

   見世(みせ)に出そうってわけじゃないんだよ。

   あたしの側に置いといて、身の周りの世話をしてもらうんだ。

   それに、どこに出しても、嫁にやっても恥ずかしくないように、

   色んなお稽古事(けいこごと)させて、一通(ひととお)りの事は仕込(しこ)んであげるよ。


長兵衛:そこまでしていただいて…わかりやした。

    それじゃ、そういう風(ふう)にお願いいたしやす。


女将:わかったよ。

   それじゃ、ちょいと待っといて。


   【二拍】


   さ、お久(ひさ)ちゃん。

   これをおとっつぁんのところへ持ってっておあげ。


お久:は、はい…。


   おとっつぁん、女将(おかみ)さんからこれ…。


長兵衛:ぉ、おう…わかったよ。


女将:よく数えておくれ。

   お金の事だからね、後で足りなかったなんて言われんのは

   嫌だからね。


   …どうだい?


長兵衛:へ、へい…たしかに五十両(ごじゅうりょう)ありやす。


女将:うん、それならいいよ。入れるものはあるかい?


長兵衛:それが、あいにくと…。


女将:ならちょっとお待ち。


   ここに財布があるから、これを使うといいよ。

   死んだ家(うち)の人が気に入ってた羽織(はおり)の

   残り布(きれ)でこしらえたんだ。

   その財布見るたびに思い出しな。

   家(うち)の人が自分に小言(こごと)ついてるんだって。


長兵衛:へいっ…ありがとうございやす。

    必ずお返しにあがりやすから。


女将:いいかい、再来年の十二月三十一日の大晦日(おおみそか)、

   浅草弁天山(あさくさべんてんやま)の除夜(じょや)の鐘(かね)が百八(ひゃくやっ)ツ、

   それが鳴り終わるまでに五十両(ごじゅうりょう)、耳をそろえて持っておいで。

   半紙一畳(はんしいちじょう)、鰹節一本(かつぶしいっぽん)付けることはないからね。

   ただし、一日でも過ぎるとあたしは鬼になるよ。

   煮て食おうと焼いて食おうとこっちの勝手だからね。

   この子を女郎(じょろう)にして見世(みせ)に出すよ。

   出せば出したでこんな器量(きりょう)よしだ、すぐに売れっ子になるだろうさ。

   けれど、なればなったでお前さんも男だ。

   承知だろうけども、もしも目に光を失い、鼻が落ち、腰が抜ける、

   そんな悪い病(やまい)を背負(せお)う事になったら、生きて大門(おおもん)は出られない。

   その時にあたしを恨(うら)んでくれちゃ困るよ。

   それが嫌だったら、この子が可哀想(かわいそう)だと思うなら、

   一生懸命に稼(かせ)いで、必ず引き取りに来なくちゃならないよ。


長兵衛:へいっ…必ず、そういたしやす。

    ご迷惑をおかけして、相(あい)すいやせん…!


女将:ちゃんと礼を言って持って行きな。


長兵衛:へい。

    女将(おかみ)さん、ありがとうございやす…!


女将:あたしにじゃないよ!

   この子にお礼を言うんだよ。


長兵衛:えっ、自分のガキにですか…?


女将:あのね、いくらお前さんの娘だって言ったってね、

   この子のおかげでお金を借りられたんじゃないか。

   ひとこと礼を言うのは当たり前だろ。

   言えないのかい?


長兵衛:えぇ…いや、あんまり娘に礼を言い慣(な)れてねえもんで…、

    【ぶちぶち言う】

    ちえっ、なんだな…礼なんて、親子の間で水くせえ…嫌だな…。

    親の恥をべらべらとよぅ…


女将:【↑の語尾に喰い気味に】

   なにをぐじぐじぐじぐじ言ってんだい!?

   嫌なら嫌でいいんだよ。

   その金をこっちへ返しとくれ。


長兵衛:ぇっぃいやいや分かりました。言います、言いますよ…。


    どうも…このたびは、とんだことでーー


女将:な、なにを言ってるんだい。

   そんな礼の言い方があるかい!


長兵衛:ぁあいや、その、ほんとに言い慣(な)れてねえもんで…。

    ぉ…お久(ひさ)…その…なんだ、…すまねえ。

    おとっつぁんがバカなばっかりに、おめえに苦労をかけて…

    ほんとうに面目(めんぼく)ねえ。

    あのな…おとっつぁん…もう金輪際(こんりんざい)、博打(ばくち)はしねえよ。

    しばらくの間の辛抱(しんぼう)だからな。

    女将(おかみ)さんのそばで何でも言う事を聞いて、

    一生懸命(いっしょうけんめい)ご用を足すんだぞ。

    女将さん以外の人の言う事もな、何を言われても

    はい、はい、って、可愛がられなくちゃいけねえぞ。

    それからな、女郎(じょろう)の中に意地(いじ)の悪いのがいて、

    おめえの事をいじめにかかってくるのがいるかもしれねえが、

    なに言われても怒っちゃいけねえぞ。

    パーンとやられるかもしれねえが、そん時ゃパッと手を取って、

    「お手は痛くございませんか、怪我はしませんか」くらいの事を

    言ってやるんだ。

    何事(なにごと)も逆(さか)らわねえで、ニコニコニコニコ笑ってりゃいいんだ。

    おとっつぁん、一生懸命(いっしょうけんめい)稼(かせ)いでおめえを迎えに来るからな。

    再来年の大晦日(おおみそか)なんて言わねえ、一日でも早く五十両(ごじゅうりょう)稼(かせ)いで、

    こちらにお返ししてよ、おめえを連れ戻せたら、

    後はどうなってもいいやな。

    それこそ糞(くそ)ゥくらえだ。


女将:…長兵衛(ちょうべえ)さん、それ、誰の前で言ってんだい。


長兵衛:あ、いぃやいやその、

    あっしとお久(ひさ)の内緒話(ないしょばなし)でござんすよ、ええ。


女将:その真ん中にあたしがいるんだけどね。

   聞くなったって聞こえるじゃないか。

   まあ、お前さんの事だ、あたしは咎(とが)めやしない。

   長兵衛(ちょうべえ)さん、きちっと左官(さかん)の仕事をして、博打(ばくち)は止めて、

   おかみさんを大事にするんだよ。


お久:おとっつぁん、わたしの事は心配しないで。

   それより決してそのお金を博打(ばくち)に使わないでね。

   おっかさんが癪(しゃく)を起こしたりしたら、おとっつぁんが世話(せわ)して

   下さいね。

   体も弱いから、ケンカなんかしてきつくぶったり蹴ったりされると

   おっかさんには本当に堪(こた)えるから、くれぐれも仲良くして下さい。


長兵衛:~~分かってる、分かってるよ。

    そんなに言わなくたって大丈夫だよ。

    おとっつぁんだってな、なにもおっかぁの事が嫌いで叩いたりし

    たわけじゃねえんだ。

    博打(ばくち)で取られて当たるとこも無くて、

    ついむしゃくしゃしちまってな。

    博打(ばくち)はもう金輪際(こんりんざい)やらねえって決めたんだから、

    もうおっかぁに手を上げたりする事もねえ。

    だから心配するな、大丈夫だよ。


お久:ぐすっ…きっとですよ…?


長兵衛:泣くんじゃねえよ…本当に…しょうがねえな…。

    っへへ、女将(おかみ)さん…てめえのガキにこんなこと言われるように

    なっちゃ、もうおしまいでござんすよ…。


女将:ほんとだよ、お久(ひさ)ちゃんの言う通りだよ。

   それじゃ、家で女房(にょうぼう)が心配して帰りを待ってるんだろ?

   早く帰っておやり。

   くれぐれも金を落とさないように気を付けるんだよ。


長兵衛:へ、へいっ。


女将:いいかい、必ずお久(ひさ)ちゃんを迎えに来ておくれよ。


長兵衛:へいっ。

    …それじゃ女将(おかみ)さん、

    どうかお久(ひさ)を、うちの娘を、よろしくお願いしやす…!


女将:あぁ、心配はいらないよ。

   それと羽織(はおり)、ちゃんと返してお行き。


長兵衛:あぁ羽織(はおり)ね!そうだそうだ…違(ちげ)ぇねぇ…!


藤助:いや親方(おやかた)、大門(おおもん)出るまで着ていかれたら…


長兵衛:あぁいい、いいんですよ。

    ここまでくりゃこっちのもんだ。

    恥のかきついでってやつで!

    それじゃ、よろしくお頼みしやす…!


語り:かくして長兵衛(ちょうべえ)、五十両(ごじゅうりょう)の金を懐(ふところ)にしっかりとしまい込んで大門(おおもん)を

   出ました。

   衣紋坂(えもんざか)から見返(みかえ)り柳(やなぎ)へかかってきて土手八丁(どてはっちょう)、

   左が山谷堀(さんやぼり)で右が吉原(よしわら)田んぼ、その頃は正直蕎麦屋(しょうじきそばや)というのがあっ

   たそうで。「正直の 屋根の向こうに 嘘が見え」という川柳(せんりゅう)に

   それが現れております。

   土手(どて)の道哲(どうてつ)砂利場(じゃりば)からやがて大川(おおかわ)へぶつかる。

   土手(どて)へ右に切れます左は向島(むこうじま)、三囲(みめぐり)が見えたかどうだか。

   金竜山(きんりゅうざん)下瓦町(しもかわらまち)、待乳山聖天(まつちやましょうでん)が五重の塔を右に見て、

   山(やま)の宿(しゅく)から花川戸(はながわど)を左へ曲がると吾妻橋(あづまばし)へ差し掛かりました。


長兵衛:【鼻をすすっている】

    お久(ひさ)ぁ…勘弁してくれよ…。

    おとっつぁんはもう、博打(ばくち)とはすっぱり縁を切るからな…。

    …へっ、子供だ子供だと思ってたけどよ、いつの間にか立派に

    なりやがって…。

    ぐすっ…もう、ほんとに…しょうがねえやな…。

    情けねえことになっちまってよう…

    やけにまた風が沁(し)みるじゃねえかよ…。


    …ん?なんだありゃ…ってまさか、身投げか!?

