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【カギ】

 親の転勤で、転校ばかりだった私。

 いつか住んでいたその街に、私は大人になって訪れた。偶然、出張先がこの街だったのだ。会議を終え、帰りの電車の時間にはまだ余裕がある。私は街を少し見て回ることにした。

 駅の近くに、自分が一年間だけ通った学校があったはずだ。私は記憶を手繰り寄せるようにそちらに歩いた。授業中なのか、校庭は静かだ。こんなふうだったかな。目を細めて校舎を見ても、記憶の輪郭はおぼろげなまま。

 道路端に立つ自分とすれ違い、自転車が通り過ぎる。甲高いブレーキ音に、思わず顔を向けた。乗っているのは背中の丸い年配の男性だった。おじいちゃんの乗る自転車って、なんであんなにうるさいんだろう。私は以前から疑問に思っていたことの再来に、自然と頬を緩ませる。

 ボロボロに錆びた自転車は、その先の店の前で停車した。菜の花の黄色が花壇を彩っている。私が住んでいたころには、こんなかわいいお店はここになかったはずだ。

 雑貨屋さん? ううん、喫茶店かな。

 自転車から降りたおじいちゃんが入り口のドアを押すと、小気味良い鈴の音が聞こえた。

 私も入ってみようかな。

 お店のたたずまいにも誘われて、知らない店だけど入ってみる。

 すぐに聞こえた、いらっしゃいませの挨拶に会釈しながら店内をぐるりと見渡してみた。ランチタイムは終わっている時間、数人の客がのんびりとくつろいでいる。

 さっきのおじいちゃんは入り口近くの席に座っていた。

 いつものね、と店員さんと話しているのが聞こえる。私は奥の席に着く。

 メニューにはおいしそうなオムライスやサンドイッチの写真が並んでいた。でも残念ながら、お腹はそんなに空いてないんだよね。とりあえず、コーヒーかな。店に入った時から、ずっと、香ばしい豆の香りが鼻をくすぐっている。

 注文を終えて窓の外を見る。

 懐かしい記憶がふいに蘇る。


 このあたりの道も、私は昔走ったはずだ。

 彼の自転車に、二人乗りして。

 自転車を持っていない私は、他の友達においてけぼり。

 そんな私をかわいそうだと思ったのか、彼は乗れよと言ってくれた。

「二人乗りなんてしちゃだめなんだよ」

 そう言った私に、彼は笑う。

「誰かに文句言われたら、俺に無理やり乗せられたって言えよ」

 真面目な転校生の私と、いたずらばかりしていた彼、どちらの意見をまわりの人が信じるかなんて、彼はお見通しみたいだった。

 二人乗りなんて初めてだったから、どこに力を入れていいかわからなかった。

 ぎゅっとしがみついた肩、痛くないかな。私、重くないかな。私のせいで転んだらごめんなさい。

 私はいっぱい心配してたけど、彼はちっとも、そんなこと考えてないみたいに。まるで私のことなんか忘れたみたいに、自転車を走らせてくれた。

 皆に追いつくように。

 皆を追い越すように。

 たった一年だったけど。

 とてもすてきな一年だった。

 彼は大雑把な性格で、自転車のカギに、スペアキーを付けたままだった。

 どうやら彼は、自転車を購入したときにお店の人に渡されたままの状態で、そのカギを使ってたらしい。

 ある日私はそれに気づいて、思わず笑っちゃったんだよね。

 なくしたときに使うカギを、いつものカギにセットしてたら、スペアキーの意味ないよねって。

「じゃあ、持ってて。お前が」

 彼はそう言って、丸い輪からカギをひとつ外す。そして、簡単に私に向かってカギを投げた。

 私は受け取って、ためらった。どうして私が、と言いたくなった。

 だけどそれ以上に、まるで彼の欠片を、大切な部品を受け取ったみたいで嬉しくて。

「なくしたらお前のところに、取りに行くから」

 彼ははにかんで、そう、言ってたのにな。


「お待たせしました」

 声を掛けられ、私の意識が現実に戻る。

 私の前に、真っ黒な液体の注がれたカップが届く。私は店員さんに会釈して、カップをそっと両手で包み込む。

 結局、彼はカギをなくさなかった。だから取りに来ることはなかった。

 私は彼から預かったカギを持ったまま、この街から出て行ってしまった。

 あれから何の連絡もない。

 私からも、していない。


 たった一年。仲良くしてくれてありがとう、ずっと友達だよ……なんて寄せ書きも。その時は嬉しかったけど、大人になると、私のことなんか忘れてるよねって、そう考えてしまう。

