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白線に囚われた君との約束

「夏」をテーマに儚くも不思議な青春ストーリーです。

人間不信の主人公が白線上の地縛霊の少女と出会うことで、人と関わる喜びを知っていく成長を描いてます。

読んだ方が、夏の終わりの余韻に浸れるような作品になっています。

少女視点に切り替わった時、世界観がガラリと変わると思いますのでそこも楽しんでいただけたらと思います。

少女視点の展開は試作段階でまだ未完になりますので、応援よろしくお願いいたします。

君たちは白線ゲームといったものを知っているだろうか。

これは僕が過ごしたひと夏の物語だ。


「暑い。重い。なんでいつも僕なんだ……」

暑さのせいで蝉の声が遠のく。

今、同級生のランドセルを前後ろ、両腕に四つ抱えて歩いているのが僕。上田こうただ。

母に買ってもらったオレンジ色のTシャツが汗でべっとりと変色している、短パンも張り付いて気持ちが悪い。

「おーい、早くこっちこいよ。グズグズすんな」

なぜ僕がランドセルをこんなに持たせられているかというと、端的に言えば荷物持ちのジャンケンに負けてしまったからだ。

僕にはどうやら運がないらしい。

ジャンケンの才能がないと言ったほうがいいのか、出す手ごとにことごとく負ける。

小太りの岡田達、三人グループは帰り道が同じメンバーだ。

そして彼らは小3の時からいつもジャンケンに負けた一人に荷物を持たせ、白線ゲームをやりながら帰るのが習慣のようだった。

「こうた、給食着引きずるなよ」

「わかってるって」

僕は、こいつらが嫌いだ。

父さんの転勤で転校してきた日に話しかけてきたのが、岡田達だった。

初めは気さくに話しかけてくれる岡田達に対して、僕は友達になれると思ったが、そうではなかった。

奴らは、ただの白線ゲームをする時に邪魔な荷物を押し付ける、荷物持ちが欲しかったらしい。

僕は今日も白線ゲームをする三人を後ろから眺める。

ジャンケンに負けることで僕は自動的に荷物を運びながらゲームに参加することになる。

白線ゲームとは白線から落ちた者は奈落に落ちて死ぬというものである。

僕が以前住んでいた町では、マグマに落ちるだのサメに喰われるだの多種多様だ。

この町では奈落行きらしい。

白線ゲームに参加しているようで参加していない僕……。誰も本当の僕を見てくれないのか。

いっそのこと、本当に奈落があって落ちてしまえば誰か気づいてくれるのだろうか。



夏休みになり、僕はたくさん出された宿題を終わらせるために図書館に出かけた。

僕が苦手な算数だった。

小学四年生にもなれば少し難しくなってくる。

「こうちゃん、今日は宿題進んだ? わからないところがあったら聞いてね」

僕は夏休み以外でも本を借りに、この図書館によく来る。

そのせいか、カウンターのお姉さんとは顔見知りになっていて少し気恥ずかしい。

「う、うん。ありがとうございます……」

机に散らばった筆記用具をかき集め、借りた本と算数のドリルをカバンにつめて家に帰る。

帰り道、おばあちゃんが営んでいる駄菓子屋の前を通り、十字路の交差点の横断歩道を渡ろうとした時だった。


「危ない!!!」


後ろから呼び止められる声に僕は思わず振り向いた。

そこに立っていたのは、白いワンピースに身を包み、膝ぐらいまで長く伸ばした黒髪の白い肌の少女だった。年齢は僕と同じくらいだろうか。

「な、なに……?」

僕は少女に聞いた。

「ちゃんと信号見ないとダメだよ、赤じゃん」

少女に言われ、信号に目を移す。

「ほんとだ、気づいてなかった。ありがとう」

「うん、気をつけてね」

少女はいたずらっぽく微笑んだ。

信号が青に変わったのを確認し、横断歩道を渡り切り振り返ると、そこにはもう少女の姿はなかった。

彼女に呼び止められていなかったら、僕は車に轢かれていたかもしれなかったという考えが頭をよぎり怖くなった。



次の日、僕は図書館に再び行くため、十字路で信号を待っていた。

陽炎がゆらゆらと見えるような暑い日だった。

向かい側に昨日会った、白いワンピースの少女が立っている。

僕は小さく手を振った。

少女はこちらに気づくと手を振りかえしてくれた。

信号が青になり、僕は少女の元に歩くスピードを変えないまま近づく。

横断歩道の3分の2を渡り終えた時にはハッキリと目が合った。

「昨日はありがとう、ここで何しているの?」

僕は聞いた。

「ううん、またちゃんと信号見て渡るかなって思って心配してきたの」

こんなに暑くて、日陰もない交差点で、来るかもわからない自分を心配して見に来るなんて変わった子だ。

「君こそ、どこに行くの?」

少女が両手を後ろに組みながらクリクリとした目で見つめながら聞いてくる。

「僕は図書館で借りた本を返しに行くんだよ」

「ふ〜ん、そうなんだ。本好きなんだね。そうだ! そこの駄菓子屋で何か買ってくれない? 昨日の礼も込めてさ!」

僕は内心、馴れ馴れしい少女の態度に少し驚いたが、命の恩人だからなと思い、二人で駄菓子屋に行くことにした。



駄菓子屋の前までくると、彼女は中を覗こうと背伸びをする。

「何してるの? 入ろうよ」

「私、外で待っとくからパッキンアイスお願い」

僕は不思議に思ったが、駄菓子屋で10円の苺味のパッキンアイス1本と、自分用に風船ガムを買った。

「はい、これ。苺でよかった?」

僕は冷え冷えのパッキンアイスを渡そうとした。

「ふふっ、さっきのは冗談だよ。君が暑そうな顔してたから、冷たいものを食べないと熱中症になると思って」

そう言って、彼女はアイスを受け取ってくれなかった。

せっかく買ったのに。どうせならメロン味にすればよかったな。

僕は苺味のパッキンアイスを割り、上手く割れずラッパ状になったアイスの方から口に運んだ。

ひんやりとした優しい苺味の氷が口の中で溶ける。

「どう? 美味しい?」

冷たいアイスを食べられたのは自分のおかげだとでも言うように、なぜか自慢げな彼女が顔を覗き込んでくる。

「うん、美味しいよ。僕だけ食べて本当によかったの?」

「いいんだよ、私何もしてないし、君が食べてるの見てるだけで涼しくなるから」

彼女は笑って図書館の方に歩き出す。

僕は彼女の後ろ姿を眺め両手にアイスを持ち、食べながら歩いた。

苺味のアイスが溶けピンク色のジュースみたいになったものをグビっと飲み干す。

ゴミをどこに捨てようかと僕が考えていた時、目的の図書館についた。

「じゃあ、またね」

「えっ? 寄ってかないの?」

 僕は思わず聞き返した。

「うん、今日は君と話せたからもう満足」

そう言って、彼女は元来た道に踵を返した。



また次の日、彼女はあの十字路ではなく昨日の駄菓子屋の前に立っていた。

僕は図書館から帰る途中だった。

「何してるの?」

彼女は僕の方をチラリと見て、何も言わずニコッと微笑んだ。

「おばあちゃん、毎日同じ時間にラジオを聞くんだよ。その時にね、すごく優しそうな表情をするんだ」

そうなんだ。と思ったが、僕はその時何も返すことができなかった。

おばあちゃんを見つめる彼女の目があまりにも優しくて、せつなげだったからだ。

ラジオが終わったのか、おばあちゃんが襖を開け部屋の奥に入っていく。

彼女はおばあちゃんの姿が見えなくなるまで見つめていた。

「そうだ! 今日はどんな本を読んだの?」

こちらに首を90度に向けて、その黒くてクリクリとした目を輝かせながら聞いてきた。

僕はその彼女の動きの勢いに、思わず後ろに後退りしそうになった。

「うん……。えっとね、最近は推理ものを読んでいるんだ」

「へ〜! 推理ものかぁ、難しいの読むんだね」

彼女はそう言いながら、帰り道の交差点の方へ歩き出す。

僕もその後を辿るように足を進める。

「そうでもないよ、この前テレビでアニメ化された本を読んだだけで」

「どんなお話なの?」

「合宿中、主人公の親友が雪山のコテージで殺害されて、密室殺人の謎を解くんだけどその犯人がまさかの人物でね……。視点によって推理が変わっていくのが面白いんだ」

「君がそんなに夢中になって話すんだから、相当面白いんだろうね」

そう話し込んでいるといつもの交差点についた。

「じゃあ、またね」

「うん、また」

そう言って、僕は青になった横断歩道を渡った。

僕の話をここまで真剣に聞いてくれる人は初めてかもしれないと、横断歩道の横シマを見ながら思った。

信号が点滅し、カッコウの音が頭に響く。

また君と話したい……。何か約束をしなきゃ……! 僕の頭の中の信号も点滅していた。

赤になってしまう前に!!

