落語声劇「文七元結」
落語声劇「文七元結」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約80分
必要演者数:最低6名
(6:0:0)
(4:2:0)
(0:0:6)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問も含まれます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
長兵衛:本所達磨横町の左官。腕はいいのだが博打にハマって義理の悪い
借金をこしらえてしまう。
文七:横山町は鼈甲問屋の手代。水戸屋敷からの集金の帰り、怪しげな男
にぶつかられた後、集金した金がないのに気づき、絶望して身投げ
しようとするが…。
お兼:長兵衛の妻。夫の博打好きのせいで借金に苦しんでいる。
お久:長兵衛の娘。父親の博打癖のせいで家が借金まみれなのを見かね
、吉原の佐野槌に自ら身売りをしようとする。
女将:吉原の佐野槌の女将。
義理人情に厚く、長兵衛に五十両を貸し、返済期限までは彼の娘の
お久を預かるだけにして客は取らせないと約束する。
藤助:佐野槌の番頭。
近江屋卯兵衛:横山町の鼈甲問屋の主。
平助:近江屋の番頭。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
長兵衛・酒屋:
文七:
お兼・女将:
お久:
近江屋・語り:
藤助・平助:
※枕は誰かが適宜兼ねてください。
枕:人というものは飲む、打つ、買うの三道楽のうち、どれか一つは
やると申します。しかしこの中で一番怖いのは打つ、つまり博打だそ
うです。あれは怖いもんですよ。
現代に生きる我々の身近にも、そういう話はごろごろ転がってて
ありふれてるんですが、給料が入るとすぐにギャンブルにつぎ込んで
、二週間もするとほぼオケラ状態なんというのが当たり前、
こういうのを耳にすると、そら恐ろしい心持ちになります。
しかも「今月の俺は来月の俺が助けてくれる」という、
ちょっと何言ってるか分からない話をされると、どう返事していいか
分からない。普通の感覚ではないという事だけは確かですな。
現代ではギャンブルも多様化し、競馬だの競輪だのパチンコだのと
色々ございますが、江戸時代ではサイコロを使った賭博が
主流でして、チョボイチ、丁半、大目小目などというものが大いに
流行ったそうです。
当たればデカいが外すとオケラの素寒貧、賽の目ひとつで身上を
無くしてしまうなんてことは、今も昔もそう変わりはないようで。
長兵衛:おぅい、おっかぁ。
いま帰ったぞ。
真っ暗じゃねぇか!灯りくれぇつけろやい。
こう、暗かったら鼻っ面ァ摘ままれてもしゃあねぇや!
……おぅ、お兼はいねえのか?
ちっ、いねえならいねえって返事しろィ!
お兼:いるよ!!
長兵衛:ぅおっ、びっくりした!
いるじゃねぇか!
お兼:また半纏一枚で帰ってきて!
細川様の屋敷で負けたんだろ!
長兵衛:うるせぇなあ、分かってるなら聞かなきゃいいだろ。
着物まで賭けに張っちまった。
まさか裸でも帰れめえってんで、この尻切り半纏貸してくれたん
だよ…って、半ベソかいてやがら。
おめェは泣いてるかふくれてるかどっちかだな。
それにうすっ暗くしやがって、こういう陰気くせえ所によくいら
れるな。
灯り入れたらどうなんだよ。
お兼:入れりゃいいじゃないか!
長兵衛:おめェが入れろよ。
お兼:油が無いよ!
長兵衛:買ってくりゃいいじゃねえか。
お兼:どこにお足があるってんだい!
博打ばっかりやってさ、負けて取られてばっかりいてさ!
長兵衛:ハナっから取られようと思って出かけてくんじゃねえんだ。
取ろうと思って、いくらかにしようと思って出かけるんだ。
それにみんなが取られてばっかりいるわけじゃねえ。
取ってる奴だってちゃんといるんだ。
俺もそっち側へまわりゃいいって話だ。
なにも博打で取られて帰ってきたからって、いちいち泣くんじゃ
ねえ!
そんなんだから付くものも付かねえんだよ!
丁とありゃ半、半とありゃ丁ってよ!
裏目裏目に出ちまうんだ!
お兼:なんの関係があるってんだい!
そんなんで泣いてんじゃないよ!大変なんだよ!
長兵衛:あ?何だよ大変だって。
お兼:お久がいなくなっちゃったんだよ!
長兵衛:どこ行ったんだよ。
お兼:知らないよ!
夕べから帰ってこないんだよ。
長兵衛:知らないってこたァねえだろ。
どこ行ったってんだよ。
お兼:分からないから困ってるんじゃないか!
長兵衛:分からねえって、んな所につっ立ってねえで
捜しに行きゃいいだろ。
お兼:捜したさ!
朝からずっと捜し歩いたけど、どこにもいないんだよ!
あたしだけじゃない、長屋の皆が手分けして捜してくれたんだ。
あの子の行きそうな所をそこらじゅうあたったんだけど、
どこにもいないんだよ!
どうしよう…!【泣きだす】
長兵衛:また泣きやがる…いちいちそうやって泣くんじゃねえよ!
大丈夫だって、心配する事はねえやな。
きっと好きな男でもできて、どっかにしけこんでんだろ。
こないだっからどうもおかしいとは思ってたんだ。
建具屋の半公が、お久に色目使ってたしな。
このぶんじゃ、あの二人はできてるかもしれねぇぞ。
お兼:あの子はそんなふしだらな子じゃないよ!
よしんば男ができたってね、親のあたしに何も言わずに家をあける
ような事はしやしない!
長兵衛:バカなこと言ってやがる。
男をこさえるのに、いちいち親に断ってからこさえる奴があるか
。
日陰の豆だってはじける時分にゃはじけるってもんだ。
お兼:なに気の利いたこと言ったつもりになってんのさ!
きっと、とうとう家を出てって行っちまったんだよ。
長兵衛:家を出た?
なんかこの家に不足でもあるってのか?
お兼:何を言ってんだい!あるに決まってるじゃないか!
お前さんに愛想をつかしたんだよ!
長兵衛:俺に?
お兼:あの子は今年で十七、年頃だよ!?
綺麗な着物を着てみたい、紅のひとつも差してみたいって思うのは
当然じゃないか!あの子のなりをごらんよ!
年がら年中、わかめの行列みたいなおんぼろにくるんどいてさ!
かわいそうだと思わないのかい!?
なのにお前さんは着物や帯はおろか、かんざし一本買ってやるわけ
じゃない!
博打ばっかりやって、酒呑んでうち帰って来て暴れて、
あの子を怒鳴ったり、あたしをぶったり蹴ったりなんかしてさ!
そんなのが毎日毎日のべつに続いたら、嫌になっちまわない方が
おかしいんだよ!
長兵衛:うるせぇな、なに言ってやがんでぇ。
そんな事で出てったってのかよ。
お兼:そうに違いないさ!
いたたまれなくなって、親にもこの世にも愛想つかして出てって…
もし身投げでもしたらどうしよう…!
長兵衛:縁起でもねえこと言うんじゃねえよ。
お兼:そんな事になったらね、あたしはこんな家にいないよ!
長兵衛:この野郎ォ…ああそうかい!
出てけ出てけ!
誰がいてくれって頼むかい!
おめえが出ていきゃ、俺も出てくんだ!
お兼:あたしが出てって、お前さんが出てって、
それでどこに行くってんだい!
長兵衛:よそで所帯持つんだよ。
お兼:お前さんって人は…本当になに言ってもわかんないんだね…!
長兵衛:うるせぇこの野郎ッ!
藤助:こんばんわ!
長兵衛:【何事もなかったように】
はい!
…誰か来たぞ。
おめぇはどこか隠れてろ。そんな汚ねぇ泣きっ面見せるんじゃね
えよ。
誰だい?
しまりはしてねえから、用があるなら開けて入って来てくれ!
藤助:こんばんわ、ごめんください。
…どうも親方、しばらくでございました。
長兵衛:え?
あぁぁ!これァどうも!
しばらくでござんしたねェ!
…誰でしたっけ?
藤助:ははは…これは恐れ入りました。
お見忘れでござんすか?
佐野槌の藤助でござんすよ。
長兵衛:あ、【ポンと手を叩いて】
違えねぇ、そうそう藤助さんだよ。
声まで忘れちまって、面目ねえ。
にしても…太ったねぇ。
ああ、こちら吉原の佐野槌の番頭さんだ。
大変に世話になってるんだ。
いやァしばらくでござんした!
まま、よくこんな汚ねえところへおいでになりやした。
それで、何かご用でござんすか?
藤助:ええ、うちの女将さんが親方においでを願いたいと、
こういう話なんです。
長兵衛:あー…、女将さんがね。
えぇ分かってるんですよ。
蔵の仕事がやりかけになっちまってる。気にはしてるんですが、
こっちもなんだかんだと色々ありやしてね。
今やってる仕事が一日二日でもって片が付きますんで、
二、三日したら必ずうかがいますと、藤助さんから女将さんに
そう伝えといておくんなせェ。
藤助:それがあの、今すぐにおいでを願いたいと、
こう言ってるんですが。
長兵衛:あー…今すぐでござんすか…弱っちゃったなぁどうも。
実はね、ちょいと取り込み事がありやしてね。
藤助:その取り込み事てのは、お久ちゃんの事じゃございませんか?
長兵衛:え?よく知ってやすね。
いつお耳に入ったんで?
藤助:そりゃああんな大きな声でわあわあわあわあ騒いでたらね、
聞くなったって聞こえますよ。
それで、うちの女将さんのご用と言うのも、その事なんでして。
お久ちゃんが昨晩、店の方へお見えになって、
そのまま泊ってるんで。
長兵衛:…え、佐野槌さんに!?
おいおっかぁ、冗談じゃねえな。
油断も隙もねえ、物騒な世の中だよ。
で、誰です?どんな野郎が連れ込んだんで!?
藤助:いえ、お一人でお見えになってるんで。
長兵衛:え、一人で?
藤助:はい、女将さんとずいぶん長いこと話し込まれてました。
それで、今日になってから親方を呼びに行くよう使いに出されたん
ですが、ほかの用を足しておりましたら遅くなりまして。
こんな遅い刻限で申し訳ありませんが、何とぞご同道いただけたら
と。
長兵衛:そうですか!
おい、お久のやつ、佐野槌さんとこへ行っちまってるんだとよ。
お兼:あぁ…見つかって良かったよ。
どうもわざわざ、ありがとうございます。
お前さん、すぐに迎えに行っとくれ。
長兵衛:いやぁよかった、本当にありがとうございます。
本当にもうね、ほうぼう捜しまわってたんですよ。
おいおっかあ、良かったな、居所が分かって。
お兼:何のんきなこと言ってんだい。
あたしも行きたいけど、女が行けるところじゃないから…
お前さん頼むよ、早く迎えに行っとくれ。
ぐずぐずぐずぐずしてないでさ。
長兵衛:なに言ってやがんでぇ。
こんな尻切り半纏一枚に下がふんどし一丁、
こんな格好でもって吉原歩けるわけがねえだろ。
お兼:そんな事言ったって、それしかないんだからしょうがないじゃないか。
恰好がいいよ、お前さん。
長兵衛:バカ野郎。
こんな格好のまま表を歩いてみろ。
細川様の屋敷で博打に負けたんです、って看板ぶら下げて、
自分から広めて歩いてるようなもんじゃねえか。
吉原なんざ見栄の場所だってのに、みっともなくてしょうがねえ。
ましてや佐野槌の女将さんにはな…ちょいと具合が悪いんだよ。
だからよそ行きの着物出せ。
お兼:よそ行き…って、どうかしちまったのかね、この人は。
家にはもう何もないよ!