    【駆け寄りながら】

    おいッ待ちなッッこんちきしょうッッ!!!

    欄干(らんかん)に足掛(あしか)けやがって、危ねえじゃねえか!!

    ッ早まるんじゃっ、ねえッ!!


文七:!?あッお願いでございます!

   どうか、その手をお放しください!


長兵衛:じょっ、冗談言っちゃいけねえバカ野郎ッ!

    ッ何をしてんだ、だっダメだ!その手を放せ!


文七:お放しください!放してくださいッ!

   死ななきゃならないわけがあるんですッ!!


長兵衛:おめェが放せ!放せって!

    ッ放せってんだこんちきしょうッ!


文七:い、痛ッッ! 

   な、何をなさるんです!乱暴じゃありませんか!

   怪我(けが)でもしたらどうするんです!?


長兵衛:ハァ!?なに言ってやんでェ!

    川に飛び込みゃ、命がなくなるんだぞ!

    怪我(けが)もへったくれもあるかィ!

    痛(いて)えのは結構(けっこう)じゃねえか!

    ったく……ああびっくりした。

    何でぇおめェは!

    ……なりのこしらえからして、どこぞのお店(たな)のモンだろ。

    腰に矢立(やたて)を差してやがるからな。

    さしずめ、店の使いに行ったんだろ。

    畳(たた)んだ前掛(まえか)けが、懐(ふところ)からのぞいてらァ。

    てぇことは、売り掛けかなんか取りに行って、

    その金を使い込んだから申し訳ねえってんで、この真っ暗な中に

    吉原(よしわら)の空だけがぼんやり明るく映ってる、この景色を冥土(めいど)の土産(みやげ)

    にして、ドカンボコンと飛び込もうってとこだろ!

    で、何に使ったんだ?

    吉原(よしわら)で女郎買(じょろうか)いか?

    それとも博打(ばくち)か?

    …博打(ばくち)は…いけねえぞ、な?

    んな事やってっと、ロクな事はねえぞ。

    で、どっちだい?


文七:…っそ、そんなんじゃないんでございます…!


長兵衛:え…じゃあなんだい?


文七:ぐすっ……いいんです…!!


長兵衛:なっ、いいんですって、そんな言い草(ぐさ)はねえじゃねえか!

    俺だっておめえの事を止めちまったんだよ?

    このままうっちゃっていくわけにはいかねえんだい!

    形がつかねえよそれじゃあ!

    な、わけを言ってみねえ。話してみなよ。聞こうじゃねえか。

    若(わけ)えうちはな、何かあるってぇとすぐに死ななきゃならねえと

    思い込んじまうんだ。

    よぉく考えりゃあな、他に道はあるもんだよ。

    一人で抱え込んでると、どうしても死ぬって方向に行っちまうん

    だ。

    俺が一緒に考えて、他の道を見つけてやろうじゃねえか。

    わけを聞いて、なるほどこれはどうしても死ななきゃなんねえと

    思ったら、俺ァもう余計な事は言わねえよ。

    身投げの手伝いしてやるから。

    おめえの事を川へおっ放(ぽ)り込んでやっからよ。

    話してみろィ!


文七:う…うぅっ…あたくしは…横山町(よこやまちょう)の鼈甲問屋(べっこうどんや)、

   大宮(おおみや)の手代(てだい)でございます。

   今日、小梅(こうめ)の水戸(みと)様のお屋敷(やしき)へ、売り掛けをいただきに参ったんで

   す。

   その帰り…枕橋(まくらばし)のところです。

   人相風体(にんそうふうてい)の良くない男にドーンと突き当たられましたので。

   ああいう男が人の懐(ふところ)を狙うもんだから気を付けなければと、

   急いで確かめたんですが…その時にはもう、遅かったんでございま

   す…。


長兵衛:やられちまったのか…そりゃあ、向こうは商売だからな。

    で、いくらやられたんだ?


文七:ぐすっ…五十両(ごじゅうりょう)でございます…。


長兵衛:五十両(ごじゅうりょう)ォ!?

    …他人事(ひとごと)じゃねえぜおい…。

    大金を持って歩いてる時にぼんやりしちゃダメだろ、間抜け。

    江戸ってのはな、生き馬(うま)の目を抜くようなとこなんだ。

    こうやって、へその上にグッと捻(ね)じ込んで、

    しっかり押さえて歩かなきゃよ。

    スリにやられたんじゃ、金は出て来ねえぞ。


文七:ですからあたくし、ご主人への申しわけの為に

   身を投げて死ぬんです…!

   お見逃(みのが)し下さい、お見逃(みのが)し下さい…!


長兵衛:ちょちょちょ待て待て、待ちなよ!

    そうは言うけどな、なにも死ぬことはねえよ。

    おめえのご主人てのは何かい、ガリガリ亡者か?


文七:な、なんですそれは?


長兵衛:だから、話の分からねえ業突(ごうつ)く張(ば)りかって聞いてんだよ!


文七:いいえ、話のよく分かる、優しい旦那(だんな)様でございます…。


長兵衛:だったらいいじゃねえか。

    これからまっすぐ店へ帰ってよ、

    ご主人様にこれこれこういうわけですって、正直に話すんだよ。

    おめえみたいな若(わけ)えのに、五十両(ごじゅうりょう)なんて掛け取り任せるような

    とこだ。チャチな店じゃあるめぇ。

    女郎買(じょろうか)いで使ったとか、博打(ばくち)で取られたとか、

    そういうわけじゃねえんだ。スリにやられたってんだから。

    おめえが今まで正直にやっていたんなら、必ず許してくれるよ。

    それでもおめえの気が済まねえんだったら、まだ若(わけ)えんだ。

    これから先、何年かかったっていいじゃねえか。

    五十両(ごじゅうりょう)稼(かせ)いで返しゃいいんだよ。

    そりゃいっぺんに返そうと思(おも)や大変だからな、

    ある時に少しずつ入れていきゃ、そのうちちゃんと返せるんだ。

    その方がいいよ、そうしな。


文七:へ、へい…ご親切にありがとうございました…。

   どうぞ、あちらにいらしてくださいまし…。


長兵衛:そうかい、わかったんだな?

    飛び込んで死んじまったらつまらねえぞ。

    死んで花実(はなみ)は咲かねえんだ。

    この浮世(うきよ)はな、生きていたくたって生きていけねえ人が

    いくらもあるんだからな。

    まだおめえなんざ、先があるんだからな。

    死ぬなよ?


文七:……死にません。


長兵衛:そうかい。じゃ、俺は行くから早く帰れよ。

    きっと心配しているぞ。

    いいなーーってッ待てこの野郎ォッ!こんちきしょうッ!

    【再度身投げしようとした文七を抱きとめる】

    死なねえって言ったじゃねえか、てめえは!

    なんでまた飛び込もうとするんだよ!


文七:【泣きながら】

   お願いでございます!どうぞ、死なして下さいまし!

   助けると思って殺して下さいまし!


長兵衛:なんだこの野郎。

    助けたり殺したり…そんな難しい事はできねえよ俺には!

    ほんっとに…バカ野郎が、いま話をしてやったじゃねえか!

    死んだってしょうがねえぞ。

    おめえが死んだからって金が出てくるってわけじゃねえんだから

    、よしなよ。


文七:【グスグス言いながら】

   ですから…あたくしも、子供の使いじゃないんですから、

   店の大事なお金、それも五十両(ごじゅうりょう)という大金を盗(と)られたからには、

   このままおめおめと店へ帰ることはできません…。


長兵衛:できませんったってな…どうにかして五十両(ごじゅうりょう)の都合(つごう)がつかねえの

    かい?


文七:そんな大金…できるわけがございません…。


長兵衛:いや、おめえにできなくてもよ、親のとこ行くとか、

    叔父(おじ)さんとか叔母(おば)さんとかいねえのかい?


文七:【グスグス言いながら】

   いえ…あっしに身寄りはないんです…。


長兵衛:なに、いねえのか…。

    じゃあ友達はどうなんだい?


文七:【グスグス言いながら】

   友達も、いないんです…。


長兵衛:うーむ、さっぱりしちゃってんだねぇおめえは。

    ~~弱ったなぁこれァ。どうしたもんかね。


文七:【グスグス言いながら】

   もう…もう結構でございます。

   どうぞ、どうぞお通り下さいまし…。


長兵衛:お通り下さいったってな、俺がむこうへ行っちまえば、

    おめえまた飛び込もうってんだろ。


文七:いえ…いえ、本当にもうあたくし、死にませんですから。


長兵衛:死なねえ?そうか?

    だったらいいんだよ。

    俺もちょいと急いでいるんだからさ、早く行きてえんだよ。

    だからおめえ、帰りなよ?

    本当に死なねえな?


文七:……はい…。


長兵衛:…。

    【溜息つきながら】

    あー、ちょっと待て。

    顔見せろ顔、え?

    顔を見せろってんだよ!


    …ダメだこりゃ、嘘をついて死ぬ気になってやがる。

    …死のうってんだろ!えぇ!?


文七:【涙声】

   ぐすっ…お見逃し下さい…!


長兵衛:見逃(みのが)せねえから弱ってんだよ!本当に……。

    ……よし、分かった!

    死ねィこんちくしょう!

    俺の話が、俺の言う事がそうまで分からねえってんならな、

    死んだ方がいいよ!

    ここで生きて商人(あきんど)になったってロクなもんにならねえや、

    そう話が分からねえんじゃあな、うん。

    だから死にな。死んだ方がいいよ。

    その代わりな、俺の見ている前でドボンと飛び込まれんのは

    嫌だからよ、こうしてくれや。

    俺が、これからずーっと橋を渡って向こうへ行くよな?