「よかったら推理本持ってくるよ!」

僕はそう伝えようと振り返ったが、さっき手を振ったはずの彼女はもうそこにはいなかった。

信号が赤になると同時に僕は横断歩道を渡り終えた。

さっきまでうるさかったカッコウの音が可笑しいくらいにピタッと止んでいた。

「まただ……」


それからというもの、交差点で会うのがいつもの日課になり図書館への行く道、僕は彼女に沢山自分の好きな本の話をした。

「私の好きなものも教えてあげる」

そう言って彼女は僕の話が終わった後、歩きながら楽しそうに歌を歌ってくれた。


「歩き出した日々、君と笑った時間、それがかけがえのない宝物。わたしを繋ぐものは……」


「……」

彼女は区切りの悪いところで歌を止めてしまった。

「どうしたの?」

僕は思わず聞く。

「……ここから先がどうしても思い出せないの」

彼女は何かを必死に思い出そうと眉をひそめる。

「……」

「きっと思い出せるよ」

そんな根拠のない言葉しか僕には言うことができなかった。

「そうだね!」

彼女は僕のその言葉に、ニコッと切り替えるようにして明るく振る舞った。

僕は歌を一緒に歌うことはできなかったがその歌を大切そうに、愛するように、言葉を宝物のようにして歌う彼女の様子を見ているだけで気持ちが温かくなった。



そんな毎日が続いて夏休みが終わる五日前のことだった。

その日はいつも待ち合わせている交差点には居なかったが、僕が図書館から帰ろうと外に出た時図書館の入り口に彼女は立っていた。

「あのね、お願いがあるの」

5時のチャイムがとっくの前に鳴り終わり、茜色の空がだんだんと紺色に変わる頃だった。

「……」

どうしたのだろうと思いながらも歩き出すと、彼女が話を切り出してきた。

「待ち合わせのあの交差点で落とし物をして。それが建物の隙間に入り込んじゃって。それを取って欲しくってね……」

交差点に着くと、たばこ屋と古民家の建物の間に僕くらいの背丈はある錆びたトタンが何かに覆い被さっていた。

「このトタンをどかして欲しいの」

僕は手が錆だらけになることを覚悟して、その大きなトタンを掴んだ。

「ショッ!」

両手を思い切り伸ばしてギリギリ持ち上げられるサイズだった。

握った手に錆びたトタンがめり込むのを感じた。

ちょっと痛い……口には出さなかったが、トタンを持ち上げた僕には余裕なんて全くなかった。

「ここに置いて」

彼女に言われた通り、錆びたトタンの板をガードレールに立て掛けようとした時だった。

「うわっ! みきちゃん避けて!」

僕は風に煽られ、彼女の方に倒れてしまった。

ドシン! バランバランバラン!

トタンがうるさく地面に落ちる。

僕は勢いよく尻餅をついた。

だがその痛みよりも何より、みきちゃんを押し倒してしまうと思った瞬間に、彼女に触れようとした肩からグワンと、彼女の身体を自分の体が通り抜けた。

「え……?」

彼女にぶつかった感触が全くなかった。

尻餅をついたまま、立ったままの彼女を見上げる。

「えへへっ。ついにバレちゃったか。私、実は元人間なんだよね。いつかは話さないとって思ってたんだけど。びっくりした?」

わざと明るく振る舞うようにあっけらかんと彼女は言った。

「人間じゃないの?」

薄々、何か変だとは思っていたが、面と向かって人間じゃないと言われてしまうと、言葉が出なかった。

彼女はうんと静かに頷く。

「……」

振り返って思い出す。初めて交差点で呼び止められた日、彼女は真夏の陽炎が浮かぶようなアスファルトの上で熱がりもせずに裸足だったことに違和感を覚えた記憶があった。

仲良くなりすぎて、完全にその違和感を僕は忘れてしまっていた。

現にいまだって、彼女はしっかり裸足で立っていた。

「私ねたぶん地縛霊みたいなんだよね。しかも白線の上でしか立っていられないという縛り付きの。可笑しいでしょ」

空笑いをしながら彼女は言った。

「……」

僕は何も答えず、思い返せば確かにいつも道路側の白線の上を歩いていたなと思い出していた。

「探しものってのは嘘。本当の目的はそれ」

彼女が指さいた方を見ると、錆びて色も変色しかけた飛び出し注意の男の子の看板が倒れていた。

黄色い帽子に、黄色い旗、黒いランドセルを持った男の子がコチラに掌を見せている。

「立ててくれる?」

「う、うん……」

動揺しつつも、僕は立ち上がり看板に手をかける。

看板の正面が彼女に見えるように立てた。

飛び出し看板を近くで見るとその看板は嫌な感じがした。

よく見ると看板の目が真っ黒で、まるで穴が空いているようだった。

「これでいい?」

「うん。そしたら、そこの小石で目の黒い部分を削ってくれないかな?」

「削っていいの?」

「うん」

ギギギギギギ

僕は小石で真っ黒い目の部分を力一杯削った。

黒板を爪で引っ掻く時の、比にはならない酷い音が鳴る。

「やっと、終わった……」

削った部分の下には白いハイライトの入った目が浮かび上がっていた。

石を握りしめていた手が真っ赤になっている。

「お疲れ様、ありがとう」

地面に大の字になった僕の顔を、彼女が上から覗き込む。

何が何だかわからなかったが、ほっとした表情を浮かべ満足そうな彼女の顔を見ると力が抜けてしまった。

「休憩したら、駄菓子屋で何か食べよっか」

「僕の奢りでしょ?」

「正解。君が喉渇いてるかな〜って思ってね」

イタズラっぽい笑顔に僕は再び負けた。

くっそ〜!



駄菓子屋で僕はまたパッキンアイスを買った。

今度は苺味じゃなくて、メロン味を選んだ。

「美味しい?」

彼女が聞く。

「美味しいよ」

氷を頬に含めながら僕は答えた。

「本当にありがとう。こうたくんのおかげで助かったよ」

「……」

僕はさっき、聞きそびれた質問を彼女に聞いた。

「……どうして地縛霊になったの?」

「それは……たぶん、私の心残りが原因だと思うの」

「心残りって?」

「私ねあの交差点で事故に巻き込まれて死んだの。お姉ちゃんがいるんだけど、すごくピアノが上手いの! もうほんとビックリするぐらい。そんなお姉ちゃんに教えてもらっていた曲を練習していたんだけど、その曲を友達に学校で聴いてもらう前に死んじゃった。だからそれだと思うの」

「その曲って?」

「いつも歌ってる曲だよ。どうにかしないとって思って一人で通ってた小学校に行こうとしたの。 だけど学校の校門前が工事されていて、そこの工事現場に『看板おじさん』が出るんだ」

僕は話を聞いていてその耳慣れない『看板おじさん』というワードに引っかかった。

「まって、その『看板おじさん』て何?」

「そっか、知らないのか。『看板おじさん』はね工事現場をしてますって周りに知らせるため工事看板にいるんだけど、看板は見たことない?」

「うん、それは見たことあるよ。赤い文字で「お願い」って書いてあって、黄色いヘルメットを被った人がお辞儀している看板とかだよね」

「そう、安全な看板だったら看板おじさんは出てこないの。でも、電子工事看板から出てくる確率が高くて、小学校前の工事看板はそれだったの」

「じゃあ、それをどうにかしないと。何か方法はないの?」

「これは私が生前聞いた噂話なんだけれど、看板おじさんは工事現場の工事看板から出てきて、彷徨う魂を捕まえてそのまま引き摺り込んでしまう怪物なんだって。しかも、その取り込まれた魂はその後どうなるかわからないから気を付けなさいって。だから遭遇しないように避けるしかないと思うんだけど」