ぜんぶ質に入れちまってるんだから!
長兵衛:え、ねえのかよ。
お兼:ねえのかよじゃないよ!
何から何までありゃしないよ!
長兵衛:しょうがねえなあ…。
じゃ、おめえの着物貸せよ。
お兼:ハァ?なに言ってんだい、冗談じゃないよ!
女物の着物を、男のお前さんが着て歩くってのかい?
八つ口だってあいてんだよ?
長兵衛:あいてたっていいだろうが。
いいんだよなんだって。尻切り半纏よりゃマシだ。
こうやって腕組んで歩きゃいいんだから、かまわねえよ!
だから脱げ。
お兼:嫌だよ!
これ、着てるから着物に見えるけど、脱いだらボロなんだから。
どこもかしこも継ぎだらけで、どれがもとの生地なんだか分かりゃ
しない!
こないだなんか、あんまり継ぎが多いもんだから陰で、
東海道五十三次って、そう言われてたんだからね!
長兵衛:なに言ってやんでェ、ちっとも上手くねえやな。
いいから早くしろィ!
お兼:じゃああたしはどうするんだい!
これ脱いじゃったら着るものが無いんだよ!?
長兵衛:俺の尻切り半纏、貸してやるよ。
お兼:半纏って…あたしは胴が長いんだよ。
着たってへそまでしかないじゃないか!
長屋のはばかり行く時どうすんだい!
長兵衛:しょうがねえな…。
じゃあ俺が畳上げて床板剥がしとくから、そこにしな。
あとに砂かけときゃ分かりゃしねえよ。
お兼:あたしは猫じゃないよ!
長兵衛:ごちゃごちゃうるせぇな!
いいから貸せってんだよ!
っ藤助さん、先に戻ってくだせえ。
あっしもおっつけ後から参りますんで!
藤助:そうですか?
分かりました、では…。
長兵衛:あ、どぶ板跳ねますんで、気を付けて!
…っバカ野郎。
おめえ、藤助さんの前でみっともねえ真似するんじゃねえよ。
お兼:着物貸すのは嫌だって、そう言ってるだけじゃないか!
長兵衛:~~ぐずぐずぐずぐず言うんじゃーー
お兼:言うよ!
だってその尻切り半纏着ちゃったら、下はどうすんだい!
長兵衛:腰巻まいてんだろ。
お兼:してたらこんな事言いやしないよ!
長兵衛:え、おめえ…腰巻ねえのか…?
それじゃ、下は生まれたまんまなのかよ…?
お兼:なに言ってんだい!
もう忘れちまったのかい!?
五日ほど前だよ、博打に取られて真っ昼間から帰ってきやがってさ
、「おっかあ、うちに何か質草ねえか」って聞くから、
何にもありゃしないよって言ったら、いきなりあたしをバーンと
押し倒した。
久しぶりだったからあたしは嬉しかったよ。
お前さん、そんな慌てんじゃないよ。いま戸締りするから、
って言ったら、「バカ野郎、勘違いすんな」って、
腰巻外して質屋に持ってっちまったじゃないか!
長兵衛:あぁ…そうだったっけか?
自分で持ってってアレだけどよ、…買う奴いるのかね?
お兼:知らないよ!
あれからあたしはね、スカスカスカスカしてしょうがないんだ!
そんな尻切り半纏なんか着れるもんか!
長兵衛:うるせえなぁバカ野郎!
いいから貸しねェ!
お兼:だから、貸したあとあたしはどうすんだい!
主にへそから下!
長兵衛:…じゃあしょうがねえ、この風呂敷を代わりに巻いとけ。
お兼:嫌だよそんなの!
それにその風呂敷、紋が付いてるじゃないか。
長兵衛:いいじゃねえか。
紋付の腰巻ってなもんだ、贅沢じゃねえか。
いいから、向こうあんまり待たせちゃなんねえ。
早く脱げ!
お兼:~~~わかったよ……。
【二拍】
ほら!
長兵衛:おう。
【二拍】
よし、行ってくる。
【二拍】
藤助:親方。
長兵衛:!?おぅなんだい、待ってたんですかい?
藤助:ええまぁ。
親方、面白い格好してますね。
この辺じゃそう言うのが流行ってるんで?
長兵衛:いやいや、バカ言っちゃいけやせんよ。
藤助:…羽織、貸しましょうか?
長兵衛:えっ、いいんですかい?
助かるなぁ。
藤助:いえいえ、では参りましょうか。
【三拍】
さ、どうぞ。
女将さん、達磨横町の親方をお連れ申しました。
女将:あぁ、分かったよ。
一人だけ残って、あとはみんな下がっとくれ。
【二拍】
どうぞ。
長兵衛:…ごめんなすって。
どうも、ご無沙汰して申し訳ありやせん。
貧乏暇なしというやつでして…。
ご当家もご繫盛で何よりで。
女将:あぁありがとう、おかげさまでなんとかなっててね。
無沙汰は無事のたより、気にしないでおくれ。
それよりすまないね、呼び立てちまって。
親方も元気でやってるかい…と言いたいところだけど、
あんまり顔色もさえないし、なんだかボロがうずくまってるみたい
な…、まぁお前さんの暮らしの事はいいや。
…この子は知ってるよね?
長兵衛:え、ええ、知ってるも何も…、うちの娘ですからね。
まったく見世のほうへ押しかけて…礼儀も何も知らねえ、
本当にガキと同じですよ。
【お久ヘ向かって】
ッこのバカ野郎、何でこちらさんにうかがったりしてんだよ。
ご迷惑じゃねえか。
行くなら行くって、なぜ一言おっかあに言わねえんだ。
字が書けねえわけじゃあるめぇし、紙切れにでも書いておけって
んだ。
おっかあは気違いになって騒いで心配してたんだぞ。
俺だって寝らんねえよ。
長屋じゅうだって蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
だいいちな、そんななりで来るやつがあるか。
こういうとこへ来る時はな、箪笥の奥にある良いのを
着てこいって、普段からそう言ってるじゃねえか。
女将:なんだい親方、いきなりポンポンポンポン小言を言ってさ。
お前さんの方こそ、箪笥の奥の良いのを着てくりゃ良かったじゃな
いか。
だいたいなんだいその着物は。
八つ口あいてるってことは、女房のだろ?
いくら出入りの者だからって、そんな恰好でこういう所へ来る人が
あるかい。
それにその羽織、藤助のだろ?
長兵衛:え、いやまぁ…ええ、そうですけど。
いや、実はこの着物、気に入ってるやつなんで…。
【お久に向かって】
おい、何のんきにそんなとこに座ってんだ。
ぐずぐずぐずぐずしてねえで、帰るんだよ!
ったくしょうがねえな!
女将:だから小言を言うんじゃないよ!
親方、この子に小言を言うと…お前さん、バチが当たるよ。
長兵衛:いやいや、とんでもねえ。
こんなガキはーー
女将:【↑の語尾に喰い気味に】
そうじゃないよ。
こんないい子はありゃしないよ、ええ?
夕べ…中引けちょいと前だったかね。
この子があたしに会いに来たんだよ。
お久:本所達磨横町、左官の長兵衛の娘、
お久でございます。
女将:そう言われてびっくりしたね。
お前さんがうちへ仕事に来ている時分、ちょくちょく弁当を届けに
来ていたあのチビが、こんなに大きくなっちゃったんだもの。
まあ大きくなって、でもこんな刻限にいったい何の用だいって
聞いたら、
お久:親の恥をしのんで話さなければなりません…。
おとっつぁんは近頃、仕事もしないで博打ばかりしておりまして、
取られて帰ってくるとおっかさんをぶったり蹴ったりいたします。
黙ってそれを見ているわけにはいきませんが、私の力じゃどうにも
なりませんし、のべつに別れるだの、所帯をしまうだのと言い出さ
れると心配でなりません。
以前はそんなことは無かったんですけど、博打を始めてから
おとっつぁんは、急に人が変わったようになってしまいました。
なんとかしてまた仕事を始めてもらおうと、こないだおっかさんに
話をしたんです。
そしたら、義理の悪い借金を返さなきゃおとっつぁんは仕事を始め
る事ができないんだって聞かされました。
そこで女将さんにお願いでございます。
こんなお多福でも良ければ、どうか私を買って下さいまし。
そしてそのお金でおとっつぁんが借金を返して、
また仕事に精を出すことができるように、
おっかさんと仲良くするように、
女将さんからよく意見をしてくださいまし…!
女将:そうやって涙ながらに手をついて頼むんだよ?
あたしももらい泣きしちまったよ。
だらしのない親の為に苦界へ身を沈めて、
そのお金でお前さんをまっとうにしようってんだよ?
あたしはしょせん女郎屋の女将、お前さんは堅気の親方だ。
意見するなんて出過ぎた真似だと思うだろうけど、
長年の付き合いに免じて言わせてもらうよ。
昔から言うだろ、
「酒も呑みなよ博打も打ちな、たんと稼いだ端だけ」ってさ。
はした金で遊ぶには構わないんだよ。
女房子供に泣きを見せるような遊びをして、それで亭主なのかい?
親方なのかい?蜂の頭なのかい?
長兵衛さん、この子にああいう事言わせて、
恥ずかしいとは思わないのかい?
長兵衛:【ぶつぶつ言う】
…だからあっしァ女のガキは嫌いだってんですよ…。
家の事ぺらぺらぺらぺら喋ってやがる…このバカ。
女将:やかましいね!
小言を言うんじゃないってんだよ!!
こんな親孝行の娘がいて、働き者の女房がいてさ、
何が不足でお前さん博打なんぞしてんだい?
腕が無いってんならまだしも、コテを持たせたらお前さんの右に
出る者はこの江戸にいないって、仲間がみんな褒めてるじゃないか
。
「見ねえ、この蔵はあの長兵衛が塗った漆喰だ。
だからいざって時にこの蔵にゃ、目塗りはいらねえよ」って。
そういう言葉を小耳にはさむたびに、あたしはどれほど鼻が高かっ
たか知れやしないよ。
そんないい腕を持っていながらさ、
何だって女房子供に嘆きをかけながら博打打つんだい、え?
それで生計たてようってのかい?
博打で蔵建てたって話はいまだに聞かないけどね!
…ちょいと、長兵衛さん、黙ってちゃ分からないよ。
何とか言ったらどうなんだい!