    んで、先の方へ行って横町(よこちょう)を二つ三つ曲がる。

    うんと向こうの方へ行ったら、それから飛び込むんだ。

    背中でもってドカンボコンなんて音なんざ、聞きたくねえんだ。

    分かったか!?そうしろよ!!?

    っとにもう…冗談じゃねえよ…。

    いいか?

    俺がいなくなるまで…しばらく待てよ!

    こんちきしょう、冗談じゃーーって、

    まだ俺がここにいるじゃねえかこの野郎ォ!

    【再々度文七を抱きとめる】

    …弱ったなァおい……そんなに死にてぇのか?

    悪い所へ通りかかっちまったなぁ…誰か来ねえかな?

    譲(ゆず)るよ俺ァ…しょうがねえなぁ…。


    おめえ…本当に盗(と)られたのか?

    思い違いってこともあるんだから、もっぺん懐(ふところ)の中を

    ズーッとよく探してみな。

    ぼんやりしちまって、しょうがねえな…。

    背中の方に埋まってたりしねえのかい?


    【二拍】


文七:…やっぱり、ありません…。


長兵衛:そ、そうか…。

    やっぱり盗(と)られちまったのかい。


    …あのな、おめえ、もういっぺん俺の話をよく聞きな。

    おめえは店のご主人に対して申し訳がねえからってんで、

    身投げしようってんだろ?え?


    俺ァそもそもそれが違うと思うんだ。

    身投げなんぞしたって何になるんだい。

    金が出てくるってのかい?出やしねえぞ、本当に。

    ご主人にしてみりゃおめえは死んじまう、金は出てこないで

    どうすんだよ。

    ちっとも詫(わ)びにも何にもなってねえぞ。

    かえって迷惑になるんだ。主人孝行(しゅじんこうこう)でも何でもねえ。

    そんなことだから俺がさっき言ったみたいに、

    何年かかってもいいからーーって

    ちっとも話を聞いてねえやこの野郎。

    バカっ正直だなおめえは。

    すっかりその気になっちまってんだな。

    気は変わらねえか、え?


文七:っ…【うなずく】


長兵衛:ちぇっ、しっかりうなずきやがらァこんちきしょう。

    どうしても五十両(ごじゅうりょう)なきゃいけねえのかい?

    じゃあ…うーん……、

    物は相談だが……三十両(さんじゅうりょう)にはまからねえかい?

    みんな値切(ねぎ)ろうってんじゃねえんだよ。

    こっちにも色々と都合(つごう)があるからさ。

    …やっぱり五十両(ごじゅうりょう)ねえといけねえのか。


文七:へい…。


長兵衛:しょうがねぇなぁどうも…はぁ…。

    【溜息つきながらしばらく悩んでいる。】

    なぁ…考え直せよ。

    ……ダメか?


文七:へい……っ。


長兵衛:じゃあまぁ…しょうが…うーん……。

    【懐に手をやろうとしたり腕組みしたりして悩んでいる】

    …どうしてもか…!?


文七:へ、へい…っ…!


長兵衛:そうかい………。


    よしッ、わかった!

    【懐から財布を取り出す】

    ほれっ、こいつをな、おめえにやるよ!

    五十両(ごじゅうりょう)だ、持ってけ!!

    早く持って店に帰(けえ)んな!


文七:ぇっ……?


長兵衛:なに人の顔じっと見てんだよ、ええ?

    おめえにやるってんだよ!


文七:っと、とんでもございません…!

   見ず知らずのお方(かた)に、そんな大金をいただくわけには参りません!


長兵衛:あたりめぇだよ、俺だってやりたくねえよ!

    やりたかねえけど、おめえがどうしても五十両(ごじゅうりょう)ねぇと死ぬって

    言うからやるんだよ!

    持ってけこんちきしょう!


文七:……。


長兵衛:胡散臭(うさんくせ)えと思ってやがんな、ちきしょうめ。

    八(や)つ口(くち)のあいた着物なんてなりをしてるから、

    そんな大金持ってるわけがねえと思ってんだろ。

    ところがあるんだ。嘘じゃねえぞ。

    間違いなくこの財布の中にゃ、五十両(ごじゅうりょう)入ってんだ。

    おめえのを取ったんじゃねえぞ。財布が違うから分かんだろ。

    こいつァな、俺の娘がこさえてくれたんだよ。

    俺ァ左官(さかん)の職人でな、博打(ばくち)に凝(こ)って借金だらけになっちまってよ

    、この年をどうやって越そうか、夜逃げでもしようかって

    その最中(さなか)によ、俺の一人娘の今年で十七になるお久(ひさ)ってぇのが、

    吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)っていう女郎屋(じょろうや)に、身を沈めてこしらえてくれたのが

    この金だ。

    おめえは堅物(かたぶつ)そうだから知らねえだろうけど、

    吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)さんと言(い)やぁ大見世(おおみせ)だ。

    そこの女将さんてのが大変に情け深(ぶけ)ぇ人でな、

    再来年の大晦日(おおみそか)までにこの五十両(ごじゅうりょう)を返せば、娘は見世(みせ)へも出さず

    に、サラのまんま返してくれるってんだ。

    ありがてぇ話じゃねえか。

    だけど、俺のこれをおめえにやるだろ。

    返さなきゃならねえ借金の五十両(ごじゅうりょう)と合わせて、百両(ひゃくりょう)になっちまう。

    百両(ひゃくりょう)となるってェと、俺にも少ぉし荷が勝ちすぎるんでェ。

    来年の大晦日(おおみそか)はおろか、いつ返せるか見当(けんとう)もつかねえ。

    けどそうなったって、うちの娘は見世(みせ)に出されるだけだからな。

    いくら泥沼(どろぬま)に入ったって死ぬわけじゃねえんだ。

    けどおめえは今ここで金がねえと死ぬって言うから、五十両(ごじゅうりょう)やる

    んだ。

    これ持って帰ってな、ありがてえと思ったら店のどこでも構わね

    ェ。隅(すみ)の方にちいちゃな棚(たな)を吊(つ)ってな、

    不動(ふどう)様でも金毘羅(こんぴら)様でもいいぞ。

    おめえが贔屓(ひいき)にしてる神様を祀(まつ)って、

    「今年で十七になるお久(ひさ)と言う娘が吉原(よしわら)の佐野槌(さのづち)という

    女郎屋(じょろうや)に身を沈めておりますが、どうか悪い病(やまい)にかからねえよう

    に、片輪(かたわ)にならねえように。」

    って…ぐすっ…それだけ祈ってくれりゃあいい。

    さ、持ってけ!持ってきねェ!!


文七:とっとんでもございません!

   そんないわれのあるお金をいただくわけには参りません!


長兵衛:ってめェは本ッッ当に話の分からねえ野郎だな!

    俺がこれだけ言ってもきかねえたぁ、どうしてそうてめェは

    強情なんだ、え!?

    持ってけってんだよ!


文七:いえっ、いりません!


長兵衛:いりませんじゃねえんだよ!

    俺だってここに出しちまったんだ。

    今さら引っ込めるわけにいかねえじゃねえか!

    持って来なよ、ほら、持ってけ!


文七:っけ、結構でございますッ!


長兵衛:この野郎ォ…よし、そう言うんだったらな、

    俺ァこいつを川の中へうっちゃっちまうぞ。

    な、持って来なよ、持って来なって。

    悪い事は言わねえから、なっ、なっ、


文七:【↑の悪い事は言わねえから~の辺りから被せるようにして】

   っそ、そんな事ッいやっ、けっ、結構でございますッッ!


長兵衛:このやろッ、持ってけッこんちきしょぅッッ!!!

    【財布を文七に叩きつけて去っていく】


文七:痛ッッ!?


長兵衛:死ぬんじゃねぇぞ!死ぬんじゃ~~~~~~ねぇぞ~~~~~!!


   【二拍】


文七:っつぅ…あぁ…っ、ちきしょう…ひ、人の事からかいやがって…!

   あんな汚い格好(かっこう)してて五十両(ごじゅうりょう)なんて大金、持ってるわけがない…!

   わざわざあんな事をして、財布の中に石ころなんか入れて

   人に叩きつけてきやがって…!!

   な、投げ返してやる、待てこんちきしょッッ!?


   あ、あぁっ…!?ほ、ほんとに…!?


   ッッ親方(おやかた)ッ!親方(おやかた)ッ!親方(おやかた)ァッ!!

   ぁぁありがとうございます…ッ!!!


語り:仮にも商人(あきんど)の手代(てだい)、手触(てざわ)りだけで本当に五十両(ごじゅうりょう)の金が入っていると

   文七(ぶんしち)は悟(さと)ります。

   両手で財布を捧(ささ)げ持ち、すでにそこにいない長兵衛(ちょうべえ)に対し、

   いつまでも伏(ふ)し拝んでいました。

   ところかわって鼈甲問屋(べっこうどんや)の近江屋(おうみや)では、

   旦那(だんな)の卯兵衛(うへえ)と番頭(ばんとう)の平助(へいすけ)が雁首(がんくび)そろえ、

   戻ってこない文七(ぶんしち)を心配していました。

   そこへ彼の帰りが知らされます。


平助:旦那(だんな)様、文七(ぶんしち)が帰ってきました。


近江屋:なに、そうかい、こっちへ通しなさい。

    …文七(ぶんしち)、遅かったじゃないか。

    いったい今まで何をしてたんだ?