 私の方だってそうだ。なんとなくは覚えてるけど。先生や当時の友達全員を、まんべんなく覚えてるかといえばそうでもない。顔も名前もぼんやりしている。この街の記憶と、同じ。輪郭がどこか歪んでいて。

 だけど、その中でも彼のことだけは、いつまでたっても色あせてない。

 きっとあれが私の初恋だったから。なんていうのも、大人になって気づいたことだけど。


 私は込み上げてきた甘酸っぱい気持ちを、苦いコーヒーで飲み込んだ。

 窓の外で黄色い菜の花が揺れる。黄色、黄色、そうだ、オムライス。今度出張で来るときは、ここにランチをしに来よう。私はそんなことを考えていた。


 一台の車が駐車場に止まった。けっこう、繁盛してるなあ、このお店。

「いらっしゃいませ」

「おう、こっちだ」

「じいちゃん! また財布忘れただろ」

 ドアが開く鈴の音に重なって、三種類の声が一気に聞こえた。私は思わず顔を上げてそちらを見る。

 楽しそうに微笑む店員さん。片手を上げるさっきのおじいちゃん。そして、車から降りて来た男性の声。

「いいから座れ、おごってやるから」

 悪びれずそう言うおじいちゃんの傍らで、やってきた男性は店の人に頭を下げていた。

「すみません、いつもじいちゃんが」

「いいえー、お支払いはいつでもいいのに」

「だめですよ、甘やかしたら、調子に乗るから」

 三人のやりとりを見るとはなしに見ていたら、彼がこちらに顔を向けた。

 お騒がせしてすみません、みたいな顔をしている。

 あれ?

 でも。

 その表情に少し変化。

 私は目をそらすことなく、彼の顔を見ていた。


 初めて眼鏡をかけたときみたいに、視界がクリアに見える。

 私はこの人を知っている。

 そして彼もまた、私のことを知っている。

 覚えているよと、言われた気がした。


「お前」


 じゃあ、持ってて。お前が、と。いたずらっぽく笑んだ彼を思い出す。

 その彼がすっかり大人になって、目の前にいた。


 *


 久しぶり?

 こんにちは?