長兵衛:……。
……どうも、相すいませんで…、
本当に、面目次第もありやせん…。
…あっしもね、こんなんなるとは思ってもいなかったんで。
女将さんも知っての通り、あっしは博打なんてものは、
ガキの頃からこれっぱかりもやったことがなかった。
それが、ある時ちょいと付き合いで手ェ出したやつが面白くて…
夢中になってしまいやしたね。
女房や娘に、帯の一本も下駄の一つも何とかしてやりてえと、
そう思ってるところに細川様の屋敷の中間部屋のぞいたら、
ガラポンの真っ最中だ。
盆の周りは銭の山、一つ目と出てあの銭が残らずあっしのものに
なりゃ、かかぁと娘にうわっと喜ぶほど買ってやれると思って、
ちょいと手を出したがつまづきのもとで。
取られたやつを取り返そうと、深みにハマっちまったんでござん
す。
気が付いたら、命の次に大事な商売道具のコテまで、
質に入れちまってて…。
今にひとつ大きく当たったら、そん時にはすっぱり足を洗って、
女房と娘に綺麗な着物の一枚でも買ってやりてえと思ってるんで
すが、義理の悪い借金のせいでもう、にっちもさっちもいかなく
なっちまって…。
面目ありやせん…。
女将:…困ったね。
それじゃお前さん、きりが無いよ。
借金を返して、仕事に精を出したいという気にはならないのかい?
長兵衛:ッそれは、そうしてえと思ってるんですが…、
商売道具も質のかたに取られちまってて…
受け出す銭すらねえんです。
女将:じゃあ、商売道具を受け出して、借金を返していけるんなら
仕事を始めるんだね?
長兵衛:え、ええ、そりゃまぁ、そうしてえと思ってるんですよ。
女将:いくらあればいいんだい?
長兵衛:…そうですね…博打の借りを払って、あちこちの借金を返して、
質屋から道具箱だのなんだかんだ受け出して…、
女将:細かいところはいいんだよ。
まとめるとどれくらいになるんだい?
長兵衛:まぁ…四十五、六両あれば何とかなるんでござんす。
女将:ずいぶんこさえたね…。
なら五十両もあれば何とかなるんだね?
長兵衛:え、ええ、五十両ありゃ御の字なんで。
女将:そうかい。
じゃあその五十両、あたしが貸してあげようじゃないか。
長兵衛:えっ!女将さんが!?
い、いいんですか…!?
あ、ありがとうございやす!お願いしやす!
そうしていただけたら助かるんです!
この通りでござんす!
女将:それで、いつ返してくれるんだい?
長兵衛:そうですね…正月七草までには返しやす。
女将:…お前さんね、いま年の暮れだよ?
この暮れに来て、五十両の金を借りて、
正月七草までに返せるわけがないじゃないか。
そんないい加減な事を言わないで、本当に返せると思う時期を
言ってごらん。
いつだい?
長兵衛:ええ、あの…なるたけ早く返しにあがりてえんですが、
三、四月…だとちょいと苦しいんで。
五、六月…来年のお盆までには何とかなると思うんです。
女将:何とかなるってのは心細いねえ。
はっきり返してもらえるのかね?
長兵衛:ええ、それはもう、きちっとお返しにあがります。
女将:…そうかい。
じゃあこっちも大負けに負けようじゃないか。
二年だ。再来年の大晦日まで待ってあげよう。
お前さんの腕だったら返せるだろ?むこう二年あるんだからさ。
そりゃいっぺんに返そうと思えば大変だけど、ある時に少しずつ
入れていけばいいさ。
お前さんの腕だったら、その気になりゃ五十両は必ず返せるさ。
けれどその気にならなきゃ話は別だよ。
それでいいかい?
長兵衛:あ、ありがとうございやす!
女将:その代わり、ただでは貸せないよ。
長兵衛:ってえと、どういう…?
女将:と言って、証文をお前さんから貰ったってしょうがないし…。
どうだろう、あたしがこの子を預かるってのはどうだい?
長兵衛:え、お久を…ですか?
女将:そうさ。
不人情な事を言うようだけどね、
今のお前さんにはとてもおっかなくて、五十両の金なんか貸せない
。
まとまった金を手にした途端、今まで取られた口惜しさでもって
カーッとなって、また博打に手を出しちまったらもう何にもなりゃ
しない。
だから人質ってわけでもないけど、この子を預からせとくれ。
ただし、心配はしないでおくれ。
見世に出そうってわけじゃないんだよ。
あたしの側に置いといて、身の周りの世話をしてもらうんだ。
それに、どこに出しても、嫁にやっても恥ずかしくないように、
色んなお稽古事させて、一通りの事は仕込んであげるよ。
長兵衛:そこまでしていただいて…わかりやした。
それじゃ、そういう風にお願いいたしやす。
女将:わかったよ。
それじゃ、ちょいと待っといて。
【二拍】
さ、お久ちゃん。
これをおとっつぁんのところへ持ってっておあげ。
お久:は、はい…。
おとっつぁん、女将さんからこれ…。
長兵衛:ぉ、おう…わかったよ。
女将:よく数えておくれ。
お金の事だからね、後で足りなかったなんて言われんのは
嫌だからね。
…どうだい?
長兵衛:へ、へい…たしかに五十両ありやす。
女将:うん、それならいいよ。入れるものはあるかい?
長兵衛:それが、あいにくと…。
女将:ならちょっとお待ち。
ここに財布があるから、これを使うといいよ。
死んだ家の人が気に入ってた羽織の
残り布でこしらえたんだ。
その財布見るたびに思い出しな。
家の人が自分に小言ついてるんだって。
長兵衛:へいっ…ありがとうございやす。
必ずお返しにあがりやすから。
女将:いいかい、再来年の十二月三十一日の大晦日、
浅草弁天山の除夜の鐘が百八ツ、
それが鳴り終わるまでに五十両、耳をそろえて持っておいで。
半紙一畳、鰹節一本付けることはないからね。
ただし、一日でも過ぎるとあたしは鬼になるよ。
煮て食おうと焼いて食おうとこっちの勝手だからね。
この子を女郎にして見世に出すよ。
出せば出したでこんな器量よしだ、すぐに売れっ子になるだろうさ。
けれど、なればなったでお前さんも男だ。
承知だろうけども、もしも目に光を失い、鼻が落ち、腰が抜ける、
そんな悪い病を背負う事になったら、生きて大門は出られない。
その時にあたしを恨んでくれちゃ困るよ。
それが嫌だったら、この子が可哀想だと思うなら、
一生懸命に稼いで、必ず引き取りに来なくちゃならないよ。
長兵衛:へいっ…必ず、そういたしやす。
ご迷惑をおかけして、相すいやせん…!
女将:ちゃんと礼を言って持って行きな。
長兵衛:へい。
女将さん、ありがとうございやす…!
女将:あたしにじゃないよ!
この子にお礼を言うんだよ。
長兵衛:えっ、自分のガキにですか…?
女将:あのね、いくらお前さんの娘だって言ったってね、
この子のおかげでお金を借りられたんじゃないか。
ひとこと礼を言うのは当たり前だろ。
言えないのかい?
長兵衛:えぇ…いや、あんまり娘に礼を言い慣れてねえもんで…、
【ぶちぶち言う】
ちえっ、なんだな…礼なんて、親子の間で水くせえ…嫌だな…。
親の恥をべらべらとよぅ…
女将:【↑の語尾に喰い気味に】
なにをぐじぐじぐじぐじ言ってんだい!?
嫌なら嫌でいいんだよ。
その金をこっちへ返しとくれ。
長兵衛:ぇっぃいやいや分かりました。言います、言いますよ…。
どうも…このたびは、とんだことでーー
女将:な、なにを言ってるんだい。
そんな礼の言い方があるかい!
長兵衛:ぁあいや、その、ほんとに言い慣れてねえもんで…。
ぉ…お久…その…なんだ、…すまねえ。
おとっつぁんがバカなばっかりに、おめえに苦労をかけて…
ほんとうに面目ねえ。
あのな…おとっつぁん…もう金輪際、博打はしねえよ。
しばらくの間の辛抱だからな。
女将さんのそばで何でも言う事を聞いて、
一生懸命ご用を足すんだぞ。
女将さん以外の人の言う事もな、何を言われても
はい、はい、って、可愛がられなくちゃいけねえぞ。
それからな、女郎の中に意地の悪いのがいて、
おめえの事をいじめにかかってくるのがいるかもしれねえが、
なに言われても怒っちゃいけねえぞ。
パーンとやられるかもしれねえが、そん時ゃパッと手を取って、
「お手は痛くございませんか、怪我はしませんか」くらいの事を
言ってやるんだ。
何事も逆らわねえで、ニコニコニコニコ笑ってりゃいいんだ。
おとっつぁん、一生懸命稼いでおめえを迎えに来るからな。
再来年の大晦日なんて言わねえ、一日でも早く五十両稼いで、
こちらにお返ししてよ、おめえを連れ戻せたら、
後はどうなってもいいやな。
それこそ糞ゥくらえだ。
女将:…長兵衛さん、それ、誰の前で言ってんだい。
長兵衛:あ、いぃやいやその、
あっしとお久の内緒話でござんすよ、ええ。
女将:その真ん中にあたしがいるんだけどね。
聞くなったって聞こえるじゃないか。
まあ、お前さんの事だ、あたしは咎めやしない。
長兵衛さん、きちっと左官の仕事をして、博打は止めて、
おかみさんを大事にするんだよ。
お久:おとっつぁん、わたしの事は心配しないで。
それより決してそのお金を博打に使わないでね。
おっかさんが癪を起こしたりしたら、おとっつぁんが世話して
下さいね。
体も弱いから、ケンカなんかしてきつくぶったり蹴ったりされると
おっかさんには本当に堪えるから、くれぐれも仲良くして下さい。
長兵衛:~~分かってる、分かってるよ。
そんなに言わなくたって大丈夫だよ。
おとっつぁんだってな、なにもおっかぁの事が嫌いで叩いたりし
たわけじゃねえんだ。
博打で取られて当たるとこも無くて、
ついむしゃくしゃしちまってな。
博打はもう金輪際やらねえって決めたんだから、
もうおっかぁに手を上げたりする事もねえ。
だから心配するな、大丈夫だよ。
お久:ぐすっ…きっとですよ…?
長兵衛:泣くんじゃねえよ…本当に…しょうがねえな…。
っへへ、女将さん…てめえのガキにこんなこと言われるように
なっちゃ、もうおしまいでござんすよ…。
女将:ほんとだよ、お久ちゃんの言う通りだよ。
それじゃ、家で女房が心配して帰りを待ってるんだろ?
早く帰っておやり。
くれぐれも金を落とさないように気を付けるんだよ。
長兵衛:へ、へいっ。
女将:いいかい、必ずお久ちゃんを迎えに来ておくれよ。
長兵衛:へいっ。
…それじゃ女将さん、
どうかお久を、うちの娘を、よろしくお願いしやす…!
女将:あぁ、心配はいらないよ。
それと羽織、ちゃんと返してお行き。
長兵衛:あぁ羽織ね!そうだそうだ…違ぇねぇ…!
藤助:いや親方、大門出るまで着ていかれたら…
長兵衛:あぁいい、いいんですよ。
ここまでくりゃこっちのもんだ。
恥のかきついでってやつで!
それじゃ、よろしくお頼みしやす…!