文七:遅くなりまして申し訳ありません旦那(だんな)様。

   実はお屋敷からの帰り道、昔の知り合いに出会いまして、

   昔話をしておりましたら、つい遅くなりました。

   掛けは間違いなくいただいて参りました。

   こちらでございます。


近江屋:?なんだいお前、これはうちの財布じゃないだろ。


文七:ぁっ、は、はい、その昔の知り合いが、お前のと替えてくれと、

   こう申しますので替えました。

   中は間違いなく五十両(ごじゅうりょう)入っております。

   どうぞ、おあらためくださいまし。


近江屋:え…?

    番頭(ばんとう)さん、ちょいとこれを見てごらんなさい。

    …どうだい?


平助:…はい、間違いなく五十両(ごじゅうりょう)入っております。


近江屋:…おかしいね。


平助:はい。


近江屋:文七(ぶんしち)。

    お前、あたしが普段から言ってるだろう。

    なぜお前はそう、夢中になるほど碁(ご)が好きなんだろう。

    あたしの小言(こごと)をいつも上(うわ)の空で聞いていたんだろ。

    「碁将棋(ごしょうぎ)に凝(こ)ると親の死に目に会わない」って言ったはずだよ。

    酒や博打(ばくち)じゃないからと、そういう油断がよくないんだ。

    今日、お前がお屋敷へうかがった時に、柴田(しばた)様と小林様が

    碁(ご)を囲(かこ)ってらした。


平助:掛け金をいただいたあとまっすぐ帰ってこないで、

   そこに座り込んでずっと碁(ご)を見てたそうだな。

   そのうちに小林様と代わってお前が柴田様(しばた)のお相手をした。

   向こうが言い出した事だからと、気持ちに隙(すき)ができてつい乗る。

   もう一番、もう一番とやってるうちに辺りが暗くなる。

   それでも夢中になっているもんだから、遅くなりはせぬかと、

   柴田(しばた)様に言われてお前、慌(あわ)ててお暇(いとま)申したそうだな。

   あとで碁盤(ごばん)を片付けると、その下から財布が出てきた。

   見覚えがある、ああこれは文七(ぶんしち)のものだ、中を見ると五十両(ごじゅうりょう)の金が

   入っている。

   これは当屋敷(とうやしき)が払った掛けだろう、今ごろさぞ途方(とほう)に暮れているに

   違いない。すぐに届けてやろうというので、先ほどお屋敷の

   心利(こころき)いたる若い衆(しゅ)が持ってきて下すったんだ。

   そうなるとお前…こっちの五十両(ごじゅうりょう)、いったいどうしたんだい?


文七:えッッ!!?


近江屋:どこから持ってきたんだ!?


文七:【支離滅裂に慌てている】

   えっ!?届いてた…!?えっ忘れてた…盗(と)られたんじゃない…!?


平助:盗(と)られたんじゃない、忘れたんだよ。


文七:はぁあっ、はぁっ、たっ、大変な事っ…!

   ぁ、あのッば、番頭(ばんとう)さんっあの、あのっ、

   お不動(ふどう)様と金毘羅(こんぴら)様とっ、あのっあのぉっどっどっどっどっちが

   ご利益(りやく)がっーー!


平助:【↑の語尾に喰い気味に】

   な、なにを言ってるんだい、わけのわからない事を言っちゃいけな

   いよ。

   いったいどうしたんだい。


文七:【支離滅裂に慌てている】

   あっあのっ、むっむっ娘があのっ女郎(じょろう)になってっーー!


平助:文七(ぶんしち)…

   お前、お稲荷(いなり)様の鳥居(とりい)にお小水(しょうすい)でもしたんじゃないのかい?

   どうしたんだ。


文七:【支離滅裂に慌てている】

   どっどうしたってッたったっ大変でござっーー!


近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】

    ちょっちょっ、ちょっと待ちなさい。

    番頭(ばんとう)さん、まずちゃんと話をさせるんだ。

    文七(ぶんしち)、少し落ち着きなさい。


文七:!あっ、は、はい…。


近江屋:…よし、それじゃ、話してごらん。

    いったいどうしたんだい。


文七:はい…実はあたくし、お屋敷に五十両(ごじゅうりょう)のお金を

   置き忘れてきたことに気づかず、ちゃんと持ってきたと思い込んで

   いたんです。

   そしたら枕橋(まくらばし)のところで妙な男に突き当たられまして…。


近江屋:なるほど、枕橋(まくらばし)でね。

    それで?


文七:その時、そいつがスリだったんじゃないかと思って、

   慌てて懐(ふところ)を探ったんです。

   すると持ってきたと思っていたはずのお金がない。

   あたくしは、このままじゃ店には帰れない、

   かといって五十両(ごじゅうりょう)もの大金、どうやったって都合(つごう)できない。

   あれこれ悩んでいるうちに、もう死んでお詫(わ)びするしかないと、

   そう思いつめまして…。


近江屋:【溜息】

    バカだねお前は…。

    どうしてそんな事を考えるんだい。

    で、どうしたんだ。


文七:いざ飛び込もうとしたところで、通りがかった方が止めて下さいま

   して、わけを話せというので話しました。

   そしたら…そしたら…、

   五十両(ごじゅうりょう)ものお金を、恵んで下すったんでございます…!!


近江屋:えっ、金を恵んだ?五十両(ごじゅうりょう)も!?

    文七(ぶんしち)、お前いい加減な事を言うもんじゃない。

    十両(じゅうりょう)盗めば首が飛ぶんだよ。五十両(ごじゅうりょう)なら五人分の命だ。

    そういう大金を、そんな汚い身なりをした方が持ってるわけが

    ないし、また下さるわけもない。


文七:ほ、本当なんです!

   本当にいただいたんです!


近江屋:ふうむ、嘘を言ってるようじゃないね…本当なのか…。

    …番頭(ばんとう)さん、聞いたかい。

    長く生きているとろくなことが無いと思う時もあるが、

    世の中にはそういう話が、そういう方がいるんだな…うぅむ…。

    ありがたい人がいるものだ。

    【感心している】

    それで、どこの何という方(かた)だい?


文七:っそ、それが…うかがってないんでございます…!


近江屋:【呆れたように】

    お前、なぜ命を助けてくだすった大恩人の、おところとお名前を

    うかがわないんだ。


文七:それがあの、そんな間(ま)がなかったんでございます。

   受け取れないと断り続けてましたら、いきなり人にお金をぶつけて

   逃げてったんでございまして…。


平助:えぇ…金を取って逃げてくってのは聞いた事があるけど、

   金をぶつけて逃げてくってのは珍しいね…。


近江屋:うぅむ、それは困ったな…。

    お礼にうかがわなきゃいけないし、

    このわけのある五十両(ごじゅうりょう)をお返ししなきゃならない。

    どういうお方だった?


文七:その、なんですか…汚い女物の着物を着て尻をはしょっておりまして

   、お職人だと言ってました。


平助:…なんだいその人は…?

   それで、どんなお話をしたんだい?

   あたし達に聞かせておくれ。

   その中に何か、手がかりがあるかもしれないからね。


文七:【だんだん泣きながら言うので最後辺りは不明瞭になっていく】

   は、はい。

   なんでもその方は、俺は左官(さかん)の職人だ、と、そう言ってました。

   それで、博打(ばくち)に凝(こ)って借金だらけになって、

   にっちもさっちもいかなくなっちまったそうです。

   そしたらその方の娘さんで、今年十七になる…おし…おし…

   おしん…お久(ひさ)さんと言いました。

   そのお久(ひさ)さんと言う娘さんが、あの、吉原(よしわら)の何とかという店に

   身を沈めて、五十両(ごじゅうりょう)をこしらえてくれたんだそうでございます。

   そこの女将(おかみ)さんが大変に情け深いお方で、再来年の大晦日(おおみそか)までに

   金を返せば、お久(ひさ)さんはただ預けただけで返してもらえる。

   だけど、この金をお前にやってしまうと返すあてがないから、

   そうなると娘が見世(みせ)に出されると…

   ば、番頭(ばんとう)さん、お願いでございます。

   金毘羅(こんぴら)様とお不動(ふどう)様、両方の棚(たな)を吊って下さいまし…!


平助:~~わかったわかった、とりあえず落ち着きなさい。


近江屋:泣くんじゃないよ文七(ぶんしち)。

    しかし、おおよその事が分かったし、手掛かりがあったよ。

    その方の娘さんの名前が、お久(ひさ)さんだというのが分かった。

    あとはその見世(みせ)の名前が分かれば、お金をくださった方の素性(すじょう)も

    知れる。


平助:文七(ぶんしち)、その、お女郎屋(じょろうや)さんの名前は聞いていないのかい?


文七:あ、そ、その…うかがったんでございますけど、

   何とも思い出せないんでございます…。


近江屋:うぅむ…見世(みせ)の名前なぁ…そう言われてもあたしはその、

    吉原(よしわら)の事については何も知らないんだ。

    というのもむかし親父に、もしも吉原(よしわら)なんという悪い所へ

    一足(ひとあし)でも踏み入れたら勘当(かんどう)するぞと言われてね…、

    ついにこの年までいっぺんも行ったことがないんだ。

    困ったな…。

    番頭(ばんとう)さんもなぁ、普段は固くて結構だけど、

    こういう時にあまり固いというのも役に立たなくて困る。

    だけど、あたしよりはいくらか知ってるだろう?


平助:いぃえ、とんでもない!