夏休みが終わるまで残り5日しかない……。夏休みが終わってしまえば今よりも彼女を小学校に連れていくことは難しいだろうという考えが頭をよぎった。

「今から行こう」

僕の言葉を聞いた彼女の顔はこわばったが、「うん」と頷いた。



彼女が生前通っていた小学校は幸い僕の通う小学校だった。

転校生の僕だったが、もう流石に校舎の敷地は把握していた。

彼女の話どおり、校門の前で工事がされている。

人は居ないのだが、看板が設置されているのが見えた。

よりにもよって電子工事看板だった。

看板の中では作業員が大きく旗を振る動作を繰り返している。

「本当に看板から『看板おじさん』が出てくるの?」

僕の隣で植木に身を隠すように様子を伺っている彼女にひそひそ声で尋ねる。

「そう、大きな音を出さなかったらきっと大丈夫なはずだから……」

そういう彼女の顔は、何が起きても可笑しくないという緊張感でこわばっていた。

「ゆっくり近づくよ……」

僕がそう言って、植木に身を張り付けながら音を立てないように進んでいた時だった。

チリン、チリン。

すっかり薄暗くなっているなか、ライトが故障しているのか明かりもつけずに自転車が後ろから近づいてきていた。


「あっ!!」


僕は自転車にぶつかりそうになって、思わず叫んでしまった。

僕がいきなり大声を出したことで彼女も驚いて声を出してしまった。

しまった……僕と彼女は互いの顔を見合わせたまま工事看板の方を見た。

すると、さっきまでリズムを刻むように旗を振っていた電子状の工事の作業員が旗を振るのをピタッとやめ、腕を下ろしこちら側をじっと見ていた。

「……」

僕らも見られていることから、その場からすぐには動けなかった。

次の瞬間、看板の中の工事のおじさんは看板の枠をガシッと掴み、メキメキと音を立てながらこちら側に出たきた。

「看板おじさんだ……」

彼女が震える声で呟いたのが隣で聞こえた。

看板おじさんは反射材のベストを身につけ、黄色いヘルメットを被って手には棒のような何かを持っている。

看板おじさんは全身をこちら側に移動させると、手に持っていた棒を赤く光らせた。

棒のような何かは誘導灯だった。

赤い光に照らされて、看板おじさんの顔が見える。

その表情はまるで人間がする表情とは似ても似つかない、感情のないプラスチック人形のような表情だった。

瞼のない見開きった目がギョロリとこちらを凝視する。

「こうたっ、逃げて!!」

彼女が叫んだ。

次の瞬間、看板おじさんは誘導灯をグルグルと出てきた看板の方向に回しながら関節を曲げずに物凄いスピードで煤渡りのように這い走ってきた。

プラスチックが衝突するかのような音をガタガタと立て、近づいてくる。

その様子から、やはり生き物ではない何かであることがわかった。

僕は校門の方向へと爪先を向けていたが、すぐに踵を返し走った。

彼女も逃げようと走ったが、あまりの恐怖からか足が絡れ転んでしまった。

「こうた!! 嫌だ! 嫌だ! 助けて!! 」

僕が彼女が転んだことに気づき、振り返った時には、看板おじさんが彼女の右足首を掴んでいた。

僕は彼女のもとに駆け寄り必死に引っ張った。

「助けるからなっ……。つっ……。彼女の足をはなせ!!」

「……」

僕が彼女の手を引っ張り助けようとした時、物凄い力で引っ張られ看板おじさんの恐ろしい顔がグワっと近づいた。

僕は恐怖で息が止まりそうになったが、それでも彼女の手を離さなかった。

ガンっ。

看板おじさんはその赤く光る誘導灯で僕の頭を殴った。

衝撃とともに目の前の視界がだんだん狭まってくる。

朦朧とする意識のなか、泣き叫ぶ彼女が看板おじさんに引っ張られ看板の中へと引き摺り込まれていくのがわかった。



目が覚めると僕は校舎の植木の中に放り込まれていた。

膝を擦りむき、体が軋む。

周りを見渡すともう朝のようだった。

「君、大丈夫かね……? 」

通勤中のサラリーマンが、帰る途中に心配し声をかけてきた気がするが僕には何も聞こえていなかった。

「どうして僕は、こんなに弱いんだ……」

彼女を失った僕は自分の非力さと彼女を守ってやれなかったことへの後悔で今にも心が崩れてしまいそうだった。

カッコウ、カッコウ。

気がつくと、僕は彼女と出会った交差点にまた立っていた。

信号は目の前で青から赤に変わった。

赤だ。彼女があの時、この場所で僕を呼び止めてくれていなかったら僕は死んでいたかもしれないと思うとゾッとした。

信号が青になり、再びカッコウの音が鳴りだす。

僕は引き寄せられるかのように、横断歩道は渡らずおもむろに彼女と歩いた道の方に体の向きを変え歩き出した。

少し歩くとあの駄菓子屋が見えてくる。

彼女がいたずらに笑い、なんだこいつと思いながらパッキンアイスを食べた時のことを思い出す。

「……ああ、僕は楽しかったんだ」

一緒に話して歩いた道に浮かぶ陽炎、手を広げ楽しそうに歌い笑う彼女の後ろ姿、太陽の光に照らされながらもそれに負けないくらいの彼女の笑顔、そんな思い出が蘇ってくる。

涙が僕の頬をつたっていた。

「そういえば、歌一緒に歌おうって言われたことがあったな……」

僕はその時、歌詞がわからないから聴いてるだけでいいと一緒に歌おうとしなかった。

「ケチ……」

彼女は頬を少し膨らませながら拗ねたのを覚えている。

あの表情は少し可愛かったな……。

「うた、歌か……。なんて歌ってたっけ」

僕は俯きながら、彼女が歌っていた歌を思い出す。

所々うすら覚えだったが、覚えているところだけでも歌ってみる。

音楽の授業でも注目を浴びるくらい歌は得意ではなかった。

いわゆる音痴というやつだ。

それでも僕は彼女の歌を歌った。そこには恥ずかしさなんて無くなっていた。


「歩き出した日々、君と笑った時間、それがかけがえのない宝物。わたしを繋ぐものは……」


歌いながら白線を記憶の中の彼女を真似て手を広げ歩く。

すると白線のみが浮き上がり、他の地面は宇宙のように美しくも飲み込まれそうな暗闇の世界が足元に広がっていた。

僕は思わずその場にしゃがみ込んだ。

「怖い……。動けない」

僕はダンゴムシのように頭を抱えうずくまっていた。

しばらくそうしていたが、横目で光るものに気づいた。

沢山の星が360度周りに広がっていた。

彼女が見ていた世界はこんなにも美しくも恐ろしい世界だったのかと僕は気づいた。


「彼女はずっと一人で終わりのない白線ゲームをやっていたんだ……」


歌を歌い終えると、いつもの見慣れた風景が戻ってきた。

僕は安堵から地面に倒れるように寝転んでしまった。



目が覚めると、知らない天井がそこにあった。

「こうちゃん、目が覚めたかい? 驚いたよ、お店の少し離れたところで寝てたんだから。何かあったのかもしれないけど、ゆっくりしておいで」

駄菓子屋のおばあちゃんの顔を見ると肩の力が少しだけ抜けた。

おばあちゃんは僕におにぎりを作ってくれた。

シャケと昆布に海苔を巻いたシンプルなものだった。

「こうちゃん、お食べ」

僕は涙でしょっぱいのか味付けがしょっぱいのかわからないまま、頬張って食べた。

「おいひぃ、おいひぃです……」

おばあちゃんは夢中になっておにぎりを食べる僕を何も言わずに見ていた。

「……」

おにぎりを食べ終わった僕は出された緑茶を見つめていた。

おばあちゃんがお茶菓子のお煎餅を持ってきた。

「あ、あの、おばあちゃん。この少し先の交差点で交通事故があったのは知ってますか?」

僕は尋ねた。

「ああ、知っているよ。すごく覚えているさ。トラックと信号無視をした自動車が衝突した酷い事故でね、よくここに来てくれていた女の子がたまたま巻き込まれたんだよ」

「その子の名前わかりますか? 僕その子のこともっと知りたいんです」

「みきちゃんのことかい?? わたしゃよくは知らないよ。ただよくパッキンアイスを買って友達と半分こにしていたのは覚えているんじゃが。ああ、一回だけこんな風に来てラジオを一緒に聴いたのは覚えているよ。音楽が好きなんだって話してくれたさ、お姉さんがピアノ上手なんだって、私の自慢なのって嬉しそうに話すもんだから可愛い子じゃったよ。事故について調べるんじゃったら、図書館で調べたら何か見つかるかもしれんな」

「おばあちゃん、ありがとう! 行ってみます! おにぎり美味しかったです! ご馳走様でした! 」

「こうちゃん、あんまり無茶しちゃいかんよ〜!!」

僕は駄菓子屋のおばあちゃんにお礼を言い、そのままの足で図書館に向かった。



僕はカウンターの人に頼んで古い新聞を見せてもらった。

「あった」


2002年7月24日16時43分、〇〇県〇〇市須恵町トラック追突事故。

須恵町15番線付近にまたがる十字路の交差点で57歳会社員の男性が運転する軽量自動車が信号無視をしトラックに衝突。 トラックの運転手は軽傷で済むものの、横断歩道を横断中だった須恵小学校に通う白崎みきを巻き込み、児童重症。


そう書かれている記事を発見した。

僕は机に地図を広げ、睨めっこしていた。

「なに難しそうな顔してるの?」

 カウンターのお姉さんが地図を覗き込んでくる。

「いやぁ……、転校してきて自分が住んでる学校の区域ってどの変なのかなって思って」

「こうたくんって須恵小学校よね?」

「そうです」

「それなら、お姉さんわかるわよ。同じ小学校出身だから」

驚いてお姉さんの顔を思わずばっと見てしまった。

「そんなに驚くかな?」

笑うお姉さんのお花のイヤリングがユラユラと揺れる。

「この山の麓から、この川沿いまでが須恵小学校の範囲。んで、ここがこの図書館ね。これで大丈夫?」

「お姉さん……ありがとう」

「こうたくんが目を見てお礼を言うなんて、お姉さん感動だわ! 嬉しい!」

僕は気恥ずかしかったが、ちゃんとお礼が言えたことが自分のことでありながら、少し誇らしかった。

同じ交差点を利用することからある程度まで範囲を絞り込むことができた。

推理ものの本を読んでいるおかげだろうか、思いのほか上手くいった。

もしかしたら彼女のお姉さんに何か話を聞けるかもしれない、その一心で僕は彼女に繋がる手がかりを探した。

一度家に帰ったが、看板おじさんに足を引っ張られたまま引き摺り込まれていく彼女の夢を見て全く寝付けなかった。

「僕が助けるんだ……」

目覚めは最悪だったが、そのおかげで朝早くから昨日絞り込んだ校区の家々の表札を見て回ることができた。

「しらさき、白崎……」

「……」

「あった」

白い洋風の家で、母親が育てているのだろうかバラやパンジーなどの色とりどりの花が咲いていた。

大きなガラス窓のところに、黒いグランドピアノが見えた。

なんとか1日で彼女の家を見つけることはできた。

しかし僕は目的の家を見つけたのにいきなり「白崎さんのお宅ですか」と伺う勇気がなかった。

家の前でどうしようかと迷っていると、玄関のドアが開きジョウロを手にした女性が出てきて花に水をあげ始めた。

横顔が彼女と間違うくらいそっくりな雰囲気で、きっと彼女は母親似なのだろう。

「すみません、白崎さんのお宅で間違いないでしょうか? 白崎みきちゃんと友達で、彼女のお姉さんに用事があって伺いました」

僕は勇気を振り絞って、ジョウロを持つ女性に話しかけた。

その女性は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにニコッと微笑んだ。

「みきのお友達なのね。 嬉しいわ。 ちょっと待ってね」

そう言って、家の中に招き入れてくれた。

「……」

「オレンジジュースがいい? お茶がいい? 」

ジョウロを持った女性は姉ではなく、やはり母親だったらしい。

「オレンジジュースでお願いします」

「……」

「はい、どうぞ。 こんなに暑い中、よく来てくれたわ。 姉のかなはもうすぐ帰ってくるから」

そう話していると「ただいま! 」と明るい声が玄関から聞こえた。

「噂をすればちょうど今、帰ってきたみたい」


「かな、お客さんよ」

「ん〜、だれ?」

「みきのお友達だって」

その言葉が聞こえると同時にドタバタと玄関の方から足音が近づいてくる。

「君がみきのお友達!?」

リビングのドアが開き、艶のある茶髪ボブカットの女性が顔を出した。

「……そうです」

僕はみきと亡くなる前に友達になったという程で話を進めた。

「そうなんだ、みきに男の子の友達がいるなんて初めて知ったわ。そうね懐かしいわ……」

かなさんは小学生である僕が家に訪ねてきて、みきの友達だというものだから最初は驚いている様子だった。

かなさんは県内にある私立音楽大学に通う、大学一年生だという。

話を進めるうちに、かなさんはみきちゃんとの思い出をなぞるように穏やかな表情で話してくれた。

「そうねぇ……。みきが亡くなったのはちょうどこうたくんと同じ10歳で、小学4年生だったものね。もし生きていたら、君より4歳年上の14歳なのよね」

「お尋ねしますが、みきちゃんとかなさんは何歳差なんですか?」

「私と4つ離れているの」

「……」

かなさんはコースターの上に汗をかくように置いてある麦茶を一口ぐびっと飲んだ。

そして、みきちゃんが事故に遭った日のことを話し始めた。

「あの日、学校の給食に珍しくホットドッグが出た日のことだったわ。ホットドッグを食べ終えて五時間目の地理の授業を受けていた時、担任の先生が教室に入ってきたのよ。白崎、急いで職員室に来なさいって」