語り:かくして長兵衛、五十両の金を懐にしっかりとしまい込んで大門を
出ました。
衣紋坂から見返り柳へかかってきて土手八丁、
左が山谷堀で右が吉原田んぼ、その頃は正直蕎麦屋というのがあっ
たそうで。「正直の 屋根の向こうに 嘘が見え」という川柳に
それが現れております。
土手の道哲砂利場からやがて大川へぶつかる。
土手へ右に切れます左は向島、三囲が見えたかどうだか。
金竜山下瓦町、待乳山聖天が五重の塔を右に見て、
山の宿から花川戸を左へ曲がると吾妻橋へ差し掛かりました。
長兵衛:【鼻をすすっている】
お久ぁ…勘弁してくれよ…。
おとっつぁんはもう、博打とはすっぱり縁を切るからな…。
…へっ、子供だ子供だと思ってたけどよ、いつの間にか立派に
なりやがって…。
ぐすっ…もう、ほんとに…しょうがねえやな…。
情けねえことになっちまってよう…
やけにまた風が沁みるじゃねえかよ…。
…ん?なんだありゃ…ってまさか、身投げか!?
【駆け寄りながら】
おいッ待ちなッッこんちきしょうッッ!!!
欄干に足掛けやがって、危ねえじゃねえか!!
ッ早まるんじゃっ、ねえッ!!
文七:!?あッお願いでございます!
どうか、その手をお放しください!
長兵衛:じょっ、冗談言っちゃいけねえバカ野郎ッ!
ッ何をしてんだ、だっダメだ!その手を放せ!
文七:お放しください!放してくださいッ!
死ななきゃならないわけがあるんですッ!!
長兵衛:おめェが放せ!放せって!
ッ放せってんだこんちきしょうッ!
文七:い、痛ッッ!
な、何をなさるんです!乱暴じゃありませんか!
怪我でもしたらどうするんです!?
長兵衛:ハァ!?なに言ってやんでェ!
川に飛び込みゃ、命がなくなるんだぞ!
怪我もへったくれもあるかィ!
痛えのは結構じゃねえか!
ったく……ああびっくりした。
何でぇおめェは!
……なりのこしらえからして、どこぞのお店のモンだろ。
腰に矢立を差してやがるからな。
さしずめ、店の使いに行ったんだろ。
畳んだ前掛けが、懐からのぞいてらァ。
てぇことは、売り掛けかなんか取りに行って、
その金を使い込んだから申し訳ねえってんで、この真っ暗な中に
吉原の空だけがぼんやり明るく映ってる、この景色を冥土の土産
にして、ドカンボコンと飛び込もうってとこだろ!
で、何に使ったんだ?
吉原で女郎買いか?
それとも博打か?
…博打は…いけねえぞ、な?
んな事やってっと、ロクな事はねえぞ。
で、どっちだい?
文七:…っそ、そんなんじゃないんでございます…!
長兵衛:え…じゃあなんだい?
文七:ぐすっ……いいんです…!!
長兵衛:なっ、いいんですって、そんな言い草はねえじゃねえか!
俺だっておめえの事を止めちまったんだよ?
このままうっちゃっていくわけにはいかねえんだい!
形がつかねえよそれじゃあ!
な、わけを言ってみねえ。話してみなよ。聞こうじゃねえか。
若えうちはな、何かあるってぇとすぐに死ななきゃならねえと
思い込んじまうんだ。
よぉく考えりゃあな、他に道はあるもんだよ。
一人で抱え込んでると、どうしても死ぬって方向に行っちまうん
だ。
俺が一緒に考えて、他の道を見つけてやろうじゃねえか。
わけを聞いて、なるほどこれはどうしても死ななきゃなんねえと
思ったら、俺ァもう余計な事は言わねえよ。
身投げの手伝いしてやるから。
おめえの事を川へおっ放り込んでやっからよ。
話してみろィ!
文七:う…うぅっ…あたくしは…横山町の鼈甲問屋、
大宮の手代でございます。
今日、小梅の水戸様のお屋敷へ、売り掛けをいただきに参ったんで
す。
その帰り…枕橋のところです。
人相風体の良くない男にドーンと突き当たられましたので。
ああいう男が人の懐を狙うもんだから気を付けなければと、
急いで確かめたんですが…その時にはもう、遅かったんでございま
す…。
長兵衛:やられちまったのか…そりゃあ、向こうは商売だからな。
で、いくらやられたんだ?
文七:ぐすっ…五十両でございます…。
長兵衛:五十両ォ!?
…他人事じゃねえぜおい…。
大金を持って歩いてる時にぼんやりしちゃダメだろ、間抜け。
江戸ってのはな、生き馬の目を抜くようなとこなんだ。
こうやって、へその上にグッと捻じ込んで、
しっかり押さえて歩かなきゃよ。
スリにやられたんじゃ、金は出て来ねえぞ。
文七:ですからあたくし、ご主人への申しわけの為に
身を投げて死ぬんです…!
お見逃し下さい、お見逃し下さい…!
長兵衛:ちょちょちょ待て待て、待ちなよ!
そうは言うけどな、なにも死ぬことはねえよ。
おめえのご主人てのは何かい、ガリガリ亡者か?
文七:な、なんですそれは?
長兵衛:だから、話の分からねえ業突く張りかって聞いてんだよ!
文七:いいえ、話のよく分かる、優しい旦那様でございます…。
長兵衛:だったらいいじゃねえか。
これからまっすぐ店へ帰ってよ、
ご主人様にこれこれこういうわけですって、正直に話すんだよ。
おめえみたいな若えのに、五十両なんて掛け取り任せるような
とこだ。チャチな店じゃあるめぇ。
女郎買いで使ったとか、博打で取られたとか、
そういうわけじゃねえんだ。スリにやられたってんだから。
おめえが今まで正直にやっていたんなら、必ず許してくれるよ。
それでもおめえの気が済まねえんだったら、まだ若えんだ。
これから先、何年かかったっていいじゃねえか。
五十両稼いで返しゃいいんだよ。
そりゃいっぺんに返そうと思や大変だからな、
ある時に少しずつ入れていきゃ、そのうちちゃんと返せるんだ。
その方がいいよ、そうしな。
文七:へ、へい…ご親切にありがとうございました…。
どうぞ、あちらにいらしてくださいまし…。
長兵衛:そうかい、わかったんだな?
飛び込んで死んじまったらつまらねえぞ。
死んで花実は咲かねえんだ。
この浮世はな、生きていたくたって生きていけねえ人が
いくらもあるんだからな。
まだおめえなんざ、先があるんだからな。
死ぬなよ?
文七:……死にません。
長兵衛:そうかい。じゃ、俺は行くから早く帰れよ。
きっと心配しているぞ。
いいなーーってッ待てこの野郎ォッ!こんちきしょうッ!
【再度身投げしようとした文七を抱きとめる】
死なねえって言ったじゃねえか、てめえは!
なんでまた飛び込もうとするんだよ!
文七:【泣きながら】
お願いでございます!どうぞ、死なして下さいまし!
助けると思って殺して下さいまし!
長兵衛:なんだこの野郎。
助けたり殺したり…そんな難しい事はできねえよ俺には!
ほんっとに…バカ野郎が、いま話をしてやったじゃねえか!
死んだってしょうがねえぞ。
おめえが死んだからって金が出てくるってわけじゃねえんだから
、よしなよ。
文七:【グスグス言いながら】
ですから…あたくしも、子供の使いじゃないんですから、
店の大事なお金、それも五十両という大金を盗られたからには、
このままおめおめと店へ帰ることはできません…。
長兵衛:できませんったってな…どうにかして五十両の都合がつかねえの
かい?
文七:そんな大金…できるわけがございません…。
長兵衛:いや、おめえにできなくてもよ、親のとこ行くとか、
叔父さんとか叔母さんとかいねえのかい?
文七:【グスグス言いながら】
いえ…あっしに身寄りはないんです…。
長兵衛:なに、いねえのか…。
じゃあ友達はどうなんだい?
文七:【グスグス言いながら】
友達も、いないんです…。
長兵衛:うーむ、さっぱりしちゃってんだねぇおめえは。
~~弱ったなぁこれァ。どうしたもんかね。
文七:【グスグス言いながら】
もう…もう結構でございます。
どうぞ、どうぞお通り下さいまし…。
長兵衛:お通り下さいったってな、俺がむこうへ行っちまえば、
おめえまた飛び込もうってんだろ。
文七:いえ…いえ、本当にもうあたくし、死にませんですから。
長兵衛:死なねえ?そうか?
だったらいいんだよ。
俺もちょいと急いでいるんだからさ、早く行きてえんだよ。
だからおめえ、帰りなよ?
本当に死なねえな?
文七:……はい…。
長兵衛:…。
【溜息つきながら】
あー、ちょっと待て。
顔見せろ顔、え?
顔を見せろってんだよ!
…ダメだこりゃ、嘘をついて死ぬ気になってやがる。
…死のうってんだろ!えぇ!?
文七:【涙声】
ぐすっ…お見逃し下さい…!
長兵衛:見逃せねえから弱ってんだよ!本当に……。
……よし、分かった!
死ねィこんちくしょう!
俺の話が、俺の言う事がそうまで分からねえってんならな、
死んだ方がいいよ!
ここで生きて商人になったってロクなもんにならねえや、
そう話が分からねえんじゃあな、うん。
だから死にな。死んだ方がいいよ。
その代わりな、俺の見ている前でドボンと飛び込まれんのは
嫌だからよ、こうしてくれや。
俺が、これからずーっと橋を渡って向こうへ行くよな?
んで、先の方へ行って横町を二つ三つ曲がる。
うんと向こうの方へ行ったら、それから飛び込むんだ。
背中でもってドカンボコンなんて音なんざ、聞きたくねえんだ。
分かったか!?そうしろよ!!?
っとにもう…冗談じゃねえよ…。
いいか?
俺がいなくなるまで…しばらく待てよ!
こんちきしょう、冗談じゃーーって、
まだ俺がここにいるじゃねえかこの野郎ォ!
【再々度文七を抱きとめる】
…弱ったなァおい……そんなに死にてぇのか?
悪い所へ通りかかっちまったなぁ…誰か来ねえかな?
譲るよ俺ァ…しょうがねえなぁ…。
おめえ…本当に盗られたのか?
思い違いってこともあるんだから、もっぺん懐の中を
ズーッとよく探してみな。
ぼんやりしちまって、しょうがねえな…。
背中の方に埋まってたりしねえのかい?
【二拍】
文七:…やっぱり、ありません…。
長兵衛:そ、そうか…。
やっぱり盗られちまったのかい。
…あのな、おめえ、もういっぺん俺の話をよく聞きな。
おめえは店のご主人に対して申し訳がねえからってんで、
身投げしようってんだろ?え?
俺ァそもそもそれが違うと思うんだ。
身投げなんぞしたって何になるんだい。
金が出てくるってのかい?出やしねえぞ、本当に。
ご主人にしてみりゃおめえは死んじまう、金は出てこないで
どうすんだよ。
ちっとも詫びにも何にもなってねえぞ。
かえって迷惑になるんだ。主人孝行でも何でもねえ。
そんなことだから俺がさっき言ったみたいに、
何年かかってもいいからーーって
ちっとも話を聞いてねえやこの野郎。
バカっ正直だなおめえは。
すっかりその気になっちまってんだな。
気は変わらねえか、え?
文七:っ…【うなずく】
長兵衛:ちぇっ、しっかりうなずきやがらァこんちきしょう。
どうしても五十両なきゃいけねえのかい?
