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【月が綺麗】

 月が綺麗ですねがアイラブユーだと知らなかった自分に戻りたい。

 もうあの人に月が綺麗と言いたくても言えなくなってしまった。


 ○


 今日は定時に帰れず、少しばかり残業をした。疲れた疲れたと背中を丸めて待つエレベーターの、扉が開いた途端に背筋が伸びた。

 エレベーターの箱の中に、彼がいた。開くボタンを押して、私に声をかける。


「あれ? 残業?」


 私はうなずいて、彼の隣にお邪魔した。


「うん。そっちも?」


「そう。連休明けだしなんかバタバタで」


 そう言いながら、彼は開くボタンから閉じるボタンに指を移動させた。今日もきれいな爪してるなあ、なんてこっそり思う。私は自分の爪の形が好きじゃないから、よけいに、整った良い形の爪を持っている人のことが気になる。彼は社内でも有数の良い形の爪の人だ。(私調べ)

 彼は私に、何階? とは尋ねなかった。すでに一階のボタンが光っている。私が向かうのも同じ場所だ。

 ぐうん、と機械音がして、ふたりを乗せた箱が安全な速度で落下する。途中の階に止まるかな。止まったら、少しだけ長くこの人と一緒にいられる時間が延びるなあ。……ああ、だけど、他の人が乗ってきたら。ふたりきりではいられなくなる。どっちがいいかな、どっちもいいかな、どっちでもいいかな。

 気の利く会話もできないまま、そんなことを考えているうちに、あっという間にエレベーターは一階に。他の階の人は今日は残業してないか、もしくは、まだまだ帰れないのかもしれないな。お疲れ様です。

 彼はエレベーターが一階に到着すると、また、開くボタンを押してくれた。私が先に出るのを待って、それから彼も降りてきた。


 私と彼は課が違うけど、仕事で連携することも多いから、毎日顔は合わせてる。年齢も近いこともあり、気楽にあれこれ話せる相手としてお互いに認識している……と、思う。

 私は彼に恋愛感情に近いものを抱いている自覚があるけれど、彼は果たしてどうなのだろう? なんというか、彼は、性的な匂いがまったくしないひとだった。独身ということはわかっているのだけれど、恋人がいるかどうかは謎。これまでの恋愛遍歴も謎。見た目も雰囲気もモテなくはなさそう……なんだけど、なんか、彼が誰かに愛を囁いたり、触れあったりして興奮する姿が想像できないのだ。まあそれはたぶん私が、誰かとそんなことをしている彼の姿を想像したくないというのもあるし、じゃあ相手を自分にする? となるとその瞬間に脳みそがショートして妄想がストップするからなのだけど。


 恋愛感情を向けられることはこの先もないかもしれないけれど、私は彼と一緒にいると居心地がいい。できればこのまま「良い同僚」として、ずっと一緒に働けたらいいなと思っている。


 会社を出て、ふたり、同じ方向に歩きだす。向かうのは地下鉄の最寄り駅への階段の、入り口。


 暦の上ではもう秋だ。日没は日に日に早くなり、あと数日で昼と夜の長さが同じになる。

 日中はまだ暑すぎて、職場もエアコンなしでは仕事にならないけれど。こうして日が沈み、月が上る時間になれば、その暑さも幾分か和らぐ。……とはいえ、ぬっとりとした空気が首筋に張り付く感じに、私は思わずうへぇ、と声を上げた。


「なんかまだ暑いよねえ、夜なのに」


「来週からは涼しくなるみたいだけど」


 そういえば今夜は中秋の名月……満月ではないけど満月になりかけた月がとてもきれいに見える日だ。

 私は少し顔を上げる。月って、どっちの方向にあるんだろう。ビルに隠れてまだ見えないかな。

 私の視線に気づいたのか、彼が言う。


「お月様ここからじゃ見えないね、角度的に」


「あ、うん」


「そっちの公園とかからなら見えるかも。一本向こうの道とか」


 そして彼は次の信号の十字路を、横に向かって指差した。

 これは、月が見たけりゃあっち行け、ということか。いやいや、違う、たぶん、見に行くなら俺も付き合うけど、ということだと思う。正直めちゃくちゃ行きたい。彼と一緒にお月見とか。なんてすてきなことだろう。だけど私は頭を横に振る。


「電車降りてから見えそうだし、いいよ」


 ふたりで月なんか見ちゃったら、私はつい口走ってしまうかもしれない。月が綺麗ですね、なんて、言ってしまうかもしれない。月が綺麗ですねがアイラブユーの意味であることを、彼が知っているかどうかはわからないけど。知っていてかわされるのも、困らせるのも、知らないふりをされるのも、なんか気まずい。綺麗な月の前で、意識しまくってうまく会話できなくなるのも嫌だった。

 私が断ると、彼は「そうだね」と言って、そのまま横断歩道を渡る。

 私たちは地下鉄の乗り場へと、階段を下りた。改札を抜けたらそこで彼とはお別れだ。私は紫色のラインの電車に乗って、彼は緑色のラインの電車に乗る。


「じゃあまた明日」


「お疲れ様でした」


 そんないつもの挨拶をして、私は彼の背中を見送った。


 ○


 電車に乗る時間は彼よりも私の方が長い。空いてる席に腰を落ち着けて数駅のところで、スマホにメッセージが届いた。


『月見えた』


 彼はもう電車を降りて地上に出たのだろう、開けた空と月の写真。ほんとだ、お月様見えたね。

 何と返せばいいんだろう。既読の文字はついてしまっている。返事、返事。私はこのメッセージを返すのがとても苦手だ。すぐにすてきな言葉を返すのは難しい。

 迷っているうちに、次の駅の案内が流れた。ここで降りなきゃ。できれば降りる前に返事したい。どうする、何と言ったらいい。当たり障りのないイラストを探すのも今は難しくて。言葉、言葉で返すなら。


『ありがとう』


 あなたが見ているものを私に見せてくれてありがとう。その気持ちが一番大きい。

 私が電車を降りたあと、彼から笑顔のイラストが届く。よかった、私の返信は間違ってなかったみたいだ。


 駅から地上に出て、私も空を見た。丸いお月様がちゃんと見えた。でも、彼が送ってくれた写真の方が、ずっとずっと、綺麗だった。

 別れ際、また明日と言ってくれたのを思い出す。今の私にとってはあの言葉で十分、幸せだ。


 そのときまた、スマホが震える。

 のぞいた画面に、追加のメッセージ。


『明日は一緒に満月見ようよ』


 すぐに答えることができなくて、私は半ばスキップのような、千鳥足のような、妙なステップを踏みつつ進む。

 正しい答えは何だろう。ハイかイエスかどっちかしかない。

 見上げたお月様は、……うん。とても綺麗だ。


(月が綺麗/終)

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