   あたくしは吉原(よしわら)の事は何も知りません。

   だいいち、吉原(よしわら)がどこにあるのかも知らないくらいなんでございま

   すから。


近江屋:あ、そう…そりゃ困ったね…。

    なんとかしてこの、わけのあるお金を返さなきゃならないが…。


平助:旦那(だんな)様…吉原(よしわら)でその、五十両(ごじゅうりょう)もの金を出すとなると、

   おそらく小見世(こみせ)ではない、仲見世(なかみせ)か大見世(おおみせ)かと思われます。

   文七(ぶんしち)、今から見世(みせ)の名前をいくつかあげるから、

   よく聞いているんだよ。

   まず有名なのが角海老(かどえび)だな。

   それから松葉屋(まつばや)だ。半蔵松葉(はんぞうまつば)で松葉屋(まつばや)。

   次が火焔玉屋(かえんだまや)、玉屋山三郎(たまやさんざぶろう)で火焔玉屋(かえんだまや)という。

   そして大黒屋金兵衛(だいこくやきんべえ)、これは金瓶大黒(きんぺいだいこく)って言うんだけどね。

   あとは尾張屋(おわりや)、梅屋(うめや)、丁子屋(ちょうじや)、大文字屋(だいもんじや)、佐野槌(さのづち)、熊蔵丸屋(くまぞうまるや)…

 

文七:!番頭(ばんとう)さん、もういっぺんお願いします。


平助:なに、もういっぺん?

   いいかい、角海老(かどえび)、松葉屋(まつばや)、玉屋(たまや)、大黒屋(だいこくや)、尾張屋(おわりや)、梅屋(うめや)、丁子屋(ちょうじや)

   、大文字屋(だいもんじや)、佐野槌(さのづち)…


文七:【↑の語尾に喰い気味に】

   佐野槌(さのづち)!佐野槌(さのづち)でございます番頭(ばんとう)さん!


平助:間違いないかい?


文七:はいっ…!


平助:そうか!いやぁ良かった旦那(だんな)様、わかりましたよ!

   佐野槌(さのづち)でございます。

   京町(きょうまち)二丁目の立派な見世(みせ)でして、ええ。


近江屋:……どうでもいいけど番頭(ばんとう)さん、

    なんだかやけに詳(くわ)しすぎないかい?

    

平助:あ、あのいや旦那(だんな)様、そういうことではございませんで!

   手前(てまえ)その以前、万屋(よろずや)の番頭(ばんとう)さんに吉原細見(よしわらさいけん)でもって、

   いろいろと聞いた事がございまして!


近江屋:まぁまぁわかった。

    万屋(よろずや)の番頭(ばんとう)さんによろしく言っておきなさい。

    それにうちは鼈甲問屋(べっこうどんや)だ。奉公人(ほうこうにん)の中に吉原(よしわら)に明るい者が

    一人や二人いたってかまやしないよ。

    しかし道楽(どうらく)はほどほどにな。

    さ、文七(ぶんしち)、もう遅いから今日は休みなさい。

    番頭(ばんとう)さんは、もう少し話があります。

    九蔵(きゅうぞう)も呼んでおくれ。


平助:かしこまりました。


語り:それから旦那(だんな)と番頭(ばんとう)達、何やら相談をすませると

   その日はもう休みました。

   やがて鴉(からす)カァで夜が明けまして。

   番頭(ばんとう)は九蔵(きゅうぞう)と一緒にどこかへ出かけ、やがて帰って来ました。

   。


平助:失礼します旦那(だんな)様、ただ今戻りました。


近江屋:おお番頭(ばんとう)さん、おかえり。

    それで、どうなったんだい?


平助:ええ、それはもう、かくかくしかじかで…。


近江屋:そうかいそうかい、そりゃ結構(けっこう)だ。

    よし、文七(ぶんしち)を呼んでおくれ。

    お前さんは後から例のを頼んだよ。


平助:承知しました。


   【二拍】


文七:旦那(だんな)様、お呼びですか?


近江屋:ああ、来たかい。

    お前に五十両(ごじゅうりょう)の金をくだすった方の素性(すじょう)が分かった。

    これから達磨横町(だるまよこちょう)へ向かうから供(とも)をしなさい。


文七:!は、はいっ、承知しました!


   【二拍】


近江屋:文七(ぶんしち)や、たまにはこうやって外へ出るのもいいものだね。

    あたしはどうも出不精(でぶしょう)でね、店にばかりいるからつい世間(せけん)の事が

    疎(うと)くなる。

    世の中というものは三日見ぬ間(ま)の桜と言うが、ひょいひょいと、

    こう変わってくるものなんだね。

    お武家(ぶけ)様のお腰(こし)の物など、なぜかこう細身(ほそみ)になって来たような

    気がするよ。

    …あぁ、吾妻橋(あづまばし)だね。

    子供の時分(じぶん)、よくここで遊ぶと親父が怒ってねえ、

    「吾妻橋(あづまばし)は縁起(えんぎ)が悪いから遊ぶんじゃない」

    なんて言われたもんだ。

    …?おい文七(ぶんしち)、そんなところで何をしてるんだい?

    欄干(らんかん)から川をのぞき込んで…。


文七:あ、はい……はぁぁ…。


近江屋:ああ、夕(ゆう)べ、ここから飛び込もうとしたんだったな。


文七:はい。

   こうして昼間見てみますと、たいそう高いんでございますね…。

   こんなところから飛び込もうとする奴の気が知れません。


近江屋:何を言ってるんだ。

    見なさい、ゴーッと渦(うず)を巻いてる。

    もし飛び込んでいたらお前はもう文七(ぶんしち)じゃない。

    今日には土左衛門(どざえもん)と改名していただろうね。

    まあいい、二度とそんなバカな了見(りょうけん)を起こしちゃいけないよ。

    どれ、この小西(こにし)の酒屋さんで例の方の在所(ざいしょ)を尋(たず)ねよう。 

    ごめんください!


酒屋:へぃいらっしゃいやし!

   えー、何にいたしやしょうか?


近江屋:あの、恐れ入りますが、二升(にしょう)の切手をいただきたいんです。

    あ、良い方のお酒で。

    それから、角樽(つのだる)があったら貸していただきたいんでございます。


酒屋:へい、どうぞ、そちらにお掛けになってお待ちくださいやし!

   いやぁ縁起(えんぎ)がようございますな!

   角樽(つのだる)が出ますとね、もうどんな時でも一日気分がずっと

   上向(うわむ)くんで。ありがとうございます!


近江屋:いえいえ。

    それから、達磨横町(だるまよこちょう)というのはこの近くですか?


酒屋:ええ、この裏(うら)っ手のほうですよ。

   この先に露地口(ろじぐち)がありやすから。


近江屋:そこに左官(さかん)職で、長兵衛(ちょうべえ)様と言う方がいらっしゃると

    聞きましたが。


酒屋:あぁ長兵衛(ちょうべえ)?えぇいやすよ。

   露地口(ろじぐち)入って行ってね、左(ひだり)っ手の真ん中あたりですよ。

   そういや、夕(ゆう)べっからずっと夫婦喧嘩(ふうふげんか)やってましてね、

   さっき通ったらまだやってましたよ。

   端(はな)のうちはうるせぇ、静かにしろィ!となるんですがね、

   ここまで続くと逆に楽しみになりやしたな。

   あと二、三日は続けてもらいたいぐらいで。

   喧嘩(けんか)を頼りに行きゃあ、すぐ分かりやすよ!


近江屋:左様(さよう)でございますか。

    さ、文七(ぶんしち)、行きますよ。


文七:はいっ。


酒屋:まいど、ありがとうございやした!


語り:いっぽう噂(うわさ)の長兵衛(ちょうべえ)さんのお宅ではと言うと、酒屋の主(あるじ)の言葉通り

   夫婦互いに怒鳴り合う声が表(おもて)まで響いています。

   安普請長屋(やすぶしんながや)の薄(うす)っ壁(かべ)なんてあって無いようなもの。

   犬も食わない喧嘩(けんか)が延(えんえん)々と続いております。


長兵衛:本ッ当~~におめえは!

    だから何度言ったら分かるんだよ!

    いい加減(かげん)に寝かしてくれ!

    夕(ゆん)べから同じこと繰り返し繰り返し聞いて…勘弁してくれよ!


お兼:寝るつもりでいるのかい、こんちきしょうめ。

   五十両(ごじゅうりょう)はどうしたのって聞いてるだろ!


長兵衛:だから、俺ァその身投げ野郎を助けようってんで、

    五十両(ごじゅうりょう)やっちまったんだよ!


お兼:何を言ってんだい!

   人を助けるようなツラなもんか!

   身投げする人の足をすくって、川の中におっぽり込む人なんだ!

   首吊りする人がいたら踏み台を外すんだ!


長兵衛:冗談言うなィ!

    そんな事なんざしねえよ!

    ちゃんと五十両(ごじゅうりょう)やって助けてやったんだよ!


お兼:だから、どこの何という人なんだい!?


長兵衛:何という人ったって、俺ァさっきから言ってるじゃねえか!

    何回言いや分かるんだよ!

    名前なんざ聞かなかったんだよ!


お兼:なんで聞かないんだい!

   大事な娘が身を売ってこしらえてくれた、五十両(ごじゅうりょう)と言う大金じゃな

   いか!

   それをいくら助けるためにやるったって、名前ぐらいなぜ聞かなか

   ったんだい!


長兵衛:聞かなかったっつってもな、俺ァそんな恩着(おんき)せがましい事はした

    くねえんだよバカ野郎!


お兼:何を言ってんだい本当に…!


長兵衛:嘘(うそ)じゃねえんだよ!


お兼:嘘(うそ)に決まってるよ!

   どうせどっかに隠しといて、そいつを元手(もとで)にまた博打(ばくち)でもやろうっ

   て腹なんだろ!?

   どこのなんて人なんだい!?

   あんたの言ってることが本当ならね、あたしが行ってくるよ!


長兵衛:っちょっなっ、なんて人だったって…んな、な名前なんぞねえん

    だその野郎は!


お兼:~~またそんないい加減(かげん)な事ばっかり言ってんだから本当に…!

   名前の無い人なんてのがあるかい!

   あたし捜(さが)して来るよ!

   でなきゃ佐野槌(さのづち)に行くから!


長兵衛:【↑の語尾に喰い気味に】

    んなっちょッまっまっ待てよッ!

    おめえその格好(かっこう)で表(おもて)行って、どうするってんだよ!