じゃあ…うーん……、
物は相談だが……三十両にはまからねえかい?
みんな値切ろうってんじゃねえんだよ。
こっちにも色々と都合があるからさ。
…やっぱり五十両ねえといけねえのか。
文七:へい…。
長兵衛:しょうがねぇなぁどうも…はぁ…。
【溜息つきながらしばらく悩んでいる。】
なぁ…考え直せよ。
……ダメか?
文七:へい……っ。
長兵衛:じゃあまぁ…しょうが…うーん……。
【懐に手をやろうとしたり腕組みしたりして悩んでいる】
…どうしてもか…!?
文七:へ、へい…っ…!
長兵衛:そうかい………。
よしッ、わかった!
【懐から財布を取り出す】
ほれっ、こいつをな、おめえにやるよ!
五十両だ、持ってけ!!
早く持って店に帰んな!
文七:ぇっ……?
長兵衛:なに人の顔じっと見てんだよ、ええ?
おめえにやるってんだよ!
文七:っと、とんでもございません…!
見ず知らずのお方に、そんな大金をいただくわけには参りません!
長兵衛:あたりめぇだよ、俺だってやりたくねえよ!
やりたかねえけど、おめえがどうしても五十両ねぇと死ぬって
言うからやるんだよ!
持ってけこんちきしょう!
文七:……。
長兵衛:胡散臭えと思ってやがんな、ちきしょうめ。
八つ口のあいた着物なんてなりをしてるから、
そんな大金持ってるわけがねえと思ってんだろ。
ところがあるんだ。嘘じゃねえぞ。
間違いなくこの財布の中にゃ、五十両入ってんだ。
おめえのを取ったんじゃねえぞ。財布が違うから分かんだろ。
こいつァな、俺の娘がこさえてくれたんだよ。
俺ァ左官の職人でな、博打に凝って借金だらけになっちまってよ
、この年をどうやって越そうか、夜逃げでもしようかって
その最中によ、俺の一人娘の今年で十七になるお久ってぇのが、
吉原の佐野槌っていう女郎屋に、身を沈めてこしらえてくれたのが
この金だ。
おめえは堅物そうだから知らねえだろうけど、
吉原の佐野槌さんと言やぁ大見世だ。
そこの女将さんてのが大変に情け深ぇ人でな、
再来年の大晦日までにこの五十両を返せば、娘は見世へも出さず
に、サラのまんま返してくれるってんだ。
ありがてぇ話じゃねえか。
だけど、俺のこれをおめえにやるだろ。
返さなきゃならねえ借金の五十両と合わせて、百両になっちまう。
百両となるってェと、俺にも少ぉし荷が勝ちすぎるんでェ。
来年の大晦日はおろか、いつ返せるか見当もつかねえ。
けどそうなったって、うちの娘は見世に出されるだけだからな。
いくら泥沼に入ったって死ぬわけじゃねえんだ。
けどおめえは今ここで金がねえと死ぬって言うから、五十両やる
んだ。
これ持って帰ってな、ありがてえと思ったら店のどこでも構わね
ェ。隅の方にちいちゃな棚を吊ってな、
不動様でも金毘羅様でもいいぞ。
おめえが贔屓にしてる神様を祀って、
「今年で十七になるお久と言う娘が吉原の佐野槌という
女郎屋に身を沈めておりますが、どうか悪い病にかからねえよう
に、片輪にならねえように。」
って…ぐすっ…それだけ祈ってくれりゃあいい。
さ、持ってけ!持ってきねェ!!
文七:とっとんでもございません!
そんないわれのあるお金をいただくわけには参りません!
長兵衛:ってめェは本ッッ当に話の分からねえ野郎だな!
俺がこれだけ言ってもきかねえたぁ、どうしてそうてめェは
強情なんだ、え!?
持ってけってんだよ!
文七:いえっ、いりません!
長兵衛:いりませんじゃねえんだよ!
俺だってここに出しちまったんだ。
今さら引っ込めるわけにいかねえじゃねえか!
持って来なよ、ほら、持ってけ!
文七:っけ、結構でございますッ!
長兵衛:この野郎ォ…よし、そう言うんだったらな、
俺ァこいつを川の中へうっちゃっちまうぞ。
な、持って来なよ、持って来なって。
悪い事は言わねえから、なっ、なっ、
文七:【↑の悪い事は言わねえから~の辺りから被せるようにして】
っそ、そんな事ッいやっ、けっ、結構でございますッッ!
長兵衛:このやろッ、持ってけッこんちきしょぅッッ!!!
【財布を文七に叩きつけて去っていく】
文七:痛ッッ!?
長兵衛:死ぬんじゃねぇぞ!死ぬんじゃ~~~~~~ねぇぞ~~~~~!!
【二拍】
文七:っつぅ…あぁ…っ、ちきしょう…ひ、人の事からかいやがって…!
あんな汚い格好してて五十両なんて大金、持ってるわけがない…!
わざわざあんな事をして、財布の中に石ころなんか入れて
人に叩きつけてきやがって…!!
な、投げ返してやる、待てこんちきしょッッ!?
あ、あぁっ…!?ほ、ほんとに…!?
ッッ親方ッ!親方ッ!親方ァッ!!
ぁぁありがとうございます…ッ!!!
語り:仮にも商人の手代、手触りだけで本当に五十両の金が入っていると
文七は悟ります。
両手で財布を捧げ持ち、すでにそこにいない長兵衛に対し、
いつまでも伏し拝んでいました。
ところかわって鼈甲問屋の近江屋では、
旦那の卯兵衛と番頭の平助が雁首そろえ、
戻ってこない文七を心配していました。
そこへ彼の帰りが知らされます。
平助:旦那様、文七が帰ってきました。
近江屋:なに、そうかい、こっちへ通しなさい。
…文七、遅かったじゃないか。
いったい今まで何をしてたんだ?
文七:遅くなりまして申し訳ありません旦那様。
実はお屋敷からの帰り道、昔の知り合いに出会いまして、
昔話をしておりましたら、つい遅くなりました。
掛けは間違いなくいただいて参りました。
こちらでございます。
近江屋:?なんだいお前、これはうちの財布じゃないだろ。
文七:ぁっ、は、はい、その昔の知り合いが、お前のと替えてくれと、
こう申しますので替えました。
中は間違いなく五十両入っております。
どうぞ、おあらためくださいまし。
近江屋:え…?
番頭さん、ちょいとこれを見てごらんなさい。
…どうだい?
平助:…はい、間違いなく五十両入っております。
近江屋:…おかしいね。
平助:はい。
近江屋:文七。
お前、あたしが普段から言ってるだろう。
なぜお前はそう、夢中になるほど碁が好きなんだろう。
あたしの小言をいつも上の空で聞いていたんだろ。
「碁将棋に凝ると親の死に目に会わない」って言ったはずだよ。
酒や博打じゃないからと、そういう油断がよくないんだ。
今日、お前がお屋敷へうかがった時に、柴田様と小林様が
碁を囲ってらした。
平助:掛け金をいただいたあとまっすぐ帰ってこないで、
そこに座り込んでずっと碁を見てたそうだな。
そのうちに小林様と代わってお前が柴田様のお相手をした。
向こうが言い出した事だからと、気持ちに隙ができてつい乗る。
もう一番、もう一番とやってるうちに辺りが暗くなる。
それでも夢中になっているもんだから、遅くなりはせぬかと、
柴田様に言われてお前、慌ててお暇申したそうだな。
あとで碁盤を片付けると、その下から財布が出てきた。
見覚えがある、ああこれは文七のものだ、中を見ると五十両の金が
入っている。
これは当屋敷が払った掛けだろう、今ごろさぞ途方に暮れているに
違いない。すぐに届けてやろうというので、先ほどお屋敷の
心利いたる若い衆が持ってきて下すったんだ。
そうなるとお前…こっちの五十両、いったいどうしたんだい?
文七:えッッ!!?
近江屋:どこから持ってきたんだ!?
文七:【支離滅裂に慌てている】
えっ!?届いてた…!?えっ忘れてた…盗られたんじゃない…!?
平助:盗られたんじゃない、忘れたんだよ。
文七:はぁあっ、はぁっ、たっ、大変な事っ…!
ぁ、あのッば、番頭さんっあの、あのっ、
お不動様と金毘羅様とっ、あのっあのぉっどっどっどっどっちが
ご利益がっーー!
平助:【↑の語尾に喰い気味に】
な、なにを言ってるんだい、わけのわからない事を言っちゃいけな
いよ。
いったいどうしたんだい。
文七:【支離滅裂に慌てている】
あっあのっ、むっむっ娘があのっ女郎になってっーー!
平助:文七…
お前、お稲荷様の鳥居にお小水でもしたんじゃないのかい?
どうしたんだ。
文七:【支離滅裂に慌てている】
どっどうしたってッたったっ大変でござっーー!
近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】
ちょっちょっ、ちょっと待ちなさい。
番頭さん、まずちゃんと話をさせるんだ。
文七、少し落ち着きなさい。
文七:!あっ、は、はい…。
近江屋:…よし、それじゃ、話してごらん。
いったいどうしたんだい。
文七:はい…実はあたくし、お屋敷に五十両のお金を
置き忘れてきたことに気づかず、ちゃんと持ってきたと思い込んで
いたんです。
そしたら枕橋のところで妙な男に突き当たられまして…。
近江屋:なるほど、枕橋でね。
それで?
文七:その時、そいつがスリだったんじゃないかと思って、
慌てて懐を探ったんです。
すると持ってきたと思っていたはずのお金がない。
あたくしは、このままじゃ店には帰れない、
かといって五十両もの大金、どうやったって都合できない。
あれこれ悩んでいるうちに、もう死んでお詫びするしかないと、
そう思いつめまして…。
近江屋:【溜息】
バカだねお前は…。
どうしてそんな事を考えるんだい。
で、どうしたんだ。
文七:いざ飛び込もうとしたところで、通りがかった方が止めて下さいま
して、わけを話せというので話しました。
そしたら…そしたら…、
五十両ものお金を、恵んで下すったんでございます…!!
近江屋:えっ、金を恵んだ?五十両も!?
文七、お前いい加減な事を言うもんじゃない。
十両盗めば首が飛ぶんだよ。五十両なら五人分の命だ。
そういう大金を、そんな汚い身なりをした方が持ってるわけが
ないし、また下さるわけもない。
文七:ほ、本当なんです!
本当にいただいたんです!
近江屋:ふうむ、嘘を言ってるようじゃないね…本当なのか…。
…番頭さん、聞いたかい。
長く生きているとろくなことが無いと思う時もあるが、
世の中にはそういう話が、そういう方がいるんだな…うぅむ…。
ありがたい人がいるものだ。
【感心している】
それで、どこの何という方だい?
文七:っそ、それが…うかがってないんでございます…!
近江屋:【呆れたように】
お前、なぜ命を助けてくだすった大恩人の、おところとお名前を
うかがわないんだ。
文七:それがあの、そんな間がなかったんでございます。
受け取れないと断り続けてましたら、いきなり人にお金をぶつけて
逃げてったんでございまして…。
平助:えぇ…金を取って逃げてくってのは聞いた事があるけど、
金をぶつけて逃げてくってのは珍しいね…。
近江屋:うぅむ、それは困ったな…。
お礼にうかがわなきゃいけないし、
このわけのある五十両をお返ししなきゃならない。
どういうお方だった?