 再会の挨拶は、何が正しかったんだろう。

 私はもごもごと口を動かしたけど、なんて言ったか、覚えていない。

 だけど確かに、彼の口からは、私の名前がこぼれた。

 だから私は、うなずき返す。私だよと、答える。

「ひとり? 待ち合わせ?」

 尋ねられて、私はもう一度うなずき、それから、次の問いには頭を横に振る。

「ここ、いい?」

 こちらに近づいてきた彼に、私はまた、うなずいた。

 ものすごく自然に、彼は私の向かいの席に座った。

「いつこっちに?」

「今朝」

 午前中の会議に出るために、早朝に家を出た。お昼を挟んで会議を終えて、私はこれから帰るところだ。その前に少し、寄り道中。電車が出る時間まで。

 私はたどたどしく、そんなことを説明した。声は震えるし、掠れていたと思う。だけど彼は私の言葉を遮らず、話をゆっくり聞いてくれた。

「そっか、仕事で。……ついでに誰かに会いに、とか?」

 私は答えに困る。

 そういうつもりはなかったけど、違うとも言いづらい。会いたかった人はいる。そしてその人に今、会えている。

 彼の前にコーヒーが運ばれた。店員さんに会釈する彼の横顔をうかがう。

 大人になったなあ。

 当たり前だけど。

 ちらりと見たその手に、指輪はしていない。結婚は、していないのかな。

 そんなこと考えてしまう自分がちょっと、いやらしいなって思って、嫌だった。私もそういうことを考える、大人になってしまったんだなって自覚する。

「このあたり、変わっただろ」

「うん。このお店も、昔はなかったよね。駅もきれいになってた」

「だろ。……お前の家も」

 私がこの街にいたとき、住んでいたのは父の勤める会社の社宅だった。

「今は駐車場になってる」

 私は苦笑する。

「知ってる」

「誰もいなくなってもさ、壊されるところ見たら泣きそうだった」

「見たんだ」

 私は目を丸くする。もしかして、彼は見に行ったんだろうか。私の棲み処が壊されるところを。偶然見たのかもしれない。

「俺が行ったときには、大きな重機がのそのそと動いてた。知らない大人が数人いたけど、お前はいなかった」

「私、社宅が壊されたって知ったの、半年ぐらい経ってからだったもん」

 私が引っ越してから、老朽化を理由に壊されたと、あとになってから聞いた。そのときは、たいした感傷も抱かなかったのに。

「なんかさ。俺の家じゃないのに、泣けた」

 へへっと笑う彼の言葉は、冗談じみているのに物悲しい。私の胸にじんわりと熱いものが広がる。

「私の代わりに看取ってくれたんだね。ありがとう」

 たった一年住んだだけの、ちっとも快適じゃない狭い社宅の部屋だったけど。壊される建物を眺める彼のことを考えたら、こっちまで泣きそう。

「本当は、いけないんだろうけど」

 彼は少しだけ身を乗り出して、そして声を細めた。

 誰かに聞かれないように。

 私にだけ聞こえるように。

「瓦礫が積まれてるとこに、俺、誰もいなくなってから入ったんだ」

 私は眉間にしわを寄せる。

 そう言えばこの人は、『きけん! ここで遊んではいけません!』と書いている場所に入りたがるこどもだったことを思い出す。あの一年の間に、何回一緒に遊んだか数えてないけど、そのうちの数回かは、大人に見つかったら叱られるような場所を探検した覚えもある。

「危ないよ」

 何もなかったから良かったものの、少し間違えたら本当に危ないことになっていたかもと思う。もう今は、わざわざ危険な場所に入ろうとは思わない。

「危ないよな。でも、あのときは。何かあるんじゃないかって、確かめたくなって入ったんだ」

「何かあった?」

「ない。だいたい、あるわけないんだ。お前は大事なもの全部持って、引っ越したんだから」

 私はじっと、彼を見つめる。

 大事なものを全部、本当に持って行けたのかな。

 持って行きたかったものは、持って行けないものだったと、今なら思う。


 私は膝の上で、両手を強く握りしめた。ずっと彼に言えなかったことを、一息に吐く。

「手紙出せなくてごめん」

 引っ越したら手紙を書くね。そんな約束をしたくせに、私は手紙を出せなかった。

 元気です、新しい生活にも慣れました、友達もできましたなんて、彼がいないのを平気ぶるのも、彼を悲しませたり怒らせたりするんじゃないかって怖くなった。

 新しい友達ができたなら、もういいかって思われるんじゃないかとか。

 かと言って、寂しい悲しいまた会いたいって書くのも、うっとおしくないかな、とか。

 考えすぎた私は手紙を出せないまま。

 じゃあ、彼から届いたら返事を書こうって。都合のいいように考えて。

 正直に白状したら、彼は怒るかと思った。だけど、そろりとのぞいた彼の顔には、ふっと、力の抜けた笑みが浮かんでいた。

「お互い同じこと考えてたんだな。俺も、お前から手紙が来たら、勇気を出して返事を送ろうって思ってた」

 お互い同じことを考えていたら平行線。話はちっとも、進まない。

 時間がたった今ならわかること。その時のその不安な気持ちを、全部正直に書いて送ってしまえばよかったのに。そしたらきっと、彼も同じ気持ちだと、分かることができたのに。