かなさんは手に持ったグラスをじっと見つめている。

「渡された電話に出ると、お母さんだったわ。かな、今すぐ帰ってきてって。みきが車に轢かれたのって。 私はお母さんが何を言っているのか理解するまで数秒かかったわ。そして病院に急いで駆けつけたのだけれど、みきはもう息を引きとった後だったわ」

「……」

「みきちゃんは、お姉さんのピアノが好きだったんですよね……? 」

僕は俯いたかなさんの目を見つめ言った。

「そうなの、毎朝私が朝食を食べた後に少しだけピアノを触るのだけれど。みきが起きてきて、ご飯も食べずに私の弾く鍵盤を覗きにくるのよ。みきに弾いてみる? って聞くと、ううん、見てるだけでいいっていうのよ。でもそんなところがとっても可愛らしかったのよね」

「僕にみきちゃんが大好きな、大事な歌なんだってお姉さんが作った歌を教えてもらいました」

「みきがそんなことを……? 」

「はい、ただ僕も随分前に教えてもらったので続きを忘れてしまって。それを聞きに訪ねたんです」

かなさんはグラスを握りしめたまま、その歌を口ずさんだ。

歌を口ずさむかなさんは目を瞑り、みきちゃんと過ごした時間を思い出しているようだった。

「……」

「みき、この歌がそんなに好きだったんだ」

歌を歌い終えた後、噛み締めるように呟いた。

「……」

「こうたくん、みきのこと覚えていてくれてありがとう。また遊びにおいで」

かなさんはそばで聴いていた僕の目を見て、優しい声で言ってくれた。



僕はかなさんにお礼を言って白崎さん家をあとにし、帰り道交差点の横を横切った。

あんなに悲惨な事故がここであったのが信じられなかった。

信号の赤い点灯を見つめる。

とても長い時間がたったように僕には思えた。

信号が変わり歩き出す。

「そういえば初めて会ったとき彼女はこのあたりに立っていたっけ……」

僕は白線の上に足を乗せ歩き始めた。

そして、彼女が愛した歌を歌った。

すると白線だけが浮き上がり、あの宇宙のような美しくも恐ろしい世界に変わった。

また僕は立っていられず、思わずしゃがみ込む。

以前の僕は、ここでダンゴムシのようにうずくまり全く動けなかったが、僕は歌を歌い続けた。

目を凝らし星のように見える輝く光を一つ一つ見てみると、そこに映っていたのは彼女から見た僕の姿だった。

星のように見えた光は彼女の記憶だった。

「彼女から見た僕ってこんな風に見えてたんだ……。あの光は僕が彼女にパッキンアイスを渡そうとしてるところで、その隣は推理本の面白いところを彼女に力説した日のことだ」

歌を歌い終わってしまうといつもの風景が戻ってきた。

僕はふと岡本達と遊んでいた白線ゲームのルールを思い出した。


〈〈奈落に落ちると死〉〉という言葉が頭をよぎる。


怖い、落ちたら二度と元の世界に戻れないかもしれない。

僕の心臓の鼓動が発作を起こすように波打つのがわかった。

それでも彼女の目線から見た僕の表情はいつもより、楽しそうで自分でもこんなに柔らかく笑えるのかと思えるほど幸せそうだった。

僕は再び歌を歌い始め、白線上から助走をつけ光目掛けて思いっきり飛び込んだ。

「僕は彼女にまた……!」

僕は光に包まれた。

光の中は何も見えずわけも分からないまま、彼女の姿を追いかけ、もがいた。

目を開けると、僕の前をご機嫌そうに白線上で手を広げ歩く彼女がいた。

僕はタイムリープしたのだ。

「なんで、いるの……? 」

僕がポロッと口に出た言葉が聞こえたのか、前を歩く彼女が振り返る。

「いちゃだめ? 」

「ううん、いてくれてよかった」

「ふふっ、変なの」

彼女は笑った。

「……」

僕は彼女に聞いてと看板おじさんのこと、彼女を救えなかったこと、お姉さんに会ってきたこと、タイムリープしてきたことを話した。

「……そんなことがあったの!?」

それを聞いた彼女は驚いたと同時に身を震わせながら、「ありがとう、ありがとう」 と言った。



二人は再び学校の音楽室を目指した。

幸運にも看板おじさんは校門前から場所を変え、裏のウサギ小屋に近い垣根の高い道路に設置されていた。

音を大きく立てたら再び襲われる可能性があるため、油断はできなかった。

「ちょっと待ってて」

僕は彼女を校門の塀の影に待たせ、彼女のためにライン引きを出そうと体育倉庫に入る。

学校の校庭にはもちろん白線はない、彼女を音楽室までどうやって連れて行くかを考えた僕の苦肉の策だった。

ちゃんと白線、彼女の道としての役割を石灰で作った道が果たせるか不安だったが、僕はライン引きを出そうと、倉庫のドアを大きくスライドさせた。

ギギギギギィ

運が悪いことに体育倉庫のドアのたてつきが悪かったのか、静かな校庭に金属音が鳴り響いた。

やばい!! 僕がそう思ったのも束の間、垣根から看板おじさんがタケノコのようにひょこっと顔を出した。

その目線は目の前の僕を通り越して、彼女を見ていた。

僕はライン引きの取手をしっかり掴み、できる限りのスピードで校門で待つ彼女の元へ走った。

「みきちゃん、走って! 」

不安定な石灰でできた白線の道が怖いのか、彼女は戸惑ってなかなか白線に乗ろうとしない。

このままだとまた捕まってしまう! 僕はそう思った。

怖がる彼女の手を引こうと手を伸ばす。

パシっ!

僕は彼女の手を取り、片手で白線を引きながら校舎の玄関の方へ走った。

ガタガタガタガタ……。

跳ねるように揺れるライン引きを片手で押す手が、親指のところから裂けるかと思うくらい痛かった。

痛みなど構わず、彼女を握る手とライン引きを握る手のどちらも力を緩めるどころか離すまいと精一杯握る力を込めた。

僕には後ろを振り返る余裕すらなかった。

看板おじさんのプラスチックが衝突し合うような、不気味な音が後ろから迫ってくるのがわかる。

玄関のドアまであと3メートル。

看板おじさんの気配が近づいてくるのを感じ、耳がゾワゾワとうずく。

「やばい、すぐ後ろに奴がいる! もうダメだ……!!」

僕は倒れ込むかのように、ガラス張りの玄関の取ってに手を伸ばした。

ガッシャン!!