文七:その、なんですか…汚い女物の着物を着て尻をはしょっておりまして
、お職人だと言ってました。
平助:…なんだいその人は…?
それで、どんなお話をしたんだい?
あたし達に聞かせておくれ。
その中に何か、手がかりがあるかもしれないからね。
文七:【だんだん泣きながら言うので最後辺りは不明瞭になっていく】
は、はい。
なんでもその方は、俺は左官の職人だ、と、そう言ってました。
それで、博打に凝って借金だらけになって、
にっちもさっちもいかなくなっちまったそうです。
そしたらその方の娘さんで、今年十七になる…おし…おし…
おしん…お久さんと言いました。
そのお久さんと言う娘さんが、あの、吉原の何とかという店に
身を沈めて、五十両をこしらえてくれたんだそうでございます。
そこの女将さんが大変に情け深いお方で、再来年の大晦日までに
金を返せば、お久さんはただ預けただけで返してもらえる。
だけど、この金をお前にやってしまうと返すあてがないから、
そうなると娘が見世に出されると…
ば、番頭さん、お願いでございます。
金毘羅様とお不動様、両方の棚を吊って下さいまし…!
平助:~~わかったわかった、とりあえず落ち着きなさい。
近江屋:泣くんじゃないよ文七。
しかし、おおよその事が分かったし、手掛かりがあったよ。
その方の娘さんの名前が、お久さんだというのが分かった。
あとはその見世の名前が分かれば、お金をくださった方の素性も
知れる。
平助:文七、その、お女郎屋さんの名前は聞いていないのかい?
文七:あ、そ、その…うかがったんでございますけど、
何とも思い出せないんでございます…。
近江屋:うぅむ…見世の名前なぁ…そう言われてもあたしはその、
吉原の事については何も知らないんだ。
というのもむかし親父に、もしも吉原なんという悪い所へ
一足でも踏み入れたら勘当するぞと言われてね…、
ついにこの年までいっぺんも行ったことがないんだ。
困ったな…。
番頭さんもなぁ、普段は固くて結構だけど、
こういう時にあまり固いというのも役に立たなくて困る。
だけど、あたしよりはいくらか知ってるだろう?
平助:いぃえ、とんでもない!
あたくしは吉原の事は何も知りません。
だいいち、吉原がどこにあるのかも知らないくらいなんでございま
すから。
近江屋:あ、そう…そりゃ困ったね…。
なんとかしてこの、わけのあるお金を返さなきゃならないが…。
平助:旦那様…吉原でその、五十両もの金を出すとなると、
おそらく小見世ではない、仲見世か大見世かと思われます。
文七、今から見世の名前をいくつかあげるから、
よく聞いているんだよ。
まず有名なのが角海老だな。
それから松葉屋だ。半蔵松葉で松葉屋。
次が火焔玉屋、玉屋山三郎で火焔玉屋という。
そして大黒屋金兵衛、これは金瓶大黒って言うんだけどね。
あとは尾張屋、梅屋、丁子屋、大文字屋、佐野槌、熊蔵丸屋…
文七:!番頭さん、もういっぺんお願いします。
平助:なに、もういっぺん?
いいかい、角海老、松葉屋、玉屋、大黒屋、尾張屋、梅屋、丁子屋
、大文字屋、佐野槌…
文七:【↑の語尾に喰い気味に】
佐野槌!佐野槌でございます番頭さん!
平助:間違いないかい?
文七:はいっ…!
平助:そうか!いやぁ良かった旦那様、わかりましたよ!
佐野槌でございます。
京町二丁目の立派な見世でして、ええ。
近江屋:……どうでもいいけど番頭さん、
なんだかやけに詳しすぎないかい?
平助:あ、あのいや旦那様、そういうことではございませんで!
手前その以前、万屋の番頭さんに吉原細見でもって、
いろいろと聞いた事がございまして!
近江屋:まぁまぁわかった。
万屋の番頭さんによろしく言っておきなさい。
それにうちは鼈甲問屋だ。奉公人の中に吉原に明るい者が
一人や二人いたってかまやしないよ。
しかし道楽はほどほどにな。
さ、文七、もう遅いから今日は休みなさい。
番頭さんは、もう少し話があります。
九蔵も呼んでおくれ。
平助:かしこまりました。
語り:それから旦那と番頭達、何やら相談をすませると
その日はもう休みました。
やがて鴉カァで夜が明けまして。
番頭は九蔵と一緒にどこかへ出かけ、やがて帰って来ました。
。
平助:失礼します旦那様、ただ今戻りました。
近江屋:おお番頭さん、おかえり。
それで、どうなったんだい?
平助:ええ、それはもう、かくかくしかじかで…。
近江屋:そうかいそうかい、そりゃ結構だ。
よし、文七を呼んでおくれ。
お前さんは後から例のを頼んだよ。
平助:承知しました。
【二拍】
文七:旦那様、お呼びですか?
近江屋:ああ、来たかい。
お前に五十両の金をくだすった方の素性が分かった。
これから達磨横町へ向かうから供をしなさい。
文七:!は、はいっ、承知しました!
【二拍】
近江屋:文七や、たまにはこうやって外へ出るのもいいものだね。
あたしはどうも出不精でね、店にばかりいるからつい世間の事が
疎くなる。
世の中というものは三日見ぬ間の桜と言うが、ひょいひょいと、
こう変わってくるものなんだね。
お武家様のお腰の物など、なぜかこう細身になって来たような
気がするよ。
…あぁ、吾妻橋だね。
子供の時分、よくここで遊ぶと親父が怒ってねえ、
「吾妻橋は縁起が悪いから遊ぶんじゃない」
なんて言われたもんだ。
…?おい文七、そんなところで何をしてるんだい?
欄干から川をのぞき込んで…。
文七:あ、はい……はぁぁ…。
近江屋:ああ、夕べ、ここから飛び込もうとしたんだったな。
文七:はい。
こうして昼間見てみますと、たいそう高いんでございますね…。
こんなところから飛び込もうとする奴の気が知れません。
近江屋:何を言ってるんだ。
見なさい、ゴーッと渦を巻いてる。
もし飛び込んでいたらお前はもう文七じゃない。
今日には土左衛門と改名していただろうね。
まあいい、二度とそんなバカな了見を起こしちゃいけないよ。
どれ、この小西の酒屋さんで例の方の在所を尋ねよう。
ごめんください!
酒屋:へぃいらっしゃいやし!
えー、何にいたしやしょうか?
近江屋:あの、恐れ入りますが、二升の切手をいただきたいんです。
あ、良い方のお酒で。
それから、角樽があったら貸していただきたいんでございます。
酒屋:へい、どうぞ、そちらにお掛けになってお待ちくださいやし!
いやぁ縁起がようございますな!
角樽が出ますとね、もうどんな時でも一日気分がずっと
上向くんで。ありがとうございます!
近江屋:いえいえ。
それから、達磨横町というのはこの近くですか?
酒屋:ええ、この裏っ手のほうですよ。
この先に露地口がありやすから。
近江屋:そこに左官職で、長兵衛様と言う方がいらっしゃると
聞きましたが。
酒屋:あぁ長兵衛?えぇいやすよ。
露地口入って行ってね、左っ手の真ん中あたりですよ。
そういや、夕べっからずっと夫婦喧嘩やってましてね、
さっき通ったらまだやってましたよ。
端のうちはうるせぇ、静かにしろィ!となるんですがね、
ここまで続くと逆に楽しみになりやしたな。
あと二、三日は続けてもらいたいぐらいで。
喧嘩を頼りに行きゃあ、すぐ分かりやすよ!
近江屋:左様でございますか。
さ、文七、行きますよ。
文七:はいっ。
酒屋:まいど、ありがとうございやした!
語り:いっぽう噂の長兵衛さんのお宅ではと言うと、酒屋の主の言葉通り
夫婦互いに怒鳴り合う声が表まで響いています。
安普請長屋の薄っ壁なんてあって無いようなもの。
犬も食わない喧嘩が延々と続いております。
長兵衛:本ッ当~~におめえは!
だから何度言ったら分かるんだよ!
いい加減に寝かしてくれ!
夕べから同じこと繰り返し繰り返し聞いて…勘弁してくれよ!
お兼:寝るつもりでいるのかい、こんちきしょうめ。
五十両はどうしたのって聞いてるだろ!
長兵衛:だから、俺ァその身投げ野郎を助けようってんで、
五十両やっちまったんだよ!
お兼:何を言ってんだい!
人を助けるようなツラなもんか!
身投げする人の足をすくって、川の中におっぽり込む人なんだ!
首吊りする人がいたら踏み台を外すんだ!
長兵衛:冗談言うなィ!
そんな事なんざしねえよ!
ちゃんと五十両やって助けてやったんだよ!
お兼:だから、どこの何という人なんだい!?
長兵衛:何という人ったって、俺ァさっきから言ってるじゃねえか!
何回言いや分かるんだよ!
名前なんざ聞かなかったんだよ!
お兼:なんで聞かないんだい!
大事な娘が身を売ってこしらえてくれた、五十両と言う大金じゃな
いか!
それをいくら助けるためにやるったって、名前ぐらいなぜ聞かなか
ったんだい!
長兵衛:聞かなかったっつってもな、俺ァそんな恩着せがましい事はした
くねえんだよバカ野郎!
お兼:何を言ってんだい本当に…!
長兵衛:嘘じゃねえんだよ!
お兼:嘘に決まってるよ!
どうせどっかに隠しといて、そいつを元手にまた博打でもやろうっ
て腹なんだろ!?
どこのなんて人なんだい!?
あんたの言ってることが本当ならね、あたしが行ってくるよ!
長兵衛:っちょっなっ、なんて人だったって…んな、な名前なんぞねえん
だその野郎は!
お兼:~~またそんないい加減な事ばっかり言ってんだから本当に…!
名前の無い人なんてのがあるかい!
あたし捜して来るよ!
でなきゃ佐野槌に行くから!
長兵衛:【↑の語尾に喰い気味に】
んなっちょッまっまっ待てよッ!
おめえその格好で表行って、どうするってんだよ!
近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】
ごめんくださいまし、ごめんくださいまし。
長兵衛:!っはいッ!
待てよ、人が来たよ人が!
お兼:~~ッしょうがないね…!
長兵衛:【表へ向かって】
はい!ちょっと待ってください!
いや、あいてますけどまだ開けちゃいけませんよ!
いま見られて困るものが出てますんで!
ちょっ、ちょっとおい、早く、ほら、みっともねえから、
屏風の裏行け屏風の。
お兼:わかってるよ、大丈夫だよ!
長兵衛:あぁほら、頭が出てる頭が。引っ込めろ引っ込めろ。
今度はケツが出てるよケツが。
でけえケツだな…割れ目が見えるから平らに、四つん這いに
なってろ!
いいか、四つん這いだぞ四つん這い。
絶対に出てくるんじゃねえぞ。
ちょっとでも動くとはみ出すからな。
続きはあとでゆっくりやってやるから。
勝負決めてやるからよ。
【表へ向かって】
へい、いま開けますんで!
【戸を開けて】
っあ…どうも…えぇと、どちら様で…?