近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】

    ごめんくださいまし、ごめんくださいまし。


長兵衛:!っはいッ!

    待てよ、人が来たよ人が!


お兼:~~ッしょうがないね…!


長兵衛:【表へ向かって】

    はい!ちょっと待ってください!

    いや、あいてますけどまだ開(あ)けちゃいけませんよ!

    いま見られて困るものが出てますんで!

    ちょっ、ちょっとおい、早く、ほら、みっともねえから、

    屏風(びょうぶ)の裏行け屏風(びょうぶ)の。


お兼:わかってるよ、大丈夫だよ!


長兵衛:あぁほら、頭が出てる頭が。引っ込めろ引っ込めろ。

    今度はケツが出てるよケツが。

    でけえケツだな…割れ目が見えるから平らに、四つん這(ば)いに

    なってろ!

    いいか、四つん這(ば)いだぞ四つん這(ば)い。

    絶対に出てくるんじゃねえぞ。

    ちょっとでも動くとはみ出すからな。

    続きはあとでゆっくりやってやるから。

    勝負決めてやるからよ。

    【表へ向かって】

    へい、いま開けますんで!

    【戸を開けて】

    っあ…どうも…えぇと、どちら様で…?


近江屋:えぇ…こちら、左官(さかん)の親方(おやかた)の長兵衛(ちょうべえ)様でございましょうか?


長兵衛:え?長兵衛(ちょうべえ)様…?

    ははは、くすぐってぇなぁどうも…。

    いや、それほどのモンじゃねえんですが、

    左官(さかん)の長兵衛(ちょうべえ)たァあっしの事でござんすよ。

    え、何か、ご用でござんすか?


近江屋:あたくしは横山町(よこやまちょう)三丁目、の鼈甲問屋(べっこうどんや)の主(あるじ)、

    近江屋(おうみや)卯兵衛(うへえ)と申しますが…。


長兵衛:あ、鼈甲屋(べっこうや)さん?

    じゃあ家(うち)じゃねえ、お門違(かどちが)いだ。

    もっと奥、突き当たりが家主(いえぬし)の家ですよ。

    あそこのかみさんてのはね、頭に金を掛けてますからね。

    うちのかかあはそんなものはやりませんよ。

    もう中挿(なかざし)なんざね、蕎麦屋(そばや)の箸(はし)を折っぺしょって差して、

    それで間に合わしてますからね!

    とにかく家(うち)じゃねえんで、どうぞひとつ、お引き取りをーー


近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】

    あぁちょっ、ちょっとお待ちを願います!

    文七(ぶんしち)や、この方のお顔をよくご覧なさい。

    どうだ?


文七:っちょっと、お待ちを願います。ごめんくださいまし…。


長兵衛:っな、なんでェ?

    …なんだよ?


文七:!あぁっ…旦那(だんな)様、この方(かた)に間違いございません!


近江屋:おぉ、そうかい!


文七:はいっ!

   【半泣きで】

   親方(おやかた)…!

   夕(ゆう)べは危ない所をお助け下さいまして、

   ありがとうございました…ありがとうございました…!


長兵衛:え?昨晩?危ない所を?

    っちょっ、顔見せろ、顔…。


    【二拍】


    あぁ…おめぇだ、おめぇだ…!

    よく来てくれた…!

    夕(ゆん)べ確かに、身投げしようとしてたところを助けたな?


文七:【半泣きで】

   助けていただきました…!


長兵衛:五十両(ごじゅうりょう)の金、おめえにやったな?


文七:【半泣きで】

   いただきました…!


長兵衛:やったよな…!?

   【家の奥へ向かって】

   ざまぁみろこんちきしょう!

   だからやったって言ったじゃねえか!

   証人が現れたぞ!

   【文七たちに】

   あ、誰もいませんからね。

   独(ひと)り言(ごと)なんで、うん。

   いやぁ、よく来てくれたなぁおい。

   おめえが来なかったら大変だったよ。

   これから先、ずーっと…まぁそんなことはどうでもいいや。

   あちらにいらっしゃるのは、おめえのご主人だってな?


文七:はいっ…左様(さよう)でございます。


長兵衛:どうも、ようこそいらっしゃいやした。

    さぁこっちへ上がってくだせえ。

    表(おもて)と変わらねえ汚ねえとこですが、まぁその、

    そこでは話をしにくいですから。

    まぁまぁ、上がっておくんなさい。


近江屋:それでは失礼をいたします、ごめんください。


    昨晩は、うちの文七(ぶんしち)が危ない所をお助け下さいまして、

    誠にありがとうございました。

    実は親方(おやかた)の前でございますが、これがお金を取られたと思ってい

    ましたのはとんだ思い違いでございまして、

    先方(せんぽう)に忘れてきておったんでございます。

    それを一途(いちず)に盗(と)られたと思い込んでおりまして、あのような事を

    しようとしているところを、親方(おやかた)に止めていただきました。

    五十両(ごじゅうりょう)のお金を恵んでいただきました。

    本当に何とも申し訳の無い話でございますが、

    実ははじめ、文七(ぶんしち)にこの話を聞いた時、正直申して疑(うたぐ)りました。

    手前(てまえ)は商人(あきんど)でございます。よくお武家(ぶけ)様方が刀は武士の魂と

    おっしゃいますが、手前(てまえ)どもも銭(ぜに)が命、銭(ぜに)は大切にしなければ

    いけない。一文(いちもん)と言えども地(じ)べた掘って出てくる気づかいは無し。

    銭(ぜに)を粗末(そまつ)にするなと親父に教わりました。

    しかし、親方(おやかた)のようにこんな見ず知らずの者に五十両(ごじゅうりょう)もの大金を

    ポンと出す、そういうご奇特(きとく)な方がいらっしゃったからこそ、

    文七(ぶんしち)がこの通り生きているんでございます。

    それを聞いた時、もし手前(てまえ)が同じ立場に立ったら、

    果たして渡したであろうかと思うと、我が身が恥ずかしくなりま

    した。

    今日はそのお詫(わ)び、またお礼かたがた、

    こうして恵んでいただきました五十両(ごじゅうりょう)のお金を、

    ご返済にあがりました次第(しだい)でございます。

    どうぞ、お納(おさ)めくださいませ。


長兵衛:【文七へ向かって】

    なに…?

    盗(と)られたんじゃなくて忘れた?

    忘れたのか?

    バカ野郎ちきしょう!しっかりしろってんだこの野郎!

    冗談じゃねえよ!

    だから思い違いじゃねえかって俺ァ聞いたろ!?

    旦那(だんな)、この野郎にあっしァ聞いたんだよ!

    そしたら盗(と)られたんだ盗(と)られたんだって言うんだよ。

    おめえのおかげでこっちは夕(ゆん)べっからずーっと寝てねえんだ。

    あん時、俺が通りかかって止めてよかったじゃねえか。

    死んじまわなくて良かったろ?

    でなきゃおめえは、ドカンボコンと飛び込んで、あの世行きだっ

    たんだ。

    で、おめえが死んだあと金がでてきたら、それこそどうするって

    んだよ。

    まったく、そういうものがわからねえ…若(わけ)え奴ってなみんなそれ

    だよ。

    【近江屋に向かって】

    こんな奴は金の使いに出せませんね!

 

近江屋:どうも、相(あい)すいませんでございました。

    どうぞひとつ、これをお納(おさ)めいただきとうございます。


長兵衛:え?これ?

    じょ、冗談言っちゃいけませんよ。なに言ってるんで。

    受け取れるわけがねえよ。あっしはこいつにやっちまったんだか

    ら。

    これでも長兵衛(ちょうべえ)は男でござんすよ。

    いっぺんやっちまったらもうあっしのもんじゃねえ、

    この野郎のもんなんだ。

    こいつに渡しゃいいんですよ。


お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】

   【声を落として】

   お前さん…お前さん…!


長兵衛:【袖を払う、SEかリアルで代用できるなら】

    いや、元はあっしのもんだけど、やっちゃったんだから。

    やったものはしょうがねえじゃありやせんか。


お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】

   【声を落として】

   お前さん、受け取りなって…!


長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】

    うるせぇな、こんちきしょう!

    【近江屋たちに向かって】

    だからね、それはどうぞ、そっちでしまっておくんねぇ。


近江屋:それは困ります。

    それではこの金のやり場がございません。


長兵衛:やり場が無いったって、俺ァそっちにやっちゃったんだからさ。

    じゃあこうしやしょう。

    旦那(だんな)が預かっといておくんなさいよ。

    どうせそいつだって、しまいには店を持とうってんでしょう?

    そしたらその時に、暖簾(のれん)の一枚でもこさえてやっておくんなせェ

    。

    その方がね、よっぽどお金が役に立つよーー


お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】

   【↑の語尾に喰い気味に声を落として】

   お前さんッ、冗談じゃないよ…なんで…!


長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】

    しつこいなこの野郎!

    その方がいいんだよ!

    冗談じゃねえ、そんなみっともねえ真似(まね)ができるかよ。

    【近江屋たちに向かって】

    だからね、そうした方がいいんだ。そうしてやっておくんねぇ。

    いやそりゃね、貸した金ならあっしも返してもらいますよ?

    でもね、やっちゃったんだから、こいつの物(もん)なんだ。

    いいんです、気にしねえで!


近江屋:いえ、それでは困ります。

    無くなった金が出たんでございますから、

    どうぞこれは元に戻す方が本当でございます。


長兵衛:いや、そうでないんで!

    やっちゃったんだからさ!

    そりゃやる時はあっしも考えたよ?

    どうしようかな、どうしようかなってよく考えたんだ。

    考えたけどね、考えた末でやったんだからさーー


お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】

   【↑の語尾に喰い気味に声を落として】

   お、ま、え、さ、んッ!


長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】

    うるせえな、お前は!

    やっちゃったんだからしょうがねえだろ!