僕と彼女は間一髪、玄関に滑り込むことが出来た。

勢いのあまり、引っ張っていたライン引きが倒れる。

セーフと言うこともせず、僕は玄関に入ってすぐ急いでガラス張りの玄関のドアの鍵を閉めた。

看板おじさんは警備範囲ギリギリまで追いかけてきた。

心臓がドクドクと飛び出そうになるほど、鼓動しているのが自分でもわかった。

ガラス張りのドアから、瞼のない目でしっかりこちらを凝視する看板おじさんと目が合う。

目の前でまじまじと見る看板おじさんは、背丈は見上げるほど大きく、人間味のないその目は不気味で息が止まりそうになるほど威圧感があった。

僕は恐ろしい気持ちをぐっと堪え、目を逸らさずに奴を睨み返した。

「……」

しばらくして、看板おじさんは手に持つ誘導灯を消し、くるりと背を向け元いた場所の方へ帰っていく。

僕はその姿が見えなくなるまで睨み続けた。

看板おじさんが見えなくなったのを確認すると、僕は力を失うかのように足の力が抜け膝をついた。

ずっと手を握りしめていた彼女と顔を見合わせる。

すると彼女は僕の顔を見てくすくすと笑い出した。

緊張が解けて変な顔をしていたのだろうか、僕も彼女の笑顔につられて笑いが込み上げた。

二人の笑い声が真っ暗な校舎に反響する。

「あっ、手……」

僕は今まで触れられなかった彼女の手をしっかり掴めていることに気づいた。

「ちょっと、痛かったよ」

彼女が目尻に笑って出た涙を滲ませながら言った。

「ごめん、つい必死で……」

僕は手を誤魔化すように離した。

「うん、ありがと」

「……」

「行こうか」

僕は立ち上がり、倒れたライン引きから溢れた石灰の山を手で集め入れ直して言った。

彼女は静かに頷く。


階段の前までくると、ここからはどうしようかという不安げな目で彼女は僕を見つめてきた。

僕は何も言わず、ライン引きの粉を鷲掴みにして自分のズボンのポケットの中一杯に突っ込んだ。

「乗って」

僕はしゃがんで彼女に言った。

「重いって言わないでね」

「いいから」

僕は彼女をおぶって階段をあがった。

4階の音楽室に行くまでの道には、僕のクラスである4年1組の前を通る。

僕は彼女をおぶりながら、自分の過去のことを話した。

白線ゲームのこと、ランドセルのこと、人を信用出来なかったこと、でもそれが変わったこと。

彼女は僕の話を静かに聞いていた。


音楽室の前に来ると、胸の鼓動が速くなるのが自分でもわかった。

背中から伝わる彼女の鼓動も僕と同じようだった。

「着いた……」

中には大きなグランドピアノがどっしりと、教室に佇んでいた。

月光が差し込み、グランドピアノに反射しよりその黒さを際立たせている。

「座って」

僕は片手で椅子の埃を払った後、彼女を座らせた。

そして両手をポケットにつっこみ、中に詰め込んでいた粉を思いっきりピアノにふりかけた。

黒いピアノが真っ白になる。

彼女は驚きつつも、嬉しそうに僕を見つめていた。

僕は弾いてと言わんばかりに、両手を前に差し出す。

彼女は頬を緩ませながら鍵盤に手をかけた。

彼女がはじめの音を響かせた瞬間、周りの音がスッと消えその音色に包まれていくのがわかった。

ピアノの音が夜の学校に響く。


「歩き出した日々、君と笑った時間、それがかけがえのない宝物。

わたしを繋ぐものはこの歌と記憶の夜空、白い道の先で君を待つ」


歌が終わり、彼女が鍵盤から手を離す。

僕は目から熱いものが溢れそうになったが、それをぐっと堪えた。

「とても素敵な歌だね」

「この歌を最後に聴かせられたのが君でよかった」

そう言って、彼女は笑った。

歌の続きを知り、心残りがなくなった彼女の体がぼんやり光り始める。

少しずつ光になり、ほどけるように消えていく彼女を僕は強く抱きしめた。

暖かな光の粒が空に溶けていくのがわかった。

「こうたくん、ありがとう」

最後の光の粒がそう言ったように思えた。

「……」

彼女が消えてしまった後で、僕は静かに泣いた。

「僕は君に、たくさん、たくさん……」

彼女からもらった思い出が、アルバムをめくるようにフラッシュバックしてきた。

「またきっと、どこかで会えるよね……」

そう思いながら、泣き疲れた僕は静かに眠りについた。



キーンコンカーンコーン

チャイムの音が聞こえ、僕は目を覚ました。

気がつくと、真っ白になったピアノと音楽室の入り口に仁王立ちした担任の先生が見えた。

先生の後ろから、こちらを覗き込むように様子を伺っている同じクラスの人達の顔が見える。

心配しているような不安げな顔、面白そうにニヤニヤとしている顔、白くなったピアノに驚いている顔など、いろんな表情がそこにあった。

ああ、僕はこれから叱られるんだ……。そう思いつつもどこか清々しく、誇らしげな自分がいた。



太陽に照りつけられ、首にかけたタオルで汗を拭う。

「なんでずいぶん昔のことを……」

きっとこんなことを思い出すのは、陽炎がアスファルトに浮かぶようなこの夏の暑さのせいだと思う。

僕はそう思いながら今日も工事現場で白線を引く。

僕は彼女と歩いた道をずっと作り続けているのだ。

思い出を忘れないために。

君が僕を心の白線から解放してくれたのだから……。



「みき起きなさい、ご飯よ〜」

「ん〜! あと5分だけ。」

「もう7時よ、お姉ちゃんはとっくに起きて食べたわよ。ほら! ほーら!!」

布団を無理やり剥がされ、しぶしぶ階段を下る。

今日はお父さんも早起きらしい、コーヒーの匂いがする。

隣の部屋からお姉ちゃんのピアノの音が聞こえてくる。

いつもと違う曲……

お姉ちゃんは毎朝、学校に行く前にピアノを練習している。

私はそんな姉がとても自慢で、大好きだ。

いつかお姉ちゃんみたいにピアノが上手く弾けたらいいな……

私の手はお姉ちゃんと比べて少し小さい。

鍵盤の1オクターブを小指と親指で押さえるのも、精一杯なくらいだ。

ご飯を食べてしまってから、私もお姉ちゃんの後を追うように庭の門を出る。

塀の上にいる少し太った三毛猫に、挨拶がてらにアイコンタクトをする。

いつも睨んだように見下げてくる姿も、猫だから許せる。

「おはよ、行ってきます」

今日は少しだけご機嫌そうだったな……

そう思いながら、お姉ちゃんの後を追った。

中学2年生のお姉ちゃんは歩くのが早い。

お姉ちゃんの歩幅は何オクターブなんだろう……


小学校の校門前で別れて、その日の1時間目は外で体育だった。

持久走が近いので、その練習が必ず行われる。

今日の練習は、実際に走るコースを下見がてら走るといったものだった。

半袖で「寒い寒い」と言いながら、腕を摩りスタートラインに着く。

担任の先生が笛を吹いた時、笛の音が耳をつん裂いた。

瞬きをしている内に、みんなが走り出す。

みんな思ったよりもペースが早い。

仲よしの千夏(ちなつ)に置いていかれないように、ちょっとペースを上げる。

コースの中盤まで来た時、急に脇腹が痛くなってきた。

「うう……、千夏お腹痛いから置いてって」

「大丈夫!?」

千夏は心配そうに私の顔を覗き込む。

「大丈夫だから、先行ってて」

精一杯の笑顔でそう言った。

ペースを上げすぎたのかな。

電線に止まったカラスが馬鹿にするように鳴いてくる。

「こんなに音って、頭に響くものだったっけ……」

数秒後、私は道端で倒れていた。

いつも友達とお菓子を買いに来る、おばあちゃんの駄菓子屋の前だった。


「大丈夫ねぇ??」

おばあちゃんの優しい声で目覚めた。

「あれ、走ってて……」

「顔真っ青だったよ。小学校の先生には電話しといたからゆっくりしておいで」

おばあちゃんは敷布団を座敷に敷いて、私を寝かせてくれていた。

時計の針が16時を指す。

「もう、こんな時間……。あいたた、あた〜」

おばあちゃんは箪笥の上に置いていた赤いラジオに手を伸ばし、ダイヤルを回す。

ザッ、ザザザーー

砂嵐の音が聞こえた後、ゴニョゴニョと声が聞こえる。

おばあちゃんがダイヤルを回すと音がはっきりしてきた。

  本日のラジオ。ラジオネーム、サルノコシカケさんからのお便りです。

先日、孫の体育祭を見に行きました。運動嫌いな孫がゴールまで一生懸命走る姿を見ると、涙が出ていました。歳をとると涙脆くなるとは聞いていましたが、実感する日が来るのは早かったと思います。やはり孫の笑顔を見るのは、どんな薬よりも効果があると思います。

ともちゃん、今度おまんじゅう作るから、遊びにおいでね。

サルノコシカケさんからのリクエストで、童謡「線路は続くよどこまでも」です。


「あ、この曲知ってる。線路は続く〜よ ど〜こまでも 野〜を越え 山こ〜え」


みきは小さい声でラジオに合わせて歌っていた。

「みきちゃんもこの歌すきかい?」

「はい。好きです! よくお姉ちゃんがピアノで弾いてくれたんです。学校から帰る時も白線を線路にして、歌ったりして」

「ワシがみきちゃんくらいの歳だった頃もこの歌でよく遊んでいたものだよ。当時はまだ道路ができる前、鉄道が通っていたんじゃよ。よく線路に忍び込んでは、危ないからって怒られていたんじゃ。当時の友達とはもう疎遠になってしまったのだけど、今は元気にしてるんじゃろか。みきちゃん、線路を列車が前に進むように時の流れも前に進む。それは変えられないことじゃ。だから今見ている風景を、人をしっかり目に焼き付けておくんじゃよ。きっとそれが救いになる」

私はおばあちゃんが言っている意味がわからなかったが、「はーい」と返事をしていた。


 ブウォン、車のエンジン音が聞こえた。

先生が黒いバンを回して迎えに来てくれ、家まで送ってくれた。

通り過ぎていく景色を窓から見ていた時、何かまがまがしい黄色い何かが見えた気がした。

振り返るも、いつも通る交差点がそこにあるだけだった。


次の日、私は学校の帰りにおばあちゃんの駄菓子屋さんに寄った。

昨日のお礼を渡しに行くためだった。

お母さんが、お礼のお菓子にアールグレイのパウンドケーキを持たせてくれた。

「みきちゃん、もう体調は大丈夫なのかい?」

「はい、おかげさまで。昨日ゆっくり休んだら元気になって、今日学校も行ってきました。

これ、昨日お世話になったお礼です。」

「子供が気を使うもんじゃないよ。こうやって顔見せに来てくれるだけでも嬉しいものじゃよ」

「いやっ、でも!」

差し出す紙袋をおばあちゃんは受け取ってくれなかった。

「みきちゃん、お礼はしなくていいんじゃよ。私も遠い昔に、同じようにされて育ってきたんじゃから。その分、みきちゃんの番が来たときに、助けを求める人に手を差し伸べられるような、そんな生き方をするんじゃよ。これは、うるさい駄菓子屋ババァとの約束じゃ」

おばあちゃんが小指を差し出す。

「わかった! そうするね! おばあちゃん!」

「「指切りげんまん 嘘付いたら 針千本の〜ますっ! 指切った!」」

おばぁちゃんは、入れ歯をカタカタと言わせながら笑った。

「そうじゃ。これ、食べるかい? キャラメルだよ。わしゃ食べられなくてな」

なんだかおばあちゃん、うちのおばあちゃんみたい……そう思いながらキャラメルを貰う。

いつも家のテーブルの上のガラスの器にあるキャラメルよりも優しい味がした。

おばあちゃんにお礼を言い、ランドセルを背負い家の方に向かう。

少し歩くといつもの交差点だ。

白線からはみ出ないようにゆっくりバランスをとり歌を歌いながら進む。

「せ〜んろは続くよ ど〜こまでも〜」

交差点が見えてきた。

たばこ屋さんにある自販機角を曲がると横断歩道がある十字路の交差点。

「ははは、捕まんないよ〜!」

横断歩道のカッコウの声が止まった時、後ろから年下であろう黄色い帽子を被った男の子が急いで走って追い越して行った。

今青じゃないんじゃ……

嫌な予感がして、咄嗟に男の子を追いかける。

男の子の腕を掴んだと思った瞬間、それは飛び出し防止用の看板だった事に気づいた。

しかし、気づくのが遅かった。

ガコン!!