近江屋:えぇ…こちら、左官の親方の長兵衛様でございましょうか?
長兵衛:え?長兵衛様…?
ははは、くすぐってぇなぁどうも…。
いや、それほどのモンじゃねえんですが、
左官の長兵衛たァあっしの事でござんすよ。
え、何か、ご用でござんすか?
近江屋:あたくしは横山町三丁目、の鼈甲問屋の主、
近江屋卯兵衛と申しますが…。
長兵衛:あ、鼈甲屋さん?
じゃあ家じゃねえ、お門違いだ。
もっと奥、突き当たりが家主の家ですよ。
あそこのかみさんてのはね、頭に金を掛けてますからね。
うちのかかあはそんなものはやりませんよ。
もう中挿なんざね、蕎麦屋の箸を折っぺしょって差して、
それで間に合わしてますからね!
とにかく家じゃねえんで、どうぞひとつ、お引き取りをーー
近江屋:【↑の語尾に喰い気味に】
あぁちょっ、ちょっとお待ちを願います!
文七や、この方のお顔をよくご覧なさい。
どうだ?
文七:っちょっと、お待ちを願います。ごめんくださいまし…。
長兵衛:っな、なんでェ?
…なんだよ?
文七:!あぁっ…旦那様、この方に間違いございません!
近江屋:おぉ、そうかい!
文七:はいっ!
【半泣きで】
親方…!
夕べは危ない所をお助け下さいまして、
ありがとうございました…ありがとうございました…!
長兵衛:え?昨晩?危ない所を?
っちょっ、顔見せろ、顔…。
【二拍】
あぁ…おめぇだ、おめぇだ…!
よく来てくれた…!
夕べ確かに、身投げしようとしてたところを助けたな?
文七:【半泣きで】
助けていただきました…!
長兵衛:五十両の金、おめえにやったな?
文七:【半泣きで】
いただきました…!
長兵衛:やったよな…!?
【家の奥へ向かって】
ざまぁみろこんちきしょう!
だからやったって言ったじゃねえか!
証人が現れたぞ!
【文七たちに】
あ、誰もいませんからね。
独り言なんで、うん。
いやぁ、よく来てくれたなぁおい。
おめえが来なかったら大変だったよ。
これから先、ずーっと…まぁそんなことはどうでもいいや。
あちらにいらっしゃるのは、おめえのご主人だってな?
文七:はいっ…左様でございます。
長兵衛:どうも、ようこそいらっしゃいやした。
さぁこっちへ上がってくだせえ。
表と変わらねえ汚ねえとこですが、まぁその、
そこでは話をしにくいですから。
まぁまぁ、上がっておくんなさい。
近江屋:それでは失礼をいたします、ごめんください。
昨晩は、うちの文七が危ない所をお助け下さいまして、
誠にありがとうございました。
実は親方の前でございますが、これがお金を取られたと思ってい
ましたのはとんだ思い違いでございまして、
先方に忘れてきておったんでございます。
それを一途に盗られたと思い込んでおりまして、あのような事を
しようとしているところを、親方に止めていただきました。
五十両のお金を恵んでいただきました。
本当に何とも申し訳の無い話でございますが、
実ははじめ、文七にこの話を聞いた時、正直申して疑りました。
手前は商人でございます。よくお武家様方が刀は武士の魂と
おっしゃいますが、手前どもも銭が命、銭は大切にしなければ
いけない。一文と言えども地べた掘って出てくる気づかいは無し。
銭を粗末にするなと親父に教わりました。
しかし、親方のようにこんな見ず知らずの者に五十両もの大金を
ポンと出す、そういうご奇特な方がいらっしゃったからこそ、
文七がこの通り生きているんでございます。
それを聞いた時、もし手前が同じ立場に立ったら、
果たして渡したであろうかと思うと、我が身が恥ずかしくなりま
した。
今日はそのお詫び、またお礼かたがた、
こうして恵んでいただきました五十両のお金を、
ご返済にあがりました次第でございます。
どうぞ、お納めくださいませ。
長兵衛:【文七へ向かって】
なに…?
盗られたんじゃなくて忘れた?
忘れたのか?
バカ野郎ちきしょう!しっかりしろってんだこの野郎!
冗談じゃねえよ!
だから思い違いじゃねえかって俺ァ聞いたろ!?
旦那、この野郎にあっしァ聞いたんだよ!
そしたら盗られたんだ盗られたんだって言うんだよ。
おめえのおかげでこっちは夕べっからずーっと寝てねえんだ。
あん時、俺が通りかかって止めてよかったじゃねえか。
死んじまわなくて良かったろ?
でなきゃおめえは、ドカンボコンと飛び込んで、あの世行きだっ
たんだ。
で、おめえが死んだあと金がでてきたら、それこそどうするって
んだよ。
まったく、そういうものがわからねえ…若え奴ってなみんなそれ
だよ。
【近江屋に向かって】
こんな奴は金の使いに出せませんね!
近江屋:どうも、相すいませんでございました。
どうぞひとつ、これをお納めいただきとうございます。
長兵衛:え?これ?
じょ、冗談言っちゃいけませんよ。なに言ってるんで。
受け取れるわけがねえよ。あっしはこいつにやっちまったんだか
ら。
これでも長兵衛は男でござんすよ。
いっぺんやっちまったらもうあっしのもんじゃねえ、
この野郎のもんなんだ。
こいつに渡しゃいいんですよ。
お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】
【声を落として】
お前さん…お前さん…!
長兵衛:【袖を払う、SEかリアルで代用できるなら】
いや、元はあっしのもんだけど、やっちゃったんだから。
やったものはしょうがねえじゃありやせんか。
お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】
【声を落として】
お前さん、受け取りなって…!
長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】
うるせぇな、こんちきしょう!
【近江屋たちに向かって】
だからね、それはどうぞ、そっちでしまっておくんねぇ。
近江屋:それは困ります。
それではこの金のやり場がございません。
長兵衛:やり場が無いったって、俺ァそっちにやっちゃったんだからさ。
じゃあこうしやしょう。
旦那が預かっといておくんなさいよ。
どうせそいつだって、しまいには店を持とうってんでしょう?
そしたらその時に、暖簾の一枚でもこさえてやっておくんなせェ
。
その方がね、よっぽどお金が役に立つよーー
お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】
【↑の語尾に喰い気味に声を落として】
お前さんッ、冗談じゃないよ…なんで…!
長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】
しつこいなこの野郎!
その方がいいんだよ!
冗談じゃねえ、そんなみっともねえ真似ができるかよ。
【近江屋たちに向かって】
だからね、そうした方がいいんだ。そうしてやっておくんねぇ。
いやそりゃね、貸した金ならあっしも返してもらいますよ?
でもね、やっちゃったんだから、こいつの物なんだ。
いいんです、気にしねえで!
近江屋:いえ、それでは困ります。
無くなった金が出たんでございますから、
どうぞこれは元に戻す方が本当でございます。
長兵衛:いや、そうでないんで!
やっちゃったんだからさ!
そりゃやる時はあっしも考えたよ?
どうしようかな、どうしようかなってよく考えたんだ。
考えたけどね、考えた末でやったんだからさーー
お兼:【屏風のかげから長兵衛の袖を引いている】
【↑の語尾に喰い気味に声を落として】
お、ま、え、さ、んッ!
長兵衛:【袖を払いながら声を落として、SEかリアルで代用できるなら】
うるせえな、お前は!
やっちゃったんだからしょうがねえだろ!
お兼:【声を落として】
お前さんだって分かってるはずだろ!
意地張ってんじゃないよ!
長兵衛:【声を落として】
そりゃわかってるよ!
わかってるけどおめえ、冗談言っちゃいけねえよ!
そんなみっともねえことができるかいってってっててッ!!
つねるんじゃねえ、いてぇなこんちきしょう!
お兼:【声を落として】
向こう様だって商人の筋を通してきてるんだから、
これ以上困らせるんじゃないよ!
長兵衛:【声を落として】
そりゃ…そうだけどよ…!
……わかったよ…!
あー…んんっ【咳払い】
…ええ、へへ…ま、相談をしましてね。
今日のところは、その、返していただくという事でひとつ…。
近江屋:おお!ありがとうございます。
長兵衛:いぃえいや、その、そうじゃないんで…。
この金のせいでうちは夕べから寝てねえんですよ。
その代わり…旦那、これ脇へ行って喋っちゃいけませんよ?
みんな口の悪いのが揃ってるんですからね。
「あの野郎は人にいったんくれてやったものを、また返してもら
った」なんて言い出しかねねェ。
そんな事になったら仲間に顔向けができませんよ。
表を歩けなくなっちまいますからね。
いいですか、必ず内緒にしておくんなさいよ?
近江屋:もちろんでございます。
お受け取り下さりまして、ありがとうございます。
それからあの、あらためてお願いがございます。
長兵衛:っな、な、なんでしょう。
お宅の壁を塗るんですか?
近江屋:いえいえ、そうではありません。
この文七、粗忽な所もありますがなかなかに商売熱心、
正直者で陰日向なく、こんにちまで一生懸命務めて参ったもので
す。
近ごろは商いの方もだいぶ覚えまして、見込みある男と
わたくしも目を掛け、ゆくゆくは店を持たせようと思っておりま
す。
それと文七は、手前どもの遠縁にあたりまして、
小さい時分にふた親に死に別れております。
そこでお願いでございます。
昨晩親方に助けていただいたのがご縁、命の親と言う事で、
文七が店を持つ際に後見を、親代わりになっていただけないかと
思いますが…いかがでございましょう。
長兵衛:えっ、親代わり?こいつのですかい?
親代わりって事ァ、色んな事の面倒見てやんなきゃなんねえ。
おめえはどうなんだい?
俺にああしろこうしろって言われるのは大変だと思うぜ?
それに道楽者の親を持つってェと苦労するもんだ。
それでもいいってのかい?
文七:はいっ、どうぞ、よろしくお願いいたします…!
長兵衛:かまわねえってのかい?
おめえがそれでいいってんなら、俺ァいいよ?
近江屋:ありがとうございました。
それから今度は、手前からのお願いでございます。
見ず知らずの者に五十両の金を恵んでやるというようなことは、
とてもわたくしども商人には考えられません。
そういう方がいるというのを聞いて、本当に驚きました。
そのご気性にわたくし、ほとほと惚れ込みましてございます。
これから末永くお付き合いをいただきたいので、
どうか親類付き合いをお願いしたいと思います。
ご承知いただけますでしょうか。
長兵衛:ちょっちょっちょっちょっちょっと待ってください!
なんだか黙って聞いてると、話がどんどんえれぇ方向に
進んでませんかい?
いやいや旦那、そらァ買いかぶりでござんすよ。
よしてくださいよ、親類なんて。
ごらんの通りの貧乏なんで。
親類なんぞなったら、どんどんどんどん金を借りに行きやすよ?
近江屋:えぇかまいませんとも。
どうぞひとつ、ご承知くださいまし。
長兵衛:っそ、そうかい?
いや旦那のとこでね、いいってんだったらいいよ?
だけど妙だね。
一日で親類ができちゃったり、倅ができちゃったよ。
えぇ、結構でござんすよ。
近江屋:ありがとうございます。
それからあの、これは親方が召し上がる口と聞きまして
持って参りました。
どうぞひとつこれをお納めくださいまし。
長兵衛:えっ?