お兼:【声を落として】

   お前さんだって分かってるはずだろ!

   意地(いじ)張ってんじゃないよ!


長兵衛:【声を落として】

    そりゃわかってるよ!

    わかってるけどおめえ、冗談言っちゃいけねえよ!

    そんなみっともねえことができるかいってってっててッ!!

    つねるんじゃねえ、いてぇなこんちきしょう!


お兼:【声を落として】

    向こう様だって商人(あきんど)の筋(すじ)を通してきてるんだから、

    これ以上困らせるんじゃないよ!


長兵衛:【声を落として】

     そりゃ…そうだけどよ…!

     ……わかったよ…!


     あー…んんっ【咳払い】

     …ええ、へへ…ま、相談をしましてね。

     今日のところは、その、返していただくという事でひとつ…。


近江屋:おお!ありがとうございます。


長兵衛:いぃえいや、その、そうじゃないんで…。

    この金のせいでうちは夕(ゆん)べから寝てねえんですよ。

    その代わり…旦那(だんな)、これ脇(わき)へ行って喋(しゃべ)っちゃいけませんよ?

    みんな口の悪いのが揃(そろ)ってるんですからね。

    「あの野郎は人にいったんくれてやったものを、また返してもら

    った」なんて言い出しかねねェ。

    そんな事になったら仲間に顔向けができませんよ。

    表(おもて)を歩けなくなっちまいますからね。

    いいですか、必ず内緒にしておくんなさいよ?


近江屋:もちろんでございます。

    お受け取り下さりまして、ありがとうございます。

    それからあの、あらためてお願いがございます。


長兵衛:っな、な、なんでしょう。

    お宅の壁を塗るんですか?


近江屋:いえいえ、そうではありません。

    この文七(ぶんしち)、粗忽(そこつ)な所もありますがなかなかに商売熱心、

    正直者で陰日向(かげひなた)なく、こんにちまで一生懸命務めて参ったもので

    す。

    近ごろは商(あきな)いの方もだいぶ覚えまして、見込みある男と

    わたくしも目を掛け、ゆくゆくは店を持たせようと思っておりま

    す。

    それと文七(ぶんしち)は、手前どもの遠縁(とおえん)にあたりまして、

    小さい時分(じぶん)にふた親(おや)に死に別れております。

    そこでお願いでございます。

    昨晩(さくばん)親方(おやかた)に助けていただいたのがご縁(えん)、命の親と言う事で、

    文七(ぶんしち)が店を持つ際に後見(こうけん)を、親代わりになっていただけないかと

    思いますが…いかがでございましょう。


長兵衛:えっ、親代わり?こいつのですかい?

    親代わりって事ァ、色んな事の面倒見てやんなきゃなんねえ。

    おめえはどうなんだい?

    俺にああしろこうしろって言われるのは大変だと思うぜ?

    それに道楽者(どうらくもの)の親を持つってェと苦労するもんだ。

    それでもいいってのかい?


文七:はいっ、どうぞ、よろしくお願いいたします…!


長兵衛:かまわねえってのかい?

    おめえがそれでいいってんなら、俺ァいいよ?


近江屋:ありがとうございました。

    それから今度は、手前(てまえ)からのお願いでございます。

    見ず知らずの者に五十両(ごじゅうりょう)の金を恵んでやるというようなことは、

    とてもわたくしども商人(あきんど)には考えられません。

    そういう方がいるというのを聞いて、本当に驚きました。

    そのご気性(きしょう)にわたくし、ほとほと惚(ほ)れ込みましてございます。

    これから末永(すえなが)くお付き合いをいただきたいので、

    どうか親類(しんるい)付き合いをお願いしたいと思います。

    ご承知いただけますでしょうか。


長兵衛:ちょっちょっちょっちょっちょっと待ってください!

    なんだか黙って聞いてると、話がどんどんえれぇ方向に

    進んでませんかい?

    いやいや旦那(だんな)、そらァ買いかぶりでござんすよ。

    よしてくださいよ、親類(しんるい)なんて。

    ごらんの通りの貧乏なんで。

    親類(しんるい)なんぞなったら、どんどんどんどん金を借りに行きやすよ?


近江屋:えぇかまいませんとも。

    どうぞひとつ、ご承知くださいまし。


長兵衛:っそ、そうかい?

    いや旦那(だんな)のとこでね、いいってんだったらいいよ?

    だけど妙だね。

    一日で親類ができちゃったり、倅(せがれ)ができちゃったよ。

    えぇ、結構でござんすよ。


近江屋:ありがとうございます。

    それからあの、これは親方(おやかた)が召し上がる口と聞きまして

    持って参りました。

    どうぞひとつこれをお納めくださいまし。


長兵衛:えっ?

    あらっ!表(おもて)の小西(こにし)の切手じゃござんせんか!

    おっ、樽(たる)も一緒に!へえぇ!張り込みましたねえ!

    いやぁありがとうございやす!

    これにゃあ目がねえんですよ。

    酒となるとあっしは断りようを知らねえもんで!

    それじゃ、遠慮なく頂戴(ちょうだい)いたしやす!


近江屋:ありがとうございます。

    そうだ、文七(ぶんしち)や、ちょっと表(おもて)を見てきておくれ。


文七:はい。


   旦那(だんな)様、番頭(ばんとう)さんがちょうど着きました。


近江屋:おぉ来たか。

    番頭(ばんとう)さん、用意はできているかい?


平助:はい、いつでも。


近江屋:そうか!

    えぇ、実はお肴(さかな)をあつらえて参りました。

    どうやら届いたようで。


長兵衛:え、肴(さかな)?

    いや、肴(さかな)はいらないんですよ。

    あっしはそんなの無くったってね、

    ちょいと塩をつまんでぽいっと口にほうり込んで、

    五合(ごごう)くらいキューっといっちまいやすから。


近江屋:まぁまぁ、そうおっしゃらずに。

    せっかくあつらえて参りましたので…。


平助:おぅい、入って来ておくれ!


語り:番頭(ばんとう)の平助(へいすけ)が露地口(ろじぐち)のほうへ合図を送りますと、

   えっほい駕籠(かご)の鳴きと共にタッタッタッタッと入って参りました、

   一丁の真新(まあたら)しい四つ手(で)駕籠(かご)。

   駕籠屋(かごや)がスッと垂(た)れを上げますと、出て参りましたのはお久(ひさ)。

   昨日に代わる今日の姿、文金(ぶんきん)の高島田(たかしまだ)に髪結(かみゆ)いあげまして、

   小紋縮緬(こもんちりめん)の着物に帯(おび)を締(し)め、綺麗(きれい)に化粧をして降り立つ姿は、

   まるで掃(は)き溜(だ)めに鶴、花が咲いたようでございます。


長兵衛:!!?おっ、おお!?

    ぉ、おめえ……お久(ひさ)か!?


お久:…そうだよ、おとっつぁん。


長兵衛:あらぁーーっ!

    綺麗(きれい)になっちゃっておめえ、ど、どうしたんだい!?


お久:おとっつぁん、

   近江屋(おうみや)の旦那(だんな)様が、あたしを身請(みう)けしてくださったの。

   もう家(うち)へ帰っていいって…。


長兵衛:えっ、旦那(だんな)が!?

    【泣きそうに】

    そうですかい…!

    旦那(だんな)、ありがとうございます…!


近江屋:このお肴(さかな)、気に入っていただけましたかな?


長兵衛:【半泣きになりながら】

    大好物でござんす…!!

    実はもう、半(なか)ばあきらめてたんで…。

    それが…それが…長兵衛(ちょうべえ)、この年になるまでこんな立派な肴(さかな)、

    生まれて初めてでござんす…!

    気に入らねえなんて言ったら、あっしに罰(ばち)が当たっちまう。

    ありがとうございやす…!

    お久(ひさ)ぁ、こっちへ来なよぉおい良かったじゃねえかあぁ…!


お久:うん…うん…!

   おとっつぁん、おっかさんは…!?


長兵衛:おぉ、おっかさんもいるぞ!

    その、そこの屏風(びょうぶ)の陰(かげ)にいるんだ、そこんところに。

    ぉおいおっかぁ、お久(ひさ)が帰(けえ)ってきたぞ!

    かまわねえから、早く出て来て礼を言うんだよ!

    ほらお久(ひさ)、おめえ呼んでやんな!


お久:おっかさん!おっかさん!!

   お久(ひさ)です!いま帰りました!


語り:今まで我慢していたお兼(かね)さん、娘から呼ばれたらもう矢も楯(たて)もたま

   りません。尻切(しりき)り半纏(ばんてん)に風呂敷(ふろしき)の紋付腰巻(もんつきこしまき)の恰好(かっこう)、

   周囲の驚きも恥(はじ)も外聞(がいぶん)も何のその、全部その辺にうっちゃって、

   ぼろ屏風(びょうぶ)の陰(かげ)から飛び出します。


お兼:お久(ひさ)ぁぁーーーッ!!


お久:おっかさぁぁーーん!!


長兵衛:【号泣しながら】

    よかった…!よかったぁッ…!!