私はトラックに撥ねられていた。

体が宙に舞うのがわかった。空が一瞬見えて、迫り来る地面の白線に手を伸ばした。

朦朧とする意識の中、お姉ちゃんが弾いていたピアノの音が聞こえた気がした。

「ああ、お姉ちゃんの歌、ピアノで私も弾きたかったなぁ。練習もしてたのに。」

そんな事を思った時、私は倒れているはずの自分を見ていた。

交差点の白線上に立ち、上からから眺めている。

せっかく買ってもらったお気に入りの白いワンピースもビリビリに破れ、血で赤く染まっていた。

「だい、じょうぶ…………? え?」

目の前に倒れている人物が、自分であることをすぐには理解できなかった。

私が助けようとしたのはただの看板で、今、目の前に倒れているのは自分だとわかったのは私の身体が持ち上げられ、救急車に乗せられようとしていた時だった。

ザワザワと遠のいていた周りの雑音が、脳内に流れ込んでくる。

自分の体だけを見つめていた視野が、ピントを合わせるように広がり、周りの情景が視界に入ってくる。

足元に真っ直ぐに伸びた白線と、白線以外の地面が宇宙のように透けて、暗闇のような世界がそこに広がっていた。

事故現場を調べている警察官や、野次馬の人々、タンカーで私の身体を持ち上げ運ぼうとする救急隊員らが見える。驚いたのは彼らが立っている場所だった。

彼らは、その吸い込まれそうに広がった宇宙、暗闇の空中に浮いていたのだった。

地面のない場所を踏み締めて彼らは歩いていた。

ぼうぼうと点滅する救急車の赤いランプの光が、暗闇に吸い込まれているのがわかった。

恐る恐る自分の足元を見る。

底のない暗闇が大口を開けているかのように恐ろしかった。

みきにはわかった。

この白線から足を踏み外せば、もう二度と元の世界には帰って来れないことを。

「みき! みき! お願い目を覚まして! みき!!」

聞き覚えのある声に、反射で顔を上げる。

タンカーで運ばれ、救急車に乗せられようとする自分の身体に、お母さんが私の名前を呼んでいるのが見えた。

タンカーにしがみつきながら髪を振り乱して、救急隊員の人に必死に何かを訴えている。

「お母さん! お母さん! みきここにいるよ! どうして気づかないの! ねぇ! お母さん!!」

心の中で必死に叫んだ、あまりの出来事に声を発することが出来なかった。




どれだけ時間が経っただろう……













お母さんがお花を持ってきた。

私の好きだった、キャラメルとお人形、庭で大事に育てていたお花を摘んで。

あれから2回目の夏が来た。

夜は白線の上に座り、月を見上げて満月を数えた。

交差点は本当に色んな人が通る、私と同じ小学生、中学生、高校生、大人、警察の人、郵便局の人とにかく色んな人。

「いつまでここにいるのかな〜。ずっとひとりぼっちなのかな。つまんないや」

白線の上に座って、足をぶらぶらと動かしていた時だった。

小さなダンゴムシが、みきの座っている白線を横切る。

「君はすごいなぁ、こんな世界を。こんなに自由に」

ダンゴムシは白線を横切って、星空の散らばるアスファルトの黒い海に出た。

「おーい、早くこっちこいよ。グズグズすんな」

ガキ大将のような声が聞こえて、思わず振り向く。

小学生くらいの男子3人組が、白線の上で押し合いっこをしながらはしゃいでいる。

「白線からはみ出すと、危ないよ」

聞こえるはずもない忠告をひと言、言ってみる。

「聞こえないよね……」

そう思った時だった。

「こうた、給食着引きずるなよ」

小太りの男の子が曲がり角の先に向かって言った。

「わかってるって」

同級生のランドセルを前後ろ両腕に四つ抱えた男の子が見えた。

「……」

こうたと呼ばれる男の子は、ずり落ちそうになっている給食着を必死に抑えていた。

「なんか、声聞こえなかった……?」

「何言ってんだお前、アニメの見すぎだろ」

ガキ大将の男の子が嗜める。

信号が赤から青に変わる。

ダンゴムシは横断歩道の白鍵の上を小さな足でゆっくり歩いていた。

踏まれちゃう! みきはそう思った。

「そういや、ポカモンのレアパケ開けたらキラが出たんだぜ」

「ウオ! いいな! 今度勝負しよ!」

ガキ大将達が流行りのカードゲームの話で盛り上がりながら、飛び石のように横断歩道の白鍵を渡る。

ガキ大将達は、足元の小さなダンゴムシには気づきもしていない様子だった。

幸いなことに、ダンゴムシのすぐ側を靴達が歩いたが、踏まれることはなかった。

荷物を持たされた、こうたくんは話についていけないのか、少し離れてついて行っているように見えた。

彼も律儀に横断歩道の白鍵を踏み、歩こうとする。

こうたくんは、白鍵の上の小さなダンゴムシに気付いたようだった。

どうするんだろ……

そう思っていると、ダンゴムシをじっと見た彼は一呼吸立ち止まり、一つ目の白鍵を大股で跳び越えた。

ランドセルに付けられた、ポカモンのキーホルダーが揺れる。

「ポカモン好きなんじゃん。しかもあれって……」

お姉ちゃんのピアノ教室の帰り際、お母さんと3人で買い物に行っていた。

その時、よくポカモンのイチゴ蒸しパン買ってもらってたのだ。

「ポカモンのシール集めて、冷蔵庫に貼ったら怒られたっけ……あっ、そうだ」

見覚えのあったキーホルダーは、ポカモンパン50個買わないと貰えない限定品だった。

毎年キャラクターは違うものの、虹色に輝くホログラムのアクリルキーホルダー。

みきには、それがポカモンパンのキーホルダーだとわかった。

凄いな、あの男の子。みき、貰えなかったのに……。

「今度あの男の子が通ったら、話しかけてみようかな……。声聞こえてたかもしれないし」



夏休みに入ってしまったのだろうか、学校の登校時間になってもあの男の子はもちろん、ランドセルを背負った子ども達の姿が見えなかた。

みきはたばこ屋の入り口に吊り下げられた風鈴を眺めていた。

「全然、あの男の子通らないや」

そう思っていた時だった。

向かいの横断歩道の前に見た覚えのある男の子が立っていた。

信号が変わり、こちらに歩いてくる。

こうたくんだっけ? どこに行くんだろう……。

近づいてくる彼を、じっと見る。

片手には重そうな、青いカバンを持っていた。

こうたくんは学校とは反対方向の、駄菓子屋の方へと汗をかきながら歩いていった。

「……」

夕方のチャイムが鳴る頃、少年は再びこの交差点に現れた。

何やってたのかな……?

特に昼間に彼を見かけた時と、何ら変わりはなかった。

でも、ぼーっとしてる?

横を通り過ぎる彼の足つきは急ぐわけでもなかったが、嫌な予感がした。

「ははは、捕まんないよ〜」

どこかで聞いたことのある声が聞こえる。

みきは声のした方を振り返った。

そこには見覚えのある、黄色い帽子の男の子がいた。

手に持った黄色い旗をパタパタと振っている。

「あの子!」

自分が轢かれた時のことがフラッシュバックした。

たしか、あの男の子! 人間じゃない!

飛び出そうとする、黄色い帽子の男の子の腕を掴んだと思った瞬間、それは飛び出し防止用の看板だった事に気づいたことを思い出す。

「こうたくんが危ない!」

こうたくんは、赤信号のままの横断歩道に吸い込まれるように歩いていく。

聞こえないかもしれないことはわかっていたが、みきは思い切り叫んだ。


「危ない!!!」


彼は横断歩道の白鍵に一歩足をかける前に止まり、こちらを振り向いた。

さっきまで目線が合わなかったはずの、こうたくんと目が合った。

彼は驚いて、目を丸くしている。

「な、なに……?」

私は久しぶりに人と会話をした。

こんなに人と言葉を混じり合わせることがドキドキして、嬉しいものだとは思っていなかった。

一呼吸、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「ちゃんと信号見ないとダメだよ、赤じゃん」

彼はチラリと信号を確認した。

「ほんとだ、気づいてなかった。ありがとう」

「うん、気をつけてね」

私は恥ずかしい気持ちを抑え、精一杯の笑顔で笑った。

向こう側へと歩いていく彼が、横断歩道を渡り終えるまで見続けた。

少年が後ろを振り向く気もしたが、私はさっきの飛び出し看板の少年が走って行った学校の方へ向かった。

「黄色い帽子の、あの男の子。もしかしたら私が地縛霊になった原因も知ってるかもしれない……」

白線の上を踏み外さないように慎重に走った。

「ははは〜、あははは」

あの男の子の声が響いて聞こえる。

「お願い! 待って! 聞きたいことがあるの!」

ブロック塀の家の角を曲がると、黄色い頭を見失ってしまった。

「あれ……どこ行ったの?」

誰も、車も通らなかったが、どこかから見られている気がした。

「……」

「お姉ちゃん、僕になんの用なの?」

あまりにも近くから声が聞こえたので、後ろを振り向いて周りを見渡すも、あの黄色い帽子の男の子の姿は見あたらない。

「お願いだから、出てきて!」

「どうして?」

「君にどうしても、聞きたいことがあるの」

「もぅ〜しょうがないな」

ため息と、呆れた声が聞こえた。

右側に聳え立っているブロック塀の松のモチーフの風通し穴から、黄色い頭が見えた。

「僕のこと人間じゃないのに追いかけまわして、ひどいよ」

身長が足りないのか、ブロック塀の穴から見えたのは黄色い帽子だけだった。

「私のことわからない? 君が赤信号の横断歩道を渡ろうとするのを止めようとして、死んじゃったんだけど……」

「ごめん、僕わかんない」

「覚えていないんだ……。君さっき、たばこ屋の前の交差点で、他の男の子に私にした事と同じ事をしようとしたでしょ?」

「だって、それが僕の仕事なんだもん。そうしないとパパから怒られる」

「パパ? 怒られるの?」

「そう、怒られるから」

「パパって、どんな人なの?」

「知らない人に教えちゃダメって、言われてるから教えない」

「じゃあ、私が地縛霊になっちゃった原因って、分かったりしないよね?」

「お姉ちゃんは、僕と同じなようでちょっと違う。この世界に強い心残りがあるから地縛霊になっったんだと思う。この世界には2種類の地縛霊がいる、自然発生型の地縛霊、お姉ちゃんみたいなね。もう一つは、僕みたいな存在さ」