あらっ!表の小西の切手じゃござんせんか!
おっ、樽も一緒に!へえぇ!張り込みましたねえ!
いやぁありがとうございやす!
これにゃあ目がねえんですよ。
酒となるとあっしは断りようを知らねえもんで!
それじゃ、遠慮なく頂戴いたしやす!
近江屋:ありがとうございます。
そうだ、文七や、ちょっと表を見てきておくれ。
文七:はい。
旦那様、番頭さんがちょうど着きました。
近江屋:おぉ来たか。
番頭さん、用意はできているかい?
平助:はい、いつでも。
近江屋:そうか!
えぇ、実はお肴をあつらえて参りました。
どうやら届いたようで。
長兵衛:え、肴?
いや、肴はいらないんですよ。
あっしはそんなの無くったってね、
ちょいと塩をつまんでぽいっと口にほうり込んで、
五合くらいキューっといっちまいやすから。
近江屋:まぁまぁ、そうおっしゃらずに。
せっかくあつらえて参りましたので…。
平助:おぅい、入って来ておくれ!
語り:番頭の平助が露地口のほうへ合図を送りますと、
えっほい駕籠の鳴きと共にタッタッタッタッと入って参りました、
一丁の真新しい四つ手駕籠。
駕籠屋がスッと垂れを上げますと、出て参りましたのはお久。
昨日に代わる今日の姿、文金の高島田に髪結いあげまして、
小紋縮緬の着物に帯を締め、綺麗に化粧をして降り立つ姿は、
まるで掃き溜めに鶴、花が咲いたようでございます。
長兵衛:!!?おっ、おお!?
ぉ、おめえ……お久か!?
お久:…そうだよ、おとっつぁん。
長兵衛:あらぁーーっ!
綺麗になっちゃっておめえ、ど、どうしたんだい!?
お久:おとっつぁん、
近江屋の旦那様が、あたしを身請けしてくださったの。
もう家へ帰っていいって…。
長兵衛:えっ、旦那が!?
【泣きそうに】
そうですかい…!
旦那、ありがとうございます…!
近江屋:このお肴、気に入っていただけましたかな?
長兵衛:【半泣きになりながら】
大好物でござんす…!!
実はもう、半ばあきらめてたんで…。
それが…それが…長兵衛、この年になるまでこんな立派な肴、
生まれて初めてでござんす…!
気に入らねえなんて言ったら、あっしに罰が当たっちまう。
ありがとうございやす…!
お久ぁ、こっちへ来なよぉおい良かったじゃねえかあぁ…!
お久:うん…うん…!
おとっつぁん、おっかさんは…!?
長兵衛:おぉ、おっかさんもいるぞ!
その、そこの屏風の陰にいるんだ、そこんところに。
ぉおいおっかぁ、お久が帰ってきたぞ!
かまわねえから、早く出て来て礼を言うんだよ!
ほらお久、おめえ呼んでやんな!
お久:おっかさん!おっかさん!!
お久です!いま帰りました!
語り:今まで我慢していたお兼さん、娘から呼ばれたらもう矢も楯もたま
りません。尻切り半纏に風呂敷の紋付腰巻の恰好、
周囲の驚きも恥も外聞も何のその、全部その辺にうっちゃって、
ぼろ屏風の陰から飛び出します。
お兼:お久ぁぁーーーッ!!
お久:おっかさぁぁーーん!!
長兵衛:【号泣しながら】
よかった…!よかったぁッ…!!
語り:親子三人、手に手を取ってひしと抱き合い、嬉し涙に喜び濡れたと
申します。
その後、文七とお久は夫婦となりまして、麹町貝坂に小間物の店を
出しました。
後年、文七が元結、まげを結ぶ紐ですが、これにひと工夫いたしま
した。この元結が従来のものと違い、誠に見栄えが良く、
また手際がよろしく仕上がるというので、明治の初年、
断髪令が出るまでたいそう繫盛し、もてはやされたといいます。
文七元結の一席でございました。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
古今亭志ん朝(三代目)
立川談志(七代目)
三遊亭圓楽(五代目)
柳家小三治(十代目)
三遊亭圓生(六代目)
※用語解説
元結:髷の根を結い束ねる紐のこと。
演目名の「文七元結」は江戸時代中期に考案された、実在する元結
である。長いこよりに布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回に
わたって塗り、乾燥させてから米の糊を塗って仕上げたものを言う
。別名、しごき元結、水引元結とも言う。
桜井文七という人物の考案とも、下野国(現在の栃木県)の文七紙
を材料として用いるからとも。
見世:吉原の女郎屋のこと。
妓楼には大きく分けてランクの高い順に
大見世→仲見世→小見世→切見世がある。
佐野槌:演者によって場所が変わる見世。作者である三遊亭圓朝師匠は
新聞連載時は角海老としていたが、以降は自身を含め、多くの
演者が佐野槌と演じている。
七草までには返す:七草がゆを食べる日が一月七日であることから、
一月七日までには返すという事。
癪:原因が分からない痛みを伴う内臓疾患を一括した俗称。
積ともいい、疝気とともに疝癪とも呼ばれた。
左官:建物の壁や床などを鏝を使って仕上げる仕事。
またはそれを専門とする職人。
達磨横町:現在の墨田区吾妻橋一丁目の駒形橋寄りのあたり。
見返り柳:遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。
遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで名残を惜しんで
後ろを振り返ったことからこの名が付いた。
衣紋坂:江戸新吉原の日本堤から大門に至る間にあった坂。
新吉原の名所とされ、遊客がみな衣紋をつくろうところから呼ば
れた。
道哲:主に江戸時代に浅草新鳥越(現台東区浅草七丁目)にあった、
浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称として知られている。
道心者が庵を結んだことから、この名があるという説があります。
土手八丁:浅草から新吉原へ通う遊客がよく通った道で、日本堤を指す。
特に待乳山聖天社の下から吉原入口までの道のりが、
約870メートル(八丁)ほどだったことから、この名で呼ば
れるようになった。
山谷堀:かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、
江戸初期に荒川(現在の隅田川)の氾濫を防ぐため、
箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで
造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの
約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。
三囲:三囲神社の事。
東京都墨田区向島に在る神社である。
祭神は宇迦御魂之命。
浅草弁天山:浅草寺の本堂南東にある小高い丘は、弁財天を祀る弁天堂が
建つことからそう呼ばれる。
金龍山下瓦町:聖天宮(金龍山本龍院)の鎮座する待乳山下。
隅田川沿いに位置する。町名はかつて瓦を焼いていた場所
にちなんでいる。
待乳山聖天:浅草寺の北東、隅田川西岸にあり標高約10mの丘である。
ここに伽藍を構える待乳山聖天は、正式には本龍院といい、
浅草寺の支院のひとつである。
山の宿:現在の台東区花川度一・二丁目。浅草七丁目のあたり。
花川戸:東京都台東区にある町名。現行行政地名は花川戸一丁目および
花川戸二丁目。
吾妻橋:隅田川にかかる橋で、現在東京都道463号上野月島線吾妻橋
支線を通す。
横山町:現在の中央区日本橋横山町、東日本橋二・三丁目。
鼈甲問屋:鼈甲とは、ウミガメの一種であるタイマイの甲羅を加工して
作られた工芸品の総称。
ガリガリ亡者:漢字で書くと我利我利亡者。
ただ自分の利益ばかりを追い求めて、他への思いやりなど
のまったく無い者を罵る言葉。
尻切り半纏:尻の上までの、たけの短い半纏。
九蔵:名前しか出て来ませんが、笑点の最古メンバーのあの方の前の名前
ですね。
中挿:女性の髷に横に挿して飾りとしたり、
髪をかき上げるのに使った、箸に似た細長い道具。
八つ口:着物の身頃の脇のあき部分を言う。
チョボイチ:起源は江戸時代頃。最も古く単純なサイコロ賭博。
子は出る目を予想してチップを張ってから親がサイコロを振
る。出た目に賭けた者を勝者とし、その出目の数字に賭けた
チップの4倍を受け取ることが出来る。
それ以外の人は賭けたチップをすべて没収される。
丁半:偶数を丁、奇数を半と呼ぶ。
茶碗ほどの大きさの笊であるツボに入れて振られた二つのサイコロ
の出目の和が、丁(偶数)か、半(奇数)かを客が予想して賭ける
。 小規模な賭場を鉄火場、大勝負を賭博と呼んで区別した。
大目小目:略して大小とも呼ばれる。1個のサイコロを振って123が
出れば小目、456が出れば大目で、そこに賭けていたものが
配当を得る博打。
素寒貧:非常に貧乏で何も無い事を指す。
建具屋:建物の開口部に取り付けられる建具(ドア、窓、障子、襖など)
を専門に扱う業者。
東海道五十三次:江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある
五十三の宿場を指す。
腰巻:婦人が腰から下に、肌にじかに巻きつける布。
中引け:今の午前12時過ぎを指す。
お多福:一般的に、ほっぺたが丸く、鼻が低く、笑顔が素敵な女性の顔や
、その顔をしたお面のこと。
目塗り:火事などの際、蔵などに火が入らないように戸などの合わせ目を
、用意してある土で塗ってふさぐこと。
中間部屋:主に武家屋敷において、上級武士に仕える中間職(雑務や防備
など)が住む部屋を指す。
矢立:江戸時代に広く使われた携帯用の筆記用具で、筆と墨壺を一つの
容器に収めたもの。
五十両:一両が現在の価値に直すと大体約八万円。
てことはだいたい四百万円なり。
枕橋:今の東京都墨田区にかかっている橋。
お不動:不動明王のこと。密教において大日如来の化身として、仏法を
守護し、人々を災いから救うと信じられている明王の一尊。
金毘羅:金刀比羅様。海の守り神や航海の安全を司る神様。
片輪:身体の一部に障害があること。またはそれを持つ人に対する差別用
語。現在は使われない言葉。
小西の酒屋:江戸時代から続く老舗の酒屋の名前。愛宕小西や神田小西の
ように、複数の店舗が存在し、それぞれが独自の歴史と特徴
を持つ。
二升の切手:この場合の切手は現在の商品券の事を指す。
角樽:樽の左右から突き出した把手に、持ち手の柄を渡した酒容器。
祝い事に用いられることが多い。
粗忽:軽率で不注意なこと。そそっかしいこと。それによるあやまち。
道楽者:酒や色欲、博打などに熱中し、本業や責任を忘れる人のことを
指す。
四つ手駕籠:四本の竹を四隅の柱とし、割り竹で簡単に編んで垂れをつけ
た駕籠。江戸時代、庶民用の簡素なもの。
文金の高島田:昔から花嫁の髪型として選ばれた日本髪スタイルのことで
、白無垢に合わせるのが定番。島田髷という高い位置に
結われた髪型で、上品で清楚な印象を与えるのが特徴。
小紋縮緬:小紋柄が染め出された縮緬生地のこと。
縮緬は、表面にシボと呼ばれる凹凸のある織物で、柔らかく
重厚感があり、着物や帯などに用いられる。
小紋は柄が全体に散らされた柄で、小紋縮緬はその小紋柄が
縮緬生地に染め出されたもの。