 きゅっと唇を噛む私を、彼は静かに見つめる。

 ちょうどその時、何かを言おうとした彼を遮り、背後から声がした。

「おおい、じいちゃんは車で帰るからな」

 おじいちゃんの声に、彼は慌てて体を向ける。

「は?」

「お前はゆっくりしていけ」

 おじいちゃんはそう言いながら、彼の背後に立つと、遠慮なく上着のポケットから、車のカギを取った。そして代わりに、何かを彼の手に押し付けた。

「自転車持って帰ってくれよ」

 おじいちゃんは片手を上げると悠々と店を出て、本当に彼が乗ってきた車に乗り込んだ。

 窓越しに走り去る自分の車を見送って、彼は呆然と呟く。

「じいちゃん、自由すぎるだろ」

 うなずいて一緒に笑う私に目配せして、彼はため息交じりにぎゅっと握ったものを机に置く。

 ぐしゃりと古びた鈴と、色のはげたキャラクターのキーホルダー。

 それは、あのブレーキの音のうるさい、おじいちゃんの錆びた自転車のカギだった。


 それを見た途端、私はどうしようもない思いに満たされる。

 気がつけば、震える手で自分のかばんの中を探っていた。こつんと指先にぶつかった、目的のものを、どこか緊張した気持ちで持ち上げる。

 私がいつも持ち歩いている、昔からあるキャラクターのキーホルダーには、家のカギがぶら下がっている。それからもうひとつ、稲妻のような形をした平べったい金属片。

 それは昔ながらの自転車のカギだ。プレスキーと呼ばれる、あまり防犯には適さないカギ。だけど私たちがこどものころには、ほとんどの自転車にこのカギが標準装備だった気がする。

 私はそろそろと、彼の前のカギの隣に、自分のカギを置いた。

 形は同じだ。私のカギは、くすんだ銀色。

 おじいちゃんに渡された錆だらけのカギには、三桁の数字が小さく刻まれている。

 私の持つカギにも、同じ数字。

 彼は、並んだカギを見比べて、首をかしげた。

 私はふぅ、と息を吐き、覚悟を決める。

「あの自転車、まだ現役なんだね。二人乗りしたよね」

 大切な思い出だ。彼にしがみついて走った、あの自転車。まだそれが動いていることに感動すらある。ブレーキはものすごい音だし、ボディも錆だらけだけど。

 私が預かった片割れのカギが、まだ役に立つ。無駄なものじゃないと思ったら、泣きそうだった。

「ああ。俺よりも、今はじいちゃんが乗ってる」

 私は自分のキーホルダーから、稲妻の形のカギを外す。

「このカギ、返すね。おじいちゃん、スペアキーあった方がいいよね」

 彼は私が外したカギを、指先でくるりと回す。

「このカギ。ずっと持っててくれたのか」

「だって、なくしたら、取りに来るって言ったから」

 あの日の約束を、彼も覚えてくれていた。


 このカギをずっと持っていたのは、彼がいつか取りに来てくれると信じたかったから。

 そんな日はもう二度と来やしないとどこかで諦めててもなお。

 初恋なんて叶わない。彼にはもう二度と会えない。決めつけて諦めてても、それでも。

 もしかしたら、と勝手に思ってた。


 私は手紙を出せなかった。

 今は手紙じゃなくても、遠く離れていても、気持ちを伝えることはできる。文字でも、声でも。

 私はもう一度かばんに手を入れる。そして携帯電話を取り出した。

 その意味を、彼も気づいてくれたみたいだ。

「嫌じゃなければ、教えて」


 私はまたこの街に来る。だってこの店のオムライス、食べたいんだもん。

 その時に、彼を誘いたい。

 ねえ、誘っても、いいかな。


 彼ははにかみながら、うなずいてくれた。


 *


 こどものときから好きだった、キャラクターのキーホルダー。

 彼が好きだったから、好きになったキャラクター。

 そこにつながっているのは自分の家のカギ。

 長い間一緒にぶら下がっていた、稲妻の形のカギは、もうない。

 その代わりに、もうひとつ。


 大好きな人に渡された、彼の家の合カギを、今は一緒に大事につけている。


(カギ/終)


2019年04月07日 (日) 活動報告掲載小話

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