「君の名前は?」

「飛び出し小僧」

「飛び出しくんにも心残りはあるの?」

「それが……わからないんだ。思い出そうとすると頭痛が走って思い出せない。パパが撫でてくれると治るんだけど」

「そうなんだ……」

「もう一つお願いなんだけど、あの男の子に手を出すのはやめてくれない?」

「それは無理。僕の仕事だから」

「お願い……!」

「それじゃあ、僕の探し物を見つけておくれよ。それを見つけてくれたら諦める」

「いったい何を探したらいいの?」

「それは……僕の瞳の輝きさ」

そう言うと、飛び出しくんはブロック塀からバッと飛び出てきた。

黄色い帽子を被った、彼の顔が急に目の前に現れる。

その瞳には輝きがなかった。

彼の瞳は宇宙と同じくらい真っ暗な闇が広がっていた。

幼い子供の目とは思えないくらい、目がすわり、見つめられるとドキリとした。

「あははは、お姉ちゃん。約束だからね」

「……わかったわ」

「もう行かなくっちゃ」

飛び出しくんは私の真似をするように、白線の上を歩き出す。

「あっ、言い忘れてたけど。僕ら側の存在、看板おじさんには気をつけてね。僕らとは違って話が出来る相手じゃないから」

「看板おじさん?」

「そう。工事現場の看板に住んでいる変わり者さ。お姉ちゃん、見つかると中に引き摺り込まれるからね」

「引き摺り込まれたらどうなるの?」

「ん〜僕でもわかんないや。ただ帰っては来られないと思う」

「……」

そんな危険な存在がいることに衝撃を受けて、声が出なかった。

「あっ、怖くなっちゃった? まぁ、僕は知らないけど」

いたずらげに飛び出し小僧は笑い、走り去ってしまった。


飛び出し小僧がいなくなった道は驚くぐらい、静かになった。

「どうしよう……飛び出しくんの瞳の輝きって。どうやって見つければいいの。とりあえず、今のところはこうたくんには近付かないって、約束はしてくれたけど」

ぐるぐるとさっきまでの飛び出し小僧との会話を思い出す。

たばこ屋の角を曲がり、いつもの交差点に戻ってきた。

「あっ、お姉ちゃん」

トラックが追突した電柱に向かって、お姉ちゃんが両手を合わせていた。

お姉ちゃんが私が死んだ場所に、お花を持ってきてくれていた。私が好きだったポカモンパンとキャラメルもあった。

「みき、お姉ちゃんプロ目指そうと思うよ。みきが私のピアノ大好きだって、よく言ってくれたね。朝、鍵盤を叩いていると、みきがピアノの側で聴いてるのわかるよ。お姉ちゃん、頑張るね」

お姉ちゃんはそう呟くと、家の方へ歩いて行った。

「お姉ちゃん、ずっとピアノ続けていてくれたんだ」

お姉ちゃんのピアノ大好きだったなぁ。

私の無茶振りリクエストした曲を、「はいはい」と言いながら弾いてくれる、とても優しくてカッコいい、自慢のお姉ちゃんだった。

ビーーーン

頭の中で、神社の鐘が響くような耳鳴りがした。あまりの音の大きさに頭に振動を感じるくらいだった。

「思い出した……」

お姉ちゃんに教えてもらって練習していた歌のことを思い出す。

「なんでこんなに大事なことを忘れていたんだろう」

トラックに轢かれたあの日、飛び出し小僧を見かける前、考えていたのはお姉ちゃんに教えてもらった歌を、明日友達に聴いてもらおうと思っていたことだった。

お姉ちゃんとは手の大きさが一回り違うみきにとって、お姉ちゃんが作った曲は難易度が高かった。

一生懸命にピアノを弾いていた日々を思い出した。

体が宙に舞った瞬間、空が一瞬見えて迫り来る地面の白線に手を伸ばした。

朦朧とする意識の中、お姉ちゃんが弾いていたピアノの音を聞いた。

「ああ、お姉ちゃんの歌、ピアノで私も弾きたかったなぁ。練習もしてたのに。」

死ぬ瞬間、みきが強く強く願ったことだった。

誰とも話さずに、白線の地縛霊としてぼーっと時を流れるのを眺めていて、いつの間にか忘れてしまっていたようだった。

「ピアノ弾きに行かないと……」

みきは学校に行こうとした。

カサカサカサ

ポカモンパンの袋が風に揺らされ音がなる。

「こうたくん……」

飛び出し小僧との約束を思い返した。

このまま自分だけ心残りを果たせたとして、気持ちよく消えられるのだろうか。

私が約束を破って、あの男の子が飛び出し小僧の仕業で、私と同じ地縛霊になってしまったら……

ポカモンパンの隣にちょこんと置いてある、キャラメルが目に入る。

学校へと進もうとした足が止まった。

「……同じ思いは、させたくないかな」

みきは飛び出し小僧との約束を果たすことを決めた。

交差点を走る車が明るすぎるヘッドライトをつけて走っている。

もう夜なことがわかった。

「飛び出しくん、探さなきゃ」


みきは通学路までの横断歩道のある場所を、しらみ潰しに探すことにした。

商店街前の見通しの悪い、小さな交差点に飛び出し看板があったことを思い出した。

お酒の缶を片手に、ネクタイを鉢巻のように頭に巻いたサラリーマン達が、千鳥足で歩いていた。

「ここ、危ないのに……」

赤いポストの側にそれはあった。

緑の帽子に、黄色い旗を持った男の子の飛び出し看板だった。

設置されてから、そこまで時間が経っていないのか、表面のコーティングがテラテラと街灯の光を反射している。

掌を見せながら「止まって」と訴える、その男の子の瞳には白い光が宿っていた。

「これじゃないか……」

飛び出しくんは黄色い帽子と黄色い旗を持った、男の子の姿をしていた。

次に広い田んぼと、みきが住んでいた住宅街につながる道のT字路の交差点。向かいに神社がある場所だった。

たぬきの親子が側溝を足早に走っていく。

カカシの側に置かれた、飛び出し看板をじっと見る。

その飛び出し看板は、二つ結びの女の子だった。

さっきの飛び出し看板とは違って、新品ではなくそれは錆びれかけていた。

錆びた部分を拭おうと、手でなぞった時だった。

「ふふっ、ありがとう。でも取れないの」

みきがばっと振り返ると、神社の石の階段に二つ結びの女の子が座っていた。

黄色い帽子に、赤いランドセルを背負っている。

「お姉ちゃん、どこからきたの?」

「私は、たばこ屋の側の交差点から」

「あー、あの事故が多い場所ね」

「お姉ちゃん、人間じゃないでしょ」

「そうだけど……」

「何か探してるの?」

「黄色い帽子の、あなたみたいな飛び出し看板をね。飛び出し小僧って名前で」

「あー、アイツったらもう」

「知ってるの?」

「もちろん。闇堕ちした飛び出し看板だよ」

「あなた達は、子供を事故に遭わせるのが仕事なんじゃないの?」

「え! 全然違う!」

座っていた女の子は、ばっとその場で立ち上がる。

「私たちはむしろ逆! 子供達が安全に道を通れるように見守るのが役目!」

必死にそう伝える彼女の目には、悔しさのあまり涙が浮かんでいた。

「でも、この前あった飛び出しくんは、これが僕の仕事なんだって言ってたわ」

「あの子の瞳を見た?」

「見たわ。真っ黒い闇みたいな、全てを飲み込んでしまうような瞳」

「あれが、闇堕ちした飛び出し看板の印なの」

タタタっと階段を駆け降りた彼女は、私の目の前にやってきた。

「ほら見て! 私の瞳、ちゃんと光があるでしょ?」

小学1年生くらいの女の子の小さな瞳が、私の目を見つめてくる。

黒くて子供らしい純粋な瞳をしていた。

「うん。ある……」

「これが正常の状態なの、だけどいつの間にか、瞳の輝きを失う飛び出し看板が増えてきてね。困ってたの」

「そうなんだ」

「私の看板を見て、ちゃんと黒い瞳の中に白いハイライトがあるでしょ? そのハイライトが無くなった時、私達飛び出し看板は真逆の存在になってしまうの。あなたが今目の前で見ている私の姿は普通の人には見えない。言い換えると、魂の形」

「魂の形?」

「そう、それでそこに立っている飛び出し看板が本体なの。私たちは自分の家、守るべき交差点があるのね。でも役割を終えた飛び出し看板が成仏できずに、誰からも忘れ去られて放置されていると寂しさのあまりそうなってしまうの。かつては彼も私の友達だった。イタズラばかりの悪ガキだったけれど、根は優しかったの」

「私からもお願い、どうか彼を救ってほしい」

彼女は頭に乗せていた黄色い帽子を脱いで、私に頼んだ。

泣くのを我慢して、彼女のほっぺは真っ赤になっていた。

「……わかったわ。あなたの名前は?」

明日香(あすか)

「明日香ちゃんね。私はみき。白線の上の地縛霊。よろしくね」

「グスッ……ありがとう。みきお姉ちゃん」

「お姉ちゃんはなんで、彼を探しているの?」

「助けたい男の子、こうたくんって子がいるんだけど、その子を飛び出しくんが狙ってて。それをやめてもらう代わりに、飛び出しくんの瞳の輝きを取り戻すっていう約束をしたの」