語り:親子三人、手に手を取ってひしと抱(だ)き合い、嬉(うれ)し涙に喜び濡(ぬ)れたと

   申します。

   その後、文七(ぶんしち)とお久(ひさ)は夫婦(めおと)となりまして、麹町(こうじまち)貝坂(かいざか)に小間物(こまもの)の店を

   出しました。

   後年(こうねん)、文七(ぶんしち)が元結(もっとい)、まげを結ぶ紐(ひも)ですが、これにひと工夫いたしま

   した。この元結(もっとい)が従来のものと違い、誠に見栄(みば)えが良く、

   また手際がよろしく仕上がるというので、明治の初年(しょねん)、

   断髪令(だんぱつれい)が出るまでたいそう繫盛(はんじょう)し、もてはやされたといいます。

   文七元結(ぶんしちもっとい)の一席(いっせき)でございました。




終劇




参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)


古今亭志ん朝(三代目)

立川談志(七代目)

三遊亭圓楽(五代目)

柳家小三治(十代目)

三遊亭圓生(六代目)



※用語解説


元結(もっとい):髷(まげ)の根を結(ゆ)い束(たば)ねる紐(ひも)のこと。

   演目名の「文七元結(ぶんしちもっとい)」は江戸時代中期に考案された、実在する元結(もっとい)

   である。長いこよりに布海苔(ふのり)と胡粉(ごふん)を練り合わせた接着剤を数回に

   わたって塗り、乾燥させてから米の糊(のり)を塗って仕上げたものを言う

   。別名、しごき元結(もっとい)、水引元結(みずひきもっとい)とも言う。

   桜井文七という人物の考案とも、下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)の文七紙

   を材料として用いるからとも。


見世(みせ):吉原(よしわら)の女郎屋(じょろうや)のこと。

   妓楼(ぎろう)には大きく分けてランクの高い順に

   大見世(おおみせ)→仲見世(なかみせ)→小見世(こみせ)→切見世(きりみせ)がある。


佐野槌(さのづち):演者によって場所が変わる見世(みせ)。作者である三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)師匠は

    新聞連載時は角海老(かどえび)としていたが、以降は自身を含め、多くの

    演者が佐野槌(さのづち)と演じている。


七草(ななくさ)までには返す:七草(ななくさ)がゆを食べる日が一月七日であることから、

         一月七日までには返すという事。


癪(しゃく):原因が分からない痛みを伴う内臓疾患を一括した俗称。

  積(せき)ともいい、疝気(せんき)とともに疝癪(せんしゃく)とも呼ばれた。


左官(さかん):建物の壁や床などを鏝(こて)を使って仕上げる仕事。

   またはそれを専門とする職人。


達磨横町(だるまよこちょう):現在の墨田区吾妻橋(すみだくあづまばし)一丁目の駒形橋(こまがたばし)寄りのあたり。


見返り柳:遊廓(ゆうかく)の入り口付近に生えた柳の名称。

     遊廓(ゆうかく)で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで名残(なごり)を惜(お)しんで

     後ろを振り返ったことからこの名が付いた。


衣紋坂(えもんざか):江戸新吉原の日本堤から大門(おおもん)に至る間にあった坂。

    新吉原の名所とされ、遊客(ゆうかく)がみな衣紋(えもん)をつくろうところから呼ば

    れた。


道哲(どうてつ):主に江戸時代に浅草新鳥越(現台東区浅草七丁目)にあった、

   浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称として知られている。

   道心者が庵を結んだことから、この名があるという説があります。


土手八丁(どてはっちょう):浅草から新吉原へ通う遊客がよく通った道で、日本堤(にほんづつみ)を指す。

     特に待乳山聖天社の下から吉原入口までの道のりが、

     約870メートル(八丁)ほどだったことから、この名で呼ば

     れるようになった。


山谷堀(さんやぼり):かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、

    江戸初期に荒川(現在の隅田川)の氾濫を防ぐため、

    箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで

    造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの

    約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。


三囲(みめぐり):三囲神社(みめぐりじんじゃ)の事。

   東京都墨田区向島に在る神社である。

   祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)。


浅草弁天山(あさくさべんてんやま):浅草寺の本堂南東にある小高い丘は、弁財天を祀(まつ)る弁天堂が

      建つことからそう呼ばれる。


金龍山下瓦町(きんりゅうざんしもかわらまち):聖天宮(金龍山本龍院)の鎮座する待乳山下。

       隅田川沿いに位置する。町名はかつて瓦を焼いていた場所

       にちなんでいる。


待乳山聖天(まつちやましょうでん):浅草寺の北東、隅田川西岸にあり標高約10mの丘である。

      ここに伽藍(がらん)を構える待乳山聖天は、正式には本龍院(ほんりゅういん)といい、

      浅草寺の支院のひとつである。


山の宿(しゅく):現在の台東区花川度一・二丁目。浅草七丁目のあたり。


花川戸(はながわど):東京都台東区にある町名。現行行政地名は花川戸一丁目および

    花川戸二丁目。


吾妻橋(あづまばし):隅田川にかかる橋で、現在東京都道463号上野月島線吾妻橋

    支線を通す。


横山町(よこやまちょう):現在の中央区日本橋横山町、東日本橋二・三丁目。


鼈甲問屋(べっこうどんや):鼈甲(べっこう)とは、ウミガメの一種であるタイマイの甲羅(こうら)を加工して

     作られた工芸品の総称。


ガリガリ亡者:漢字で書くと我利我利亡者。

       ただ自分の利益ばかりを追い求めて、他への思いやりなど

       のまったく無い者を罵(ののし)る言葉。


尻切(しりき)り半纏(ばんてん):尻の上までの、たけの短い半纏(はんてん)。


九蔵(きゅうぞう):名前しか出て来ませんが、笑点の最古メンバーのあの方の前の名前

   ですね。


中挿(なかざし):女性の髷(まげ)に横に挿(さ)して飾りとしたり、

   髪をかき上げるのに使った、箸(はし)に似た細長い道具。


八(や)つ口(くち):着物の身頃(みごろ)の脇のあき部分を言う。


チョボイチ:起源は江戸時代頃。最も古く単純なサイコロ賭博(とばく)。

      子は出る目を予想してチップを張ってから親がサイコロを振

      る。出た目に賭(か)けた者を勝者とし、その出目の数字に賭(か)けた

      チップの4倍を受け取ることが出来る。

      それ以外の人は賭けたチップをすべて没収される。


丁半(ちょうはん):偶数を丁(ちょう)、奇数を半(はん)と呼ぶ。

   茶碗ほどの大きさの笊(ざる)であるツボに入れて振られた二つのサイコロ

   の出目の和が、丁(偶数)か、半(奇数)かを客が予想して賭(か)ける

   。 小規模な賭場(とば)を鉄火場(てっかば)、大勝負(おおしょうぶ)を賭博(とばく)と呼んで区別した。


大目小目(おおめこめ):略して大小とも呼ばれる。1個のサイコロを振って123が

     出れば小目(こめ)、456が出れば大目(おおめ)で、そこに賭(か)けていたものが

     配当を得る博打(ばくち)。


素寒貧(すかんぴん):非常に貧乏で何も無い事を指す。


建具屋(たてぐや):建物の開口部に取り付けられる建具(ドア、窓、障子、襖など)

    を専門に扱う業者。


東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ):江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある

        五十三の宿場(しゅくば)を指す。


腰巻(こしまき):婦人が腰から下に、肌にじかに巻きつける布。


中引(なかび)け:今の午前12時過ぎを指す。


お多福(たふく):一般的に、ほっぺたが丸く、鼻が低く、笑顔が素敵な女性の顔や

    、その顔をしたお面のこと。


目塗(めぬ)り:火事などの際、蔵などに火が入らないように戸などの合わせ目を

    、用意してある土で塗ってふさぐこと。


中間部屋(ちゅうげんべや):主に武家屋敷において、上級武士に仕える中間職(雑務や防備

     など)が住む部屋を指す。


矢立(やたて):江戸時代に広く使われた携帯用の筆記用具で、筆と墨壺(すみつぼ)を一つの

   容器に収めたもの。


五十両(ごじゅうりょう):一両が現在の価値に直すと大体約八万円。

    てことはだいたい四百万円なり。


枕橋(まくらばし):今の東京都墨田区にかかっている橋。


お不動:不動明王(ふどうみょうおう)のこと。密教において大日如来(だいにちにょらい)の化身として、仏法を

    守護し、人々を災いから救うと信じられている明王(みょうおう)の一尊(いっそん)。


金毘羅(こんぴら):金刀比羅(こんぴら)様。海の守り神や航海の安全を司る神様。


片輪(かたわ):身体の一部に障害があること。またはそれを持つ人に対する差別用

   語。現在は使われない言葉。


小西(こにし)の酒屋:江戸時代から続く老舗(しにせ)の酒屋の名前。愛宕小西(あたごこにし)や神田小西(かんだこにし)の

      ように、複数の店舗が存在し、それぞれが独自の歴史と特徴

      を持つ。


二升(にしょう)の切手:この場合の切手は現在の商品券の事を指す。


角樽(つのだる):樽(たる)の左右から突き出した把手(とって)に、持ち手の柄(え)を渡した酒容器。

   祝い事に用いられることが多い。


粗忽(そこつ):軽率(けいそつ)で不注意なこと。そそっかしいこと。それによるあやまち。


道楽者(どうらくもの):酒や色欲、博打(ばくち)などに熱中し、本業や責任を忘れる人のことを

    指す。


四(よ)つ手(で)駕籠(かご):四本の竹を四隅(しすみ)の柱とし、割り竹で簡単に編んで垂(た)れをつけ

      た駕籠(かご)。江戸時代、庶民用の簡素(かんそ)なもの。


文金(ぶんきん)の高島田(たかしまだ):昔から花嫁の髪型として選ばれた日本髪スタイルのことで

       、白無垢(しろむく)に合わせるのが定番。島田髷(しまだまげ)という高い位置に

       結(ゆ)われた髪型で、上品で清楚な印象を与えるのが特徴。


小紋縮緬(こもんちりめん):小紋柄(こもんがら)が染め出された縮緬生地(ちりめんきじ)のこと。

     縮緬(ちりめん)は、表面にシボと呼ばれる凹凸(おうとつ)のある織物(おりもの)で、柔らかく

     重厚感があり、着物や帯などに用いられる。

     小紋(こもん)は柄(がら)が全体に散らされた柄で、小紋縮緬(こもんちりめん)はその小紋柄(こもんがら)が

     縮緬生地(ちりめんきじ)に染め出されたもの。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。