「お姉ちゃんにも助けたい人がいるんだね!」

両手で二つ結びにした髪を軽く引っ張り、私に微笑んだ。

「……そう、だね!」

ニコニコと無邪気に笑う、明日香ちゃんに不意に言われて気づいた。

ただの交差点で見かけてほとんど面識のない男の子なのに……どうしてだろう。

自分でもわからなかった。

「明日香ちゃんは、どうしたら飛び出しくんの本体見つけられるかわかる?」

「ん〜」

右手でランドセルの金具を、カチカチと開けたり閉めたりしながら考えている。

「……お姉ちゃんはどこで彼を見たの?」

「えっとね、私が死んだ交差点」

「そしたら……お姉ちゃんが死んじゃった場所に何かあるかもしれない」

私と明日香ちゃんは、そのまま元の道を戻った。


深夜なのか、歩く人も通る車もほぼ見かけなくなった。

「ここがお姉ちゃんが死んだ場所?」

「そう、ここで轢かれたの。それから地縛霊になっちゃった」

明日香ちゃんがキョロキョロと辺りを見渡す。

地縛霊の私とは違って、白線以外の場所も自由に動き回れる。

「あった……」

明日香ちゃんの指さす方を目で追うと、そこにはあの黄色い帽子の男の子。飛び出し小僧の看板があった。

飛び出し小僧の看板は、はたばこ屋と使われなくなった古民家の建物の隙間に、隠されるように置かれていた。

ボロボロの錆だらけの古民家の屋根のトタンが剥がれて、飛び出し小僧の看板の上に被さり、すぐには気づかないように隠れている。

よく見ると飛び出し小僧の看板は、明日香ちゃんの本体、看板よりも何倍も錆が酷かった。

黄色い帽子に黄色い手持ち旗。黒いランドセルを背負った男の子だった。

「飛び出し小僧だ……」

飛び出しくんの看板を発見したはいいものの、私も明日香ちゃんも物体に触れて、物を動かしたりができなかったのだ。

「みきお姉ちゃん、どうやってあそこから出す?」

明日香ちゃんの不安そうな顔が見えた。

「そうだね……ちょっと考えるから。今日はもう元の場所に帰ろうか」

そう言って、明日香ちゃんを神社まで送って行った。



次の日、少女がどうしようかと交差点で突っ立っていると、見覚えのある少年が交差点の前に立っていた。

手にはあの重そうな青いカバンを持っている。

こうたくんだ……。

いつもの癖で、ぼーっとと人を見てしまっていた。

どれだけ見ても、相手は自分が見ていることには気づかないからだ。

しかし、こうたくんはみきが彼を見る前からこちらに気づいているようだった。

こうたくんが小さく胸の辺りで手を振る。

私もそれに小さく手を振り返した。

信号が青になりカッコウの音が鳴り始める。

こうたくんは学校に行く時の、いつもと同じ歩くスピードでこちらに近づいてきた。

横断歩道の3本目、ピアノで言えばミの音の白鍵の上にくると、バチっと目が合った。

「……昨日はありがとう。ここで何しているの?」

こうたくんは、私が人間じゃない存在だということに気づいていないようだった。

「ううん、またちゃんと信号見て渡るかなっって思って心配してきたの」

私は咄嗟に誤魔化した。

ずっとこの場所にいるだなんて、口が裂けても彼には言えなかった。

こうたくんは一瞬だけ、不思議そうな顔をしたが、私はそのまま話を続けた。

「君こそ、どこに行くの?」

横断歩道を渡り終えた彼が、たばこ屋さんから駄菓子屋さんのある方向へと足を進める。

私は彼の歩くスピードに合わせて、後ろからついて歩く。

「僕は図書館で借りた本を返しに行くんだよ」

重そうな鞄をアピールするように見せる。

「ふ〜ん、そうなんだ。本好きなんだね。そうだ! そこの駄菓子屋で何か買ってくれない? 昨日の礼も込めてさ!」

私は、何も知らない彼にちょっとだけ意地悪をしたくなった。

あからさまに嫌そうな顔を彼はしたが。

「わかったよ。昨日の礼ね」

と、半分呆れつつも駄菓子屋に立ち寄ることにしてくれた。


「何してるの? 入ろうよ」

駄菓子屋の前につくと、彼がそう言って急かしてきた。

中で倒れた時に看病してくれたおばあちゃんが、冷凍庫に新作のアイスを入れているのが見えた。

おばあちゃん、元気そうでよかった……

ほっとしつつ、私を見つめる彼の視線に気づく。

「私、外で待っとくからパッキンアイスお願い」

こんなに暑いのに中に入らないの? とでも言いたげな彼の表情だった。

お店に入って、冷凍庫を覗きパッキンアイスを選んでいる彼の背中を見つめる。

おばあちゃんに新作のアイスでも聞いているのだろうか、ちょっとだけ話してお金を渡して出てきた。

「はい、これ。苺でよかった?」

カチコチに凍ったパッキンアイスを彼は渡そうと手を差し出してくる。

「ふふっ、さっきのは冗談だよ。君が暑そうな顔してたから冷たいものを食べないと熱中症になると思って」

そう言って受け取らなかった。

パッキンアイスの苺味……

みきにとっての苺味のパッキンアイスはよく親友の千夏と半分こして食べた、思い出のものだった。

彼がパッキンアイスで苺味を選んできてくれたことが、みきはもの凄く嬉しかった。

しょうがなさそうに彼はパッキンアイスを割って、口に運んでいる。

冷たいのか、彼の顔が少し顰めっ面になった。

「どう? 美味しい?」

私は嬉しさのあまりから、ニヤニヤしてしまっていた。

「うん、美味しいよ。僕だけ食べて本当によかったの?」

彼は様子を伺うように聞いてきた。

本音を言えば私だって食べたかった……だけれどそれは叶わない。

そんなことを気にするのは、きっと彼が優しいせいなんだろう。

「いいんだよ、私何もしていないし、君が食べてるの見てるだけで涼しくなるから」

私は、彼がパッキンアイスを食べる姿がとても可愛くて仕方がなかった。

みきは久々に図書館の方まで歩いてきた。

図書館についたはいいものの、白線上しか歩けないみきは中に入れるわけでもなかった。

「じゃあ、またね」

「えっ? 寄ってかないの?」

図書館に入って行こうとした彼だったが、振り返って私に聞く。

「うん、今日は君と話せたからもう満足」

私はそう言って、元来た道に踵を返した。

彼は私の背中を見つめている気はしたが、そのまま帰った。


「あははは。そんなに彼が大事?」

聞き覚えのある声が聞こえる。

駄菓子屋さんと図書館の間にある公園を通りかかった時だった。

黄色い帽子の男の子。飛び出し小僧がエビフライの形をした、ゆらゆらとバネに揺られる子供用遊具(スプリング遊具)に乗って、こちらに話しかけてきた。

ボヨンボヨンと揺られながら遊ぶ姿はやはり、子どもの見た目のままだったが、彼の顔つきからは人間ではない狂気的なものを感じて、ちょっと恐ろしかった。

「飛び出しくん、見てたの?」

「うん、しっかりね。あの男の子、迷いを持ってるから、すぐにでもこっちの世界に連れて来れそうだなって目星をつけてたからさ。様子を見にきたんだよ」

「この前約束したでしょ!? あなたとの約束を果たすから彼には手を出さないって!」

「ん〜、でもお姉ちゃん、僕に触れないでしょ?」

「触れないって、魂の状態の君に?」

「違うよ、僕本体にだよ。すっかり明日香ちゃんも巻き込んでくれちゃってさ」

「どうして知ってるの?」

「あはは、お姉ちゃん面白いね。どうしてって、昨日僕のこと探しに来たじゃん。看板が本体なんだから、話だって聞こえるの当たり前でしょ?」

飛び出しくんは悪戯っ子のように笑った。

「お願い……! 必ず約束は果たすから!」

「え〜、どうしよっかな」

「私と同じ思いはさせたくないの!」

「そこまで言うなら、彼に手伝ってもらってよ」

「こうたくんに?」

「確かに……、それだと問題は解決するけど……」

「なに? もしかしてお姉ちゃん、彼に人間じゃないことがバレるのが怖いの?」

飛び出しくんは真顔でゆらゆらと漕いでいた、エビフライの動きをピタッと止めた。

「わかったわ……」

「……」

「一つ質問なんだけど、飛び出しくんは明日香ちゃんと友達なんだよね?」

「ふふふっ、そうだったね。今はもう違うけど」

「あなたに一体何が起きたの……?」

「それは……うっ、あ、あ、頭がぁぁぁ!」

頭に両手を当て、突然飛び出しくんは悶え始めた。

ビビビビビビビビビ!!!!

その瞬間、飛び出しくんが黒いランドセルにつけていた、水色の防犯ブザーがけたたましく鳴った。

「痛い、いたよう! うわあぁぁ!!」

あまりの飛び出しくんの苦しみように、私は後退りをした。

驚きのあまり、心配することもできなかった。

コツ、コツ、コツ

みきの後ろから誰かが歩いてくる音が聞こえた。

「坊や、ここにいたんだね」

みきを追い越して飛び出しくんに近づく、スーツ姿の大男。

その低すぎる声は、その場の空気ですら全てを支配してしまうような迫力があった。

恐怖すら覚えるその声の響きは、気持ちの悪い不思議な安心感も含んでいるようにも思えた。

「う、うあっ、うあっ」

飛び出しくんは、何かを訴えるように、その男に向かって口をパクパクとさせている。

その男が飛び出しくんの頭を撫でると、さっきまで苦しみ悶えていたのが嘘かのように彼はスッと静まった。同時にけたたましく鳴っていた防犯ブザーの音も止まる。

背中を向けているその男は、静まった彼を両手で抱え上げこちらを振り返った。

私はその異常な情景に、その男の顔を見ることができなかった。

「君も迷える魂だね。すぐに迎えに行くから待っていてくれ」

すれ違い様に低いその声で囁かれた。

パタンと車の扉が閉まる音と、エンジン音が聞こえた。

時間が止まったように張り詰めていた空気がまた流れ出す。

っはぁ、っはぁ、っはぁ

恐怖のせいか、後を追うように息切れがみきを襲う。

時間がないかもしれない……早くしないと、私も連れて行かれちゃう。

フラフラとしながら交差点に戻ろうと歩く。

怖い……怖いよ。お姉ちゃん助けて。

ザッザッザ

駄菓子屋のおばあちゃんが店の前で箒を掃いていた。

「おばあちゃん……」

おばあちゃんの顔を見ると、さっきまでの底しれない恐怖が和らいだ。

にゃ〜ん

箒を掃いているおばあちゃんに、おねだりするように白と黒のぶち猫が寄ってきた。

「はい、はい、ちょっと待ってね」

おばあちゃんは腰を曲げながら、おまんじゅうを持ってくる。

「よしよし、いい子だお食べ」

おばあちゃんは白いおまんじゅうをぶち猫が食べれるようにちぎって、床に転がした。

ミャー

「おやおや、もっと食べたいってかい。お前はあんこは食べられないからねぇ」

みきはマラソン大会のコース練習の時、急に具合が悪くなって倒れた時のことを思い出した。

おばあちゃん、あの時も優しかった。そういえば、おばぁあゃんのおまんじゅうも食べられなかったなぁ……

食べ終わった猫がおばあちゃんの足に擦り寄る。

「あらあら、嬉しいのかい」

おばあちゃんがしわしわの手で、猫の頭を撫でる。

「お前は一人じゃないからね……、おばあちゃんがついてるよ」

何気ない一言だったが、みきはその言葉が自分に向けて言われたもののように思えた。

みゃ〜ん

猫がみきを見て鳴いた。

「よく鳴くねぇ。寂しくなったら、いつでもおいで」

「一人じゃないか……おばあちゃん、ありがとう」

まっすぐ伸びる白線を見ながら、こうたくんに手伝いを頼むことを決めた。


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